この恋は演技

12・ふたりの前に立ちはだかるもの

 週が明けた月曜日、古賀建設のオフィス。
 いつもどおりにデスクワークをこなす紗奈は、視界の端で悠吾が立ち上がるのが見えて、そちらに視線を向けた。
 他の社員と共に、ホワイトボードに予定を書き込み、オフィスを出ていく。
 それによれば、今日はこの後終日外出し、直帰するとのことだ。彼と暮らす紗奈は、もちろん事前にそのことを聞かされている。
 帰りはそれほど遅くならないとのことで、今日も一緒に夕食を食べる予定だ。
 思いを通わせ甘い週末を過ごしたふたりだけど、職場では引き続きふたりの関係を隠している。
 ただそれは一時的なもので、悠吾には指輪の仕上がりを待って周囲に報告しようと言われている。
(大丈夫……だよね?)
 そこまですれば、それはもちろん社長の耳にも入る。
 悠吾にはなにか考えがあるようだけど、詳細については聞かされていない。
 自分の夫を信じていないわけではないが、どうしても不安が残る。
「松浦君」
 考えこんでいると、誰かに肩を叩かれた。
 ふり返ると、見覚えのない年配の男性が立っていた。
(誰だろう?)
 スーツの襟元に社章が留めてあるので、古賀建設の社員なのは間違いないのだけど紗奈は知らない顔だ。
「君が松浦紗奈君だよね?」
 返事をしない紗奈に、年配男性が確認する。
「はい。そうですけど……」
 チラリと周囲に視線を走らせると、年配男性の姿に「あっ!」と驚いた顔をするスタッフもいるので、社内では知られた存在なのかもしれない。
「社長秘書を勤める斉木(さいき)です。社長がお呼びですので、ご同行いただけますか」
 その言葉に、紗奈は周囲の反応に納得する。
 紗奈にとって、大企業のトップである社長はで雲の上の存在すぎて写真で顔を知っているだけだ。それは悠吾と結婚した後も変わらず、社長秘書の顔までは把握していなかった。
 そんな立場の人が悠吾が席を離れるのを待っていたようなタイミングで自分を呼びに来る段階で、どんな用があるのかは察しがつく。
「わかりました」
 パソコンの向こうから、みゆきが心配そうにこちらの様子を窺っている。そんな彼女に『大丈夫』と目配せをして、紗奈は立ち上がる。
 そして「少し席を外します」と、誰とはなしに声をかけて斉木の後に続いた。

「失礼します」
 斉木の後に続いて社長室に入った紗奈は、一礼して顔を上げた瞬間に息を飲んだ。
「遅いわよっ! いつまで待たせるつもりっ!」
 応接用のソファーに身を預け、苛立った声を投げかけてくるのは、社長の古賀恭太郎(こが きょうたろう)ではなく明日香だ。
 社長室に呼ばれた段階でそれなりの覚悟をしていた紗奈だけど、彼女がいるとは思っていなかったので驚く。
 そんな紗奈の表情を見て、明日香は意地の悪い笑みを浮かべる。
「あなた、本当にここの社員だったのね」
 シャープな顎のラインに指を沿わせて、明日香は恭太郎へと視線を向けて言う。
「この女は、飯尾家の令嬢に成りすまして私の悠吾さんに近付いていたんです」
 紗奈と悠吾が結婚していることまでは知らないのだろう。明日香の中で、自分たちの関係がかなり歪んだ形で解釈されている。
「違……っ」
「黙れっ!」
 紗奈は訂正しようとしたのだけど、恭太郎に一喝されて言葉を飲み込む。
 社長の気迫に押されて紗奈が黙り込んでいると、明日香は自分の前に出されていたお茶を手に立ち上がる。
 そしてそのままお茶を手に猫のようなしなやかな足取りで紗奈に歩み寄ると、それを紗奈の顔にぶちまける。
「きゃっ」
 お茶はすでにぬるくなっていて、ヤケドをするような温度ではない。それでも非常識な彼女の振る舞いに、紗奈の心が凍り付く。
「ごめんなさい。手が滑ったの」
 明日香は髪から雫を滴らせる紗奈を見て、ニヤリと笑って謝罪する。
 そんなあからさまな嘘をつく彼女を咎める者はこの場所にいない。
 紗奈が悔しさに唇を噛むと、一応の満足をしたのか明日香は手にしていた湯飲みを斉木に押しつけ恭太郎をふり返る。
「古賀のおじい様、この女を二度と悠吾さんに近付けないよう処分しておいてくださいね」
 そう伝えると、帰り支度を始める。
 紗奈のような女と同じ空気を吸っていたくないと言い放ち、彼女はそのまま部屋を出ていく。
 恭太郎が斉木に見送りを命じた。
 そしてそれと入れ替わるようにノックの音が響き、ドアが開いた。
「社長、お呼びでしょうか?」
 そう言って部屋に入ってきたのは、悠吾の父である昌史専務だ。
 挨拶もなく恭太郎は顎の動きで紗奈を示して、昌史に問い掛ける。
「お前は悠吾がその女と結婚していることを知っていたのか?」
 恭太郎の言葉にこちらへと視線を向けた昌史は、お茶を掛けられた姿のまま佇む紗奈の姿に一瞬驚いた顔をした。だけどすぐに無表情になり、恭太郎へと視線を戻す。
「知りませんでした。そもそも、あの子は私を毛嫌いして避けていて、会話することもありませんから」
「そうだろう。あれはお前には似ても似つかぬ優秀な子だ。お前を父親などと呼んで慕うはずがない」
 恭太郎はあからさまに昌史を嘲る。
 悠吾に事情を気かされているので、紗奈もふたりの親子関係の秘密は知っている。それでもその態度は、自社の専務で娘婿である昌史に対するものとしてあんまりだ。
 露骨に昌史を嘲るその姿は、自身の血を引く者しか認めないと言いたげだ。
 昌史はそういう扱いに慣れているのか、恭太郎の声を聞き流している。
 ひとしきり嫌味な笑い声を上げ満足したのか、恭太郎は「さて……」と、紗奈へと視線を向ける。
「話しを本題に戻そう。お前は知らぬ間に私の身内になっていたようだが、身の程もわきまえず、なにを企んでいる?」
 恭太郎はソファーに座ったまま、紗奈を睨む。
 体勢としてはこちらが彼を見下ろす形になっているのだけど、ただならぬ気迫を感じる。それでも紗奈は、まっすぐに恭太郎を見つめ返す。
「生意気な小娘だ」
 無言のまま数秒見つめ合った後、恭太郎が舌打ちして呟く。
「明日香嬢は気付いていなようだから、今のうちに悠吾と離婚してさっさと消えろ」
 恭太郎は、虫を払うように手を動かして言う。だけどそんな命令に、従えるはずがない。
「悠吾さんと別れるつもりはありません」
 断言する紗奈に、恭太郎が歯ぎしりする。
「あれは、私のものだ。古賀建設を発展させるために、時間と金をかけてあれを育てた。だからお前にそんなことを言う権利はない」
 自分の孫を『あれ』と呼ぶ恭太郎に、悠吾に対する身内の情は感じられない。そのことに怒りを覚える。
「悠吾さんは、ものではありません。彼が私を妻に選んでくれたのだから、そんな言い方をする人の命令に従って別れるつもりはありません」
 目の前にいるこの人が、自社の社長でも、愛する夫の祖父なんてどうでもいい。紗奈はキッパリとした口調でそう宣言した。
 おそらく紗奈はクビになるだろうけど、それでもうかまわない。
 そのまま一礼して、社長室を出ていこうとした。その背後で、恭太郎が言う。
「そうか。ならもういらん」
「え?」
 ふたりの関係を認めるようなニュアンスが微塵も感じられない冷めた声に、紗奈は思わずふり返った。
 目が合うと、恭太郎が意地悪く笑う。
「悠吾をクビにするとしよう。そしてそのついでに、この業界で二度と仕事ができないよう圧力をかけるとするか」
「社長っ」
 それにはさすがに昌史も驚きの声を上げる。
「私の言いなりにならない駒はいらん」
 恭太郎はそ言い放ち、昌史に命令する。
「ついでにその女が親しくしている社員も調べてクビにしておけ」
「そんなっ、理由もなく解雇するなんて不可能です」
「理由なんて……なあ」
 反論する紗奈の言葉を受けて、恭太郎は昌史に目配せをする。
 それを受けて昌史は無言で頷く。理由がなければ作ると言いたげだ。
 みゆきの顔を思い出し、紗奈が表情を硬くする。恭太郎は弱点を見つけたと悟り、勝者の笑みを浮かべる。
「お前ひとりのワガママで、何人不幸になるかな?」
 紗奈が無言で拳を強く握りしめると、恭太郎が昌史に指示を出す。
「一週間時間をやる。その間にその女を離婚させて、会社から追い出せ」
 恭太郎の言葉に、昌史はやれやれと首を横に振る。
「汚れ役は、いつも私ですね。最近では、社長だけでなく明日香さんのお世話係まで任されている」
「そのためにお前を金で買ったんだ。文句はあるまい」
 紗奈を抜きにして恭太郎とそんな言葉を交わすと、昌史は紗奈の肩を押して退室を促す。
 紗奈はその勢いに流されるように社長室を後にした。
「使いたまえ」
 社長室を出ると、昌史は紗奈にハンカチを差し出す。
 お礼を言ってそれを受け取った紗奈が、濡れた髪を拭く。
 明日香に掛けられたお茶はそれほど量がなかったのか、既に服に吸収され、髪が少し湿っているだけの状態になっている。
 ブラウスのシミが気にはなるが、それは今はどうしようもない。
 気休め程度に、借りたハンカチでそこを抑えて水気を取る。
「今日はこのまま早退しなさい。必要な手続きは私がしておく」
「いえ。ロッカーに予備のブラウスが入れてあるので、着替えてこのまま仕事します」
 自分はなにも悪いことはしていないのだ。
 この先のことを今すぐ決断することはできないけど、やりかけの仕事をそのままに逃げ出すようなことはしたくない。
 紗奈が応えると、昌史は小さく頷く。
 廊下を進み、昌史は自分でエレベーターの昇降ボタンを押す。
 そこで会話が途切れ、ふたりの間に沈黙が満ちる。
 エレベーターが到着し、自動ドアが開く。
「あの……」
 昌史は黙ってそれに乗り込み、それに続いてエレベーターに乗り込む紗奈は声を絞り出した。
 振り向く昌史が視線で先を促すので、紗奈はそのまま疑問を口にする。
「悠吾さんと別れろとは言わないんですか?」
 先ほどの会話からして、そう仕向けるのが昌史の仕事のように聞こえた。
 紗奈の質問に、昌史は静かに笑う。
「私が別れろと言ったら別れるのかい?」
「いえ」
 紗奈が首を横に振ると、昌史は「そう」と呟き階数指定のボタンを押す。専務の執務室がある階ではなく、紗奈の勤務する建築工務部のある階だ。
「松浦君」
 指定の階に到着しエレベーターを下りようとする紗奈に、昌史が声をかける。
「はい?」
 振り向く紗奈に昌史は、閉まっていく自動ドアの間から「あの子の側にいてくれてありがとう」と頭を下げた。
「あの……」
 紗奈がなにかを言う前にドアが完全に閉まり、階数表示のパネルが動き出す。
 黙ってそれを見上げていたけど、いつまでもそうしていても仕方ないと気持ちを切り替えロッカールームに向かった。

 その日の夜。
 食事を終えてソファーに移動した後で、紗奈は昼間の出来事を悠吾に話した。
「社長と専務が……」
 とはいえ、必要以上に悠吾に不快な思いをさせたくないので、その場に明日香がいたことや、彼女にされたことは黙っていた。
「専務は、私たちを別れさせるつもりはないように思えました」
 紗奈の言葉に、悠吾は深く考えこむ。
「悠吾さん、ひとりで抱え込まないでください。これは夫婦の問題です」
 そう思ったからこそ、ひとりで悩んだり、誰にも相談せずに自分が身を引く形でこの話を終わらせることなく、彼に昼間のことを話したのだ。
 紗奈は声を掛けて、その手に大ぶりなマグカップを持たせた。
 これから先、眠れない夜と一緒に過ごす時のために色違いで買ったマグカップは、今はミルクではなくホットワインで満たされている。
 手のひらの温もりに、悠吾の表情が和む。
「ありがとう」
 悠吾は柔らかく笑う。
 そしてホットワインを一口飲むと、カップをテーブルに戻して紗奈を見た。
「もう少し状況が整ってから話すつもりでいたんだけど、どのみち俺は古賀建設を辞めるつもりでいたよ」
「えっ!」
 驚きの声を漏らす紗奈に、悠吾は問題ないと笑う。
「俺はずっと祖父に、古賀建設の後継者として生きることを求められてきた。その使命があるから生まれることを許したと言われ、その義務を果たすために自分の感情を殺して生きることに慣れていた」
 悠吾はそこで言葉を切って、紗奈の頬を撫た。
「だけど紗奈の言葉に触れて、君と過ごす時間の中で、自分の幸せのために生きたいと思うようになったんだ」
「悠吾さん」
 紗奈は彼の手に自分の手を重ねる。
 初めてデートをした時の彼は、紗奈に『ビジネスの場で素を出しても、面倒』『会社での俺は、組織の歯車でしかない』と、冷めたことを話していた。
 それを聞いた時、かりそめの恋人でしかない自分がどこまで踏み込んでいいかわからず、もどかしかったのを覚えている。
 その時のことを思えば、彼がそんなふうに考えるようになったこのは喜ぶべきなのだろうけど……。
「巻き添えで小島君に迷惑がかからないよ対策は練るつもりだが……」
 悠吾は難しい表情で思案する。
 紗奈ももちろん、みゆきを巻きこみたくはない。でも今はそれ以上に、悠吾のことが心配になる。
「会社を辞めてどうするんですか?」
「生活のことを心配しているのなら、働かなくても暮らしていけるだけの個人資産はある。これまでのキャリアもあるのだから、紗奈や慶一君を困らせるようなことはない」
 だから大丈夫だと悠吾は諭すように言うけど、紗奈が言いたいのはそういうことではない。
「経済的な苦労なんて気にしません。私だって転職して働きます。そうじゃなくて、悠吾さんは建築での仕事が好きなのに辞めて後悔しませんか?」
 紗奈の指摘に悠吾の表情が陰る。それを見れば、彼の本音がどこにあるのかわかる。
 悠吾が、古賀建設で仕事をするようになってからの日数はまだ浅い。それでもその働きぶりを見ていれば、仕事に情熱が伝わってくる。
 彼がこの道に進んだ最初の切っ掛けは、創業家に生まれたということにあるのだろう。だけどそれだけじゃない思いがあったはず。
 それなのにこんな形で会社を去って、悔いが残らないはずがない。
 それなのに彼は、涼しい顔で言う。
「どちらかを選べと言われたら、俺は迷わず紗奈を選ぶ。君と暮らす未来にはそれだけの価値があるんだ」
 悠吾はそう言って紗奈を抱きしめる。
「それにどんな苦境に追いつめられても、俺にはそれを乗り越えられる商才があると自負している」
 悠吾が持ち前の強気な口調で嘯く。
 彼らしい強気さに、そんな場合じゃないというのについ笑ってしまう。
「悠吾さん」
 愛おしい人の名前を呼び、紗奈からも彼の背中に腕を回す。
 好きな人にそこまで求められて、女性としてうれしくないはずがない。
 この人となら、どこに行っても大丈夫。そう思わせる強さが彼にはある。でもだからこそ、信じたいのだ。
 紗奈は背中に回していた腕を解いて、悠吾の胸を押す。
 そして彼を見上げて言う。
「私も、悠吾さんとなら、どこに行っても大丈夫だと思っています。だからこそ、そのどこかが、古賀建設では駄目ですか?」
「えっ!」
 想定外の言葉に、悠吾が目をしばたたかせる。
「だって悠吾さんは、なにも悪いことをしていません。苦労して自分の力で手に入れた大事なものを、どうして手放さなきゃいけないんですか?」
 紗奈も悠吾も一生懸命自分の人生を生きて、その中で出会った人と恋をして結婚しただけだ。
 ただそれだけのことなのに、大事ななにかを失わなければいけないなんて納得ができない。
 この先、長い人生を共に生きていく中で、自分のせいで悠吾のキャリアに陰を落としたなんて思いたくないし、悠吾のせいでなにかを失ったなんて思いたくない。
 紗奈の言葉に、最初は驚きの表情を浮かべていた悠吾が破顔する。
「確かに、紗奈の言うとおりだ」
 ひとしきりクスクス笑った後で、紗奈を抱きしめて言う。
「紗奈はいつも、俺に大事なことを教えてくれる。そのひたむきな強さに、俺は何度でも君に恋をするんだろうな」
「それは、私のセリフです」
 悠吾がいるから、紗奈は強くなれるのだ。
「古賀建設に残ると、紗奈に苦労をさせることになるかもしれないけど、それでもいい?」
「望むところです」
 紗奈が強気な表情でそう返すと、悠吾は古賀建設に戻ってから気になっていたことを話した。
 それを聞かされた紗奈は彼に一つの提案を持ちかけた。
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