コワモテ御曹司の愛妻役は難しい~演技のはずが、旦那様の不器用な溺愛が溢れてます!?~
10・伝えたい思い
翌日の昼休み、紗奈はみゆきの提案でオフィス近くの公園でランチを取っていた。
昼時になるとオフィス街には様々なキッチンカーが来る。今日は天気がいいので、みゆきの提案でそこでお弁当を買って公園で食べることにしたのだ。
「松浦ちゃん、なんかお疲れ?」
先ほど買ったジャークチキンを使ったお弁当をパクつきながら、みゆきが聞く。
そう声をかけられて、蓋を開けることなくお弁当を膝に載せたままぼんやりしていたことに気付いた。
「ごめん、ちょっと考え事」
ベンチの真ん中にお弁当や荷物を置き、みゆきと向き合って座る紗奈、慌ててお弁当の蓋を開けて箸を握る。
「なに? 恋のお悩み?」
明るいみゆきの声が続く。
相手は軽い気持ちの質問だったのだろうけど、まさに図星だったのでつい言葉を詰まらせてしまう。
紗奈は箸を中途半端な高さで持ったまま動きを止める。
それを見て、みゆきが目を輝かせて身を乗り出す。
「なに? 前に話していた好きな人と、なにかあったの?」
みゆきの勢いに驚き背中を反らせる紗奈は、困り顔で昨夜のことを思い出す。
目を輝かせているみゆきには悪いが、改めて自分では駄目なのだと実感しただけなのだ。
「そんな楽しい話じゃなくて、改めて私じゃ駄目なんだって思っただけだよ」
「実は、相手が既婚者だったとか?」
ポンポンとたたみかけてくるみゆきに質問に、紗奈は苦笑する。
「確かに、既婚者だね」
なにせ彼は、書類上は自分の夫なのだ。
「となると、思いが通じると不倫になっちゃうのか……」
それはさすがに応援しにくいかも。と、聞こえるか聞こえないかの声でみゆきがブツブツ言っていると、紗奈のスマホが鳴った。
メッセージの類いではなく、電話の着信音だ。
(誰だろう?)
画面を確認した紗奈は目を丸くする。
「大介さんっ!」
思いがけない人からの着信に思わず声が出た。突然大声を出す紗奈を、みゆきが怪訝な眼差しを向けてくる。
大介から電話がかかってくるなんて、香里になにかあったのかもしれない。
気持ちがひどく焦るけど、内容によってはこのままみゆきの前で話さない方がいいのかも。
そんなことを考えて、紗奈は「ごめん。ちょっと駆け落ち……」と言いかけて口をつぐんでみゆきから離れる。
動揺のあまり『駆け落ちした友だちの恋人から電話』と説明しそうになったけど、そこまで詳細に話す必要はない。
急いで距離を取り、通話ボタンをタップする。
「もしもし、大介さん? 紗奈です」
不安な思いでスマホに話しかけると、電話の向こうから懐かしい女性の声が聞こえてきた。
『紗奈?』
「香里?」
『うん。新しい電話の番号、まだ伝えてなかったから、紗奈が出てくれないかもと思って大介さんの電話貸りてるの』
その説明に、気をはっていた体から一気に力が抜ける。
そう言えば彼女は前回連絡をくれた時も、大介のスマホを借りていた。
元気そうな親友の声に涙ぐむ紗奈に、香里は今日本に戻ってきているので会えないかと言う。
紗奈に直接会って話したいことがたくさんあると言われれば、それを断る理由はない。
おりしも今日は、悠吾は朝から現地調査と打ち合わせで終日不在で、帰りが遅くなるかもしれないと言っていた。ちょうどいいので、今日の仕事帰りに会う約束をして電話を切る。
そしてそのまま悠吾にメッセージアプリで、今日の夕食は準備しなくていいかの確認と、帰りが遅くなることの断りを入れておく。
ちょうど向こうも昼休憩の最中だったのか、すぐに構わないとの返事が来た。
それにお礼を伝え、メッセージのやり取りを終わらせる。
「ごめんね」
ベンチに戻った紗奈は、明るい声でみゆきに謝る。
悠吾との関係についてはなにも解消されていないのだけど、香里に会えると思うと心が弾む。
直接会って話しを聞くまで安心はできないけど、とりあえず香里の声は明るかった。それに大介のスマホで電話を掛けてきたということは、彼と一緒にいて関係も良好ということなのだろう。
そう思うと、我がことのように嬉しくなり、食欲も沸いてくる。
「ちょっとうれしい人から電話があって」
そう答えて、紗奈は食事を始める。
「そう。よかった……ね」
急にお弁当を元気よく食べ始める紗奈に、みゆきは少し戸惑いつつ、一緒にお弁当を食べた。
◇◇◇
夕方、古賀建設の自分の部署に顔を出した悠吾は、オフスに残るスタッフの顔ぶれに内心小首をかしげた。
「部長、今日は直帰されるんじゃなかったんですか?」
そう声を掛けてくるのは、紗奈とよく一緒にいる小島みゆきという社員だ。
他にもう数人、作業をしているスタッフがいるが紗奈の姿はない。
「松浦君は?」
昼に紗奈から、遅くなってもいいかとメッセージをもらい、てっきり残業をしているのかと思い顔を出したのだが。
帰り支度をするみゆきに質問する。その間も、視線で紗奈を探してしまう。
「なにか急用ですか?」
落ち着きのない悠吾の態度に、みゆきが聞く。
特になにといことはない。一秒でも早く紗奈の顔を見たかっただけ。
夜になれば、二人で暮らすマンションで彼女に会えることはわかっている。でも昨夜の彼女の様子が気にかかり、それを待てなかっただけだ。
「いや、君たちはいつも一緒にいる印象だったから」
正直に話すわけにもいかず、そう説明すると、みゆきは納得してくれた。
「松浦ちゃんは、今日は定時で帰りました。大事な用があるみたいです」
そう答えるみゆきの表情に、微かな陰りを感じて悠吾は問う。
「なにか、気になることでもあるのか?」
「いえ、たいしたことじゃ……」
みゆきが言い淀む。話すべきか悩んでいる様子だ。
「気になることがあるなら、どんなことでも話してくれ。上司として、部下のことを知っておきたい」
紗奈のことなら、どんなことでも知りたい。悠吾は、そんな思いを隠して、ビジネスライクな口調で『上司として』と強調する。
それから三十分、みゆきから話しを聞いた悠吾は、品川駅にあるレストランへと急いでいた。
(駆け落ちって、どういうことだ?)
帰宅時間帯で混み合う人の流れをぬって歩きながら、悠吾は心の中で独りごちる。
『上司として』という立場を強調して、紗奈の友人であるみゆきから聞き出した話しによればこうだった。
最近、紗奈には好きな人が出来たらしい。しかし相手は既婚者で、彼女はそのことについて悩んでいるらしく、元気のない日が続いていた。
それが今日の昼休みに、思い人と思われる男から電話がかかってきた途端、彼女はいつもの明るさを取り戻したのだとか。
昼休み紗奈に電話を掛けてきた『大介』という男が、どうして紗奈の思い人だとわかるのかといえば、友人として表情を見ていればわかると断言された。
紗奈のことを心配をしていたみゆきとしては、紗奈が元気になったのは嬉しいのだけど、彼女が『駆け落ち』という言葉を口にしていたのが気にかかるそうだ。
悠吾としても、そんな話しを聞かされて冷静でいられるはずがない。
そもそも紗奈が仕事以外の理由で帰りが遅くなるのは、これは初めてなのだ。
みゆきには自分からも折を見て紗奈と話しを聞いていみると説明し、彼女が帰ると、紗奈にいるのかメッセージアプリを使って聞いてみた。
すると彼女からすぐに、品川駅近くのレストランにいると返事が返ってきた。
あっさり居場所を教えてくれるのだから、男と駆け落ちするのではないかというみゆきの心配は杞憂に過ぎないのだろう。そう思う反面、品川駅という場所柄、彼女がその男と一緒にどこかに行ってしまうのではないかという不安が胸を支配する。
紗奈に好きな人がいるなんて、考えてもいなかった。その衝撃も手伝って、冷静に状況を判断することができない。
不揃いなパズルのピースを集めて、無理やり絵を作り上げようとしている気分だ。
そして矢も立ってもいられない気持ちで、紗奈がいるという店に駆けつけた。
明るい雰囲気の店に飛びこんだ悠吾は、スタッフの案内を断り、足早に店内を歩く。
ステーキをメインに、ドリンクバーやサラダバーを楽しめる店内は明るくて、駆け落ちの相談をするような場所には思えない。
混乱を深めながら店内を歩くと、奥の方の席によく知っている横顔を見つけた。
「紗奈」
切羽詰まった思いでその肩を掴んで名前を呼ぶ。
声に驚いて振り向いた相手の顔を見て、悠吾は目を丸くする。
そこに座っていたのは、紗奈によく似た面差しの別の女性だったのだ。彼女の隣には、髪を短く刈り上げた、精悍な顔立ちの男性が座っている。
軽く腰を浮かせて様子を窺う男性は、彼女になにか妙なことをしたらすぐにでも殴りかかってやると言いたげだ。
「誰ですか?」
こちらを顔を見上げて女性が言う。
悠吾としても同じ気持ちだ。
(紗奈によく似たこの人は誰だ?)
そう思う反面、記憶にひっかかるものがある。
混乱しつつ相手を見詰め、悠吾は彼女の顔をどこで見たのか思い出した。
以前、もう少し若い頃の彼女の写真を紗奈に見せてもらったのだ。だけど彼女は、恋人と二人、海外に駆け落ちしたのではないのか?
「えっと……飯尾香里さん?」
混乱しつつも紗奈に教えてもらった友人の名前を口にすると、相手は眼差しに警戒の色を残しつつも頷く。
その時、「悠吾さん?」と紗奈の声が聞こえた。
見ると紗奈が、驚いた顔で通路に立っている。サラダバーに行っていたらしく、彼女が手にする皿には彩りよく野菜が盛り付けられている。
「紗奈、知り合い?」
香里が、紗奈に聞く。
紗奈の知り合いとわかったことで、彼女の隣に座っていた男性も警戒心を解いて座り直す。
「あの、私の職場の上司で……」
口ごもりながら、紗奈がテーブルに皿を置く。
よく見ると、並んで座る二人の向かいに、もう一人分の料理がある。友人カップルと食事をしていたのだろう。
「それで、紗奈ちゃんの上司がなんでここに?」
香里の恋人は、まだ微妙に納得のいかない顔をしている。
紗奈も、どうしたいいのかわからず悠吾と友人カップルを見比べている。
古賀としても脱力して、すぐには声が出ない。
(小島君が言っていた『駆け落ち』というのは、友人のことだ)
この雰囲気からすると、紗奈に電話を掛けてきた男性というのは、友人の恋人の名前なのだろう。
「あなたが、大介さん?」
問われて香里の男性が、怪訝な表情で頷く。
ちぐはぐなピースが散らばるばかりで、ちっとも形を結ばずにいたパズルの絵が、急に明確な形を結び出す。
そのパズルの中に見えてくるのは、紗奈が友人カップルと食事を楽しんでいたという現状ではなく、自分がどうしようもなく彼女が好きだということだ。
紗奈のためには自分の思いは伝えるべきじゃないなんて格好付けておいて、いざ彼女は他の誰かのもとに行ってしまうと思ったら胸が締め付けられそうなほど苦しくなった。
(紗奈を他の誰にも紗奈を渡したくない!)
それが自分の本音を拾い集めた結果出てくる答えなのだ。
「なんというか……」
家庭など牢獄だと嘯気、自由を求めていた自分は、ただ親の愛に飢えて拗ねてる子供にすぎなかったのだ。
愛する人がそばにいてくれないのなら、自由などなんの意味もない。
前髪をクシャリと押さえて苦笑いする悠吾を、紗奈がどう扱えばいいのか困っている。
愛する女性を困らせたいわけじゃないが、どうかこれだけは言わせてほしい。
悠吾は紗奈の肩に腕を回して言う。
「はじめまして。紗奈の夫の古賀悠吾です」
「「えぇぇっ!」」
その言葉に、香里と彼女の恋人が揃って感嘆の声を上げる。
紗奈も驚きに目を丸くして、こちらを見上げている。
だけどそんなことはわかまわない。悠吾はそのまま言葉を続ける。
「俺が紗奈のことをどれくらい好きか、今すぐ伝えたくて駆けつけたんです」
◇◇◇
香里と大介と店先で別れた紗奈は、混乱した思いで隣に立つ悠吾を見上げた。
「少し、散歩をしてもいい?」
視線に気付いた悠吾が言う。
「はい」
返事をすると、悠吾は紗奈の手を引いて歩き出す。
彼に導かれままに歩きながら、紗奈はあれこれ考える。
今日の昼間、香里から連絡をもらって三人出会う約束した。
香里からはビザの問題もあるので、向こうでの生活生活基盤が整ったら一度日本に帰国するとは聞かされていたが、それでも急な連絡に驚いた。
とにかく二人に会いたくて、仕事を定時で終わらせて二人のもとに駆けつけ、あれこれ話しを聞いていたら、悠吾がその場に現れたのだ。
途中、メッセージアプリで悠吾から居場所を聞かれ、隠す必要もないので正直に応えたけど、まさか彼がその場に現れるなんて思ってもいなかった。
突然彼が現れたことだけでも驚きなのに、大介にふたりの関係を聞かれた悠吾は、自分から紗奈の夫だ名乗ったのだ。
突然の結婚宣言に驚く香里は、悠吾に着席を勧め、そのまま四人で食事を取りながら悠吾を質問攻めにした。
ちょうどふたりの近況報告が終わったタイミングだったこともあり、香里はあれこれ質問をしていく。
悠吾はその質問に、紗奈との出会いは職場だけど、ふたりの関係が深まったのは紗奈が香里の身代わりを頼んだ件がきっかけだったと話した。
それを聞いて、香里は自分がふたりの恋のきっかけを作ったのだと大いに喜んだ。
悠吾が古賀建設の御曹司であることを知って、香里はかなり驚いてたけど、彼が紗奈のどこが好きかという話しを聞いて心から祝福してくれた。
紗奈としては、彼がどうしてそんな演技をするのか理解できない。
それでも祝福してくれる香里と大介に、ふたりの結婚が契約上のものだとは言い出せなかった。
それに彼が自分を心から愛してくれているように振る舞うその状況に、嘘だとわかっていても身を任せていたいという思いもあった。
香里たちと別れると、ふたりを騙しているような心苦しさがこみ上げてくる。
「香里、結婚を許してもらえたです」
とりあえず、改めてそのことを報告する。
「紗奈も協力したかいあったな」
悠吾の言葉に、紗奈は満足げに頷く。
悠吾が到着するまで、香里たちからそんな報告を受けていたのだ。
香里の両親は、最初は娘の駆け落ちに激怒していた。だけど一ヶ月もすれば、このまま二度と娘と会えない方が辛いと思うようになったのだという。
そして手を尽くして娘の行方を捜し当て、ふたりの結婚を許すから、親子としての縁を切らないでくれと訴えた。
「大介さんの家はウチと一緒で片親で、経済的にも恵まれた環境ではなかったんです。香里のお父さんは、そういった家柄の人間は自分の娘に相応しくないって、ずっと反対していたんです」
紗奈はしみじみと息を漏らす。
「あのお父さんが許してくれるなんて、奇跡みたいなことなんです」
「奇跡か」
呟いて悠吾が足を止める。紗奈も足を止めて、彼を見上げた。
ちょうど川沿いの遊歩道を歩いていたので、川の水気を含んだ夜風が紗奈の髪を揺らす。
「俺にとっては、紗奈とこんなふうに親しくなれたことが奇跡だと思っている」
「それは、演技としの台詞ですよね?」
自惚れた勘違いをしてしまわないよ、自分をいましめつつ確認する。
悠吾は違うと首を横に振る。
「最初は演技のつもりだったんだけど、いつの間にか紗奈を心から愛してる自分がいる。そのことを伝えたくて駆けつけたんだ」
「え……だって悠吾さんは独身主義で、悠吾さんにとって、家庭は……」
紗奈だって、これまでもしかしたら彼に愛されているのではいかと感じたことはある。でも彼の出生の秘密を聞かされ、不用意に好きになっていい人ではないと思い知ったのだ。
「それは、紗奈に恋する前の俺の意見だ。君に恋をして、俺の価値観は大きく塗り替えられたよ」
「でも、だって今までだって、演技だって言ってたじゃないですか」
だからこそ、紗奈は自分の感情に蓋をして、彼の雇われのパートナー役に徹しようと決めたのだ。
悠吾は苦笑する。
「それは、紗奈を不幸にしたくなかったから」
「不幸?」
紗奈には、彼がなにを言っているのかわからなかった。
悠吾のことを思う紗奈が、彼に好きだと言われて不幸になるはずがない。
「紗奈と本当の意味で夫婦になって、仲睦まじく暮らし、慶一君に義兄と慕われる……。俺に取っては夢のように幸せな話しだけど、それで幸せになれるのは俺だけで、紗奈には負担になることもでてくるだろ」
負担というのはもちろん、家族との軋轢のことを言っているのだろう。
でも紗奈は、そんなこと気にしない。
「それに慶一君のこともあるから、俺が思いを告げることは、紗奈の迷惑にしかならないと……」
そう話しを続けようとする悠吾の胸に飛びこみ、彼の首筋に腕を回す。
「悠吾さんは、バカです。面倒な家族なら、私にもいることに気が付いていないんですか?」
そのそも紗奈がこの妙なバイトを引き受けることになったのだって、母の明奈が、家の金を使い込んだのが始まりなのだ。
「ふたりも子供がいるのにいつまでも頼りない母親を持つ私のことを、悠吾さんは軽蔑しますか?」
「まさか。苦労して育ったはずなのに、まっすぐで、優しさを忘れない紗奈のことを、俺は尊敬している」
悠吾が心底驚いた様子で言う。
彼らしい応えに、紗奈は少し背伸びをして耳元に顔を寄せて「私もです」と囁く。
「私も、複雑な環境にめげずに、今まで生き抜いてきた悠吾さんのことをすごいと思っています。そして出来ることなら、悠吾さんの背負っている荷物を、私に一緒に背負わせてほしいと思っています」
そう打ち明けると、悠吾は紗奈の背中に腕を回した。
視線を感じて顔を上げると、悠吾が自分へと顔を寄せる。
彼がなにを求めているのかを察して、紗奈はつま先立ちで彼を受け入れた。
生まれて初めてのキスに、胸が熱くなる。
「紗奈、愛している」
顔を寄せたまま唇を少し離して悠吾が言う。
紗奈は目尻に薄っらと涙を浮かべる。
「私なんかに、悠吾さんを好きだと言う権利はないて思っていたんです。香里のような裕福な家に生まれないと、あなたを好きになる権利はないと思っていたんです」
唇を離した紗奈の告白に、悠吾は小さく笑う。
「バカだな。眠れない夜、俺がそばにいてほしいと思うのは紗奈だけだ」
本当にそのとおりだ。
怒りを剥き出しにした明日香の心ない言葉に、自分など彼に相応しくないと落ち込んだ時期もあった。
でも今日、家柄の違いや周囲の反対を乗り越えて、幸せそうにしている香里と大介の姿を見て、それは間違いだと思い知らされた。
愛し合うふたりの前では、育ちの違いなど些細な問題でしかない。香里の両親が結婚を認めたのも、ふたりが仲睦まじく幸せそうにしていたからなのだろう。
「バカでした」
自分なんかが……と、一方的に決め込み、確かめる勇気を持問うとしなかった自分を返り見て反省する。
「紗奈は、相変わらず素直だな」
悠吾がクスクス笑う。そして背中に回していた腕を解いて、紗奈の手を取る。
「そんな君だから、俺は心を許して本来の自分でいられるんだ。君のいない人生に、何の価値もない」
「悠吾さん」
「眠れない夜、どうか俺のそばにいてくれ」
数日前、家庭は牢獄だと話していた人の言葉とは思えない。
己の出生の秘密を知り、孤独に生きてきた彼の考えを変えるだけの力が自分にあったのだろうか?
だとしたら、これまでの苦労がなにひとつ無駄な者じゃなかったのだと思える。
「きっとこれまでの私の苦労は、悠吾さんの苦しみを支えるための準備だったんです」
それを運命と呼んでもいいだろうか?
「紗奈、愛している。今さらだけど、妻として一生俺のそばにいてくれ」
心を込めたプロポーズの言葉に、紗奈は涙ぐんで頷いた。
「はい。私をあなたの家族にしてください」
「ありがとう。絶対に君を離さない」
ふたり、再び強く抱き合って唇を重ねた。
昼時になるとオフィス街には様々なキッチンカーが来る。今日は天気がいいので、みゆきの提案でそこでお弁当を買って公園で食べることにしたのだ。
「松浦ちゃん、なんかお疲れ?」
先ほど買ったジャークチキンを使ったお弁当をパクつきながら、みゆきが聞く。
そう声をかけられて、蓋を開けることなくお弁当を膝に載せたままぼんやりしていたことに気付いた。
「ごめん、ちょっと考え事」
ベンチの真ん中にお弁当や荷物を置き、みゆきと向き合って座る紗奈、慌ててお弁当の蓋を開けて箸を握る。
「なに? 恋のお悩み?」
明るいみゆきの声が続く。
相手は軽い気持ちの質問だったのだろうけど、まさに図星だったのでつい言葉を詰まらせてしまう。
紗奈は箸を中途半端な高さで持ったまま動きを止める。
それを見て、みゆきが目を輝かせて身を乗り出す。
「なに? 前に話していた好きな人と、なにかあったの?」
みゆきの勢いに驚き背中を反らせる紗奈は、困り顔で昨夜のことを思い出す。
目を輝かせているみゆきには悪いが、改めて自分では駄目なのだと実感しただけなのだ。
「そんな楽しい話じゃなくて、改めて私じゃ駄目なんだって思っただけだよ」
「実は、相手が既婚者だったとか?」
ポンポンとたたみかけてくるみゆきに質問に、紗奈は苦笑する。
「確かに、既婚者だね」
なにせ彼は、書類上は自分の夫なのだ。
「となると、思いが通じると不倫になっちゃうのか……」
それはさすがに応援しにくいかも。と、聞こえるか聞こえないかの声でみゆきがブツブツ言っていると、紗奈のスマホが鳴った。
メッセージの類いではなく、電話の着信音だ。
(誰だろう?)
画面を確認した紗奈は目を丸くする。
「大介さんっ!」
思いがけない人からの着信に思わず声が出た。突然大声を出す紗奈を、みゆきが怪訝な眼差しを向けてくる。
大介から電話がかかってくるなんて、香里になにかあったのかもしれない。
気持ちがひどく焦るけど、内容によってはこのままみゆきの前で話さない方がいいのかも。
そんなことを考えて、紗奈は「ごめん。ちょっと駆け落ち……」と言いかけて口をつぐんでみゆきから離れる。
動揺のあまり『駆け落ちした友だちの恋人から電話』と説明しそうになったけど、そこまで詳細に話す必要はない。
急いで距離を取り、通話ボタンをタップする。
「もしもし、大介さん? 紗奈です」
不安な思いでスマホに話しかけると、電話の向こうから懐かしい女性の声が聞こえてきた。
『紗奈?』
「香里?」
『うん。新しい電話の番号、まだ伝えてなかったから、紗奈が出てくれないかもと思って大介さんの電話貸りてるの』
その説明に、気をはっていた体から一気に力が抜ける。
そう言えば彼女は前回連絡をくれた時も、大介のスマホを借りていた。
元気そうな親友の声に涙ぐむ紗奈に、香里は今日本に戻ってきているので会えないかと言う。
紗奈に直接会って話したいことがたくさんあると言われれば、それを断る理由はない。
おりしも今日は、悠吾は朝から現地調査と打ち合わせで終日不在で、帰りが遅くなるかもしれないと言っていた。ちょうどいいので、今日の仕事帰りに会う約束をして電話を切る。
そしてそのまま悠吾にメッセージアプリで、今日の夕食は準備しなくていいかの確認と、帰りが遅くなることの断りを入れておく。
ちょうど向こうも昼休憩の最中だったのか、すぐに構わないとの返事が来た。
それにお礼を伝え、メッセージのやり取りを終わらせる。
「ごめんね」
ベンチに戻った紗奈は、明るい声でみゆきに謝る。
悠吾との関係についてはなにも解消されていないのだけど、香里に会えると思うと心が弾む。
直接会って話しを聞くまで安心はできないけど、とりあえず香里の声は明るかった。それに大介のスマホで電話を掛けてきたということは、彼と一緒にいて関係も良好ということなのだろう。
そう思うと、我がことのように嬉しくなり、食欲も沸いてくる。
「ちょっとうれしい人から電話があって」
そう答えて、紗奈は食事を始める。
「そう。よかった……ね」
急にお弁当を元気よく食べ始める紗奈に、みゆきは少し戸惑いつつ、一緒にお弁当を食べた。
◇◇◇
夕方、古賀建設の自分の部署に顔を出した悠吾は、オフスに残るスタッフの顔ぶれに内心小首をかしげた。
「部長、今日は直帰されるんじゃなかったんですか?」
そう声を掛けてくるのは、紗奈とよく一緒にいる小島みゆきという社員だ。
他にもう数人、作業をしているスタッフがいるが紗奈の姿はない。
「松浦君は?」
昼に紗奈から、遅くなってもいいかとメッセージをもらい、てっきり残業をしているのかと思い顔を出したのだが。
帰り支度をするみゆきに質問する。その間も、視線で紗奈を探してしまう。
「なにか急用ですか?」
落ち着きのない悠吾の態度に、みゆきが聞く。
特になにといことはない。一秒でも早く紗奈の顔を見たかっただけ。
夜になれば、二人で暮らすマンションで彼女に会えることはわかっている。でも昨夜の彼女の様子が気にかかり、それを待てなかっただけだ。
「いや、君たちはいつも一緒にいる印象だったから」
正直に話すわけにもいかず、そう説明すると、みゆきは納得してくれた。
「松浦ちゃんは、今日は定時で帰りました。大事な用があるみたいです」
そう答えるみゆきの表情に、微かな陰りを感じて悠吾は問う。
「なにか、気になることでもあるのか?」
「いえ、たいしたことじゃ……」
みゆきが言い淀む。話すべきか悩んでいる様子だ。
「気になることがあるなら、どんなことでも話してくれ。上司として、部下のことを知っておきたい」
紗奈のことなら、どんなことでも知りたい。悠吾は、そんな思いを隠して、ビジネスライクな口調で『上司として』と強調する。
それから三十分、みゆきから話しを聞いた悠吾は、品川駅にあるレストランへと急いでいた。
(駆け落ちって、どういうことだ?)
帰宅時間帯で混み合う人の流れをぬって歩きながら、悠吾は心の中で独りごちる。
『上司として』という立場を強調して、紗奈の友人であるみゆきから聞き出した話しによればこうだった。
最近、紗奈には好きな人が出来たらしい。しかし相手は既婚者で、彼女はそのことについて悩んでいるらしく、元気のない日が続いていた。
それが今日の昼休みに、思い人と思われる男から電話がかかってきた途端、彼女はいつもの明るさを取り戻したのだとか。
昼休み紗奈に電話を掛けてきた『大介』という男が、どうして紗奈の思い人だとわかるのかといえば、友人として表情を見ていればわかると断言された。
紗奈のことを心配をしていたみゆきとしては、紗奈が元気になったのは嬉しいのだけど、彼女が『駆け落ち』という言葉を口にしていたのが気にかかるそうだ。
悠吾としても、そんな話しを聞かされて冷静でいられるはずがない。
そもそも紗奈が仕事以外の理由で帰りが遅くなるのは、これは初めてなのだ。
みゆきには自分からも折を見て紗奈と話しを聞いていみると説明し、彼女が帰ると、紗奈にいるのかメッセージアプリを使って聞いてみた。
すると彼女からすぐに、品川駅近くのレストランにいると返事が返ってきた。
あっさり居場所を教えてくれるのだから、男と駆け落ちするのではないかというみゆきの心配は杞憂に過ぎないのだろう。そう思う反面、品川駅という場所柄、彼女がその男と一緒にどこかに行ってしまうのではないかという不安が胸を支配する。
紗奈に好きな人がいるなんて、考えてもいなかった。その衝撃も手伝って、冷静に状況を判断することができない。
不揃いなパズルのピースを集めて、無理やり絵を作り上げようとしている気分だ。
そして矢も立ってもいられない気持ちで、紗奈がいるという店に駆けつけた。
明るい雰囲気の店に飛びこんだ悠吾は、スタッフの案内を断り、足早に店内を歩く。
ステーキをメインに、ドリンクバーやサラダバーを楽しめる店内は明るくて、駆け落ちの相談をするような場所には思えない。
混乱を深めながら店内を歩くと、奥の方の席によく知っている横顔を見つけた。
「紗奈」
切羽詰まった思いでその肩を掴んで名前を呼ぶ。
声に驚いて振り向いた相手の顔を見て、悠吾は目を丸くする。
そこに座っていたのは、紗奈によく似た面差しの別の女性だったのだ。彼女の隣には、髪を短く刈り上げた、精悍な顔立ちの男性が座っている。
軽く腰を浮かせて様子を窺う男性は、彼女になにか妙なことをしたらすぐにでも殴りかかってやると言いたげだ。
「誰ですか?」
こちらを顔を見上げて女性が言う。
悠吾としても同じ気持ちだ。
(紗奈によく似たこの人は誰だ?)
そう思う反面、記憶にひっかかるものがある。
混乱しつつ相手を見詰め、悠吾は彼女の顔をどこで見たのか思い出した。
以前、もう少し若い頃の彼女の写真を紗奈に見せてもらったのだ。だけど彼女は、恋人と二人、海外に駆け落ちしたのではないのか?
「えっと……飯尾香里さん?」
混乱しつつも紗奈に教えてもらった友人の名前を口にすると、相手は眼差しに警戒の色を残しつつも頷く。
その時、「悠吾さん?」と紗奈の声が聞こえた。
見ると紗奈が、驚いた顔で通路に立っている。サラダバーに行っていたらしく、彼女が手にする皿には彩りよく野菜が盛り付けられている。
「紗奈、知り合い?」
香里が、紗奈に聞く。
紗奈の知り合いとわかったことで、彼女の隣に座っていた男性も警戒心を解いて座り直す。
「あの、私の職場の上司で……」
口ごもりながら、紗奈がテーブルに皿を置く。
よく見ると、並んで座る二人の向かいに、もう一人分の料理がある。友人カップルと食事をしていたのだろう。
「それで、紗奈ちゃんの上司がなんでここに?」
香里の恋人は、まだ微妙に納得のいかない顔をしている。
紗奈も、どうしたいいのかわからず悠吾と友人カップルを見比べている。
古賀としても脱力して、すぐには声が出ない。
(小島君が言っていた『駆け落ち』というのは、友人のことだ)
この雰囲気からすると、紗奈に電話を掛けてきた男性というのは、友人の恋人の名前なのだろう。
「あなたが、大介さん?」
問われて香里の男性が、怪訝な表情で頷く。
ちぐはぐなピースが散らばるばかりで、ちっとも形を結ばずにいたパズルの絵が、急に明確な形を結び出す。
そのパズルの中に見えてくるのは、紗奈が友人カップルと食事を楽しんでいたという現状ではなく、自分がどうしようもなく彼女が好きだということだ。
紗奈のためには自分の思いは伝えるべきじゃないなんて格好付けておいて、いざ彼女は他の誰かのもとに行ってしまうと思ったら胸が締め付けられそうなほど苦しくなった。
(紗奈を他の誰にも紗奈を渡したくない!)
それが自分の本音を拾い集めた結果出てくる答えなのだ。
「なんというか……」
家庭など牢獄だと嘯気、自由を求めていた自分は、ただ親の愛に飢えて拗ねてる子供にすぎなかったのだ。
愛する人がそばにいてくれないのなら、自由などなんの意味もない。
前髪をクシャリと押さえて苦笑いする悠吾を、紗奈がどう扱えばいいのか困っている。
愛する女性を困らせたいわけじゃないが、どうかこれだけは言わせてほしい。
悠吾は紗奈の肩に腕を回して言う。
「はじめまして。紗奈の夫の古賀悠吾です」
「「えぇぇっ!」」
その言葉に、香里と彼女の恋人が揃って感嘆の声を上げる。
紗奈も驚きに目を丸くして、こちらを見上げている。
だけどそんなことはわかまわない。悠吾はそのまま言葉を続ける。
「俺が紗奈のことをどれくらい好きか、今すぐ伝えたくて駆けつけたんです」
◇◇◇
香里と大介と店先で別れた紗奈は、混乱した思いで隣に立つ悠吾を見上げた。
「少し、散歩をしてもいい?」
視線に気付いた悠吾が言う。
「はい」
返事をすると、悠吾は紗奈の手を引いて歩き出す。
彼に導かれままに歩きながら、紗奈はあれこれ考える。
今日の昼間、香里から連絡をもらって三人出会う約束した。
香里からはビザの問題もあるので、向こうでの生活生活基盤が整ったら一度日本に帰国するとは聞かされていたが、それでも急な連絡に驚いた。
とにかく二人に会いたくて、仕事を定時で終わらせて二人のもとに駆けつけ、あれこれ話しを聞いていたら、悠吾がその場に現れたのだ。
途中、メッセージアプリで悠吾から居場所を聞かれ、隠す必要もないので正直に応えたけど、まさか彼がその場に現れるなんて思ってもいなかった。
突然彼が現れたことだけでも驚きなのに、大介にふたりの関係を聞かれた悠吾は、自分から紗奈の夫だ名乗ったのだ。
突然の結婚宣言に驚く香里は、悠吾に着席を勧め、そのまま四人で食事を取りながら悠吾を質問攻めにした。
ちょうどふたりの近況報告が終わったタイミングだったこともあり、香里はあれこれ質問をしていく。
悠吾はその質問に、紗奈との出会いは職場だけど、ふたりの関係が深まったのは紗奈が香里の身代わりを頼んだ件がきっかけだったと話した。
それを聞いて、香里は自分がふたりの恋のきっかけを作ったのだと大いに喜んだ。
悠吾が古賀建設の御曹司であることを知って、香里はかなり驚いてたけど、彼が紗奈のどこが好きかという話しを聞いて心から祝福してくれた。
紗奈としては、彼がどうしてそんな演技をするのか理解できない。
それでも祝福してくれる香里と大介に、ふたりの結婚が契約上のものだとは言い出せなかった。
それに彼が自分を心から愛してくれているように振る舞うその状況に、嘘だとわかっていても身を任せていたいという思いもあった。
香里たちと別れると、ふたりを騙しているような心苦しさがこみ上げてくる。
「香里、結婚を許してもらえたです」
とりあえず、改めてそのことを報告する。
「紗奈も協力したかいあったな」
悠吾の言葉に、紗奈は満足げに頷く。
悠吾が到着するまで、香里たちからそんな報告を受けていたのだ。
香里の両親は、最初は娘の駆け落ちに激怒していた。だけど一ヶ月もすれば、このまま二度と娘と会えない方が辛いと思うようになったのだという。
そして手を尽くして娘の行方を捜し当て、ふたりの結婚を許すから、親子としての縁を切らないでくれと訴えた。
「大介さんの家はウチと一緒で片親で、経済的にも恵まれた環境ではなかったんです。香里のお父さんは、そういった家柄の人間は自分の娘に相応しくないって、ずっと反対していたんです」
紗奈はしみじみと息を漏らす。
「あのお父さんが許してくれるなんて、奇跡みたいなことなんです」
「奇跡か」
呟いて悠吾が足を止める。紗奈も足を止めて、彼を見上げた。
ちょうど川沿いの遊歩道を歩いていたので、川の水気を含んだ夜風が紗奈の髪を揺らす。
「俺にとっては、紗奈とこんなふうに親しくなれたことが奇跡だと思っている」
「それは、演技としの台詞ですよね?」
自惚れた勘違いをしてしまわないよ、自分をいましめつつ確認する。
悠吾は違うと首を横に振る。
「最初は演技のつもりだったんだけど、いつの間にか紗奈を心から愛してる自分がいる。そのことを伝えたくて駆けつけたんだ」
「え……だって悠吾さんは独身主義で、悠吾さんにとって、家庭は……」
紗奈だって、これまでもしかしたら彼に愛されているのではいかと感じたことはある。でも彼の出生の秘密を聞かされ、不用意に好きになっていい人ではないと思い知ったのだ。
「それは、紗奈に恋する前の俺の意見だ。君に恋をして、俺の価値観は大きく塗り替えられたよ」
「でも、だって今までだって、演技だって言ってたじゃないですか」
だからこそ、紗奈は自分の感情に蓋をして、彼の雇われのパートナー役に徹しようと決めたのだ。
悠吾は苦笑する。
「それは、紗奈を不幸にしたくなかったから」
「不幸?」
紗奈には、彼がなにを言っているのかわからなかった。
悠吾のことを思う紗奈が、彼に好きだと言われて不幸になるはずがない。
「紗奈と本当の意味で夫婦になって、仲睦まじく暮らし、慶一君に義兄と慕われる……。俺に取っては夢のように幸せな話しだけど、それで幸せになれるのは俺だけで、紗奈には負担になることもでてくるだろ」
負担というのはもちろん、家族との軋轢のことを言っているのだろう。
でも紗奈は、そんなこと気にしない。
「それに慶一君のこともあるから、俺が思いを告げることは、紗奈の迷惑にしかならないと……」
そう話しを続けようとする悠吾の胸に飛びこみ、彼の首筋に腕を回す。
「悠吾さんは、バカです。面倒な家族なら、私にもいることに気が付いていないんですか?」
そのそも紗奈がこの妙なバイトを引き受けることになったのだって、母の明奈が、家の金を使い込んだのが始まりなのだ。
「ふたりも子供がいるのにいつまでも頼りない母親を持つ私のことを、悠吾さんは軽蔑しますか?」
「まさか。苦労して育ったはずなのに、まっすぐで、優しさを忘れない紗奈のことを、俺は尊敬している」
悠吾が心底驚いた様子で言う。
彼らしい応えに、紗奈は少し背伸びをして耳元に顔を寄せて「私もです」と囁く。
「私も、複雑な環境にめげずに、今まで生き抜いてきた悠吾さんのことをすごいと思っています。そして出来ることなら、悠吾さんの背負っている荷物を、私に一緒に背負わせてほしいと思っています」
そう打ち明けると、悠吾は紗奈の背中に腕を回した。
視線を感じて顔を上げると、悠吾が自分へと顔を寄せる。
彼がなにを求めているのかを察して、紗奈はつま先立ちで彼を受け入れた。
生まれて初めてのキスに、胸が熱くなる。
「紗奈、愛している」
顔を寄せたまま唇を少し離して悠吾が言う。
紗奈は目尻に薄っらと涙を浮かべる。
「私なんかに、悠吾さんを好きだと言う権利はないて思っていたんです。香里のような裕福な家に生まれないと、あなたを好きになる権利はないと思っていたんです」
唇を離した紗奈の告白に、悠吾は小さく笑う。
「バカだな。眠れない夜、俺がそばにいてほしいと思うのは紗奈だけだ」
本当にそのとおりだ。
怒りを剥き出しにした明日香の心ない言葉に、自分など彼に相応しくないと落ち込んだ時期もあった。
でも今日、家柄の違いや周囲の反対を乗り越えて、幸せそうにしている香里と大介の姿を見て、それは間違いだと思い知らされた。
愛し合うふたりの前では、育ちの違いなど些細な問題でしかない。香里の両親が結婚を認めたのも、ふたりが仲睦まじく幸せそうにしていたからなのだろう。
「バカでした」
自分なんかが……と、一方的に決め込み、確かめる勇気を持問うとしなかった自分を返り見て反省する。
「紗奈は、相変わらず素直だな」
悠吾がクスクス笑う。そして背中に回していた腕を解いて、紗奈の手を取る。
「そんな君だから、俺は心を許して本来の自分でいられるんだ。君のいない人生に、何の価値もない」
「悠吾さん」
「眠れない夜、どうか俺のそばにいてくれ」
数日前、家庭は牢獄だと話していた人の言葉とは思えない。
己の出生の秘密を知り、孤独に生きてきた彼の考えを変えるだけの力が自分にあったのだろうか?
だとしたら、これまでの苦労がなにひとつ無駄な者じゃなかったのだと思える。
「きっとこれまでの私の苦労は、悠吾さんの苦しみを支えるための準備だったんです」
それを運命と呼んでもいいだろうか?
「紗奈、愛している。今さらだけど、妻として一生俺のそばにいてくれ」
心を込めたプロポーズの言葉に、紗奈は涙ぐんで頷いた。
「はい。私をあなたの家族にしてください」
「ありがとう。絶対に君を離さない」
ふたり、再び強く抱き合って唇を重ねた。