この恋は演技

1・親友のお願い

 一月最後の土曜日。
 仕事が休みだった紗奈は、繁華街のカフェで高校時代の友人である飯尾香里(いいお かおり)と待ち合わせをしていた。
 友人を待つ間、手持ち無沙汰からついスマホで検索を繰り返すのは、関西にある有名医大の名前だ。
 キャンパス内の写真に、周辺環境の情報、在学生のリアルなコメント。どれを見ても、これから始まる明るいキャンパスライフに心ときめくと共に、これからさらに勉強を頑張らなくちゃいけないと気持ちを引き締める。
 といっても勉強を頑張るのは紗奈ではなく、この春に高校を卒業するその弟なのだけど。
 弟の慶一(けいいち)は、姉である紗奈が言うのは少々気恥ずかしいが、身内のひいき目を差し引いても、勉強ができる上に人を思いやることのできる素直でまっすぐな性格をしている。
 将来内科医になりたいと話す彼は、医師には知識だけでなく咄嗟の判断力と体力も必要と、勉強のかたわらバスケ部で運動にも励んでいた。
 勤勉で愚直な性格そのままに、将来は良い医師になってくれるはず。
 早くに病気で父を亡くし、共に苦労してきた紗奈としては、弟の夢を経済面で支えていくつもりだ。
 そのために大手ゼネコンの一つである古賀建設に就職して三年、大学進学の際自分が借りた奨学金の返済をすると共に、少しずつ蓄えを増やしてきた。
 おかげで、慶一の入学金や引っ越しに伴う初期費用は、借り入れをせずに工面できる。
「待たせてごめんなさい」
 おっとりとした声と共に、テーブルに硬いものが触れる音がする。
 顔を上げると、香里の姿があった。
 この店はセルフタイプのため、先に購入してきたカフェラテをテーブルに置いた香里が、紗奈の向かいのソファーに腰掛ける。
 その動きに合わせて、モカブラウンに染めた髪がふわりと揺れる。
 常に美容を気にかけている香里は、明るい色の髪を綺麗にカールさせ、手触りの良さそうな白のニットに、ハイウエストで裾に凝った刺繍が施されているスカートを合わせている。
 ブーツやバッグなどの小物も同様で、派手さはないが上品で、お洒落へのこだわりを感じさせる。
 メイクはベースメイクに眉を描くだけ。使い回しの効く無難なデザインの服を着て、ろくに手入れもせず伸ばしっぱなしにしている髪をお団子ヘアにしてごまかしている紗奈とは色々違う。
 ついでに言えば、ふたりが身を置く環境も真逆と言える。
 父を早くに病気で亡くし、厳しい経済状況の中育った紗奈と違い、父が会社経営をしている香里は裕福な家庭で育てられてきた。
 お嬢様が通うことで知られる名門校に幼稚舎から大学まで通った彼女は、今はその父の会社で社長秘書を勤めている。
 そんな真逆のふたりがどうして友人になれたのかといえば、成績優秀だった紗奈は、高校だけ香里と同じ学校に学費免除の奨学生として通い、共に演劇部に所属していたからだ。
 美人で華やかな香里は演者、地味でやぼったい紗奈は裏方専門と部内での役割は別れていたが、そんなこと関係なく意気投合してすぐに仲よくなった。
 大学は学びたい学問や奨学金の関係で別の学校に通うことになったが、高校時代の三年間で育んだ友情は社会人になった今も続いている。
「これ、慶一君の合格祝い」
 そう言って香里は、ふたりの間にあるテーブルに大ぶりなショックバッグを置く。キャンプ用品で知られるブランドのロゴが見える。
「えっ! ありがとう。いいの?」
 まだ国立大学の受験は残っているけど、模試の結果を考えると、そちらの合格は難しい。そんなことも話してあるので、少し早いけどお祝いを用意してくれたようだ。
 感謝する紗奈に、香里が中身は薄手のパーカーとリュックだと教えてくれる。
大介(だいすけ)さんが、丈夫なリュックがあると便利だろうって言うから、それにさせてもらった。パーカーは大介さんからよ」
 香里が言う『大介』とは、彼女の恋人の名前だ。
 専門学校卒業後、イタリア料理の専門店で働く彼は、料理の腕を磨きながら開店資金を貯めている。
 紗奈にも面識があり、強面で言葉遣いが少々荒いが、気さくな性格をしていることは知っている。
 弟を連れて、香里と三人で彼が働く店に食事をしにいったことが何度かあり、面識があるのでお祝いしてくれたようだ。
 大介が恋人の友人の弟でしかない慶一にそこまでよくしてくれるのは、彼も紗奈たちと同じように片親の家庭で育ち、苦労して大人になったからだろう。
「大介さんからは『お洒落に興味ないなら、いい感じのパーカー羽織ってダサいのはごまかせ』って伝言を預かったわ」
 自分の優しさを知られるのが恥ずかしいのか、いつも少し粗野な物言いで本音を隠して人を気遣う。そんな彼は、制服を着なくなった慶一がなにに困るかを察してプレゼントを選んでくれたらしい。
「ありがとう。大介さんにもお礼を言ってね」
 香里はそのまま紗奈に、慶一の近況も含めてあれこれ質問をしてくる。
「慶一は、合格を一つもらえたけど、まだ国立の受験も控えているから勉強を頑張っているよ。私の方は、年明けに人事異動があって新しい上司が来たんだけど、そのせいで色々騒がしいかな」
 紗奈の言葉に、香里は目をパチクリさせる。
「騒がしい? 仕事のできない人で、フォローが大変とか?」
 香里の推理に、紗奈は左右の人さし指をクロスさてバツ印を造る。
「本人はすごく仕事ができる人だよ。だけど存在が目立つせいか、外野が騒々しくて」
「外野?」
 納得のいかない顔をする香里に、紗奈はどう説明しようかと考える。
「なんていうか、新しい上司を一言で表現するなら『冷徹御曹司』って感じで、出世を目指す男性社員は取り入ろうと必死だし、女性社員は目がハート状態だし」
「なにそれ」
 紗奈の説明に、香里は面白そうに笑う。
 だけど本当にそうなのだ。
 紗奈は大手ゼネコンである古賀建設の建築工務部に勤めている。そこに新しい部長として配属されてきた悠吾は、現社長の孫で専務の息子。
 これまで社会勉強のため他社で働いていた彼は、自社に呼び戻されると共に部長職を任された。
 鳴り物入りで入社した悠吾に、周囲からは期待とやっかみが入り交じった視線が向けられていた。だけど彼の働きぶりを見せるにつれ、周囲の眼差しからやっかみの色は消え、尊敬を集めるようになっていった。
 しかも仕事が出来る上に、イケメンで独身ときている。周囲の女性陣がほっておくわけがない。
 本人は、そういったことは慣れているのか、いたってクールにそれらのアプローチをかわしている。
 紗奈としては、そんな無愛想な男性のどこに魅力を感じるのか理解できないけど、その素っ気ない態度がまた魅力的だと騒ぐ社員も多い。
 結果付いたあだ名が『冷徹御曹司』だ。
「そうなんだ」
 紗奈の話しに、香里は薄く笑い手元のカップに視線を落とす。
 顔を合わせればお互いの近況報告をするのはいつものことなのだけど、紗奈は香里のその表情に深い影を感じた。
「香里、どうかした?」
 違和感に気付いた紗奈が問いかけると、香里は小さく頷く。
 そしてこちらへと視線を向ける香里は、なにかを決意した顔をしている。
 彼女の表情を見て、紗奈も表情を引き締めた。
「あのね、大介さんに海外の有名レストランから引き抜きの話しがきているの」
 大介が誘われているというレストランは、世界展開している有名店で、そこで働くことは彼の料理人人生において大きなプラスになるのだという。
「大介さんには、結婚して一緒に付いて来てほしいって言われているの」
 慶一の合格祝いを買いに行った時に、そのことを聞かされ、プロポーズを受けたのだと言う。
「そうなんだ。よかったね」
 音のない拍手でプロポーズを祝福したけど、すぐに大事なことに気が付く。
「香里のご両親は、ふたりの結婚になんて?」
 紗奈が胸に湧いた不安を口にすると、香里はカップを持つ手に力を込める。
 それでもう答えに察しがつく。
 大企業の社長を務める彼女の父は、貧しい家庭で育ちレストランで働く大介では娘の相手には相応しくないと考えている。そのためふたりの交際には猛反対で、香里は親の監視の目をかいくぐって大介との交際を続けてきた。
 だから彼女の両親が、快く娘を送り出してくれるなんてことはないだろう。
「両親に彼と結婚したいって話したら、父が激怒して、今度こそ大介さんと別れさせて、私を他の男性と結婚させるって」
 そのため外出の際には、お目付役が付いてきくるのだと言う。
「そんな……」
 驚きつつ視線を巡らせると、少し離れた席でコーヒーを飲む男性の存在に気が付いた。香里の家に遊びに行った際に見かけたことのある顔だ。
 一応の配慮なのか、かなり離れた席に座っているので、こちらの会話までは聞こえないだろう。
 香里も、大介と会うことがないよう監視されているだけで、特別に行動の制限は受けていないのだと言う。ただスマホやパソコンも親が履歴を確認する徹底ぶりだそうだ。
「じゃあ、大介さんと連絡を取れずにいるの?」
 お目付役に深刻な話しをしていると悟られないよう、紗奈は、テーブルに頬杖をついて笑顔で聞く。
 素早く頭を切り替える紗奈の態度に、香里は「さすが演劇部」と、小声で感心する。
「私、演者じゃないし」
「そんなの関係ないよ。それに私の代役をしてくれたことあったじゃない」
 素早くツッコミを入れるけど、香里にそう言い返された。
「二年の文化祭の時に一回だけね」
 高校二年生の文化祭で、香里は主演を任され張り切っていたのだけど、不運にも本番前日に転んで骨折をしてしまった。その際、彼女と背格好が同じで台詞合わせの相手をしていた紗奈が急遽代役を務めることになったのだ。
「あの時の紗奈、すごく堂々としていて、私より上手に演じていたよ」
「そんなことないよ。あれは、私が引き受けないと皆が困るのわかってたから、必死で頑張っていただけで」
 あれは紗奈に役者としての素養があったというわけではない。本来役を演じるはずだった香里のことをよく知っていて、練習にも付き合っていたので、彼女の動きのものマネしただけである。
「でも私のマネなら大丈夫だよね」
 紗奈の言葉に、香里が返す。
 普段の彼女らしくない強引なこじつけに戸惑いつつ、どこか切羽詰まった雰囲気に気負されて頷く。
「まあ、香里の喋り方や癖くらいなら、マネできるかな」
 なんだか話しが逸れている気がして、紗奈は話しを戻す。
「そんなことより、大介さんと連絡取れないなら、私が伝言預かろうか?」
 香里は、紗奈にネイルを見せびらかすように手を広げて答える。
「ううん。ゲームで連絡を取ってるよ」
「ゲーム?」
 おうむ返しをする紗奈に頷き、大介の提案でこういう事態に陥ったときに備えて、以前からポータブルゲームのアプリ内にチャットルームを作っておいたのだと教えてくれた。
「ウチの両親はその辺うといから、今時のゲーム機がチャットできることに気付いてないの。だから監視をつけてスマホやパソコンをチェックしていれば、大介さんと連絡が取れないと思っているみたい」
 パソコンまで監視の目を光らせる親も、ポータブルゲーム機までは考えが及ばなかったようだ。
 お互いネイルの話しをしているような動きを取りつつ話す。
「なるほど。大介さん頭いいね」
 紗奈が香里の爪を指先で突きながら言うと、香里は誇らしげに頷く。
「でしょう」
 その表情は、演技じゃないのが伝わってくる。
(本当に、大介さんのことが好きなんだな)
 ふたりのことが大好きな紗奈としては、その姿を微笑ましく思うと共に、先行きが心配になる。
「これからどうするの?」
 紗奈が気遣わしげな表情を見せると、香里が明るい表情を保ったまま言う。
「駆け落ちして、大介さんに付いていこうと思うの」
「えっ!」
 突然の告白に、紗奈は思わず口元を抑えて声を出す。
 すぐにお目付役がいることを思い出して、「そんなに安いの?」と、さもネイルの値段を聞いて感心しているフリをする。
 香里は晴れやかな笑顔で、「嘘じゃないよ」と、答えた。
 そして紗奈の手を握り、爪の状態を確認するような仕草を取りながら続ける。
「それで、紗奈にお願いがあるの」
「なに?」
 大好きなふたりのためだ。自分にできることがあるなら、喜んで協力する。
 そんなことを思い、前のめりで尋ねる紗奈に香里がとんでもないことを言う。
「私の身代わりになってっ!」
「はい?」
「来週の日曜日、私の代わりにお見合いに行ってほしいの」
「えっ、そ、それは無理っ」
 素っ頓狂な声をあげて、手を引っ込めようとする。だけど香里がしっかり手を掴んでいるので、それができない。
「身代わりの見合いって……、そんなのすぐにバレるよ」
「時間稼ぎさえしてくれれば、バレてもいいの。私はその日のうちに大介さんと一緒に出国するから」
 監視役の目があるので、顔だけはお互い笑顔を保ちつつ小声で言い合う。
「出国って……」
「その日は、大介さんが日本を離れる日なの。両親はそれを知っていて、あえてお見合いの日をそこに設定した。私が彼を追いかけられないようにするために」
 紗奈の手を握ったまま、香里は早口に計画を説明する。
 先方の希望により、見合いは親や仲人を同席させないラフな形式でおこなうことになっている。
 お見合いは昼食時なのだけど、香里は、朝から準備のためにとエステとメイクの予約を入れてあるので、紗奈にはそこで彼女と入れ替わってもらい、見合いに赴いてもらいたいのだと言う。
「バレたらすぐに逃げてもらってかまわないし、お礼にお金を払うから、バイトと思って引き受けて。お願いっ!」
「お金の問題じゃなくて、そんなのすぐにバレるよ」
「相手は写真でしか私の顔を知らないの。私たちは顔の造りも背格好もよく似ているから、大丈夫だよ」
 見合い相手の男性は、代々政治家系の環境で育ち、特権階級意識を強く持っているタイプでかなりのオレ様気質な人なのだという。
 そんな男にもかかわらず香里の父は、有名政治家の子息こそ自分の娘婿に相応しいと考えていて、形だけの見合いが終われば、香里の意思に関係なく結婚へと話しを進めるつもりでいるそうだ。
 そんな話しを聞かされれば、紗奈としてもどうにかしてあげたいと思うが、簡単に引き受けられるような内容ではない。
「そんなの無理だって」
 唸る紗奈に、香里は「紗奈なら大丈夫」と、謎の自信を見せる。
 というか、そう思いこみたいのだろう。
 普段、物静かで冷静な彼女らしくない態度に、友人として辛くなる。
「……少し考えさせて」
 断りきれずに、紗奈はそう答えて、水曜日の仕事帰りに再び会う約束をした。

「ただいま……ッ」
 香里と別れ、家族と暮らすアパートに戻ってきた紗奈は、リビングというより居間と呼んだ方がいい部屋に脚を踏み入れてギョッとする。
 この時間、予備校に行っているはずの慶一がうなだれて床に座りこんでいたのだ。
「慶一、どうしたの?」
「あ、姉さん……」
 名前を呼ばれて初めて紗奈が帰ってきたことに気が付いた様子の慶一は、硬い表情のままこちらを見上げる。
「どうしたの?」
 ただならぬ雰囲気を察して、弟と視線の高さを合わすべく床に膝をつく。
 浮かない表情に模試の結果が悪かったのだろうかと考えたけど、私学には受かっているので、ここまで落ち込む必要はない。
「姉さん、俺の予備校の授業料が滞納になっているの知ってた?」
「えっ?」
「引き落としできない状況が数ヶ月続いていて、母さんに電話しても連絡が取れないでいるんだって」
 講師にそれを指摘され、滞納している授業料を支払うまで通せるわけにはいかないと言われ帰って来たとのことだ。
 そんな事情だから、家に帰ってきても勉強が手に付かなかったのだという。
「ウチ、そんなに生活苦しいの? 俺、進学諦めて働いた方がいい?」
 慶一は深刻な表情を見せる。
「バカなこと言わないでよ。お母さんだって一応働いてはいるし、古賀建設のお給料がいいのは、わかっているでしょ? 慶一は、一人でも多くの人の命を救えるお医者さんになりたいって立派な夢があるんだから、そのために勉強を頑張ればいいのよ」
 慶一のその夢は、父を早くに亡くした悲しみから来ている。同じ悲しみを知る紗奈としては、全力でその応援をするつもりだ。
「だけど……」
「お母さんのことだから、引き落とし用の口座にお金の振り込みし忘れているんじゃないかな?」
「だよね」
 紗奈の言葉に慶一があっさり納得するのは、ふたりの母である明奈(あきな)の性格に少々問題があるからだ。
 明奈は、楽観的な明るい性格をしているのはいいのだが、派手好きで、物事の後先を考えない傾向にある。
 そのため二人の幼くお金がかかる時期でも、気に入らないことがあるとすぐに仕事を辞めていた。それに、後先考えずにお金を使ってしまう時がある。
 それでも紗奈が働くようになってからは、経済状況はかなり安定しているはずだ。
「とりあえず、お姉ちゃんが滞納分の授業料は振り込んでおくから、慶一は明日からは普通に予備校に通って」
 滞納分の振り込みを証明すれば、明日からまた利用できるという。
 小さい頃から経済的に苦労してきたため節約癖が付いている身としては、手数料の掛かる土曜日のATM利用は避けたいのだが、今はそんなことは言っていられない。
 紗奈は、ネット銀行口座を作っていないのでコンビニに行く必要がある。バッグを手に立ち上がろうとして、さっき座った拍子に床に投げ出した荷物に目を留めた。
「そうだ。これ、香里と大介さんから」
「なに?」
「慶一の合格祝いだって」
 その言葉に、沈みきっていた弟の表情が明るくなる。
 うれしそうに受け取り、さっそく中身を確認して破顔した。
「これ、今すごく人気があるメーカーのだよ」
「大介さんが『お洒落に興味ないなら、いい感じのパーカー羽織ってダサいのはごまかせ』だって」
「なにそれ。当たってるけどムカつく」
 年相応の小生意気さで笑い飛ばして、慶一はさっそくパーカーを羽織ってみせる。そして自然な動きで、ポケットに手を入れて「あっ」と小さな声を漏らした。
「どうしたの?」
 紗奈のその声に応えるように、慶一はポケットから手を出した。その手には、小さな封筒が握られている。無骨な字で『どんな分野でも、修行中は辛いものだ。頑張れよ』と書かれた封筒の中には、ネット通販サイトのギフトカードが入っていた。
「大介さん、からだよね?」
「だね」
 大介の字は見たことがないが、流麗な香里の字とは異なるので、それで間違いないだろう。
 封筒を見つめて、慶一が鼻をグズグズ言わせる。
 母の性格が災いして親戚との縁も薄い慶一には、手放しに誰かになにかを祝ってもらえる機会が少ない。だから大介からのエールが、特段のよろこびになっているのだろう。
 紗奈は弟の頭をポンポンと叩いて、大介がついに海外の有名レストランから引き抜きされたことを話した。
「そうなんだ。じゃあ、俺も大介さんが日本で店を出す頃には、立派な医者になれるよう頑張らないと」
 大介の育った環境を知る慶一には、彼の引き抜きの話しはいい励みになったらしい。感情を立て直せたのが見ていてわかる。
「そのためには勉強を頑張らないと。お姉ちゃんは、ちょっとコンビニ行ってくるね」
 そう言って今度こそ立ち上がる紗奈に、慶一が言う。
「でも大介さん、海外に行くなら香里さんはどうするのかな?」
 何気ないその言葉に「ふたりで色々話し合っているみたいだよ」とだけ答えて、紗奈は家を出た。
 コンビニに向かって歩きながら、改めて香里と大介には是非幸せになってほしいと願った。
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