この恋は演技
3・契約恋愛の始まり
「松浦ちゃん、なんか今日、髪がツヤツヤだね」
月曜日の古賀建設のオフィスで、先輩社員に頼まれた資料を会議室に運んでいた紗奈は、隣を歩くみゆきの言葉に肩を跳ねさせた。
「そ、そうかな?」
声がうわずらないよう注意しながら答える。
納得がいかないのか両手で資料を書かえるみゆきは、紗奈の前に回り込み、ぐいっと顔を寄せてきた。
今日の紗奈は、いつも通りに眼鏡をかけて、黒髪をお団子ヘアにまとめている。
「なんか、肌もすべすべしてない?」
みゆきの言葉に、背筋に嫌な汗が伝う。
「シャ、シャンプー変えたからかな? ついでに化粧水も」
作り笑いで紗奈が声を絞り出すと、みゆきはなるほどと頷く。
「じゃあ、後でURL送って。なんかすごくいい感じだよ」
そのままクルリと体の向きを変えて歩いていくので、紗奈は内心胸をなで下ろしてそれに続く。
みゆきの背中を追いかけながら、視界に入る自分の髪が黒に戻っているのを確かめる。
一昨日の土曜日、香里のフリをして見合いをした際に少々危ない目に遭い、偶然居合わせた悠吾に助けられた。
その時は動揺のあまりろくにお礼も言わずに逃げ帰ったのだけど、出迎えた弟が、紗奈を香里と勘違いして驚く姿を見て冷静さを取り戻した。
見合い相手の失礼な男は紗奈のことを『飯尾香里』と呼んでいたし、紗奈のことを自分の部下だとは気付いていないはず。
だから香里に似せるために染めた髪を黒に戻し、眼鏡をかけていつものどおりのお団子ヘアにしていれば気付かれることはないだろう。
そう思い直して、休みの間に髪を染め直して今に至る。
案の定、朝顔を合わせた悠吾の様子はいつもと変わりなく、声を掛けられることはなかった。
香里からも大介のアカウントで、日曜日の午後には無事に目的地に着いたとの連絡があった。彼女の実家は少々騒がしくなっているらしいけど、悠吾が見合い相手を脅してくれたおかげで、紗奈が入れ替わってお見合いをしたことについて追求される気配はない。
一度は断った香里からバイト代を受けとったことで、弟の入学金の目処もたった。
まだその他の費用をどう工面するかは悩み中だけど、一つの山は越えることができたといえる。
(そう考えると、あの時、部長にもっとちゃんとお礼を言っておけばよかった)
とはいえ、今更香里に化け直してお礼を言うわけにもいかないので、そのことは深く考えないでおく。
先を歩くみゆきが目指していた会議室に到着し、ドアをノックして声をかける。
返事があったのだろう。みゆきは「失礼します」と、中へと入っていく。
(せめてものお礼に、今まで以上に仕事を頑張ろう)
気持ちを引き締めて、紗奈も会議室に入る。そして中を見て、思わず息を飲んだ。
悠吾が一人で作業していたからだ。
なにかの調整をしていたのだろ。演台の前に立つ彼は、会議室正面のスクリーンに移る画像に目を向けながらパソコンを操作している。
「ご苦労様、そこに置いておいてくれ」
悠吾は、視線で資料を置く場所を示す。そのついでにこちらに視線を向けて、初めて紗奈とみゆきの顔をまともに見た。
なにかを考えるように数回瞬きをした悠吾は、紗奈とみゆきを見比べて言う。
「えっと……小島君と、松浦君でよかったかな?」
「はい」
彼のその質問に、紗奈とみゆきが声を揃えて頷く。
これまで挨拶程度に言葉を交わしたことしかないので、ついでに名前の確認をしたいようだ。
(私の名前もうろ覚えなんだから、土曜日のことは絶対にバレないよね)
紗奈は悠吾の目を見つめたまま、内心でガッツポーズをする。
「松浦君、悪いけがやっぱり、資料をそれぞれの席に並べておいてもらっていいだろうか?」
目が合っていたからだろうか。悠吾が紗奈を指名して仕事を頼む。
「それなら私も手伝うよ」
みゆきがそう言って一緒に作業を始めようとするけど、悠吾がそれを止める。
「小島君には、他の仕事を頼んでもいいかな?」
そ言って悠吾は、手元にあった紙になにかを書き付けてみゆきに手渡した。そしてそれを他部署の部長に届けるよう依頼する。
みゆきが会議室を出て行く。
紗奈がそのまま書類を並べていると、いつの間にか悠吾が紗奈の隣に立って、こちらの顔をのぞき込んでいた。
「えっ!」
紗奈は驚きの声を漏らして悠吾を見た。
周囲がよく彼のことをイケメン御曹司と騒いるけど、間近で見る彼は、確かにかなり造形の整った顔立ちをしている。そしてこちらに向けられる眼差しには、人の心を引きつける圧倒的な存在感がある。
そんな人に間近で顔を覗かれると、心の内側まで見透かされているようで居心地が悪い。
「あの……部長、なにかご用でしょうか?」
紗奈の問い掛けに、悠吾はニッコリ笑う。
「髪の色はもう戻したのか? 飯尾香里君」
「えっ!」
驚きのあまり抱えていた書類が手から滑り落ち、静かな会議室にパサリと乾いた音が響く。
「その反応、私の勘違いではなかったようだな」
悠吾が言う。
表情としては笑顔なのだけど、瞳には獲物を狙う獣のよな鋭さがある。
彼が獲物を狙う獣なら、間違いなく自分は捕食される側だ。彼の目力に、本能的な恐怖を感じる。
「な、なんのことでしょうか?」
紗奈は落とした書類をそのままに、距離を取るべく後ずさった。悠吾はすかさず紗奈がさがった分にじり寄り、間合いを詰める。
「先週、私は飯尾香里という女性を助けたのだが、それがどう見てもうちの社員だったんだが……」
悠吾が『それは君だろ?』と視線で問いかける。
ここは認めてお礼を言うべきなのかもしれないけど、本能が、認めると厄介なことになると警鐘を鳴らしている。
「他人のそら似じゃないですか? 私、土曜日はずっと家にいましたよ」
全力でとぼけようとする紗奈に、悠吾がニッと勝者の笑みを浮かべる。
「私は『先週』と言っただけで、曜日を言及した覚えはないが?」
その指摘に、紗奈はしまったと口を押さえる。
だがそれこそ、彼に助けられたのは自分だと認めているようなものだ。
「えっと……助けていただき、ありがとうございます」
バレてしまったのならと、後ずさりながらお礼を言う。悠吾はまたその分、距離を詰めて微笑む。
「どういたしまして。で、あそこでなにをしていた? 君は何故偽名を使って、他人に成り済ましていた?」
「あれは……バイトのようなもので、友人のフリをしていたんです。あの、け、決して犯罪ではないです」
後退を続けながら、紗奈は言い訳をする。紗奈の言葉に、悠吾の眉がピクリと跳ねた。
「バイト? 髪まで染めて、他人になりすますのが?」
背中が壁に触れて、心身ともに追い詰められた気分になりながら、紗奈はコクコクと頷いた。
「はい。演劇部時代の友人に頼まれて、その子のフリをしていたんです」
「なるほど。失礼だが、松浦君はそんなバイトを引き受けるほど経済的問題を抱えているのか?」
壁に背中を預ける紗奈の顔を、悠吾が無遠慮な距離でのぞき込んでくる。
「ひ、否定はしません」
香里の頼みを引き受けたのは、お金のためじゃない。ただそれとは別問題として、紗奈は経済的な問題を抱えている。
圧倒的な存在感の彼に威圧され、紗奈は膝を曲げて身を低くして認める。
「あの日は友人と食事をしていたのだが、いつもと違う装いの君がいて驚いたよ。それでつい気になって意識していたら、男性に脅されているようだったので助けにはいったのだが、相手が君のことを違う名前で呼んでいたので驚いたよ」
「それは……脅かせてすみませんでした」
紗奈が詫びると、悠吾は問題ないと首を横に振る。
「なかなか面白いものを見せてもらったよ」
「お楽しみいただけたのなら、なによりです」
声を引きつらせながら紗奈が言うと、悠吾はスッと目を細めて意味深な表情を見せる。
「君が私に助けられたと思っているのなら、そのお礼に、一つ頼みごとをしてもいいかな?」
「はい。どうぞ」
本能的に嫌な予感がしなくもないのだけど、とりあえず彼が怒っている様子ではないことにホッとする。
それに紗奈としても、あの時助けたのが自分だとバレた以上、なにかお礼はしたい。そう思い大きく頷くと、悠吾がとんでもない言葉を投げかけてきた。
「礼として俺の恋人役を務めてくれ。バイト代は弾むぞ」
「はい?」
悲鳴に近い声を上げ、紗奈は首を大きく左右に振る。
「無理です! 遠慮します!」
そのままの勢いで即答して、紗奈は体を右にスライドさせようとした。
でもすばやく悠吾が左手を壁につき、その動きを妨げる。そして焦る紗奈の耳元に顔を寄せて囁く。
「遠慮するな。……ところで松浦君、ウチが副業禁止なのは承知しているか?」
「あっ!」
その言葉に、大きく息を飲む。
おぼろげだが、新人研修の際にそんな話を聞いた気がする。
思わず紗奈が左に体をスライドさせて逃げようとすると、すかさず悠吾が右手を壁につきそれを阻止する。
「私の依頼を引き受けてくれるのなら、バイトの件は黙認しよう」
そう言ってニッコリ微笑む彼の表情は、悪魔の微笑み以外のなにものでもない。
紗奈は左右に首を動かし、自分の置かれている状況を確認する。
(これが世に言う壁ドンというやつですか)
彼のスーツの袖から覗く腕時計を眺め、なかば現実逃避のようなことを考える。
そんなことより、今はどうにかしてこの場を切り抜けなくちゃいけない。紗奈は鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、思考を巡らせる。
弟の大学進学を控えた今、紗奈に失業している余裕はない。だからどうにかして、自分を追い詰めようとする彼を言いくるめる必要がある。
そのために相手を観察するのだけど、造形の整った彼の顔立ちや、圧倒的な存在感に気負されるだけで思考がうまく働かない。
「あの……古賀部長、それは脅迫というものでは?」
どうにか絞り出せたのが、その言葉だった。
紗奈の意見に、悠吾は人の悪い笑みを浮かべるだけだ。
「これは交渉だ。私に脅されていると思うのであれば、人事にでも訴えればいい。ただその場合、君は自分が会社の規則違反をしてアルバイトをしていたことを打ち明ける必要が出てくるがな」
「うっ」
紗奈が言葉をつまらせると、悠吾は勝手に話しを進める。
「さてここで話を本題に戻そう。訳あって私は恋人役を演じてくれる女性を探している。そのための出費は惜しまないつもりだ。対する君は、他人になりすますのがうまい上に、金銭に困っている」
「べつに、好き好んで他人になりすましていたわけじゃないです。あれには、深い事情が……。それに弊社では副業が認められておりませんから」
それは、さっき悠吾が話したことではないか。
紗奈がしどろもどろとした口調で訴えても、彼が聞く耳を持つ気配はない。
「安心しろ。バレても私が責任を持って握りつぶしてやる」
口元には笑みを浮かべたまま、無言の迫力で紗奈に『Yes以外の返事は聞く気がない』と、語りかけている。
これはもう立派なパワハラではないかと思うのだけど、人事部に訴えたところでまともに取り合ってはくれないだろう。なにせ彼は、この古賀建設の創業経営者一族の御曹司なのだから。
そしてそんな彼が『握りつぶす』と宣言している以上、紗奈がこのバイトを引き受けても、それを理由に罰せられる心配はない。
古賀建設から貰う給料だけでは解決しようのない金銭的問題を抱えている紗奈にとって、これは渡りに船の話とも言える。
しかも相手は、直属の上司な上に、自社の御曹司なのだ。敵に回して得をすることはなにもない。
(つまり、この先も長く古賀建設で働きたいのなら、間違っても敵に回しちゃいけない相手……)
「私なんかに頼まなくても、古賀部長の恋人役を務めたい人は大勢いらっしゃると思いますよ」
一応粘ってみるけど、相手は心底嫌そうに顔を顰めるだけだ。
「喜んで引き受けるような人間に頼んだら、その後が面倒だろう」
「……ごもっともです」
喜んでお引き受けした後は、是非とも更なるお近付きになろうとすることだろう。
その面倒を回避するためにも、お金で紗奈を雇った方が便利と思っているようだ。
しばらく逡巡した紗奈は、ため息を吐いて覚悟を決める。
「わかりました。部長のご依頼を受けさせていただきます」
「よろしく頼む」
その言葉に、悠吾は男の色気を感じさせる艶やかな表情を浮かべる。
十日ほど前、香里に入れ替わりの話しを持ちかけられた時には、こんなことになるとは考えてもいなかった。
「詳しいことは、後で話す。仕事帰りに美味いものでも喰おう」
半泣きになる紗奈にかまうことなく、待ち合わせ場所などを決めると、悠吾は演台に引き返していく。
そのまま彼が何事もなかったように作業を再開させるので、紗奈も落とした書類を拾い上げ、各席に配って回る。
途中、チラリと悠吾を見たけど、彼は真剣な表情でパソコンを眺めるばかりで、もうこちらに視線を向けることもなかった。
◇◇◇
その日の夜。
馴染みの料亭の奥座敷で、悠吾はあぐらを組んだ膝を利用して頬杖をつく。行儀の悪い態度だが、接待ではなく、部下である紗奈の話を聞いているだけなので気にしない。
「ようするに、駆け落ちする友人に頼まれて身代わりを引き受けたと」
食事をしつつ聞き出した話を要約する。
向かいで肩を落として小さくなっている紗奈がコクコク頷く。
誰かに盗み聞きされることなくゆっくり話すために、食事の場所に政治家御用達の老舗懇意料亭を選んだ。
秘密保持はもちろん、料理にもかなり定評がある店なのだが、紗奈は料理に毒でも入っていると思っているのか難しい顔をして食事にはろくに手をつけようとしない。
(なんにせよ、なかなかにお人好しな性格をしているらしい)
悠吾は片手を伸ばして机のとっくりに手を伸ばす。
自分が酌をするべきと思ったのか紗奈が腰を浮かせるので、その必要はないと手の動きで断り手酌で酒を注ぐ。
大吟醸の日本酒を味わいながら、先週の土曜日のことを想い出す。
学生時代の友人に誘われて食事に出掛けたのだが、そこで育ちは良さそうだが品位の欠片もない男と食事をする紗奈を見掛けたのだ。
その前にフロントに落とし物を届ける声を聞いて、深窓のご令嬢といった感じの佇まいの女性が部下の松浦紗奈であることには気付いていた。
普段太いフレームの眼鏡に、お団子ヘアがトレードマークの彼女とはかけ離れた姿に、声がよく似た他人かとも思ったがレストランで再度見掛けて、本人だと納得した。
会社での彼女は、可愛らしい顔立ちをしているのに、お洒落に興味がなさそうなのでもったいないと思っていただけに、可愛く着飾った姿から目が離せなくなっていた。
そうしたらただならぬ雰囲気になって、彼女が相手の男に脅されているようだったので助けに入った次第だ。
間近で見れば、相手の男はあまり評判がよくない国会議員のご子息だった。パーティーの席での振る舞いに目に余るものを感じていたので、いい機会なので軽くお灸をすえさせれもらった。
そしてその男が立ち去った後、念のため紗奈を家まで送ろうと考え声をかけたのだが、脱兎のごとく逃げ去られてしまった。
(名乗るほど者もなにも、名前は最初から知っているのに……)
いくらいつもと違う装いをしているからと言って、自分の部下がわからないわけがない。
それなのに、本人は本気で気付かれていないと思っていたようだ。
週が明けた今日、髪の色をいつもの黒に戻していつものお団子頭の地味眼鏡キャラで、何食わぬ顔で仕事をしていた。
それで、ふたりっきりになったタイミングで軽い揺さぶりをかけたら、あっさりボロを出して今に繋がる。
「それで、その友人は無事に出国できたのか?」
なんとはなしにそう問いかけると、しおれていた紗奈の表情が突然明るくなる。
「はい。無事に出国して、もう目的地に到着したそうです」
少し落ち着いたら一度日本に帰ってくるので、そのときに会う約束をしているのだと、紗奈がうれしそうに話す。
どうやらその友人のことが、本当に好きなようだ。
その結果、自分は男に連れ込まれかけたというのに。なんとも人がいい。
しかも経済的に困窮している理由も、彼女にはなんの非もない話しだった。
早くに父親を亡くした彼女は、母親が家の金を使い込んだため、急ぎ弟の大学進学にかかる費用を工面する必要があるのだという。
古賀建設の跡取りに生まれ、良くも悪くも周囲から特別扱いされることに慣れている悠吾は、下手に情をかけて付け入られる隙を作らないよう、他人とは距離を取ることにしてきた。
そんな悠吾でさえ、紗奈の話しには少々気の毒に思えてくる。それは、彼女の勤勉な働きぶりを普段から高く評価したというのもあるのだろう。
「まあ、それならちょうどいいな」
手にしていたお猪口を机に戻し、悠吾は本題に入る。
「俺にも少々面倒な縁談が持ち上がっているのだが」
「それ、家族ぐるみでお付き合いされているゼネコンのご令嬢と婚約さるって話ですよね?」
友人カップルのことを話したことで気持ちがほぐれたのか、さっきより明るい口調で紗菜が言う。
その言葉に悠吾は顔をしかめた。
こんな末端の社員にまで、その話が広がっているとは、考えてもいなかった。
「まだ見合い話が進んでいるだけだ。それに相手の家と家族ぐるみの付き合いをした覚えはない。社長である祖父がひとりで乗り気になって、なにかと相手を気に掛けてはいるが、それだけだ」
若干口調がキツくなるのは、悠吾を古賀建設に呼び戻した祖父に、社長就任の布石としてこれを機に良家の娘を嫁に取れと迫られているからだ。
常々悠吾は祖父に、誰とも結婚する気はないと言い続けている。それなのに祖父は、古賀建設の更なる発展のために、悠吾に自社の利益に繋がる女性と結婚しろと迫ってくる。
しかも祖父がその相手に選んだのは、家柄こそ釣り合うが、プライドが高くワガママで傲慢な女性ときている。
「俺は独身主義だ。会社の利益を上げるというのなら、仕事で結果を出せばいい。政略結婚の道具にまでなるな気はない」
悠吾は不機嫌に息を吐く。
「それで、私に恋人役をしろと……?」
紗奈は自分の顔を指さして聞く。
「そういうことだ。相手はかなり気位が高い性格をしている。これ以上縁談が進む前に、俺には意中の女性がいてその人との結婚するつもりだと告げれば、諦めてくれるのではないかと思ってな」
これまで祖父には、自分には結婚の意思がないことは何度も伝えてきたが、聞く耳を持つ気配がない。
相手が交渉に応じる気がないのであれば、こちらも強硬手段に出るまでだ。
「恋人役を引き受けてもらえるなら、バイト料は弾むぞ」
そう言って悠吾は、彼女の弟が私学に進んだ際の前期授業料に当たる金額を提示する。
「えっそんなには受け取れません」
金額を聞いた紗奈が咄嗟に辞退を申し出る。
どうしても当座のまとまった資金が必要なはずなのに、そんなに善良で大丈夫なのかと心配になる。
「俺にはたいしたことのない金額だ。それで見合いを潰せるなら安い買い物だし、君の弟は進学できるならWin-Winな話だろ」
「でも……」
「それとも、副業がバレて失職するか? 無職になるのと、俺の金を受け取るのとどっちがいい?」
「うっ」
まだ躊躇っている紗奈を軽く脅してみたが、これは冗談だ。
確かに古賀建設の就業規則には副業を禁じる文言があるが、その記述には『弊社の品位を貶めるもの、同業他社での就業、弊社の機密情報漏洩に繋がるような副業、これを禁ずる』とある。
つまり、紗奈のしたことを咎めるような内容ではない。だが本人が気付いていないようなので黙っておく。
(悪いが俺は、松浦君のように善良で慎み深い性格をしていないんでな)
計算高く言葉で誘導して、相手を動かす方が性に合っている。
それに今回の場合、自分の金を受け取らないと、どう考えても彼女が困ることになるので意見を曲げる気はない。
「一度は引き受けると言ったのだ。今さら断るというのなら、それ相応の報復を考えなくもないが?」
面白半分に脅してみると、紗奈の顔が青ざめる。
古賀建設創業家の一員である自分が、彼女の目には鬼か悪魔のように映っているのではないかと少々気になるところだ。
「難しく考えずに、今の自分がなにを優先すべきかを考えてみろ。君が一番に大事にしたいのは、弟の将来なんじゃないのか?」
悠吾の言葉に、紗奈はハッとする。そして少し考えて納得したのか、こちらに頭を下げた。
「わかりました。その条件で、部長の恋人役を務めさせていただきます」
「これからよろしく紗奈」
眉尻を下げて、申し訳なさそうにする表情が面白くて、冗談半分でそう言ってみると、紗奈の顔が一気に赤くなる。
「さ……紗奈って!」
「契約を交わして恋愛関係を始めるのなら、当然の呼び方だろ。そんなわけで週末は、俺とデートだから空けておけよ」
赤面して口をパクパクさせる彼女の表情を愉快に思いながら、悠吾は話しを進めていく。
月曜日の古賀建設のオフィスで、先輩社員に頼まれた資料を会議室に運んでいた紗奈は、隣を歩くみゆきの言葉に肩を跳ねさせた。
「そ、そうかな?」
声がうわずらないよう注意しながら答える。
納得がいかないのか両手で資料を書かえるみゆきは、紗奈の前に回り込み、ぐいっと顔を寄せてきた。
今日の紗奈は、いつも通りに眼鏡をかけて、黒髪をお団子ヘアにまとめている。
「なんか、肌もすべすべしてない?」
みゆきの言葉に、背筋に嫌な汗が伝う。
「シャ、シャンプー変えたからかな? ついでに化粧水も」
作り笑いで紗奈が声を絞り出すと、みゆきはなるほどと頷く。
「じゃあ、後でURL送って。なんかすごくいい感じだよ」
そのままクルリと体の向きを変えて歩いていくので、紗奈は内心胸をなで下ろしてそれに続く。
みゆきの背中を追いかけながら、視界に入る自分の髪が黒に戻っているのを確かめる。
一昨日の土曜日、香里のフリをして見合いをした際に少々危ない目に遭い、偶然居合わせた悠吾に助けられた。
その時は動揺のあまりろくにお礼も言わずに逃げ帰ったのだけど、出迎えた弟が、紗奈を香里と勘違いして驚く姿を見て冷静さを取り戻した。
見合い相手の失礼な男は紗奈のことを『飯尾香里』と呼んでいたし、紗奈のことを自分の部下だとは気付いていないはず。
だから香里に似せるために染めた髪を黒に戻し、眼鏡をかけていつものどおりのお団子ヘアにしていれば気付かれることはないだろう。
そう思い直して、休みの間に髪を染め直して今に至る。
案の定、朝顔を合わせた悠吾の様子はいつもと変わりなく、声を掛けられることはなかった。
香里からも大介のアカウントで、日曜日の午後には無事に目的地に着いたとの連絡があった。彼女の実家は少々騒がしくなっているらしいけど、悠吾が見合い相手を脅してくれたおかげで、紗奈が入れ替わってお見合いをしたことについて追求される気配はない。
一度は断った香里からバイト代を受けとったことで、弟の入学金の目処もたった。
まだその他の費用をどう工面するかは悩み中だけど、一つの山は越えることができたといえる。
(そう考えると、あの時、部長にもっとちゃんとお礼を言っておけばよかった)
とはいえ、今更香里に化け直してお礼を言うわけにもいかないので、そのことは深く考えないでおく。
先を歩くみゆきが目指していた会議室に到着し、ドアをノックして声をかける。
返事があったのだろう。みゆきは「失礼します」と、中へと入っていく。
(せめてものお礼に、今まで以上に仕事を頑張ろう)
気持ちを引き締めて、紗奈も会議室に入る。そして中を見て、思わず息を飲んだ。
悠吾が一人で作業していたからだ。
なにかの調整をしていたのだろ。演台の前に立つ彼は、会議室正面のスクリーンに移る画像に目を向けながらパソコンを操作している。
「ご苦労様、そこに置いておいてくれ」
悠吾は、視線で資料を置く場所を示す。そのついでにこちらに視線を向けて、初めて紗奈とみゆきの顔をまともに見た。
なにかを考えるように数回瞬きをした悠吾は、紗奈とみゆきを見比べて言う。
「えっと……小島君と、松浦君でよかったかな?」
「はい」
彼のその質問に、紗奈とみゆきが声を揃えて頷く。
これまで挨拶程度に言葉を交わしたことしかないので、ついでに名前の確認をしたいようだ。
(私の名前もうろ覚えなんだから、土曜日のことは絶対にバレないよね)
紗奈は悠吾の目を見つめたまま、内心でガッツポーズをする。
「松浦君、悪いけがやっぱり、資料をそれぞれの席に並べておいてもらっていいだろうか?」
目が合っていたからだろうか。悠吾が紗奈を指名して仕事を頼む。
「それなら私も手伝うよ」
みゆきがそう言って一緒に作業を始めようとするけど、悠吾がそれを止める。
「小島君には、他の仕事を頼んでもいいかな?」
そ言って悠吾は、手元にあった紙になにかを書き付けてみゆきに手渡した。そしてそれを他部署の部長に届けるよう依頼する。
みゆきが会議室を出て行く。
紗奈がそのまま書類を並べていると、いつの間にか悠吾が紗奈の隣に立って、こちらの顔をのぞき込んでいた。
「えっ!」
紗奈は驚きの声を漏らして悠吾を見た。
周囲がよく彼のことをイケメン御曹司と騒いるけど、間近で見る彼は、確かにかなり造形の整った顔立ちをしている。そしてこちらに向けられる眼差しには、人の心を引きつける圧倒的な存在感がある。
そんな人に間近で顔を覗かれると、心の内側まで見透かされているようで居心地が悪い。
「あの……部長、なにかご用でしょうか?」
紗奈の問い掛けに、悠吾はニッコリ笑う。
「髪の色はもう戻したのか? 飯尾香里君」
「えっ!」
驚きのあまり抱えていた書類が手から滑り落ち、静かな会議室にパサリと乾いた音が響く。
「その反応、私の勘違いではなかったようだな」
悠吾が言う。
表情としては笑顔なのだけど、瞳には獲物を狙う獣のよな鋭さがある。
彼が獲物を狙う獣なら、間違いなく自分は捕食される側だ。彼の目力に、本能的な恐怖を感じる。
「な、なんのことでしょうか?」
紗奈は落とした書類をそのままに、距離を取るべく後ずさった。悠吾はすかさず紗奈がさがった分にじり寄り、間合いを詰める。
「先週、私は飯尾香里という女性を助けたのだが、それがどう見てもうちの社員だったんだが……」
悠吾が『それは君だろ?』と視線で問いかける。
ここは認めてお礼を言うべきなのかもしれないけど、本能が、認めると厄介なことになると警鐘を鳴らしている。
「他人のそら似じゃないですか? 私、土曜日はずっと家にいましたよ」
全力でとぼけようとする紗奈に、悠吾がニッと勝者の笑みを浮かべる。
「私は『先週』と言っただけで、曜日を言及した覚えはないが?」
その指摘に、紗奈はしまったと口を押さえる。
だがそれこそ、彼に助けられたのは自分だと認めているようなものだ。
「えっと……助けていただき、ありがとうございます」
バレてしまったのならと、後ずさりながらお礼を言う。悠吾はまたその分、距離を詰めて微笑む。
「どういたしまして。で、あそこでなにをしていた? 君は何故偽名を使って、他人に成り済ましていた?」
「あれは……バイトのようなもので、友人のフリをしていたんです。あの、け、決して犯罪ではないです」
後退を続けながら、紗奈は言い訳をする。紗奈の言葉に、悠吾の眉がピクリと跳ねた。
「バイト? 髪まで染めて、他人になりすますのが?」
背中が壁に触れて、心身ともに追い詰められた気分になりながら、紗奈はコクコクと頷いた。
「はい。演劇部時代の友人に頼まれて、その子のフリをしていたんです」
「なるほど。失礼だが、松浦君はそんなバイトを引き受けるほど経済的問題を抱えているのか?」
壁に背中を預ける紗奈の顔を、悠吾が無遠慮な距離でのぞき込んでくる。
「ひ、否定はしません」
香里の頼みを引き受けたのは、お金のためじゃない。ただそれとは別問題として、紗奈は経済的な問題を抱えている。
圧倒的な存在感の彼に威圧され、紗奈は膝を曲げて身を低くして認める。
「あの日は友人と食事をしていたのだが、いつもと違う装いの君がいて驚いたよ。それでつい気になって意識していたら、男性に脅されているようだったので助けにはいったのだが、相手が君のことを違う名前で呼んでいたので驚いたよ」
「それは……脅かせてすみませんでした」
紗奈が詫びると、悠吾は問題ないと首を横に振る。
「なかなか面白いものを見せてもらったよ」
「お楽しみいただけたのなら、なによりです」
声を引きつらせながら紗奈が言うと、悠吾はスッと目を細めて意味深な表情を見せる。
「君が私に助けられたと思っているのなら、そのお礼に、一つ頼みごとをしてもいいかな?」
「はい。どうぞ」
本能的に嫌な予感がしなくもないのだけど、とりあえず彼が怒っている様子ではないことにホッとする。
それに紗奈としても、あの時助けたのが自分だとバレた以上、なにかお礼はしたい。そう思い大きく頷くと、悠吾がとんでもない言葉を投げかけてきた。
「礼として俺の恋人役を務めてくれ。バイト代は弾むぞ」
「はい?」
悲鳴に近い声を上げ、紗奈は首を大きく左右に振る。
「無理です! 遠慮します!」
そのままの勢いで即答して、紗奈は体を右にスライドさせようとした。
でもすばやく悠吾が左手を壁につき、その動きを妨げる。そして焦る紗奈の耳元に顔を寄せて囁く。
「遠慮するな。……ところで松浦君、ウチが副業禁止なのは承知しているか?」
「あっ!」
その言葉に、大きく息を飲む。
おぼろげだが、新人研修の際にそんな話を聞いた気がする。
思わず紗奈が左に体をスライドさせて逃げようとすると、すかさず悠吾が右手を壁につきそれを阻止する。
「私の依頼を引き受けてくれるのなら、バイトの件は黙認しよう」
そう言ってニッコリ微笑む彼の表情は、悪魔の微笑み以外のなにものでもない。
紗奈は左右に首を動かし、自分の置かれている状況を確認する。
(これが世に言う壁ドンというやつですか)
彼のスーツの袖から覗く腕時計を眺め、なかば現実逃避のようなことを考える。
そんなことより、今はどうにかしてこの場を切り抜けなくちゃいけない。紗奈は鼻先までずり下がった眼鏡を押し上げ、思考を巡らせる。
弟の大学進学を控えた今、紗奈に失業している余裕はない。だからどうにかして、自分を追い詰めようとする彼を言いくるめる必要がある。
そのために相手を観察するのだけど、造形の整った彼の顔立ちや、圧倒的な存在感に気負されるだけで思考がうまく働かない。
「あの……古賀部長、それは脅迫というものでは?」
どうにか絞り出せたのが、その言葉だった。
紗奈の意見に、悠吾は人の悪い笑みを浮かべるだけだ。
「これは交渉だ。私に脅されていると思うのであれば、人事にでも訴えればいい。ただその場合、君は自分が会社の規則違反をしてアルバイトをしていたことを打ち明ける必要が出てくるがな」
「うっ」
紗奈が言葉をつまらせると、悠吾は勝手に話しを進める。
「さてここで話を本題に戻そう。訳あって私は恋人役を演じてくれる女性を探している。そのための出費は惜しまないつもりだ。対する君は、他人になりすますのがうまい上に、金銭に困っている」
「べつに、好き好んで他人になりすましていたわけじゃないです。あれには、深い事情が……。それに弊社では副業が認められておりませんから」
それは、さっき悠吾が話したことではないか。
紗奈がしどろもどろとした口調で訴えても、彼が聞く耳を持つ気配はない。
「安心しろ。バレても私が責任を持って握りつぶしてやる」
口元には笑みを浮かべたまま、無言の迫力で紗奈に『Yes以外の返事は聞く気がない』と、語りかけている。
これはもう立派なパワハラではないかと思うのだけど、人事部に訴えたところでまともに取り合ってはくれないだろう。なにせ彼は、この古賀建設の創業経営者一族の御曹司なのだから。
そしてそんな彼が『握りつぶす』と宣言している以上、紗奈がこのバイトを引き受けても、それを理由に罰せられる心配はない。
古賀建設から貰う給料だけでは解決しようのない金銭的問題を抱えている紗奈にとって、これは渡りに船の話とも言える。
しかも相手は、直属の上司な上に、自社の御曹司なのだ。敵に回して得をすることはなにもない。
(つまり、この先も長く古賀建設で働きたいのなら、間違っても敵に回しちゃいけない相手……)
「私なんかに頼まなくても、古賀部長の恋人役を務めたい人は大勢いらっしゃると思いますよ」
一応粘ってみるけど、相手は心底嫌そうに顔を顰めるだけだ。
「喜んで引き受けるような人間に頼んだら、その後が面倒だろう」
「……ごもっともです」
喜んでお引き受けした後は、是非とも更なるお近付きになろうとすることだろう。
その面倒を回避するためにも、お金で紗奈を雇った方が便利と思っているようだ。
しばらく逡巡した紗奈は、ため息を吐いて覚悟を決める。
「わかりました。部長のご依頼を受けさせていただきます」
「よろしく頼む」
その言葉に、悠吾は男の色気を感じさせる艶やかな表情を浮かべる。
十日ほど前、香里に入れ替わりの話しを持ちかけられた時には、こんなことになるとは考えてもいなかった。
「詳しいことは、後で話す。仕事帰りに美味いものでも喰おう」
半泣きになる紗奈にかまうことなく、待ち合わせ場所などを決めると、悠吾は演台に引き返していく。
そのまま彼が何事もなかったように作業を再開させるので、紗奈も落とした書類を拾い上げ、各席に配って回る。
途中、チラリと悠吾を見たけど、彼は真剣な表情でパソコンを眺めるばかりで、もうこちらに視線を向けることもなかった。
◇◇◇
その日の夜。
馴染みの料亭の奥座敷で、悠吾はあぐらを組んだ膝を利用して頬杖をつく。行儀の悪い態度だが、接待ではなく、部下である紗奈の話を聞いているだけなので気にしない。
「ようするに、駆け落ちする友人に頼まれて身代わりを引き受けたと」
食事をしつつ聞き出した話を要約する。
向かいで肩を落として小さくなっている紗奈がコクコク頷く。
誰かに盗み聞きされることなくゆっくり話すために、食事の場所に政治家御用達の老舗懇意料亭を選んだ。
秘密保持はもちろん、料理にもかなり定評がある店なのだが、紗奈は料理に毒でも入っていると思っているのか難しい顔をして食事にはろくに手をつけようとしない。
(なんにせよ、なかなかにお人好しな性格をしているらしい)
悠吾は片手を伸ばして机のとっくりに手を伸ばす。
自分が酌をするべきと思ったのか紗奈が腰を浮かせるので、その必要はないと手の動きで断り手酌で酒を注ぐ。
大吟醸の日本酒を味わいながら、先週の土曜日のことを想い出す。
学生時代の友人に誘われて食事に出掛けたのだが、そこで育ちは良さそうだが品位の欠片もない男と食事をする紗奈を見掛けたのだ。
その前にフロントに落とし物を届ける声を聞いて、深窓のご令嬢といった感じの佇まいの女性が部下の松浦紗奈であることには気付いていた。
普段太いフレームの眼鏡に、お団子ヘアがトレードマークの彼女とはかけ離れた姿に、声がよく似た他人かとも思ったがレストランで再度見掛けて、本人だと納得した。
会社での彼女は、可愛らしい顔立ちをしているのに、お洒落に興味がなさそうなのでもったいないと思っていただけに、可愛く着飾った姿から目が離せなくなっていた。
そうしたらただならぬ雰囲気になって、彼女が相手の男に脅されているようだったので助けに入った次第だ。
間近で見れば、相手の男はあまり評判がよくない国会議員のご子息だった。パーティーの席での振る舞いに目に余るものを感じていたので、いい機会なので軽くお灸をすえさせれもらった。
そしてその男が立ち去った後、念のため紗奈を家まで送ろうと考え声をかけたのだが、脱兎のごとく逃げ去られてしまった。
(名乗るほど者もなにも、名前は最初から知っているのに……)
いくらいつもと違う装いをしているからと言って、自分の部下がわからないわけがない。
それなのに、本人は本気で気付かれていないと思っていたようだ。
週が明けた今日、髪の色をいつもの黒に戻していつものお団子頭の地味眼鏡キャラで、何食わぬ顔で仕事をしていた。
それで、ふたりっきりになったタイミングで軽い揺さぶりをかけたら、あっさりボロを出して今に繋がる。
「それで、その友人は無事に出国できたのか?」
なんとはなしにそう問いかけると、しおれていた紗奈の表情が突然明るくなる。
「はい。無事に出国して、もう目的地に到着したそうです」
少し落ち着いたら一度日本に帰ってくるので、そのときに会う約束をしているのだと、紗奈がうれしそうに話す。
どうやらその友人のことが、本当に好きなようだ。
その結果、自分は男に連れ込まれかけたというのに。なんとも人がいい。
しかも経済的に困窮している理由も、彼女にはなんの非もない話しだった。
早くに父親を亡くした彼女は、母親が家の金を使い込んだため、急ぎ弟の大学進学にかかる費用を工面する必要があるのだという。
古賀建設の跡取りに生まれ、良くも悪くも周囲から特別扱いされることに慣れている悠吾は、下手に情をかけて付け入られる隙を作らないよう、他人とは距離を取ることにしてきた。
そんな悠吾でさえ、紗奈の話しには少々気の毒に思えてくる。それは、彼女の勤勉な働きぶりを普段から高く評価したというのもあるのだろう。
「まあ、それならちょうどいいな」
手にしていたお猪口を机に戻し、悠吾は本題に入る。
「俺にも少々面倒な縁談が持ち上がっているのだが」
「それ、家族ぐるみでお付き合いされているゼネコンのご令嬢と婚約さるって話ですよね?」
友人カップルのことを話したことで気持ちがほぐれたのか、さっきより明るい口調で紗菜が言う。
その言葉に悠吾は顔をしかめた。
こんな末端の社員にまで、その話が広がっているとは、考えてもいなかった。
「まだ見合い話が進んでいるだけだ。それに相手の家と家族ぐるみの付き合いをした覚えはない。社長である祖父がひとりで乗り気になって、なにかと相手を気に掛けてはいるが、それだけだ」
若干口調がキツくなるのは、悠吾を古賀建設に呼び戻した祖父に、社長就任の布石としてこれを機に良家の娘を嫁に取れと迫られているからだ。
常々悠吾は祖父に、誰とも結婚する気はないと言い続けている。それなのに祖父は、古賀建設の更なる発展のために、悠吾に自社の利益に繋がる女性と結婚しろと迫ってくる。
しかも祖父がその相手に選んだのは、家柄こそ釣り合うが、プライドが高くワガママで傲慢な女性ときている。
「俺は独身主義だ。会社の利益を上げるというのなら、仕事で結果を出せばいい。政略結婚の道具にまでなるな気はない」
悠吾は不機嫌に息を吐く。
「それで、私に恋人役をしろと……?」
紗奈は自分の顔を指さして聞く。
「そういうことだ。相手はかなり気位が高い性格をしている。これ以上縁談が進む前に、俺には意中の女性がいてその人との結婚するつもりだと告げれば、諦めてくれるのではないかと思ってな」
これまで祖父には、自分には結婚の意思がないことは何度も伝えてきたが、聞く耳を持つ気配がない。
相手が交渉に応じる気がないのであれば、こちらも強硬手段に出るまでだ。
「恋人役を引き受けてもらえるなら、バイト料は弾むぞ」
そう言って悠吾は、彼女の弟が私学に進んだ際の前期授業料に当たる金額を提示する。
「えっそんなには受け取れません」
金額を聞いた紗奈が咄嗟に辞退を申し出る。
どうしても当座のまとまった資金が必要なはずなのに、そんなに善良で大丈夫なのかと心配になる。
「俺にはたいしたことのない金額だ。それで見合いを潰せるなら安い買い物だし、君の弟は進学できるならWin-Winな話だろ」
「でも……」
「それとも、副業がバレて失職するか? 無職になるのと、俺の金を受け取るのとどっちがいい?」
「うっ」
まだ躊躇っている紗奈を軽く脅してみたが、これは冗談だ。
確かに古賀建設の就業規則には副業を禁じる文言があるが、その記述には『弊社の品位を貶めるもの、同業他社での就業、弊社の機密情報漏洩に繋がるような副業、これを禁ずる』とある。
つまり、紗奈のしたことを咎めるような内容ではない。だが本人が気付いていないようなので黙っておく。
(悪いが俺は、松浦君のように善良で慎み深い性格をしていないんでな)
計算高く言葉で誘導して、相手を動かす方が性に合っている。
それに今回の場合、自分の金を受け取らないと、どう考えても彼女が困ることになるので意見を曲げる気はない。
「一度は引き受けると言ったのだ。今さら断るというのなら、それ相応の報復を考えなくもないが?」
面白半分に脅してみると、紗奈の顔が青ざめる。
古賀建設創業家の一員である自分が、彼女の目には鬼か悪魔のように映っているのではないかと少々気になるところだ。
「難しく考えずに、今の自分がなにを優先すべきかを考えてみろ。君が一番に大事にしたいのは、弟の将来なんじゃないのか?」
悠吾の言葉に、紗奈はハッとする。そして少し考えて納得したのか、こちらに頭を下げた。
「わかりました。その条件で、部長の恋人役を務めさせていただきます」
「これからよろしく紗奈」
眉尻を下げて、申し訳なさそうにする表情が面白くて、冗談半分でそう言ってみると、紗奈の顔が一気に赤くなる。
「さ……紗奈って!」
「契約を交わして恋愛関係を始めるのなら、当然の呼び方だろ。そんなわけで週末は、俺とデートだから空けておけよ」
赤面して口をパクパクさせる彼女の表情を愉快に思いながら、悠吾は話しを進めていく。