この恋は演技

11・幸せな週末

 その夜、紗奈は悠吾の寝室で初めての夜を過ごした。
 同じベッドに入ってパジャマを着たまま抱き合い、嘘偽りのない言葉で互いの思いを口にしていく。
 だけどすぐ愛の言葉は口付けに代わり、悠吾は紗奈の上に覆い被さり、頬に手を添えて唇を重ねる。
「紗奈、愛してる」
 甘く掠れた声で囁きながら、悠吾が紗奈の唇を奪う。
 最初は唇を重ねるだけの優しい口付けが、徐々に濃密なものへとなっていく。
 悠吾は紗奈の呼吸を奪うように、しっかり唇を重ねる。その息苦しさに紗奈が薄く唇を開くと、それを待ち構えていたかのように舌で割り開き、紗奈の口内を蹂躙していく。
 自分以外の誰かが、自分の内側に触れる。
 紗奈にとってそれは初めて体験する感覚で、キスをしただけなのに心臓が壊れそうなほど痛くなる。
 しかも薄く目を開ければ、情熱的な眼差しをむける悠吾と目が合うので、よけいに鼓動が加速する。
(キスに溺れて、思考が蕩けてしまう)
 自分が自分でなくなっているような感覚に、本能的な不安を覚えて、紗奈は悠吾の肩を押す。
「悠吾さん……あの」
 紗奈が戸惑いの声を上げると、悠吾は顔の位置を少し高くして紗奈の言葉を待つ。
 少し距離が出来たことで、彼の端整な顔が視界いっぱい飛びこんでくる。
 今さらながらに彼の完成された容姿に美しさに言葉を失う。
「どうかした?」
 そう尋ねる彼の声は、どこか悪戯っ子のにおいがする。紗奈がなにに戸惑っているのか察していて、聞いているんじゃないかって思える。
「その……積極的すぎて、恥ずかし……です」
 そのことを意地悪に思いながら、紗奈は呟いた。
 消え入りそうな紗奈の訴えに、悠吾は「なるほど」と小さく笑う。
 そして紗奈から体を離し、彼女の隣に体を横たえる。そして腕の動きで紗奈を誘導して、互いに横向きに体を休めて向かい合う。
「じゃあ、紗奈の方から俺をほしがって」
「え?」
 紗奈がおどろいて目を丸くしていると、彼は手を伸ばして紗奈の乱れた髪を整えてくれた。
「俺はどうしようもないくらい、君を愛していてる。だから君の全てがほしくてしょうがない」
 優しい手つきで紗奈の髪を梳かしながら言う。
 そしてこちらの目をまっすぐ覗き込んで「紗奈はどう?」と、問い掛ける。
「紗奈は俺のことをどのくらい必要としてくれている?」
「悠吾……さん」
 真摯な眼差しを向けられ、紗奈が自分の気持ちと向き合う。
 彼が紗奈を本当の意味では必要としていないと思ったからこそ、ずっと心に蓋をしてきた。
 それは、悠吾を心から愛しているからこそだ。彼のために、彼の望む自分を演じようと心に決めていた。
 そうすることが、紗奈の愛情表現だった。
 だけど今は違う。
 悠吾が自分を必要としてくれている。紗奈の全てをほしいと言ってくれている。
(それなら、私のこの気持ちごと全てを受け取ってください)
 そう覚悟を決めると羞恥心の波が引いて、紗奈の本音が見えてくる。
「私も、悠吾さんの全てがほしいです」
 自分の正直な思いを言葉にして、紗奈は彼の髪に自分の指を絡めて唇を重ねる。
 瞬間、触れ合う唇から、彼が安堵の息を吐くのを感じた。
 悠吾ほどの完璧な男性が、紗奈がどんな答えを出すのか緊張していたのだと思うと、不意に緊張が緩んだ。
 もしかしたら初めての経験じゃなくても、誰もが、愛する人と初めて肌を重ねる時はどうしようもなく緊張するのかもしれない。
「悠吾さん、愛しています」
 短い口付けの後で紗奈が囁くと、悠吾は彼女の頬に手を添え、顎を軽く上向かせて自分から唇を重ねる。
 強く重ねた唇が『俺も』と、動くのがわかった。
 そしてそのまま、紗奈の唇を割り開き舌で口内を撫でる。
 二度目のその感覚に、最初ほどの緊張はない。それどころか、自分が求められているということに、強い喜びを覚える。
 彼に自分の思いを伝えたくて、紗奈からも悠吾の舌に自分のそれを絡めた。
 それはもちろん拙い動きで、悠吾の欲求を満せるようなものではないのかもしれない。
 それでもそうやって、お互いを求め合って濃厚な口付けを交わしていると、まるでアルコールを摂取した時のように体と思考がふわふわしてくる。
 悠吾は紗奈の髪に指を絡めて、キスの濃度を深めていく。
 気が付けば、紗奈は再び彼の組み敷かれていた。
 悠吾の体の重さを感じながらの深い口付けは、くらくらして紗奈の身も心も蕩けさせていく。
(悠吾さんに酔っているんだ)
 まともに息もできないほどの激しい口付けに、唇の端から唾液が伝う。
「紗奈、君の全てがほしい」
 滴る唾液を指で拭い、悠吾は紗奈の首筋を舌で撫でる。
「あっ」
 新たな刺激に、紗奈は甘い声を漏らした。
 自分のものと思えない鼻にかかった甘ったるい声が恥ずかしくて、紗奈は思わず瞼を伏せる。
 だけど悠吾は満足げな息を吐く。
「いい声だ」
 そう囁き、紗奈の首筋舌を這わせる。
 彼に刺激を与えられる度に、紗奈は体を跳ねさせて甘い息を吐く。
「あ……やぁ……あぁ……」
 彼に肌を刺激され、紗奈は悠吾の背中に腕を回して身悶える。
「紗奈、積極的だな」
 彼にしがみつく姿勢となる紗奈を見て、悠吾が悪戯っぽい口調で言う。
「違……あぁっ」
 紗奈は慌てて否定しようとしたけど、新たな刺激に意識を持っていかれてそれどころではない。
 プライベートでの彼は、普段から時々紗奈を揶揄ってくることがあった。
 それはベッドの上でも変わらないらしい。
 というか、いつも以上に意地悪だ。
「紗奈、知ってる?」
 紗奈の鎖骨の窪みを舌でくすぐりながら悠吾が問い掛けてくる。
 口調としては疑問形だけど、答えを求めているわけじゃないようだ。紗奈が敏感な反応を示す場所を探しながら言う。
「男って、好きな子を困らせたくなる生き物なんだよ」
「意地悪」
 思わずなじる紗奈に悠吾は艶っぽく笑う。
「俺の腕の中で困っていてる紗奈は、ひどくセクシーだよ」
 そう言いながら、紗奈のパジャマのボタンを外し、素肌を露わにさせていく。
「悠吾さ……ん」
 あっという間に紗奈の肌を露わにし、悠吾自身も自分の肌を晒す。
 そうやって素肌で抱き合い、お互いの体温を感じる好意は、恥ずかしいはずなのに心地よい興奮を誘う。
「紗奈、綺麗だ」
「見ちゃヤダ」
 紗奈は手を伸ばして彼の視界を遮ろうとしたけど、悠吾がその手を掴んで甲に口付ける。
「そのお願いは聞けないな。俺は君の全てを知りたいんだから」
 そう言って、紗奈の手を彼女の頭の上に押さえつけると、柔らかな胸元に顔を寄せる。
「あぅっ」
 悠吾の唇が触れた部分に、チリリとした痛みが走る。
「紗奈は色白だから、気をつけないとすぐに痕が残ってしまうな」
 そう言いながら、先ほど口付けた場所を指で拭う。キスマークが着いてしまったようだ。
 口先ではそんなことを言いながら、悠吾は紗奈にキスの雨を降らせていく。
 彼の唇が触れる度、紗奈の肌に熱が灯っていく。
「駄目……やぁ……」
 彼から与えられる熱が、肌の内側を焦がす。媚薬のように肌を甘く痺れさせる熱に、紗奈は涙目になって訴えた。
 だけど紗奈を困らせたい悠吾に、それは拒絶の言葉として届かない。
「そんな可愛い声で……俺のこと煽ってるの?」
 そう言って時間を掛けて紗奈の肌を刺激して、内側から紗奈の意識を蕩けさしていく。
「悠吾さぁ……もう……本当に…………」
 時間の感覚がなくなるほど、悠吾に愛されて、悦楽の波に羞恥心が飲み込まれていく。
 悠吾は紗奈の体から緊張が抜けきるのを待って、己の昂ぶりを紗奈の中へと沈めてきた。
 初めての行為に痛みがなかったと言えば嘘になる。
 それでも悠吾が雄としての欲求を抑えて、できる限り紗奈を気遣ってくれてたのが伝わってきて、痛みよりも愛おしさが紗奈の胸を支配した。
「紗奈愛している。……紗奈っ」
 紗奈の上に覆い被さり、息を乱しながら悠吾が自分の名前を呼ぶ。
「あ……さ……っ」
 息が上がって美味く声を出せない紗奈は、絡め合う指に力を込める。
 言葉で、視線で、仕草で、体の温もりで愛する人と互いの思いを通わせる行為は、自分の中の足りないう部分を埋めていく作業に思えた。
 ずっと孤独に生きていた悠吾の寂しさを自分が埋めることが出来る。
 その喜びを噛みしめながら、紗奈は悠吾との濃密な時間を過ごした。

  ◇◇◇

 心地よいまどろみから意識を浮上させた悠吾は、自分の腕の中で眠る紗奈を確認してそっと息を漏らした。
 カーテンの隙間から朝の日差しが差し込む部屋の中で、紗奈の寝顔は淡く輝いているように見える。
 その神々しい美しさに、胸に温かな思いが満ちていく。
 誰かといるより、孤独でいたいと思っていた。
 ずっとそう思っていたはずなのに、紗奈を愛して、自分はひどく満たされている。
「ありがとう」
 起こさないよう気を付けたつもりだったのだけど、紗奈が身じろぎして薄く目を開ける。
 そして悠吾と目が合うと、ふにゃふにゃした笑顔を浮かべた。
「……さん」
 寝起きの掠れた声で名前を呼び、悠吾の胸に甘える。
 悠吾は紗奈の髪を撫でながら、もう一度「ありがとう」と囁く。
 ずっと自分には、人間として欠けているという自覚はあった。
 それは愛情のない家庭で育った性だと思っていたが、紗奈を愛して初めて、そうではなかったのだと理解した。
 心から人を愛することでやっと、自分の欠けている部分は満たされるのだ。
「紗奈、ゴールデンウィークになったら旅行に行かないか?」
「旅行、ですか?」
 悠吾の言葉に、紗奈は眠たげに目を開ける。
「そう。新婚旅行と呼ぶには少し物足りないかもしれないけど、ゴールデンウィークを利用して慶一君の顔を見に行かないか?」
 大学生になったばかりの慶一は、色々やることがあるのでゴールデンウィークは帰省しないと聞いている。
 それなら紗奈とふたり、こちらから会いに行くのも悪くない。
「でも悠吾さんはお仕事で疲れているんだから、ゆっくりしたいんじゃないですか?」
 自分を気遣ってくれる紗奈の優しさを愛おしく思いながら、悠吾が言う。
「俺が慶一君に会いたいんだよ」
「ありがとうございます」
 紗奈はこちらの胸に甘えることで、喜びを伝えてきた。
 悠吾はそんな彼女の髪を撫でながら、ふたりのこれからについて考える。
「でもその前に、今日はまず結婚指輪を買いに行こう」
 かりそめの関係として始まった自分たちは、足りないものだらけだ。
 そういった欠けたものを満たしていくことで、自分と紗奈は、これからどんどん本当の夫婦になっていくのだ。
(そして、そのためには……)
 自分にはすべきことがある。
 紗奈に悟られないよう、悠吾は彼女の髪に顔を埋めて、自分のすべきことを考えていく。

  ◇◇◇

 アメリカに本店があるジュエリーブランドの応接室のソファーに座り左手を高い位置に掲げる紗奈は、自分の薬指で輝く指輪を眺めてそっと息を漏らした。
 朝、彼の腕の中で目が覚めた時、あまりに幸せすぎて自分はまだ夢の中にいるのではないかと疑ったくらいだ。
 でも体には彼と思いを通わせた際の感覚が残っていて、鈍い痛みがあの時間が夢ではなかったのだと伝えている。
 それだけでも泣きたくなるくらい幸せなことだったのに、彼は、ゴールデンウィークに慶一に会いに行くことや結婚指輪を買いに行くことを提案してくれた。
 そして再びベッドで愛し合い、遅めの朝食を取ってこの店を訪れたのだ。
「それにする?」
 並んでソファーに座る悠吾が、問いかける。
 そのやり取りを見て、二人の向かいに座るスタッフが「奥様によくお似合いです」と微笑む。
 その言葉に、紗奈は自分の薬指で輝く指輪を再度見た。
 職人の巧みさを感じさせる繊細な銀細工が代名詞とも言えるブランドの指輪は、華美な装飾がなされているわけではないのに目を引く美しさがある。
「シンプルなデザインだからこその美しさがあるな」
 紗奈の心を読み取ったように悠吾が言う。
 彼と自分の感想が一致したことがうれしくて紗奈が微笑むと、悠吾が「これにします」とスタッフに告げた。
 その言葉を受けて、スタッフがふたりの指のサイズを測り、刻む言葉などを確認していく。
「刻印する日付は、昨日でいい?」
 スタッフの質問を受けて、悠吾が紗奈に聞く。その問に、紗奈は笑顔で頷いた。
 ふたりが入籍したのは三月の終わりだけど、本当の意味で夫婦になったのは昨日だと紗奈も思っている。
 スタッフが注文書の準備をするために席を立つ。指輪の仕上がりには一週間ほど、時間がかかるとのことだ。
「夢みたいです」
 悠吾とふたり応接室に残された紗奈は感嘆の息を漏らした。
「俺もだよ」
 紗奈の左手を包み込むように握り、悠吾が言う。
 そんな彼の横顔を見やり、紗奈は幸福感と共に、胸のざわめきを覚える。
 もともと悠吾が紗奈との結婚を決めたのは、彼の祖父が強引に進める縁談を破棄させるためだ。
 香里が両親の反対を押し切って大介と一緒になるために駆け落ち間でしたことを知る紗奈としては、このままあっさり幸せになれるとは思えない。
(なによりも……)
「どうかした?」
 自分に向けられる眼差しに気付いて、悠吾が聞く。
 紗奈は、自分たちのこれからについて語る悠吾が一度もふたりの仕事について触れていないことが気になっている。
 古賀建設の社長候補として政略結婚を求められていた彼が、自分との未来を選んだことで、この先面倒なことに巻きこまれるのではないか。
 確信に近いその不安を口にすれば、悠吾は『問題ない』と言ってのけるだろう。だからこそ紗奈は、自分の思いを飲み込む。
「なんでもないです」
 紗奈は首を横に振る。
 だって自分は、悠吾と共に生きていくと決めているのだ。
 感情にまかせて不安を口にして問題解決を彼に押しつけるのではなく、一緒に障害を乗り越えていくつもりだ。
 自分たちの結婚は、どちらか一人が幸せになるためのものじゃないのだから。
「ただ、悠吾さんと一緒に幸せになりたいなと思っただけです」
 紗奈にとってその言葉は、祈りに近いものだった。
 育った環境も、抱えていた悩みの種類も異なるけど、自分も彼もこれまでの人生で十分苦労をしてきた。
 だからもう幸せな家庭を築くことを許してほしい。
 それが難しい願いだとわかっているからこそ、そう願わずにはいられないのだ。

 ふたりで結婚指輪を選んだ後、悠吾は紗奈をデートに誘ってくれた。
 どこに行きたいかと聞かれて、紗奈は一緒に日用品の買い出しに行きたいと答えた。
 彼としては、もっと華やかな場所をリクエストされると思っていたみたいだけど、紗奈としてはこれからふたりで暮らしていくのに必要なものを揃えておきたかった。
 これまで悠吾にパートナーがいることをアピーするといいう目的もあり、散々デートはしてきたのだ、今は彼との暮らしを整えることを優先したい。
 紗奈がそう話すと、悠吾も喜んで揃いの食器なんかを選んでくれた。
 時折カフェで休息を挟みながら、ふたりで意見を出し合いながら買い物をする時間は、とても楽しいものだった。
 買い物を堪能した帰り道、悠吾はこのまま夕食を外で済ませないかと提案してくれた。だけど紗奈はそれを断った。
 だってせっかくふたりで選んだ食器があるのだ、早く使いたいではないか。
 紗奈がそう言うと、悠吾もその意見に賛成してくれた。
 そして彼と暮らすマンションで紗奈の手料理を楽しみ、食後にアルコールを楽しみ、一つのベッドで絡み合うように肌を重ねて一緒に眠る。
 そんな幸せな週末を悠吾と過ごした。
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