この恋は演技
2・水曜日の決断と土曜日の遭遇
週が開けた水曜日の昼休み。
古賀建設のオフィスで、紗奈は自分の顔を押さえてうなだれていた。
「松浦ちゃん、今日もお昼は食べないの?」
そんな声に顔を上げると、向かいのデスクを利用している同期の小島みゆきが、パソコンの隙間からこちらの様子を窺っている。
「うん。ちょっと、ダイエット」
力なく笑う紗奈の言葉を「嘘つけ」と、バッサリ切り捨てる。
「松浦ちゃん、そんなに痩せているのにダイエットする必要なんてないでしょ。今週入ってから、一度もご飯を食べているとこ見たことないよ」
そんなことを言いながらデスクを回りこんできたみゆきは、「よいしょ」と、紗奈の腕に自分の腕を絡めて立ち上がらせる。
「なんかよくわかんないけど奢るから、私の食事に付き合って」
同い年だけど姉御肌のみゆきは、そう言うと紗奈を引きずるようにして歩き出す。
「なんか心配かけてごめんね」
いつまでもみゆきに引きずられているわけにもいかないので、自分でしっかり立って歩く。
「私が好きで心配してるだけだよ。でも、悪いと思ってるなら、元気だしてよ」
同い年だけど、姉御肌のみゆきは頼りになる存在だ。
自分を気にかけてくれる存在が短にいることが心強い。
「ありがとう」
お礼を言って、ふたりでエレベーターの前に立った時、ちょうど降下して来たエレベーターが紗奈たちのいる階で止まった。
「ラッキー」
みゆきは声を弾ませて、エレベータードアの前で仁王立ちする。
でもドアが開くと、驚いて肩を跳ねさせて横に飛びのいた。開いたドアの向こう側に、自分たちの上司である悠吾の姿があったからだ。
「ぶ、部長、失礼いたしました」
みゆき腰に手を添えて、頭を下げる。
他部署の管理者とおぼしき数名の社員と共にエレベーターを降りてきた悠吾は、冷めた眼差しでみゆきを一瞥すると、言葉もなく横を素通りする。同乗していた年配社員がなにか言いたげな視線を向けてきたけど、悠吾の背中を追いかけることを優先したのか、結局なにも言わずに終わった。
すれ違いざま、紗奈も悠吾たちに頭を下げる。
彼が自分の前を通り過ぎる時、バニラを連想させる柔らかな香りに香辛料を加えたような甘さと重厚感を備えたエキゾチックなにおいが鼻孔を掠めてつい顔を上げてしまった。
その瞬間、ちょうど右手で髪を掻き上げた悠吾と視線が重なる。
左利きである彼の右手袖口からは、世界的シェアをもつ有名ブランドの腕時計が覗いている。
(あの時計一個で、慶一の学費の工面ができるんだろうな)
ここ数日あれこれお金のことで悩んでいる紗奈は、つい自分の立場を忘れて、悠吾の、正しくは彼の右手首に遠慮ない眼差しを向けてしまう。
それを不快に思ったらしく、悠吾は紗奈に露骨に嫌そうな顔をして通りすぎていった。
「松浦ちゃんも、古賀部長に気があるの?」
一団を見送り、エレベーターに乗り込むと、みゆきがそんなことを聞いてくる。
「はい? なんでそんな話しになるのよ」
「だって、部長に熱い眼差しを送っていたじゃない」
「そんなわけないでしょ」
悠吾は一応は直属の上司だけど、建築工務部は二十人以上のスタッフがいるので、まだまだ下っ端の紗奈たちはろくに口をきいたことはない。
それに紗奈から見て、悠吾は別世界の住人だ。
憧れや、恋愛の対象にはならない。
「部長はライバル多いから、好きになると辛いよ。しかも近く、どこぞのご令嬢と婚約するらしいし」
「え、そうなの?」
みゆきは、勝手に紗奈が悠吾に好意を抱いている前提で話す。そのことにツッコミを入れたいのだけど、その後の話の方が気になった。
驚く紗奈に、みゆきは得意気にどこかで仕入れてきた噂話を披露する。
「古賀建設と肩を並べる建設会社の一族の人らしいよ。家族ぐるみのお付き合いがあって、相手が古賀部長に熱烈ラブコールを送ったことで縁談がまとまって、ふたりが結婚したらビジネルでも助けって行くんだって」
そういってみゆきは、古賀建設と並んで大手ゼネコンの一つに挙げられる東野組という建築会社の名前を挙げる。
もしその縁談がまとまれば、両社が様々な場面で業務提携していくだろうと言う。
大手ゼネコン同士の結婚。それはいわゆる政略結婚というもので、それによってますます古賀建設は発展するということだろうか。
どこまでも別世界の話しにしか聞こえない。
「普段の部長って、女性社員のアプローチを冷たくあしらって、恋愛なんかに興味なしって感じだけど、プライベートでは違うのかな?」
どうにか絞り出した感想は、その程度である。
「確かに、あの冷徹御曹司が女性相手に優しくしている姿なんて想像つかないよね。イケメン御曹司様は、どこまでも強気で、女性に媚びたりしないんじゃない?」
紗奈の意見にみゆきが応じる。
紗奈も、なんとなくそんな気がする。
そんなどうでもいいことを話しながら食堂の席に着くと、みゆきが話しを戻した。
「それで松浦ちゃんは、最近なにがあったの? 元気ないよ」
「えっと……ほら、弟の受験のことが心配で、あれこれ考えちゃって」
みゆきは紗奈が母子家庭なことを知っているので、その説明で納得してくれたようだ。
「弟君、私大は受かったんだけど、国立は今からなんだっけ?」
「うん。医大は、最低六年は通うから色々大変で」
そう説明をしたけど、紗奈の本当の悩みはそこじゃない。
先週末、授業料滞納の話しを聞いたときから嫌な予感はしていたのだ。
心配をかけないよう、慶一のいないタイミングを見計らって母を問いただしたところ、飲み屋で知り合った人に騙され、家の貯金を全て使い込んでいたことが発覚した。
本人は、親として慶一の進学資金を工面すべく努力した結果だと言い訳していたけど、紗奈が聞く分にとてもわかりやすい投資詐欺で、詳しく調べることなく楽をして金儲けをしようとした結果としか思えない。
しかも紗奈に責められるのが嫌で、自分から打ち明けることをせず、慶一の授業料だけでなく家賃や公共料金も滞納していたことが発覚したのだ。
結果、金を預けた友人は完全に姿を消し、痕跡の追いかけようもない。
日曜日に嫌がる母をどうにか説得して被害届を出したが、警察には持ち逃げされた金は戻ってこないと思った方がいいと言われてしまった。
せめてもの救いは、明奈が紗奈個人の貯金にまで手を着けていなかったことだけど、自身の奨学金の返済を抱え、家に生活費を入れているのでたかが知れている。
滞納していた諸々の支払いを済ませると、慶一の入学金の支払いまでは手が回らない。
そんな状況のため、自分にお金を使う気になれず二日ほど昼食を抜いていた。
そんな苦悩を打ち明けても、無駄に心配をかけるだけだ。だから弟の受験が心配で、食欲がなかったというこにしておく。
「受験生がいると、悩みが尽きないよね。今度、合格祈願のお守り買ってくるね」
みゆきが言う。
「ありがとう」
そしてなりゆきみゆきに奢ってもらったハンバーグ定食を食べていた紗奈は、かたわらに置いてあった自分のスマホが明滅していることに気が付いた。
見ると香里から【この前頼まれた本渡したいから、今日の帰りに会える?】と、メッセージが届いていた。
香里とそんな話しをした記憶はない。
親の監視を気にしてのことだと理解しているので、紗奈もそれに合わせた文面で仕事帰りに会う約束をした。
そしてその日の夕方、定時で仕事を終えた紗奈は、香里と待ち合わせをしているカフェへと向かった。
お店には既に香里の姿があり、離れた席にはまたお目付役の男性の姿があった。
「待たせてごめんね」
奥にいるお目付役には気付かないフリで、香里の向かいに腰を下ろした。
「これ、話していた本」
「ありがとう」
わざとらしいくらい明るい声で言葉を交わし、本の受け渡しをする。
そしてすぐに小声で切り出す。
「香里の依頼、受けるよ」
「紗奈っ」
香里が表情を輝かせてお礼の言葉を口にする前に、紗奈は「ただ、条件が一つあるの」と、会話を遮って続ける。
「その代わり、お礼は受け取らない」
その言葉に香里が目を丸くするけど、それが紗奈の出した結論だ。
もちろん今の家庭状況を考えれば、バイト料を受け取った方がいいのはわかっている。だけど、友情をお金に換えるようなことはしたくない。
「それを私からのふたりへの結婚祝いにさせて」
そう話す紗奈に、香里は瞳を潤ませつつ「駄目だよ」と、首を横に振る。
「もし私の親に入れ替わりのことを責められたら、その時は、詳しい事情を知らずにバイトとして引き受けただけって言い訳してほしいの。そのためにも、お金を受け取った証拠を残しておくべきだから」
香里はそう主張する。
彼女の父親の気性の激しさを考えると、確かにそういった予防線は張っておくべきかもしれない。
紗奈が黙ると、香里はそのまま自分の立てた作戦を説明していく。
そして結局は、彼女の主張に押し切られて、アルバイトとしてこの話を受けることになった。
土曜日。
前日に香里と同じ色に髪を染めて眼鏡をコンタクトに変えた紗奈は、エステが入っているビルで香里と落ち合った。
そこで彼女のスマホを受け取ると、香里の代わりにエステやプロのメイクを受け、タクシーで見合い会場であるホテルへと向かう。
父親がGPS機能で行動を監視しているスマホは、後で落とし物としてホテルのフロントに預けることになっている。
(プロのメイクってすごい)
ホテルに到着した紗奈は、黒い大理石の柱に映る自分の姿を見てしみじみと息を漏らした。
最初に計画を聞いた時にはすぐにバレると思ったのだけど、香里が懇意にしている美容師に『香里ソックリに見えるようメイクしてください』とお願いしたところ、本当にそのように仕上げてくれた。
遠目なら、紗奈自身、自分が香里に見えるくらいだ。
ちなみに美容師には、友達にドッキリを仕掛けると、ソックリメイクの理由を説明してある。
「これなら、少しの間くらい大丈夫かも」
自分を鼓舞して、待ち合わせ場所であるレストランに向かう。
その前に……と、フロントに立ち寄って、スタッフに声をかけた。
「すみません、落とし物です」
打ち合わせどおり香里のスマホを落とし物として預けようと、フロントスタッフに声をかけた時、「あれ?」と、どこか聞き覚えのある男性の声が聞こえた。
自分に向けられた声のような気がして、顔を上げて周囲を見渡す。
だけど見知った顔は見当たらない。ちょうど長身なスーツ姿の男性三人が、通り過ぎていく後ろ姿が見えるだけだ。
(私の知り合いが、こんな場所にいるわけないか)
さっきのは空耳だったのだろう。
紗奈は素早く思考を切り替えて、対応してくれたスタッフに香里のスマホを預けるとレストランに向かった。
そして香里として見合い相手と食事を始めてすぐに、紗奈は香里の判断が正しかったと理解していた。
「……それでその受付が、俺に順番待ちをしろって言うんだぜ。この俺に庶民と同じことしろって、なに考えているんだよって感じだよな」
相手の反応を気にすることなく、自分のペースで食事をしてワインを飲む彼の話しに、紗奈は内心眉根を寄せる。
少し話しただけで、相手の男性が特権意識の強い、他者を見下して話す人だということが伝わってきた。
しかもなかなかのオレ様気質だし、時々こちらに向けてくるねっとりと肌にまとわりつくような眼差しも不快だ。
ただ彼が自分の話しをするのに夢中で、紗奈に質問を投げるようなことがないのはありがたい。おかげで、見合い相手が偽物だとは疑ってもいないようだ。
(こんな男、香里に相応しいわけがない。大介さんと大違い)
相手の話に合わせて曖昧に頷く紗奈は、自分の判断が正しかったのだと改めて思い知った。
香里の身代わりでなければ、一秒でも一緒にいたくないタイプだ。
そんな思いから、つい腕時計ばかり見てしまう。
気のない返事を繰り返し時間ばかり気にする紗奈の態度が面白くなかったのか、食事の途中にもかかわらず相手が「そろそろ行くか?」と、声をかけてきた。
ちょうど香里と大介の飛行機のフライト時間を過ぎたところなので、相手がそれでかまわないのなら、紗奈としては望ましい状況だ。
「じゃあ……」
帰りましょう。紗奈がそう言うよりも早く相手が言う。
「上に部屋を取ってあるから」
「はい?」
彼がなにを言っているのかわからない。
目をパチクリさせる紗奈を見て、相手が下品な笑みを浮かべて言う。
「結婚するなら、体の相性を確かめておく必要があるだろ」
その言葉に鳥肌が立つ。
「なに考えているんですかっ!」
本人の意思に関係なく縁談を勧めるだけでもありえないのに、ろくに相手を知ろうともせずに部屋に連れ込もうとするなんてありえない。
香里のフリをするのも忘れて、紗奈はキツい口調で言う。
すると相手の表情が険しくなる。
「はぁ? お前、誰を相手にものを言っているかわかっているのか? 俺に結婚してほしいなら、それ相応の態度っていうものがあるだろ」
腹の底から怒りが湧き上がらせているような声だ。こちらを睨む彼が最後に「女のくせに」と吐き捨てる。
それが彼の価値観なのだ。
「失礼します」
香里からは、いざとなったら逃げ出していいと言われている。
なるべく穏便に済ませたかったのだけど、これ以上は我慢できない。
紗奈が立ち上がろうとした時、相手が拳でテーブルを叩いた。
その勢いで揺れた食器やカトラリーがぶつかり合って、硬質な音を立てる。
周囲の目がこちらに向けられているのが、見なくてもわかる。
「俺に恥をかかせておいて、このまま無事に帰れると思うなよ」
脅しのような言葉と共に鋭い眼差しを向けられて、背筋に冷たいものが走る。
今すぐこの場を立ち去る気でいたけど、ひとりになった所で、この男になにかされるのではないかと怖くなる。
紗奈のそんな怯えを見抜いたのか、男がいやらしく笑う。
まるで紗奈の考えていることが、正解だと言っているような顔だ。
「……ッ」
誰かに助けを求めたいのだけど、どう助けを求めればいいのかがわからない。
明確な敵意を向けてきてはいるけど、まだなにもされていないのだから。
でもなにかされた後では遅いのだ。
紗奈が身動きできずに息を詰めていると、不意に肩に人の手が触れた。
その温もりを感じるのと同時に、どこか覚えのあるエキゾチックな香りが鼻孔をくすぐる。
「どうなるか、教えてもらいたいものだなな」
どこでかいだ香りか考えていると、背後から艶のある声が響く。
背後から感じる特徴的な香りと艶のある声に、記憶に引っかかるものがある。だけど紗奈の思考を妨げるように、見合い相手の男性が声を荒らげた。
「あ? お前、誰だよ? 庶民のくせに口を挟んでくるんじゃねぇ」
男性は、眉を片方釣り上げて声の主を睨む。その態度に、背後の彼が「庶民?」と、笑う気配を感じた。
「おいっ! お前ら、俺を誰だと思っているんだ。俺はなぁ……」
高圧的に話そうとする見合い相手の男性の言葉を制するように、背後の男性は彼の父親が所属する政党や役職を口にする。
「ああ、そうだが……」
さらさらと全てを言い当てられてたじろぎつつ、視線でお前は誰だと問いかける。そんな男性に、背後の男が言う。
「古賀建設の古賀悠吾だと言ったら?」
(やっぱりっ!)
背後から聞こえてきた声に、紗奈は恐る恐る顔を上げて背後の男性の顔を確認した。
「こ……ぶっ……ッ」
古賀部長。という言葉をどうにか飲み込み、口をパクパクさせる。
(どうして部長がここに)
そう驚く反面、漂う香りや声に覚えがあったことに納得がいく。
それにフロントで聞き覚えのある声を耳にした気がしたのも、今になって思えば悠吾のものだったように思われる。
混乱と緊張ですぐには声が出てこない。
それは見合い相手の男性も同じだったのか、顔色を失い口をパクパクさせている。
「あ……あの……その……」
見合い相手の男性は、うわごとのように要領を得ない声を漏らしている。
そんな相手に、悠吾はオフィスで見掛ける『冷徹御曹司』そのままの冷ややかな表情で言う。
「次の選挙以降も父君に政治家でいてほしいのなら、非礼を彼女に詫びて、さっさと立ち去れ」
有無を言わさない気迫のこもった声に、相手は勢いよく立ち上がりバリを頭を下げた。
「古賀家のご子息とは知らず、大変失礼なことを……」
「私のことはどうでもいい。彼女に謝罪しろと言っているんだ」
指摘を受けて男性は、深く頭を下げて言う。
「飯尾香里さんにも、軽率な振る舞いを取り、申し訳ありませんでした」
「飯尾?」
背後の悠吾が、ポツリと呟く。
でも紗奈はそれを気にする暇もなく、見合い相手の男性が椅子に足を引っかけながら慌ただしい勢いで逃げていく。
「大丈夫か?」
呆気にとられて呆然とする紗奈の顔のまでて、悠吾が手をヒラヒラさせる。
プライベートな時間のためか、紗奈を気遣う彼の態度には、普段のような尖った雰囲気はない。先ほどの男性に向けていた剣のある雰囲気も消え去っている。
「あ、ありがとうございます」
頭がうまく回らないまま、紗奈はお礼を言う。
よくわからないが、さっきの鼻持ちならない政治家の息子より、悠吾の方が権力があるということなのだろう。
古賀建設の社員で、自社が大手ゼネコンの一つに数えられていることは理解している。だけどこれまで紗奈が思っていた以上に、古賀建設の社会的影響力は大きいらしい。
(それなら、こんな形になっちゃたけど、香里の家に迷惑をかけることはないよね)
そっと胸をなで下ろしていると、悠吾が紗奈の鼻先に手を差し出す。
「事情はわからんが、とりあえず家まで送ろう。君は……」
悠吾の言葉に、紗奈はハッと息を呑んで立ち上がる。
自分の正体がバレる前に、このまま立ち去った方がいい。
「助けていただきありがとうございます。名乗るほどの者ではありませんので、これで失礼いたします」
これは助けてもらった側の言葉ではないと、冷静な部分で自分にツッコミを入れつつ、紗奈は一礼をすると大急ぎでその場を離れた。
古賀建設のオフィスで、紗奈は自分の顔を押さえてうなだれていた。
「松浦ちゃん、今日もお昼は食べないの?」
そんな声に顔を上げると、向かいのデスクを利用している同期の小島みゆきが、パソコンの隙間からこちらの様子を窺っている。
「うん。ちょっと、ダイエット」
力なく笑う紗奈の言葉を「嘘つけ」と、バッサリ切り捨てる。
「松浦ちゃん、そんなに痩せているのにダイエットする必要なんてないでしょ。今週入ってから、一度もご飯を食べているとこ見たことないよ」
そんなことを言いながらデスクを回りこんできたみゆきは、「よいしょ」と、紗奈の腕に自分の腕を絡めて立ち上がらせる。
「なんかよくわかんないけど奢るから、私の食事に付き合って」
同い年だけど姉御肌のみゆきは、そう言うと紗奈を引きずるようにして歩き出す。
「なんか心配かけてごめんね」
いつまでもみゆきに引きずられているわけにもいかないので、自分でしっかり立って歩く。
「私が好きで心配してるだけだよ。でも、悪いと思ってるなら、元気だしてよ」
同い年だけど、姉御肌のみゆきは頼りになる存在だ。
自分を気にかけてくれる存在が短にいることが心強い。
「ありがとう」
お礼を言って、ふたりでエレベーターの前に立った時、ちょうど降下して来たエレベーターが紗奈たちのいる階で止まった。
「ラッキー」
みゆきは声を弾ませて、エレベータードアの前で仁王立ちする。
でもドアが開くと、驚いて肩を跳ねさせて横に飛びのいた。開いたドアの向こう側に、自分たちの上司である悠吾の姿があったからだ。
「ぶ、部長、失礼いたしました」
みゆき腰に手を添えて、頭を下げる。
他部署の管理者とおぼしき数名の社員と共にエレベーターを降りてきた悠吾は、冷めた眼差しでみゆきを一瞥すると、言葉もなく横を素通りする。同乗していた年配社員がなにか言いたげな視線を向けてきたけど、悠吾の背中を追いかけることを優先したのか、結局なにも言わずに終わった。
すれ違いざま、紗奈も悠吾たちに頭を下げる。
彼が自分の前を通り過ぎる時、バニラを連想させる柔らかな香りに香辛料を加えたような甘さと重厚感を備えたエキゾチックなにおいが鼻孔を掠めてつい顔を上げてしまった。
その瞬間、ちょうど右手で髪を掻き上げた悠吾と視線が重なる。
左利きである彼の右手袖口からは、世界的シェアをもつ有名ブランドの腕時計が覗いている。
(あの時計一個で、慶一の学費の工面ができるんだろうな)
ここ数日あれこれお金のことで悩んでいる紗奈は、つい自分の立場を忘れて、悠吾の、正しくは彼の右手首に遠慮ない眼差しを向けてしまう。
それを不快に思ったらしく、悠吾は紗奈に露骨に嫌そうな顔をして通りすぎていった。
「松浦ちゃんも、古賀部長に気があるの?」
一団を見送り、エレベーターに乗り込むと、みゆきがそんなことを聞いてくる。
「はい? なんでそんな話しになるのよ」
「だって、部長に熱い眼差しを送っていたじゃない」
「そんなわけないでしょ」
悠吾は一応は直属の上司だけど、建築工務部は二十人以上のスタッフがいるので、まだまだ下っ端の紗奈たちはろくに口をきいたことはない。
それに紗奈から見て、悠吾は別世界の住人だ。
憧れや、恋愛の対象にはならない。
「部長はライバル多いから、好きになると辛いよ。しかも近く、どこぞのご令嬢と婚約するらしいし」
「え、そうなの?」
みゆきは、勝手に紗奈が悠吾に好意を抱いている前提で話す。そのことにツッコミを入れたいのだけど、その後の話の方が気になった。
驚く紗奈に、みゆきは得意気にどこかで仕入れてきた噂話を披露する。
「古賀建設と肩を並べる建設会社の一族の人らしいよ。家族ぐるみのお付き合いがあって、相手が古賀部長に熱烈ラブコールを送ったことで縁談がまとまって、ふたりが結婚したらビジネルでも助けって行くんだって」
そういってみゆきは、古賀建設と並んで大手ゼネコンの一つに挙げられる東野組という建築会社の名前を挙げる。
もしその縁談がまとまれば、両社が様々な場面で業務提携していくだろうと言う。
大手ゼネコン同士の結婚。それはいわゆる政略結婚というもので、それによってますます古賀建設は発展するということだろうか。
どこまでも別世界の話しにしか聞こえない。
「普段の部長って、女性社員のアプローチを冷たくあしらって、恋愛なんかに興味なしって感じだけど、プライベートでは違うのかな?」
どうにか絞り出した感想は、その程度である。
「確かに、あの冷徹御曹司が女性相手に優しくしている姿なんて想像つかないよね。イケメン御曹司様は、どこまでも強気で、女性に媚びたりしないんじゃない?」
紗奈の意見にみゆきが応じる。
紗奈も、なんとなくそんな気がする。
そんなどうでもいいことを話しながら食堂の席に着くと、みゆきが話しを戻した。
「それで松浦ちゃんは、最近なにがあったの? 元気ないよ」
「えっと……ほら、弟の受験のことが心配で、あれこれ考えちゃって」
みゆきは紗奈が母子家庭なことを知っているので、その説明で納得してくれたようだ。
「弟君、私大は受かったんだけど、国立は今からなんだっけ?」
「うん。医大は、最低六年は通うから色々大変で」
そう説明をしたけど、紗奈の本当の悩みはそこじゃない。
先週末、授業料滞納の話しを聞いたときから嫌な予感はしていたのだ。
心配をかけないよう、慶一のいないタイミングを見計らって母を問いただしたところ、飲み屋で知り合った人に騙され、家の貯金を全て使い込んでいたことが発覚した。
本人は、親として慶一の進学資金を工面すべく努力した結果だと言い訳していたけど、紗奈が聞く分にとてもわかりやすい投資詐欺で、詳しく調べることなく楽をして金儲けをしようとした結果としか思えない。
しかも紗奈に責められるのが嫌で、自分から打ち明けることをせず、慶一の授業料だけでなく家賃や公共料金も滞納していたことが発覚したのだ。
結果、金を預けた友人は完全に姿を消し、痕跡の追いかけようもない。
日曜日に嫌がる母をどうにか説得して被害届を出したが、警察には持ち逃げされた金は戻ってこないと思った方がいいと言われてしまった。
せめてもの救いは、明奈が紗奈個人の貯金にまで手を着けていなかったことだけど、自身の奨学金の返済を抱え、家に生活費を入れているのでたかが知れている。
滞納していた諸々の支払いを済ませると、慶一の入学金の支払いまでは手が回らない。
そんな状況のため、自分にお金を使う気になれず二日ほど昼食を抜いていた。
そんな苦悩を打ち明けても、無駄に心配をかけるだけだ。だから弟の受験が心配で、食欲がなかったというこにしておく。
「受験生がいると、悩みが尽きないよね。今度、合格祈願のお守り買ってくるね」
みゆきが言う。
「ありがとう」
そしてなりゆきみゆきに奢ってもらったハンバーグ定食を食べていた紗奈は、かたわらに置いてあった自分のスマホが明滅していることに気が付いた。
見ると香里から【この前頼まれた本渡したいから、今日の帰りに会える?】と、メッセージが届いていた。
香里とそんな話しをした記憶はない。
親の監視を気にしてのことだと理解しているので、紗奈もそれに合わせた文面で仕事帰りに会う約束をした。
そしてその日の夕方、定時で仕事を終えた紗奈は、香里と待ち合わせをしているカフェへと向かった。
お店には既に香里の姿があり、離れた席にはまたお目付役の男性の姿があった。
「待たせてごめんね」
奥にいるお目付役には気付かないフリで、香里の向かいに腰を下ろした。
「これ、話していた本」
「ありがとう」
わざとらしいくらい明るい声で言葉を交わし、本の受け渡しをする。
そしてすぐに小声で切り出す。
「香里の依頼、受けるよ」
「紗奈っ」
香里が表情を輝かせてお礼の言葉を口にする前に、紗奈は「ただ、条件が一つあるの」と、会話を遮って続ける。
「その代わり、お礼は受け取らない」
その言葉に香里が目を丸くするけど、それが紗奈の出した結論だ。
もちろん今の家庭状況を考えれば、バイト料を受け取った方がいいのはわかっている。だけど、友情をお金に換えるようなことはしたくない。
「それを私からのふたりへの結婚祝いにさせて」
そう話す紗奈に、香里は瞳を潤ませつつ「駄目だよ」と、首を横に振る。
「もし私の親に入れ替わりのことを責められたら、その時は、詳しい事情を知らずにバイトとして引き受けただけって言い訳してほしいの。そのためにも、お金を受け取った証拠を残しておくべきだから」
香里はそう主張する。
彼女の父親の気性の激しさを考えると、確かにそういった予防線は張っておくべきかもしれない。
紗奈が黙ると、香里はそのまま自分の立てた作戦を説明していく。
そして結局は、彼女の主張に押し切られて、アルバイトとしてこの話を受けることになった。
土曜日。
前日に香里と同じ色に髪を染めて眼鏡をコンタクトに変えた紗奈は、エステが入っているビルで香里と落ち合った。
そこで彼女のスマホを受け取ると、香里の代わりにエステやプロのメイクを受け、タクシーで見合い会場であるホテルへと向かう。
父親がGPS機能で行動を監視しているスマホは、後で落とし物としてホテルのフロントに預けることになっている。
(プロのメイクってすごい)
ホテルに到着した紗奈は、黒い大理石の柱に映る自分の姿を見てしみじみと息を漏らした。
最初に計画を聞いた時にはすぐにバレると思ったのだけど、香里が懇意にしている美容師に『香里ソックリに見えるようメイクしてください』とお願いしたところ、本当にそのように仕上げてくれた。
遠目なら、紗奈自身、自分が香里に見えるくらいだ。
ちなみに美容師には、友達にドッキリを仕掛けると、ソックリメイクの理由を説明してある。
「これなら、少しの間くらい大丈夫かも」
自分を鼓舞して、待ち合わせ場所であるレストランに向かう。
その前に……と、フロントに立ち寄って、スタッフに声をかけた。
「すみません、落とし物です」
打ち合わせどおり香里のスマホを落とし物として預けようと、フロントスタッフに声をかけた時、「あれ?」と、どこか聞き覚えのある男性の声が聞こえた。
自分に向けられた声のような気がして、顔を上げて周囲を見渡す。
だけど見知った顔は見当たらない。ちょうど長身なスーツ姿の男性三人が、通り過ぎていく後ろ姿が見えるだけだ。
(私の知り合いが、こんな場所にいるわけないか)
さっきのは空耳だったのだろう。
紗奈は素早く思考を切り替えて、対応してくれたスタッフに香里のスマホを預けるとレストランに向かった。
そして香里として見合い相手と食事を始めてすぐに、紗奈は香里の判断が正しかったと理解していた。
「……それでその受付が、俺に順番待ちをしろって言うんだぜ。この俺に庶民と同じことしろって、なに考えているんだよって感じだよな」
相手の反応を気にすることなく、自分のペースで食事をしてワインを飲む彼の話しに、紗奈は内心眉根を寄せる。
少し話しただけで、相手の男性が特権意識の強い、他者を見下して話す人だということが伝わってきた。
しかもなかなかのオレ様気質だし、時々こちらに向けてくるねっとりと肌にまとわりつくような眼差しも不快だ。
ただ彼が自分の話しをするのに夢中で、紗奈に質問を投げるようなことがないのはありがたい。おかげで、見合い相手が偽物だとは疑ってもいないようだ。
(こんな男、香里に相応しいわけがない。大介さんと大違い)
相手の話に合わせて曖昧に頷く紗奈は、自分の判断が正しかったのだと改めて思い知った。
香里の身代わりでなければ、一秒でも一緒にいたくないタイプだ。
そんな思いから、つい腕時計ばかり見てしまう。
気のない返事を繰り返し時間ばかり気にする紗奈の態度が面白くなかったのか、食事の途中にもかかわらず相手が「そろそろ行くか?」と、声をかけてきた。
ちょうど香里と大介の飛行機のフライト時間を過ぎたところなので、相手がそれでかまわないのなら、紗奈としては望ましい状況だ。
「じゃあ……」
帰りましょう。紗奈がそう言うよりも早く相手が言う。
「上に部屋を取ってあるから」
「はい?」
彼がなにを言っているのかわからない。
目をパチクリさせる紗奈を見て、相手が下品な笑みを浮かべて言う。
「結婚するなら、体の相性を確かめておく必要があるだろ」
その言葉に鳥肌が立つ。
「なに考えているんですかっ!」
本人の意思に関係なく縁談を勧めるだけでもありえないのに、ろくに相手を知ろうともせずに部屋に連れ込もうとするなんてありえない。
香里のフリをするのも忘れて、紗奈はキツい口調で言う。
すると相手の表情が険しくなる。
「はぁ? お前、誰を相手にものを言っているかわかっているのか? 俺に結婚してほしいなら、それ相応の態度っていうものがあるだろ」
腹の底から怒りが湧き上がらせているような声だ。こちらを睨む彼が最後に「女のくせに」と吐き捨てる。
それが彼の価値観なのだ。
「失礼します」
香里からは、いざとなったら逃げ出していいと言われている。
なるべく穏便に済ませたかったのだけど、これ以上は我慢できない。
紗奈が立ち上がろうとした時、相手が拳でテーブルを叩いた。
その勢いで揺れた食器やカトラリーがぶつかり合って、硬質な音を立てる。
周囲の目がこちらに向けられているのが、見なくてもわかる。
「俺に恥をかかせておいて、このまま無事に帰れると思うなよ」
脅しのような言葉と共に鋭い眼差しを向けられて、背筋に冷たいものが走る。
今すぐこの場を立ち去る気でいたけど、ひとりになった所で、この男になにかされるのではないかと怖くなる。
紗奈のそんな怯えを見抜いたのか、男がいやらしく笑う。
まるで紗奈の考えていることが、正解だと言っているような顔だ。
「……ッ」
誰かに助けを求めたいのだけど、どう助けを求めればいいのかがわからない。
明確な敵意を向けてきてはいるけど、まだなにもされていないのだから。
でもなにかされた後では遅いのだ。
紗奈が身動きできずに息を詰めていると、不意に肩に人の手が触れた。
その温もりを感じるのと同時に、どこか覚えのあるエキゾチックな香りが鼻孔をくすぐる。
「どうなるか、教えてもらいたいものだなな」
どこでかいだ香りか考えていると、背後から艶のある声が響く。
背後から感じる特徴的な香りと艶のある声に、記憶に引っかかるものがある。だけど紗奈の思考を妨げるように、見合い相手の男性が声を荒らげた。
「あ? お前、誰だよ? 庶民のくせに口を挟んでくるんじゃねぇ」
男性は、眉を片方釣り上げて声の主を睨む。その態度に、背後の彼が「庶民?」と、笑う気配を感じた。
「おいっ! お前ら、俺を誰だと思っているんだ。俺はなぁ……」
高圧的に話そうとする見合い相手の男性の言葉を制するように、背後の男性は彼の父親が所属する政党や役職を口にする。
「ああ、そうだが……」
さらさらと全てを言い当てられてたじろぎつつ、視線でお前は誰だと問いかける。そんな男性に、背後の男が言う。
「古賀建設の古賀悠吾だと言ったら?」
(やっぱりっ!)
背後から聞こえてきた声に、紗奈は恐る恐る顔を上げて背後の男性の顔を確認した。
「こ……ぶっ……ッ」
古賀部長。という言葉をどうにか飲み込み、口をパクパクさせる。
(どうして部長がここに)
そう驚く反面、漂う香りや声に覚えがあったことに納得がいく。
それにフロントで聞き覚えのある声を耳にした気がしたのも、今になって思えば悠吾のものだったように思われる。
混乱と緊張ですぐには声が出てこない。
それは見合い相手の男性も同じだったのか、顔色を失い口をパクパクさせている。
「あ……あの……その……」
見合い相手の男性は、うわごとのように要領を得ない声を漏らしている。
そんな相手に、悠吾はオフィスで見掛ける『冷徹御曹司』そのままの冷ややかな表情で言う。
「次の選挙以降も父君に政治家でいてほしいのなら、非礼を彼女に詫びて、さっさと立ち去れ」
有無を言わさない気迫のこもった声に、相手は勢いよく立ち上がりバリを頭を下げた。
「古賀家のご子息とは知らず、大変失礼なことを……」
「私のことはどうでもいい。彼女に謝罪しろと言っているんだ」
指摘を受けて男性は、深く頭を下げて言う。
「飯尾香里さんにも、軽率な振る舞いを取り、申し訳ありませんでした」
「飯尾?」
背後の悠吾が、ポツリと呟く。
でも紗奈はそれを気にする暇もなく、見合い相手の男性が椅子に足を引っかけながら慌ただしい勢いで逃げていく。
「大丈夫か?」
呆気にとられて呆然とする紗奈の顔のまでて、悠吾が手をヒラヒラさせる。
プライベートな時間のためか、紗奈を気遣う彼の態度には、普段のような尖った雰囲気はない。先ほどの男性に向けていた剣のある雰囲気も消え去っている。
「あ、ありがとうございます」
頭がうまく回らないまま、紗奈はお礼を言う。
よくわからないが、さっきの鼻持ちならない政治家の息子より、悠吾の方が権力があるということなのだろう。
古賀建設の社員で、自社が大手ゼネコンの一つに数えられていることは理解している。だけどこれまで紗奈が思っていた以上に、古賀建設の社会的影響力は大きいらしい。
(それなら、こんな形になっちゃたけど、香里の家に迷惑をかけることはないよね)
そっと胸をなで下ろしていると、悠吾が紗奈の鼻先に手を差し出す。
「事情はわからんが、とりあえず家まで送ろう。君は……」
悠吾の言葉に、紗奈はハッと息を呑んで立ち上がる。
自分の正体がバレる前に、このまま立ち去った方がいい。
「助けていただきありがとうございます。名乗るほどの者ではありませんので、これで失礼いたします」
これは助けてもらった側の言葉ではないと、冷静な部分で自分にツッコミを入れつつ、紗奈は一礼をすると大急ぎでその場を離れた。