この恋は演技
13・夫婦になろう
その週の土曜日、紗奈は悠吾と共に都内にある老舗ホテルを訪れていた。
気兼ねなく話し合うために悠吾が予約した、スイートルームに入ると、中には既に呼び出した三人の姿があった。
恭太郎と昌史と明日香だ。
部屋のリビングスペースには、大人が三人は余裕で座れそうなゆったりとしたソファーがテーブルを挟んで二脚と、その脇に、ひとりがけソファーが一脚置かれている。
恭太郎と明日香が距離を取って一つのソファーに陣取り、昌史はひとりがけのソファーに姿勢良く腰掛けている。
「社長、ご無沙汰しております」
慇懃に頭を下げる悠吾の挨拶を受けて、恭太郎は眉間に深い皺を刻む。
「昌史、これはどういうことだ?」
そう怒鳴られても、昌史は視線を落としてなにも答えない。
「今日は、悠吾さんから結婚について話があるんじゃなかったの?」
明日香もヒステリックな声を上げる。
「ええ。これ以上私たちの人生に干渉させないために、私の妻を正式に紹介させていただこうと思いまして」
悠吾はそう答えて、紗奈の肩を抱き、恭太郎たちの向かいのソファーに座らせる。
その動きに明日香が目をつり上げるが、紗奈はその視線を受けて立つ。
彼女に自分の居場所を明け渡す気はないと、悠吾の隣で胸を張る。
「それがお前の答えか? 私を敵に回す覚悟があってのことか?」
恭太郎の問いに、悠吾はそっと息を漏らす。
「同じ古賀建設で働く者として、敵も味方もないでしょう。ただ孫として結婚の報告に伺っただけです。社長こそ祖父として、私の結婚を祝ってくれる気はありませんか?」
悠吾の言葉を、恭太郎は「くだらん」と、鼻で笑う。
「そう言うのなら、会社のために私の言いなりになっておけばいい。それが賢い生き方だ。今すぐ考えを改めるのなら、その女にたぶらかされていただけと思って、今の言葉を忘れてやるが?」
恭太郎が低い声で問う。
「そうですか」
恭太郎の言葉に、古賀は視線を落とす。
そのまま数秒黙っていた悠吾は、表情を引き締めて恭太郎を見た。その眼差しには、彼の覚悟が見える。
恭太郎にも彼のただならぬ気迫が伝わったのだろう。小さく身構える。
その反応に悠吾は薄く微笑み、スーツの胸ポケットから三つ折りにしていた書類を取り出し恭太郎に差し出す。
「これは?」
怪訝な表情を浮かべつつ、恭太郎は差し出された書類を受け取り視線を走らせ表情を硬くした。
「お前、これをどこでっ!」
声をうわずらせる恭太郎の表情を、隣の明日香は他人事といった感じで眺めているが、彼女に無関係な話ではないことを紗奈は知っている。
「一部は、私が個人的に調べていた証拠です。これまで他社で働いていた私には、古賀建設に入ってすぐに資材単価に違和感を感じていました。ただ日が浅く、決定打を見つけ出せずにいました」
悠吾の『一部は』という言葉に、恭太郎は弾かれたように昌史を見た。その視線の動きを見て、悠吾は言葉を続ける。
「社長は下請け企業に圧力を掛けて、資材単価の水増し請求をさせて、利益の一部を自分の個人口座にキャッシュバックさせていましたね」
その指摘に、恭太郎のこめかみが痙攣する。
明日香は口元を手で隠し「あら、そんなことをされていたの?」と、他人事を決め込んでいる。
悠吾はそんな彼女に冷ややかな眼差しを向けて言う。
「明日香さん、祖父のお気に入りであるあなたが、祖父の入れ知恵で同じことをしていたことも調べ済みですよ」
「なっ!」
明日香は一瞬にして顔を青くし、昌史を見る。
その動きをたどるように、紗奈や悠吾も視線を向けると、昌史は視線を上げて口を開く。
「これまで私は長年、社長や明日香さんの命を受けて、不正請求の調整役を続けて参りました。これまでそれらの会話は録音を残してありますし、金の流れの記録も取ってあります」
「そんなっ!」
悲鳴に近い叫び声を上げて明日香が立ち上がる。
「お前、なんのためにそんなことをっ!」
恭太郎も手すりを拳で叩いて激高する。
ふたりの叱責を受けて、鷲鼻の昌史はもともと細い目をさらに細めて言う。
「保身のためですよ。あなた方が婿養子の私を軽んじて、いいように利用するつもりでいたのは承知しています。もし悪事が明るみとなれば、ふたりとも全ての罪を私に押し付けるつもりだったでしょ?」
昌史の言葉に、ふたりが言葉を飲み込む。視線を泳がせる表情が、図星だと述べている。
それを見て、昌史は息を吐く。
「工務部に配属された悠吾は違和感のある資金の流れに気付き私を追いつめた。ごまかしきれないと思ったので、おふたりを道連れにさせていただくことにしましたよ」
昌史は意地悪く笑う。
そして「東野会長にも、この件に関してまとめた書類を郵送させてもらいました」と付け足す。
「なんてことをっ!」
明日香は声を荒らげて昌史に拳を振り上げるけど、悠吾が素早く立ち上がり、彼女の手首を掴んでそれを阻む。
手首を押さえたまま明日香に鋭い眼差しを向ける。
「ここで癇癪を起こしているより、東野会長のもとに駆けつけて少しでも自己弁護をしておいた方がいいんじゃないですか? 会長のお人柄を考えると、それであなたを許すとは思えませんが。それでも、謝らないよりかはマシです」
明日香の手から力が抜ける。
それを感じ取った悠吾が手を離すと、明日香はかたわらに置いていたバッグを掴み足早に部屋を出ていく。
カツカツと床を鳴らすヒールの音が遠ざかり、乱暴にドアを開閉する音が聞こえた。
「お前、私を脅してただで済むと思うなよ」
恭太郎が、昌史と悠吾を睨む。
ソファーに座り直し恭太郎と視線の高さを合わせた悠吾は次のカードを切る。
「社長がここで引き下がってくれないのであれば、私は父との親子鑑定を申し出ようと思っています」
「なに?」
もし悠吾と昌史がDNA鑑定をすれば、その結果がどうなるかはこの場にいる全員がわかっている。
「事実を話すかどうかは社長の判断にお任せしますが、私と父に親子関係がないと世間に知れば、更なる醜聞が世間を賑わせることになるでしょうね」
恭太郎が事実を隠せば、世間は悠吾の母が浮気をし、昌史を騙して結婚したと判断し、なにも知らず義父の婿養子という立場で断りきれずに悪事に荷担させられた昌史に同情が集まるだろう。
事実を明かしたら明かしたで、出世欲につられて偽装結婚を引き受けた昌史より、恭太郎の非情さが際立つだけだ。
そしてその全てにおいて、悠吾は被害者でしかない。
「お前……自分の家族を売るつもりか?」
恭太郎が声を絞り出す。
その言葉に、悠吾は首を横に振る。
「家族というのであれば、この件について母の了承は受けています。母は逆に私に『親として協力したい』と、言ってくれました」
そう話す時だけは、悠吾の表情が微かに曇る。
彼だって今さら自分の出自を掘り返したところで、誰も幸せになれないことは知っている。
それでも恭太郎に対抗するため、切れるカードは全て使い果たす覚悟でいるのだ。
息を詰めてことの成り行きを見守っていた紗奈は、思わず悠吾の手に自分の手を重ねる。
それを見て、恭太郎が冷めた息を吐く。
「そんな女ひとりのために、家長である私に恥をかかせるか?」
その言葉に悠吾は違うとクビを横に振る。
「恥と言うのであれば、これまでの自分のおこないを恥じてください。私を家族ではなく、会社を発展させるための歯車として扱ったのはあなたです。私はその役目を十分に果たし、会社をよりよいものにする覚悟を決めただけです」
そしてその勇気を与えてくれたのは紗奈だと、手を握り替えしこちらに優しい視線を向ける。
「昌史、お前もコイツの見方をするつもりか?」
唸るような声で問われて、昌史が首を横に振る。
「味方もなにも、私は社長と共に会社を追われる身ですよ。ただあなたより引き際の美学というのもをわきまえているつもりですので、道連れをできただけでも良しとしているだけです」
その言葉に恭太郎はうなだれる。
悠吾はそんな彼に向かって、冷めた口調で最後通告をする。
「あなたにとって家族は、会社を繁栄させ、自身の利益を貪るための道具でしかないことはもうわかっています。だから家族のためとは言いません。会社の名誉のために、身を引いてください」
恭太郎は視線を上げ、反論の言葉を口にしようとしたが、悠吾に「それとも汚名にまみれて、まだ社長の座に君臨しますか?」と問われて再び下を向く。
そこまでの覚悟はないのだろう。
「週明け、辞任を表明する」
恭太郎はボソリと告げて立ち上がる。
そしてそのまま部屋を出ていった。
彼が部屋を出ていくと、紗奈は一気に脱力してソファーに背中を預けた。
「ありがとう」
悠吾は紗奈にそう言うと、繋いでいたままになっていた手を離し立ち上がる。
「ありがとうございました」
そして昌史に向かって、深く一礼をする。
紗奈も慌てて立ち上がり、頭を下げた。
そんなふたりを見て昌史は困り顔で首を振る。
「親として、できることをしただけだ。君が成長して、社長に対抗する力を付けたときに備えて、政敵になろうと決めていたんだ」
その言葉に、悠吾が奥歯を噛みしめるのがわかった。
それは悠吾自身、つい先日まで知らなかった昌史の覚悟の話しだ。
「私、ちょっと外の空気を吸ってきます」
悠吾と昌史には、ふたりだけで話す時間が必要と思い、紗奈はそう声をかけて部屋を出る。
そしてそのまま庭に出て、悠吾と話し合い覚悟を決めた日から今日までのことを思い出す。
先日、ふたりで話し合った際、悠吾は古賀建設に赴任してからこっち、資金の流れに不透明なものを感じていたことを打ちあけた。
彼が紗奈より早く出勤し、おそくなっていたのは、そのためなのだと言う。
まだ確証が持てずひとりで調べている最中だったそうなのだが、まず最初にこれまで勤めていた会社に比べて、一部の資材単価が極端に高すぎることが気になった。
その他の件でも気がかりな点があり、調べていくと社長になんらかの関連があるように感じられたのだという。
そうなると悠吾にとって恭太郎は実の祖父なため、追及することに躊躇いも生まれた。
でも紗奈との関係を邪魔されたことにより、それを追及し、社長の足下を崩す覚悟が決まったのだという。
ただ恭太郎を追及するには証拠がたりない。
悠吾の覚悟を聞かされた紗奈は、昌史のことを思い出した。
社長室で恭太郎の命令を受けた際、昌史は『汚れ役は、いつも私ですね。最近では、社長だけでなく明日香さんのお世話係まで』とぼやいていた。
その時は会話の流れで、昌史は過去にも恭太郎の命令で誰かを強引に退職させたことがあるのだと思っていた。
だけど後になって、もしそうなら明日香の名前まで出すのはおかしいと気が付いた。
それだけじゃない、昌史はそれまでも紗奈に恭太郎の命で明日香の仕事の手伝いをしていることを匂わしていた。
よく考えれば、いくら仲がいいと言っても奇妙な
紗奈たちが違和感に気付けるよう、小さなヒントを撒いていたのだ。
社内で耳にする噂も手伝って、ずっと昌史と悠吾は社長の座を巡って対立しているのだと思っていたけど、顔を合わせた際、昌史はいつも紗奈たちの側に立っていた。
そして別れ際、紗奈に「あの子の側にいてくれてありがとう」と頭を下げた昌史は、自分たちの見方だと確信した。
それらのことを悠吾に話し、まずは昌史に話しを聞いてみてがどうかと提案したのだ。
そして面談した昌史は、これまで記録してあった証拠を揃えて、悠吾に不正の手口を明かしてくれた。
詳細な情報を明かす昌史に、質問した悠吾が驚いたほどだ。
「専務の演技には騙されたな」
あの時の悠吾の表情を思い出し、紗奈がクスリと笑う。
あっさり自分の側につく昌史に驚く悠吾に、彼は、最初は出世欲に駆られた結婚だったけど、ぎこちないながらも家族として共に時間を過ごす中で、悠吾に父親としての愛情を持つようになったのだと話した。
もともとは秘書を務めていたので、恭太郎の利己的な性格を知り尽くしている昌史は、将来恭太郎が悠吾の人生の妨げになった時に協力するつもりで備えていたのだと話した。
そんなふうに時間を掛けて、彼の成長を信じて待つなんて、親としての深い愛情がなければできないことだ。
悠吾と昌史に血の繋がりはないけど、そこには間違いなく親子の愛情がある。
ひとりで庭を散策する紗奈は、さっきまで自分がいたスイートルームのある辺りを見上げてふたりがどんなことを話しているのだろうかと想像してみる。
◇◇◇
「ずっと、あなたに嫌われていると思っていました」
紗奈が出ていき、昌史とふたりっきりになった部屋で、悠吾は自分の思いを吐露した。
言い訳するつもりはないが、いつの頃からか昌史には避けられてばかりいたので、自分に対して親としての情を持っているなんて考えてもいなかったのだ。
公の場ではとくに。
悠吾は出席するパーティーに昌史が絶対出席しないし、偶然鉢合わせした際には、同席するのは不快だと言わんばかりにすぐに帰ってしまっていた。
「君は、聡明で美しすぎる。私には似ても似つかない優れた人材だ」
話しを聞いた昌史はそう言って、自分の鷲鼻を指でなぞる。
それを見て、悠吾は小さく息を漏らした。
鷲鼻に一重の細い目。自分と昌史は顔の造形が違い過ぎて、とても親子には思えない。
悠吾は母親にだと言われているが、ここまで似ていないふたりが公の席で親子として同席すれば、それを面白おかしく話題にする者はいただろう。
「それならそうと……」
昌史が苦く笑う。
「そうすれば君は私に気を遣い、対立姿勢なんて取れなかっただろ? 世間的には、私は優秀な息子に嫉妬した愚かな父親と思わせておいた方がいい。息子に負けるのがいやで社長に取り入るために不正に荷担し、優秀で善良な君は、愚かな父を正すため、仕方なく処罰を下したというスタンスを取らせたかったんだ」
なぜそうしたかったのかの理由はもう聞かされている。
表向きこの件は、悠吾に不正を暴かれた昌史が、自分ひとりが処罰されるのは面白くないと、悪事に荷担した人たちを告発して道連れにして終わる。
悠吾はあくまで、父の自供に基づいて仕方なしに不正に荷担した社員を処罰するのだ。
古賀建設は歴史ある企業なだけに、腹黒い古参社員もいて、面倒な派閥ができあがっていたが、今回の件で一掃することができる。
その後で、悠吾は古賀建設を新体制を築ていくのだ。
「政治と会社運営は、クリーンなイメージが大事だ。若いうちはとくにね」
昌史は悠吾の背負う荷物を少しでも減らすために、長年悪役を演じていたのだ。
「これからどうするつもりですか?」
どこまでを公にするかはわからないが、不祥事を起こして会社を離れるのだ、どんな形にせよこれからの彼の人生には大きなペナルティーが科せられる。
心配する悠吾に、昌史は問題ないと話す。
「ことが落ち着いたら生まれ故郷の長野に引っ込むつもりだ。君のお母さんがついてきてくれるなら、今さらだがふたりでのんびり夫婦生活を送るのも悪くない」
「そうですか」
先日、今日の一件を前に話をした母は、昌史に信頼を寄せているようだった。
悠吾が気付けなかっただけで、長い夫婦生活の中で両親の間には家族としても情が育まれていたようだ。
病弱で華やかな場所を嫌う母には、長野での暮らしの方が肌に合うのかもしれない。
母が昌史について行ってくれるといいと思う。
そんなことを考えていると、昌史が意地の悪い顔をする。
「私のことより自分の心配をした方がいいんじゃないか? 若い頃は出世に目が眩んだが、大企業の経営は容易いものじゃない。しかも古賀建設は社長と専務の不正が明らかになったのだから」
その言葉に悠吾は表情を引き締める。
確かにこれから古賀建設は大変だろう。
会社は世襲制ではないので、不祥事を起こした創業家の人間である悠吾がそのまますんなり社長の座に着ける保証もないのだ。
だけどそれで構わない。
全力で社長座を取りに行き、古賀建設を立て直して見せる。
「私には支えてくれる存在がいるから大丈夫です」
紗奈の顔を思い浮かべながら悠吾が言う。
それを見て昌史は満足げに頷く。
「確かに彼女のような人が、人生を共に歩んでくれるなら心配はいらないな」
そう言って昌史は立ち上がり、「それじゃあ、私はこれで」と、部屋を出ていこうとする。
そんな彼を悠吾が呼び止める。
「お父さん」
昌史のことをそう呼んだのは、何年ぶりだろうか。
自分の出生の秘密を知り、昌史に避けられていると思うようになってから、一度もそう呼んだことがなかった。
弾かれたように振り返る昌史の目が潤んでいる。
その顔を見て、悠吾の胸に熱い感情が一気にこみ上げる。
そんな彼に歩み寄り、右手を差し出す。
「落ち着いたら、妻と一緒に長野に遊びに行きます」
「待ってるよ」
差し出された手を握りしめ、硬い握手を交わした。
◇◇◇
香里の依頼を受けいから今日までのことをあれこれ思い出しながら気ままに庭を散歩していた紗奈は、名前を呼ばれたような気がして足を止めた。
ちょうど池の畔を歩いていたところで、周囲を見わたすとこちらへと近付く悠吾の姿が見えた。
「悠吾さん」
紗奈は小走りに悠吾へと近づき、その胸に飛びこんだ。
「専務との話はもういいんですか?」
そのまま質問を投げ掛けると、悠吾は抱きしめる腕に力を込めることで質問に答える。
「ありがとう。紗奈と出会えなければ、俺は人を愛することを知らず、自分が愛されているとこにも気付けずに一生過ごしていたよ」
紗奈の髪に顔を埋めて深く息を吐く。
「悠吾さん」
紗奈が顔を上げると、悠吾はそのまま唇を重ねてくる。
口付けを交わし、互いの体温を感じ、自分に幸せを与えてくれる存在がその腕のなかにあるのだと実感していると、腕を解いた悠吾が地面に片膝を着いた。
そしてスーツの胸ポケットしまってあった小箱を取り出す。
中身は先週末、悠吾と選んでサイズ調整を依頼してしてたふたりの結婚指輪だ。
ここを訪れる前に、店に立ち寄り受け取ってきた。
悠吾はリングケースの蓋を開ける。傾きかけていた太陽の光が、ふたりの指輪を鈍く輝かせる。
本来のシルバーではなく、甘い輝きだ。
「紗奈、出会ってくれてありがとう。これからの日々を、どうか俺と一緒に歩んでくれ」
爽やかな春の風が紗奈の髪を揺らす。
「はい。よろこんで」
そう返し、お互いの左手薬指に、夫婦の証である指輪を嵌め合うと、思いを確かめるように唇を重ねた。
気兼ねなく話し合うために悠吾が予約した、スイートルームに入ると、中には既に呼び出した三人の姿があった。
恭太郎と昌史と明日香だ。
部屋のリビングスペースには、大人が三人は余裕で座れそうなゆったりとしたソファーがテーブルを挟んで二脚と、その脇に、ひとりがけソファーが一脚置かれている。
恭太郎と明日香が距離を取って一つのソファーに陣取り、昌史はひとりがけのソファーに姿勢良く腰掛けている。
「社長、ご無沙汰しております」
慇懃に頭を下げる悠吾の挨拶を受けて、恭太郎は眉間に深い皺を刻む。
「昌史、これはどういうことだ?」
そう怒鳴られても、昌史は視線を落としてなにも答えない。
「今日は、悠吾さんから結婚について話があるんじゃなかったの?」
明日香もヒステリックな声を上げる。
「ええ。これ以上私たちの人生に干渉させないために、私の妻を正式に紹介させていただこうと思いまして」
悠吾はそう答えて、紗奈の肩を抱き、恭太郎たちの向かいのソファーに座らせる。
その動きに明日香が目をつり上げるが、紗奈はその視線を受けて立つ。
彼女に自分の居場所を明け渡す気はないと、悠吾の隣で胸を張る。
「それがお前の答えか? 私を敵に回す覚悟があってのことか?」
恭太郎の問いに、悠吾はそっと息を漏らす。
「同じ古賀建設で働く者として、敵も味方もないでしょう。ただ孫として結婚の報告に伺っただけです。社長こそ祖父として、私の結婚を祝ってくれる気はありませんか?」
悠吾の言葉を、恭太郎は「くだらん」と、鼻で笑う。
「そう言うのなら、会社のために私の言いなりになっておけばいい。それが賢い生き方だ。今すぐ考えを改めるのなら、その女にたぶらかされていただけと思って、今の言葉を忘れてやるが?」
恭太郎が低い声で問う。
「そうですか」
恭太郎の言葉に、古賀は視線を落とす。
そのまま数秒黙っていた悠吾は、表情を引き締めて恭太郎を見た。その眼差しには、彼の覚悟が見える。
恭太郎にも彼のただならぬ気迫が伝わったのだろう。小さく身構える。
その反応に悠吾は薄く微笑み、スーツの胸ポケットから三つ折りにしていた書類を取り出し恭太郎に差し出す。
「これは?」
怪訝な表情を浮かべつつ、恭太郎は差し出された書類を受け取り視線を走らせ表情を硬くした。
「お前、これをどこでっ!」
声をうわずらせる恭太郎の表情を、隣の明日香は他人事といった感じで眺めているが、彼女に無関係な話ではないことを紗奈は知っている。
「一部は、私が個人的に調べていた証拠です。これまで他社で働いていた私には、古賀建設に入ってすぐに資材単価に違和感を感じていました。ただ日が浅く、決定打を見つけ出せずにいました」
悠吾の『一部は』という言葉に、恭太郎は弾かれたように昌史を見た。その視線の動きを見て、悠吾は言葉を続ける。
「社長は下請け企業に圧力を掛けて、資材単価の水増し請求をさせて、利益の一部を自分の個人口座にキャッシュバックさせていましたね」
その指摘に、恭太郎のこめかみが痙攣する。
明日香は口元を手で隠し「あら、そんなことをされていたの?」と、他人事を決め込んでいる。
悠吾はそんな彼女に冷ややかな眼差しを向けて言う。
「明日香さん、祖父のお気に入りであるあなたが、祖父の入れ知恵で同じことをしていたことも調べ済みですよ」
「なっ!」
明日香は一瞬にして顔を青くし、昌史を見る。
その動きをたどるように、紗奈や悠吾も視線を向けると、昌史は視線を上げて口を開く。
「これまで私は長年、社長や明日香さんの命を受けて、不正請求の調整役を続けて参りました。これまでそれらの会話は録音を残してありますし、金の流れの記録も取ってあります」
「そんなっ!」
悲鳴に近い叫び声を上げて明日香が立ち上がる。
「お前、なんのためにそんなことをっ!」
恭太郎も手すりを拳で叩いて激高する。
ふたりの叱責を受けて、鷲鼻の昌史はもともと細い目をさらに細めて言う。
「保身のためですよ。あなた方が婿養子の私を軽んじて、いいように利用するつもりでいたのは承知しています。もし悪事が明るみとなれば、ふたりとも全ての罪を私に押し付けるつもりだったでしょ?」
昌史の言葉に、ふたりが言葉を飲み込む。視線を泳がせる表情が、図星だと述べている。
それを見て、昌史は息を吐く。
「工務部に配属された悠吾は違和感のある資金の流れに気付き私を追いつめた。ごまかしきれないと思ったので、おふたりを道連れにさせていただくことにしましたよ」
昌史は意地悪く笑う。
そして「東野会長にも、この件に関してまとめた書類を郵送させてもらいました」と付け足す。
「なんてことをっ!」
明日香は声を荒らげて昌史に拳を振り上げるけど、悠吾が素早く立ち上がり、彼女の手首を掴んでそれを阻む。
手首を押さえたまま明日香に鋭い眼差しを向ける。
「ここで癇癪を起こしているより、東野会長のもとに駆けつけて少しでも自己弁護をしておいた方がいいんじゃないですか? 会長のお人柄を考えると、それであなたを許すとは思えませんが。それでも、謝らないよりかはマシです」
明日香の手から力が抜ける。
それを感じ取った悠吾が手を離すと、明日香はかたわらに置いていたバッグを掴み足早に部屋を出ていく。
カツカツと床を鳴らすヒールの音が遠ざかり、乱暴にドアを開閉する音が聞こえた。
「お前、私を脅してただで済むと思うなよ」
恭太郎が、昌史と悠吾を睨む。
ソファーに座り直し恭太郎と視線の高さを合わせた悠吾は次のカードを切る。
「社長がここで引き下がってくれないのであれば、私は父との親子鑑定を申し出ようと思っています」
「なに?」
もし悠吾と昌史がDNA鑑定をすれば、その結果がどうなるかはこの場にいる全員がわかっている。
「事実を話すかどうかは社長の判断にお任せしますが、私と父に親子関係がないと世間に知れば、更なる醜聞が世間を賑わせることになるでしょうね」
恭太郎が事実を隠せば、世間は悠吾の母が浮気をし、昌史を騙して結婚したと判断し、なにも知らず義父の婿養子という立場で断りきれずに悪事に荷担させられた昌史に同情が集まるだろう。
事実を明かしたら明かしたで、出世欲につられて偽装結婚を引き受けた昌史より、恭太郎の非情さが際立つだけだ。
そしてその全てにおいて、悠吾は被害者でしかない。
「お前……自分の家族を売るつもりか?」
恭太郎が声を絞り出す。
その言葉に、悠吾は首を横に振る。
「家族というのであれば、この件について母の了承は受けています。母は逆に私に『親として協力したい』と、言ってくれました」
そう話す時だけは、悠吾の表情が微かに曇る。
彼だって今さら自分の出自を掘り返したところで、誰も幸せになれないことは知っている。
それでも恭太郎に対抗するため、切れるカードは全て使い果たす覚悟でいるのだ。
息を詰めてことの成り行きを見守っていた紗奈は、思わず悠吾の手に自分の手を重ねる。
それを見て、恭太郎が冷めた息を吐く。
「そんな女ひとりのために、家長である私に恥をかかせるか?」
その言葉に悠吾は違うとクビを横に振る。
「恥と言うのであれば、これまでの自分のおこないを恥じてください。私を家族ではなく、会社を発展させるための歯車として扱ったのはあなたです。私はその役目を十分に果たし、会社をよりよいものにする覚悟を決めただけです」
そしてその勇気を与えてくれたのは紗奈だと、手を握り替えしこちらに優しい視線を向ける。
「昌史、お前もコイツの見方をするつもりか?」
唸るような声で問われて、昌史が首を横に振る。
「味方もなにも、私は社長と共に会社を追われる身ですよ。ただあなたより引き際の美学というのもをわきまえているつもりですので、道連れをできただけでも良しとしているだけです」
その言葉に恭太郎はうなだれる。
悠吾はそんな彼に向かって、冷めた口調で最後通告をする。
「あなたにとって家族は、会社を繁栄させ、自身の利益を貪るための道具でしかないことはもうわかっています。だから家族のためとは言いません。会社の名誉のために、身を引いてください」
恭太郎は視線を上げ、反論の言葉を口にしようとしたが、悠吾に「それとも汚名にまみれて、まだ社長の座に君臨しますか?」と問われて再び下を向く。
そこまでの覚悟はないのだろう。
「週明け、辞任を表明する」
恭太郎はボソリと告げて立ち上がる。
そしてそのまま部屋を出ていった。
彼が部屋を出ていくと、紗奈は一気に脱力してソファーに背中を預けた。
「ありがとう」
悠吾は紗奈にそう言うと、繋いでいたままになっていた手を離し立ち上がる。
「ありがとうございました」
そして昌史に向かって、深く一礼をする。
紗奈も慌てて立ち上がり、頭を下げた。
そんなふたりを見て昌史は困り顔で首を振る。
「親として、できることをしただけだ。君が成長して、社長に対抗する力を付けたときに備えて、政敵になろうと決めていたんだ」
その言葉に、悠吾が奥歯を噛みしめるのがわかった。
それは悠吾自身、つい先日まで知らなかった昌史の覚悟の話しだ。
「私、ちょっと外の空気を吸ってきます」
悠吾と昌史には、ふたりだけで話す時間が必要と思い、紗奈はそう声をかけて部屋を出る。
そしてそのまま庭に出て、悠吾と話し合い覚悟を決めた日から今日までのことを思い出す。
先日、ふたりで話し合った際、悠吾は古賀建設に赴任してからこっち、資金の流れに不透明なものを感じていたことを打ちあけた。
彼が紗奈より早く出勤し、おそくなっていたのは、そのためなのだと言う。
まだ確証が持てずひとりで調べている最中だったそうなのだが、まず最初にこれまで勤めていた会社に比べて、一部の資材単価が極端に高すぎることが気になった。
その他の件でも気がかりな点があり、調べていくと社長になんらかの関連があるように感じられたのだという。
そうなると悠吾にとって恭太郎は実の祖父なため、追及することに躊躇いも生まれた。
でも紗奈との関係を邪魔されたことにより、それを追及し、社長の足下を崩す覚悟が決まったのだという。
ただ恭太郎を追及するには証拠がたりない。
悠吾の覚悟を聞かされた紗奈は、昌史のことを思い出した。
社長室で恭太郎の命令を受けた際、昌史は『汚れ役は、いつも私ですね。最近では、社長だけでなく明日香さんのお世話係まで』とぼやいていた。
その時は会話の流れで、昌史は過去にも恭太郎の命令で誰かを強引に退職させたことがあるのだと思っていた。
だけど後になって、もしそうなら明日香の名前まで出すのはおかしいと気が付いた。
それだけじゃない、昌史はそれまでも紗奈に恭太郎の命で明日香の仕事の手伝いをしていることを匂わしていた。
よく考えれば、いくら仲がいいと言っても奇妙な
紗奈たちが違和感に気付けるよう、小さなヒントを撒いていたのだ。
社内で耳にする噂も手伝って、ずっと昌史と悠吾は社長の座を巡って対立しているのだと思っていたけど、顔を合わせた際、昌史はいつも紗奈たちの側に立っていた。
そして別れ際、紗奈に「あの子の側にいてくれてありがとう」と頭を下げた昌史は、自分たちの見方だと確信した。
それらのことを悠吾に話し、まずは昌史に話しを聞いてみてがどうかと提案したのだ。
そして面談した昌史は、これまで記録してあった証拠を揃えて、悠吾に不正の手口を明かしてくれた。
詳細な情報を明かす昌史に、質問した悠吾が驚いたほどだ。
「専務の演技には騙されたな」
あの時の悠吾の表情を思い出し、紗奈がクスリと笑う。
あっさり自分の側につく昌史に驚く悠吾に、彼は、最初は出世欲に駆られた結婚だったけど、ぎこちないながらも家族として共に時間を過ごす中で、悠吾に父親としての愛情を持つようになったのだと話した。
もともとは秘書を務めていたので、恭太郎の利己的な性格を知り尽くしている昌史は、将来恭太郎が悠吾の人生の妨げになった時に協力するつもりで備えていたのだと話した。
そんなふうに時間を掛けて、彼の成長を信じて待つなんて、親としての深い愛情がなければできないことだ。
悠吾と昌史に血の繋がりはないけど、そこには間違いなく親子の愛情がある。
ひとりで庭を散策する紗奈は、さっきまで自分がいたスイートルームのある辺りを見上げてふたりがどんなことを話しているのだろうかと想像してみる。
◇◇◇
「ずっと、あなたに嫌われていると思っていました」
紗奈が出ていき、昌史とふたりっきりになった部屋で、悠吾は自分の思いを吐露した。
言い訳するつもりはないが、いつの頃からか昌史には避けられてばかりいたので、自分に対して親としての情を持っているなんて考えてもいなかったのだ。
公の場ではとくに。
悠吾は出席するパーティーに昌史が絶対出席しないし、偶然鉢合わせした際には、同席するのは不快だと言わんばかりにすぐに帰ってしまっていた。
「君は、聡明で美しすぎる。私には似ても似つかない優れた人材だ」
話しを聞いた昌史はそう言って、自分の鷲鼻を指でなぞる。
それを見て、悠吾は小さく息を漏らした。
鷲鼻に一重の細い目。自分と昌史は顔の造形が違い過ぎて、とても親子には思えない。
悠吾は母親にだと言われているが、ここまで似ていないふたりが公の席で親子として同席すれば、それを面白おかしく話題にする者はいただろう。
「それならそうと……」
昌史が苦く笑う。
「そうすれば君は私に気を遣い、対立姿勢なんて取れなかっただろ? 世間的には、私は優秀な息子に嫉妬した愚かな父親と思わせておいた方がいい。息子に負けるのがいやで社長に取り入るために不正に荷担し、優秀で善良な君は、愚かな父を正すため、仕方なく処罰を下したというスタンスを取らせたかったんだ」
なぜそうしたかったのかの理由はもう聞かされている。
表向きこの件は、悠吾に不正を暴かれた昌史が、自分ひとりが処罰されるのは面白くないと、悪事に荷担した人たちを告発して道連れにして終わる。
悠吾はあくまで、父の自供に基づいて仕方なしに不正に荷担した社員を処罰するのだ。
古賀建設は歴史ある企業なだけに、腹黒い古参社員もいて、面倒な派閥ができあがっていたが、今回の件で一掃することができる。
その後で、悠吾は古賀建設を新体制を築ていくのだ。
「政治と会社運営は、クリーンなイメージが大事だ。若いうちはとくにね」
昌史は悠吾の背負う荷物を少しでも減らすために、長年悪役を演じていたのだ。
「これからどうするつもりですか?」
どこまでを公にするかはわからないが、不祥事を起こして会社を離れるのだ、どんな形にせよこれからの彼の人生には大きなペナルティーが科せられる。
心配する悠吾に、昌史は問題ないと話す。
「ことが落ち着いたら生まれ故郷の長野に引っ込むつもりだ。君のお母さんがついてきてくれるなら、今さらだがふたりでのんびり夫婦生活を送るのも悪くない」
「そうですか」
先日、今日の一件を前に話をした母は、昌史に信頼を寄せているようだった。
悠吾が気付けなかっただけで、長い夫婦生活の中で両親の間には家族としても情が育まれていたようだ。
病弱で華やかな場所を嫌う母には、長野での暮らしの方が肌に合うのかもしれない。
母が昌史について行ってくれるといいと思う。
そんなことを考えていると、昌史が意地の悪い顔をする。
「私のことより自分の心配をした方がいいんじゃないか? 若い頃は出世に目が眩んだが、大企業の経営は容易いものじゃない。しかも古賀建設は社長と専務の不正が明らかになったのだから」
その言葉に悠吾は表情を引き締める。
確かにこれから古賀建設は大変だろう。
会社は世襲制ではないので、不祥事を起こした創業家の人間である悠吾がそのまますんなり社長の座に着ける保証もないのだ。
だけどそれで構わない。
全力で社長座を取りに行き、古賀建設を立て直して見せる。
「私には支えてくれる存在がいるから大丈夫です」
紗奈の顔を思い浮かべながら悠吾が言う。
それを見て昌史は満足げに頷く。
「確かに彼女のような人が、人生を共に歩んでくれるなら心配はいらないな」
そう言って昌史は立ち上がり、「それじゃあ、私はこれで」と、部屋を出ていこうとする。
そんな彼を悠吾が呼び止める。
「お父さん」
昌史のことをそう呼んだのは、何年ぶりだろうか。
自分の出生の秘密を知り、昌史に避けられていると思うようになってから、一度もそう呼んだことがなかった。
弾かれたように振り返る昌史の目が潤んでいる。
その顔を見て、悠吾の胸に熱い感情が一気にこみ上げる。
そんな彼に歩み寄り、右手を差し出す。
「落ち着いたら、妻と一緒に長野に遊びに行きます」
「待ってるよ」
差し出された手を握りしめ、硬い握手を交わした。
◇◇◇
香里の依頼を受けいから今日までのことをあれこれ思い出しながら気ままに庭を散歩していた紗奈は、名前を呼ばれたような気がして足を止めた。
ちょうど池の畔を歩いていたところで、周囲を見わたすとこちらへと近付く悠吾の姿が見えた。
「悠吾さん」
紗奈は小走りに悠吾へと近づき、その胸に飛びこんだ。
「専務との話はもういいんですか?」
そのまま質問を投げ掛けると、悠吾は抱きしめる腕に力を込めることで質問に答える。
「ありがとう。紗奈と出会えなければ、俺は人を愛することを知らず、自分が愛されているとこにも気付けずに一生過ごしていたよ」
紗奈の髪に顔を埋めて深く息を吐く。
「悠吾さん」
紗奈が顔を上げると、悠吾はそのまま唇を重ねてくる。
口付けを交わし、互いの体温を感じ、自分に幸せを与えてくれる存在がその腕のなかにあるのだと実感していると、腕を解いた悠吾が地面に片膝を着いた。
そしてスーツの胸ポケットしまってあった小箱を取り出す。
中身は先週末、悠吾と選んでサイズ調整を依頼してしてたふたりの結婚指輪だ。
ここを訪れる前に、店に立ち寄り受け取ってきた。
悠吾はリングケースの蓋を開ける。傾きかけていた太陽の光が、ふたりの指輪を鈍く輝かせる。
本来のシルバーではなく、甘い輝きだ。
「紗奈、出会ってくれてありがとう。これからの日々を、どうか俺と一緒に歩んでくれ」
爽やかな春の風が紗奈の髪を揺らす。
「はい。よろこんで」
そう返し、お互いの左手薬指に、夫婦の証である指輪を嵌め合うと、思いを確かめるように唇を重ねた。