この恋は演技
5・恋人の時間
悠吾に手を引かれて水族館を回った紗奈は、後、少し遅めのランチを取るために彼おすすめのカフェに来ていた。
「どうかしましたか?」
大ぶりなカップを両手で包み込むようにして持った紗奈は、自分に向けられる彼の視線に気付いて首を傾ける。
向かい合って座る悠吾は、コーヒーの入ったカップをソーサーに戻して言う。
「君の演技力に感心していたんだ」
さすがだ。といったような言葉を口の中で転がして、悠吾はソーサーをテーブルに戻して椅子に背中をあずける。
「あまりに自然体で、心から今日のこの状況を楽しんでいるように見えた」
「あ、えっと……、ありがとうございます」
紗奈はまごまごした口調でお礼を言う。
今のこの時間が、彼の恋人役を演じるための模擬デートであることを忘れて、初めての水族館に本気ではしゃいでいたとは、恥ずかしくて言えない。
「私の演技が様になっているのは、悠吾さんが一緒に楽しんでくれたおかげです」
悠吾は、紗奈はかなりの演技力があると思っているようだけど、元演劇部員といっても裏方専門だったのでそんな才能はない。
それでも自然に、それこそ仲睦まじいカップルのように振る舞えたのは、彼も一緒に楽しそうにしてくれたおかげだ。
それこそ、紗奈の手を引いて歩き、本物の恋人のように紗奈をエスコートして館内を廻る彼の方がよほど演技上手といえる。
それなのに、本人はその自覚がないのか、悠吾は紗奈の言葉に微かに目を見開く。でもそれは一瞬のことで、すぐに表情を柔らかなものにする。
「なるほど。いい演技をするためには、お互いの呼吸を合わせるのが大事ということか」
どうやら、納得してくれたらしい。
ホッと胸を撫で下ろした紗奈は、チラリと壁時計に視線を向けた。
「この後は、どうしますか?」
水族館とランチをゆっくり堪能したけど、パーティーは夕方からということだったので、まだ時間がかなりある。
紗奈の質問に、悠吾は軽く口角を持ち上げる。
些細な秘密を楽しむ少年のようなその表情に、紗奈の心臓がドキリと跳ねた。
本人は自覚がないのだろうけど、仕事を離れている時の彼の表情は男性的な魅力に溢れていて、見ている側を落ち着かない気分にさせる。
気持ちを落ち着けるために、手にしたままになっていたカップを口に運ぶ。紗奈が、甘いカフェラテの味にホッと息を吐いたタイミングで、悠吾がこの後の予定を教えてくれた。
「この後は変身の時間だ」
「はい?」
キョトンとする紗奈に、悠吾は言う。
「パーティーに合わせて、ドレスに着替えてもらう必要がある。そのために店を予約してあるから、今からそこに行く」
「ドレス」
紗奈は自分が着ているワンピースに視線を落とす。
香里の身代わりをした時に着たワンピースは、普段の紗奈ならまず手が出ないハイブランドの品だ。
上品なデザインだけど地味という感じもなく、華やかな場所に着ていっても差し障りがないように思うのだけど。
「あの……、この後行くパーティーって、皆さんどういった装いで出席されるんですか?」
なんとなく嫌な予感がして聞くと、悠吾は事もなげに返す。
「男性はカクテルスーツ、女性はドレスが基本だな」
「えっ!」
思いがけない言葉に、紗奈は肩を跳ねさせた。
「どうかしたか?」
「それって、すごく格式が高いパーティーなんじゃないですか?」
「いや。普通だろ」
悠吾はさらりと返すけど、紗奈にはそうは思えない。
そもそも、紗奈と悠吾では、なにを普通と思うのかの基準が違うのだ。今更だけど、この依頼を受けたのは軽率だったのかもしれない。
あれこれ考えて頬を引きつらせる紗奈に悠吾が不思議そうな顔をする。
「どうかしたか?」
「いえ。なんでもないです。ただ……」
「金のことなら心配しなくていい。必要経費だから俺が支払う」
悠吾が言う。だけど紗奈が気にしたのは、そういうことではない。
悠吾との生活レベルの違いに、戸惑っているのだ。
とはいえ、彼の恋人役を引き受けたのは自分の意思だ。
今さら尻込みしてもしょうがない。今日一日、彼の恋人役を精一杯演じよう。
(そんなふうに思えるのは……)
紗奈は、向かいに座る悠吾の右手へと視線を向ける。
水族館を廻る間、彼と手をつないでたくさんのお喋りをしながら歩いた。それこそ、本物の恋人のように。
その時間が楽しかったおかげで、頑張ろうと思える。
「悠吾さんのお見合い相手の方に諦めてもらえるよう頑張ります」
覚悟を決める紗奈の眼差しに、悠吾は緩く笑う。
「よろしく頼む」
彼のその言葉に、紗奈は大きく頷いた。
カフェでの食事を終えると、悠吾は紗奈を、彼も時々利用するというセレクトショップに案内した。
高級住宅街の一区に古くから建つ洋館をリフォームしたというその店は、オーナー自らパリやニューヨークで買い付けるドレスの他、バッグやアクセサリーといった小物も多く揃えられている。
そして二階にはエステも併設されていて、メイクやヘアセットもお願いできるのだという。
「どうした?」
スタッフの案内を受け、店の奥に脚を踏み入れるなり動きを止めた紗奈に、悠吾が声をかける。
「ちょっと、ビックリしています」
こういった場所を初めて訪れた紗奈は、デザインも多岐にわたる色とりどりのドレスや、まばゆいばかりの装飾品の全てに驚かされる。
漆喰壁にモカブラウンの腰壁が合わせられている店内の棚やソファーはクラシカルなデザインで、古い映画のセットにまぎれこんだような気分になる。内装だけでなく、扱う商品がどれも可愛くて、女子の憧れを詰め込んだような店なのだ。
「ビックリ?」
「お店が素敵すぎて」
紗奈が表情を輝かせて応えると、背後から「ありがとうございます」と、言葉が聞こえてきた。
振り向くと、こざっぱりした黒のワンピースを着た女性が立っていた。年齢は五十を少し過ぎたくらいだろうか。
悠吾がここのオーナーだと教えてくれた。
「そう言ってもらえるとうれしいわ」
オーナーは松林と名乗り、悠吾に頭を下げる。
「本日はご来店ありがとうございます」
「先にお伝えしたとおり、彼女に似合うドレスを見立ててほしい」
そう言って、悠吾は紗奈の背中をそっと押す。そうされたことで一歩前に踏み出す形になった紗奈を見て、松林は目尻に皺を寄せる。
「悠吾様にお似合いの可愛らしいお嬢様で」
「え、あの……お似合いなんて……」
思いがけない言葉が恥ずかしくて、紗奈が顔の前で手をパタパタさせていると、悠吾が紗奈の肩に手を載せて言う。
「俺の自慢の恋人だ」
「えっ!」
ただの演技だとわかっていても、その紹介はやっぱり恥ずかしい。顔をまっ赤にして、彼を見上げる。
そのやり取りに、松林はまた目尻に皺を刻む。
「悠吾様も人が悪い。こんな素晴らしいパートナーがいらっしゃるなら、早く紹介してくださればよろしかったのに」
「素敵な人すぎて、簡単に人に紹介するのがもったいなくてね」
悠吾はさらりとそんなことを言ってのける。
紗奈としては、そんな歯の浮くような台詞、どう反応すればいいかわからない。
顔を赤くして口をパクパクさせていると、松林は優しく微笑んで、「ではこちらへ」と紗奈を店の奥へと案内する。
「え、悠吾さんは? 一緒にいてくれないんですか?」
初めて訪れたラグジュアリーな空間に圧倒されているのに、彼と引き離されるなんて……。紗奈がすがるような眼差しを向けると、悠吾が揶揄いの表情で聞く。
「着替えについて行っていいのか?」
その言葉に、紗奈はハッと息を飲んだ。
「駄目ですっ!」
自分が彼になにをお願いしていたのか理解して、紗奈は慌てて首を横に振る。
「どんなふうに変身するか楽しみにしている」
笑いをかみ殺す悠吾に見送られ、紗奈は松村と奥へと向かう。
店の奥には幾つかの部屋があり、紗奈はその中の一つに通された。
中は六畳程度のフィッティングルームになっていて、既に数着のドレスが用意されている。
「古賀様のお衣装に合わせて数点の候補を用意させていただきましたが、お気に召すものがなければ、他のものを用意させていただきます」
そう言われて、紗奈はラックに掛けられているドレスを確認していく。
どれもお洒落で素敵なデザインだけど、だからこそ自分に似合うとは思えない。
(だったら、一番安いドレスにしよう)
そう思って値札を探すのだけど、どのドレスにもそれがない。
途方に暮れた顔でドレスを見比べていると、松林が赤いドレスを勧めてきた。かなり背中が開いた大胆なデザインをしている。
でもそれを断っても、他になにを選べばいいのかわからないので、それを着ることにした。
「では、一度着ていただいて、サイズの調整をさせていただいてもよろしいですか?」
この店ではサービスとして購入したドレスのサイズ調整をしているのだという。
ひとりひとりのボディーラインに合わせて裾や腰回りを調整することで、ドレスの魅力を最大限に引き出せるそうだ。
フィッティングを待つ間に、紗奈はエステとプロのメイクを受けることになっている。
「悠吾さんは、このお店をよく利用されているのですか?」
ドレスを着て松林が針を打つのを待つ間、紗奈はふと思いついた疑問を投げかけてみた。
悠吾と松林はかなり親しげな様子だったので、なんとなく気になったのだ。
紗奈の質問に、松林は手を動かしながら答える。
「ええ、今はご本人様のスーツを準備させていただくことがほとんどですが、昔からお母様に付き合ってお越しになられていました」
「お母様……」
「悠吾様のお母様は開店当時からお客様で、まだ学生だった悠吾様もご一緒にご来店されることがあったんです」
なるほど。だから悠吾のことを、苗字ではなく下の名前で呼んでいたのかと、納得がいく。
男性向けのスーツも扱っているらしいけど、女性向けの品が圧倒的に多いこの店のオーナーと悠吾が親しげな理由が理解できた。
「悠吾さん、お母さんの買い物に付き合うなんて、優しいんですね」
日用品の買い出しならともかく、慶一なら恥ずかしがって母親のこういった買い物には絶対付き合ったりしない。
オフィスでは知ることのない、彼の新しい一面をまた知った。紗奈がそんなふうに思っていると、松林が重い息を吐く。
それは無意識のものだったのだろう。
紗奈が視線を向けると、さっきのため息を取り消すように口元を手で隠した。
「どうか、されました?」
なにか事情がありそうな気がして紗奈が聞く。すると松林は、鏡越しにこちらの表情を窺う。
そのまま数秒見つめ合っていると、松林は困ったような顔をして言う。
「古賀ご夫妻は、夫婦として少々距離がるようで、夫婦同伴で出席するような公の場でも、お父様の代わりに悠吾様がお母様に付き添われることがあるものですから」
神妙な顔でそんなことを話す松林は、最後に「マザコンだとか思わないであげてくださいね」と、付け足す。
紗奈のことを悠吾の本物の恋人だと思っている彼女は、紗奈が変な誤解をしないか心配していたみたいだ。
「大丈夫です」
そう返事をして、紗奈は彼の父についての記憶を掘り返す。
彼の父である古賀昌史(まさし)氏は、古賀建設の専務を務めているので顔はわかる。でも紗奈にとっては雲の上の存在過ぎて、顔と名前以外それといった情報が思い出せない。
(あとは確か、婿養子だよね)
どこまで本当なのかは知らないが、専務はもともと社長秘書だったが、密かに社長の一人娘と交際し、彼女が妊娠したことにより社長が渋々結婚を認めたという話を耳にしたことがある。
そのため、社長は娘婿である専務を飛ばして悠吾に社長の座を譲るのではないかと噂されている。
もしかしたら、彼の両親の仲がよくない理由もその辺にあるのかもしれないけど、それは紗奈が詮索するような話しではない。
そう判断した紗奈は、先ほど聞いた話しを意識の隅に追いやって、早く忘れることに決めた。
◇◇◇
カクテルスーツに着替えた悠吾は、応接スペースで雑誌を読みながら紗奈の支度を待っていた。
視線は雑誌に向けられているけど、文字を全然追えていない。
頭の中では、紗奈と過ごした時間のリプレイを繰り返していた。
水族館に生まれて初めて来たと話す彼女は、心から楽しそうにはしゃいでいた。
真に迫った演技をするための模擬デートのはずが、無邪気に喜ぶその姿につられて、気が付けば悠吾も自然な気持ちで楽しんでいたのだ。
「どうかしている」
ポツリと呟き、首筋を撫でた。
普段の自分は、簡単に他人に気を許したりはしない。それなのに、紗奈のペースに載せられてらしくないほどのびのびとしている。
それは紗奈の演技がうまいからと言うより、自分が彼女の人柄を信用しているからだろう。
上司になってまだ日は浅いが、それでも彼女が勤勉でズルのない仕事をする社員だということは理解している。
そんな彼女が相手だからこそ、自分はここまでリラックスしているのだ。
そう思うと、今日一日でこの関係を終わらせるのが惜しくなる。
そんな考えに辿り着いた時、人が近付く気配に顔を上げた。視線の先にいる紗奈の姿に、思わず目を見開く。
「あ……」
「ごめんなさい。似合ってないですよね」
思わず声を漏らした悠吾に、紗奈が申し訳なさそうに肩を落とす。
だけどそうじゃない。
「その逆だ。あまりに似合っていて、驚いたんだよ」
そう微笑んで、悠吾は立ち上がる。
さっきまで紗奈は、上品なデザインのワンピース姿で、清楚なお嬢様という感じだった。
だけど赤いドレスに着替えた彼女は、髪を緩く結い上げ、形の良い目を強く印象づけるメイクをし、全体的に昼間とは異なる女性的な魅力に溢れている。
大ぶりなイヤリングとネックレスが、華奢な首筋を際立たせているのも魅力的だ。
蕾だった花が一気に開花したような変貌ぶりに驚いて、それを表現する上手な言葉が見つけられない。
近付いて、背中に大胆な切れ込みが入っていることにも驚かされる。
マジマジと見詰める悠吾の視線に、紗奈は照れくさそうにはにかむ。
「それは私の台詞です」
彼女にそんなふうに言われ、悠吾は自分の姿を俯瞰してみた。
今日の自分はかなり黒に近い濃紺のスリーピースに、光沢のある織りのネクタイを合わせている。胸元から覗くポケットチーフは、ネクタイと同系色である。
場に合わせて洒落た着こなしを意識してはいるが、それでも紗奈ほどの華やかさはない。
「どちら様もお似合いですよ」
松林が、お互いの姿に目を見張る紗奈と悠吾を見て笑う。
「悠吾様がこんな可愛らしいお嬢様を連れて現れたら、パーティーに参加される方は、さぞ驚かれるでしょうね」
母が子にも背の常連で、悠吾のことを学生時代から知る松林がしみじみした声で言う。その言葉に、本来の自分の役目を思い出したのか、紗奈の表情が引き締めた。
緊張でさっきまでの自然な美しさが失われたことを残念に思いながら、彼女の方に肘を突き出す。
「では行こうか」
そう声を掛けると、紗奈は「はい」と、悠吾の肘に自分の腕を絡めた。
◇◇◇
悠吾のパートナーとしてパーティーに参加した紗奈は、その豪華さにただただ圧倒されていた。
会場は、紗奈が一生足を踏み入れることもないと思っていた老舗ホテルの宴会場で、それだけでも十分緊張するのに、参加者たちの華やかな装いにも目を奪われる。
悠吾に言われるままドレスに着替えた自分を見た時は、別人としか思えない自分の姿に、派手すぎるのではないかと不安になったけど、そんなことは全然なかった。
色とりどりの花が咲き誇る温室の中のように、会場は美しく着飾った人々で溢れている。
そんな中でも、悠吾の存在感は別格だ。
紗奈は自分の隣に立つ悠吾の姿をチラリと見た。
彼が着ているのは、洒落たデザインをしちえるけど落ち着いた色合いのスーツで、そこまでの派手さはない。それにもかかわらず、周囲の視線は自然と悠吾へと引き寄せられていく。
そこに男女の違いはない。引力に導かれるように悠吾を見て、その後で、彼のかたわらにいる紗奈に気付いて微妙な顔をする。それは紗奈ごときでは、彼に相応しくないということだろう。
(こういうのをカリスマ性って言うのかな?)
「どうかした?」
紗奈が感心していると、視線に気付いた悠吾が聞く。
「私は、なにをすればいいですか?」
あなたに見とれていましたなんて、恥ずかしくて言えない。正直に答えず、質問に質問を返す。
悠吾は紗奈の腰に腕を回し、体を密着させて囁く。
「仲よくして」
もちろんそれは、そういう演技をしてくれという意味だ。
それでも完璧とも言えるイケメンに、腰を抱かれ、艶のある笑顔を向けられるとどうしてドキドキしてしまう。
紗奈は、彼に自分の鼓動の速さを悟られるのではないかと緊張して息を詰める。
「どうかしたか?」
口を真一文字に引き結んで若干挙動不審になる紗奈に、悠吾が怪訝な顔をする。
彼が腰に回していた腕を離してくれたので、紗奈は彼から距離を取り、周囲に視線を向ける。
「なんでもないです。それじゃあ、一緒になにか食べますか?」
会場は立食形式になっており、感覚を開けて料理が載せられたテーブルが並んでいる。
テーブルに載る料理は、食べやすいよう小さくカットされ、彩りよく盛り付けられてどれも美味しそうだ。
せっかくなので、少しくらい食べてみたい。
「いい考えだな」
紗奈の誘いに、悠吾は笑顔で頷く。
彼と連れだってテーブルを見に行き、皿に料理を取り分けてもらう。
悠吾は車の運転があるのでアルコールは控えるが、紗奈にはせっかくだからどうぞと勧めてくれた。だが紗奈はそれほどアルコールに強くないのでそれを断った。
それでも食事やノンアルコールのドリンクが豊富で、残念に思うことはない。
味の感想を言いながらふたり氏くじをしていると、「悠吾さん」と、彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、少しつり目で、艶やかな髪を高い位置に結い上げて、タイトな青いドレスを着た細身な女性が立っていた。
年齢は紗奈より少し上だろうか。可愛らしい顔立ちをしているのだけど、ツンと尖った唇や大きな目に気の強さが滲み出ている。
「悠吾さん、その方は?」
悠吾に問い掛けつつ、女性は紗奈を睨む。
彼女の険のある視線から守るように、悠吾は再び紗奈の腰に腕を回す。それを見て、青いドレスの女性の表情がますます険しくなる。
悠吾にだってそれはわかっているはずなのに、涼しい顔で言う。
「明日香さん、お久しぶりですね。あなたもこのパーティーに参加されていたんですね」
近くのテーブルにもう一方の手に持っていたグラスを置いた悠吾は、さも偶然の遭遇といった演技で微笑む。
花が咲くような艶やかな笑顔に頬が熱くなるのを感じつつ、自分の役目を果たすべく紗奈も微笑みを返す。
視線を重ねて微笑み合うふたりの姿に、明日香と呼ばれた女性が唇をわななかせて聞く。
「その女は誰ですの?」
「私の愛する人です」
悠吾は誇らしげな表情で言う。それを聞いて、明日香は、深く息を吸う。
「そんな話、私は聞いていません」
「それは、私が誰を愛しているかを、明日香さんに伝える必要がない話しだからですよ」
爽やかな笑みを添えて、言外に相手と関わる気はないのだと告げる。
その言葉に、明日香はカッと目を見開く。
「でも私たちが結婚式を挙げる際には、是非招待させてください」
すぐには言葉を発せずにいる明日香に、とどめを刺すように悠吾が言う。
「あなたは、私の夫になるはずですっ! あなたのおじい様は、東野家と縁戚関係を結べることを喜ばれていますよ」
音量は抑えているけど、声の端々に強い怒りを感じる。
「そんなの、おかしいです」
ひどく高圧的な明日香の言葉に、紗奈は思わず口を挟む。
紗奈が発言すると思っていなかったのか、悠吾と明日香が揃って驚いた顔でこちらを見た。そのことに、若干の緊張を覚えながら紗奈は言う。
「人の心は、他人が支配出来るようなものじゃないです。彼が人生のパートナーに誰を選ぶか、それは本人の自由です」
悠吾の意思を無視して、彼と結婚するのが自分の権利だと主張する彼女の考が理解できない。
紗奈の言葉に、明日香の眉間がピクリと跳ねる。
「何様のつもりなのっ!」
感情任せに一歩前に踏み出す明日香から庇うように、悠吾が紗奈の立ち位置をずらして前に出る。
「彼女は、私が選んだ人だ。それで納得がいかないというのであれば、私が話しを聞こう」
凄む彼の瞳には、不用意に触れることが許されない切れのいい刃物のような気迫がある。
かたわらで横顔を見上げている紗奈でさえ肌が粟だったのだ、睨まれている明日香はたまらないだろう。
「お、おじい様に話しますっ」
それがせめてもの虚勢だったのだろう。
明日香は裏返る声でそう言うと、踵を返して立ち去っていく。
コツコツとヒールを鳴らして明日香が立ち去る。その背中を見送る悠吾が「ありがとう」と囁く。
その声があまりに優しくて、無事に恋人役を演じきったお礼だとわかっていてもドキドキしてしまう。
「無事に役目を果たせてよかったです」
紗奈のその言葉に、悠吾は首を軽く横に振る。
「人の心は、他人が支配出来るようなものじゃない……全くだ」
小さく笑って、悠吾は紗奈から腕を解く。そして、何事かと遠巻きにこちらの様子を窺う人たちに軽くお辞儀をした。
「じゃあ、これで私のお役目は終わりですね」
(シンデレラの魔法が解けるときって、こんな気分だったのかな?)
彼との楽しい時間の終わりが来てしまったことを寂しく思いながら、紗奈が頭を下げようとしたとき、離れた場所から彼の名前を呼ぶ声がした。
「悠吾」
声のした方を見ると、白髪交じりの髪を丁寧になでつけている男性の姿があった。
目が細く鷲鼻が印象的なその人の顔を見て、紗奈は思わず口元を手で隠した。隣に立つ悠吾も緊張したのがわかる。
「お前が参加しているとは思わなかったよ」
感情を感じさせない声で悠吾に声を掛けるのは、彼の父で古賀建設の専務でもある古賀昌史だ。
自社の重役の登場に、紗奈は緊張で体を硬くする。
(大丈夫。専務は、私の顔なんて知っているはずない)
自分で自分に大丈夫だと言い聞かせて、横目で悠吾の様子を窺うと、彼も難しい顔をして黙り込んでいる。
「悠吾さん?」
心配になって紗奈が名前を呼ぶと、彼はハッとした感じで表情を取り繕う。
「専務もお越しになっていたんですね」
同じ会社に勤務する者としての礼儀なのだろうか?
悠吾は、社交辞令的な笑みを浮かべて父親を役職で呼ぶ。
話しかけられた昌史は、紗奈と悠吾を見比べて視線でふたりの関係を問いかけるが、悠吾に答える気はないらしい。
視線を逸らし黙りを決め込む悠吾に、昌史は冷めた息を吐いて言う。
「お前がいると知っていたら、参加しなかったよ」
実の親子の会話とは思えないやり取りに、紗奈は目を丸くする。
「私はもう帰りますので、専務は気兼ねなくお楽しみください」
悠吾は気にする様子もなく、一礼すると紗奈の肩を抱いて歩き出した。
「あの……いいんですか?」
悠吾に肩を抱かれ、促されるままに会場を出た紗奈は、一階ロービーまで下りてきたところで戸惑いつつも声を出した。
「いいて、なにが? 紗奈の演技には感謝しているよ」
「そうじゃなくて……」
悠吾だってもちろん、紗奈がなにを言いたいのかはわかっているはずだ。
わかっていてあえてとぼけるのは、そのことに触れてほしくないからなのだろう。だとしたら、それ以上踏み込んではいけない。
「せっかくの料理、ほとんど食べられなかったから」
胸に渦巻く感情を飲み込んでそう言うと、悠吾は一瞬、虚を突かれた顔をした。
でも次の瞬間、ふわりと笑う。
「確かに、もったいないことをしたな」
柔らかな表情でそう返して、悠吾は紗奈に手を差し出す。
「え?」
戸惑う紗奈に悠吾が言う。
「お詫びにどこかで食事をしてから送らせてくれ」
パーティー会場を後にした段階で、紗奈の役目は終わったものだと思っていたが、まだ継続しているらしい。
(今日一日くらい、いいよね)
彼の恋人役は、今日一日限りのアルバイト。週が明ければ、紗奈と悠吾の距離は本来の形に戻る。
今日みたいな時間を一緒に過ごすことは二度とないのだから、最後にもう少しくらい恋人ごっこをするのも悪くない。
「はい」
紗奈は満面の笑顔で頷いて、彼の手を取った。
「どうかしましたか?」
大ぶりなカップを両手で包み込むようにして持った紗奈は、自分に向けられる彼の視線に気付いて首を傾ける。
向かい合って座る悠吾は、コーヒーの入ったカップをソーサーに戻して言う。
「君の演技力に感心していたんだ」
さすがだ。といったような言葉を口の中で転がして、悠吾はソーサーをテーブルに戻して椅子に背中をあずける。
「あまりに自然体で、心から今日のこの状況を楽しんでいるように見えた」
「あ、えっと……、ありがとうございます」
紗奈はまごまごした口調でお礼を言う。
今のこの時間が、彼の恋人役を演じるための模擬デートであることを忘れて、初めての水族館に本気ではしゃいでいたとは、恥ずかしくて言えない。
「私の演技が様になっているのは、悠吾さんが一緒に楽しんでくれたおかげです」
悠吾は、紗奈はかなりの演技力があると思っているようだけど、元演劇部員といっても裏方専門だったのでそんな才能はない。
それでも自然に、それこそ仲睦まじいカップルのように振る舞えたのは、彼も一緒に楽しそうにしてくれたおかげだ。
それこそ、紗奈の手を引いて歩き、本物の恋人のように紗奈をエスコートして館内を廻る彼の方がよほど演技上手といえる。
それなのに、本人はその自覚がないのか、悠吾は紗奈の言葉に微かに目を見開く。でもそれは一瞬のことで、すぐに表情を柔らかなものにする。
「なるほど。いい演技をするためには、お互いの呼吸を合わせるのが大事ということか」
どうやら、納得してくれたらしい。
ホッと胸を撫で下ろした紗奈は、チラリと壁時計に視線を向けた。
「この後は、どうしますか?」
水族館とランチをゆっくり堪能したけど、パーティーは夕方からということだったので、まだ時間がかなりある。
紗奈の質問に、悠吾は軽く口角を持ち上げる。
些細な秘密を楽しむ少年のようなその表情に、紗奈の心臓がドキリと跳ねた。
本人は自覚がないのだろうけど、仕事を離れている時の彼の表情は男性的な魅力に溢れていて、見ている側を落ち着かない気分にさせる。
気持ちを落ち着けるために、手にしたままになっていたカップを口に運ぶ。紗奈が、甘いカフェラテの味にホッと息を吐いたタイミングで、悠吾がこの後の予定を教えてくれた。
「この後は変身の時間だ」
「はい?」
キョトンとする紗奈に、悠吾は言う。
「パーティーに合わせて、ドレスに着替えてもらう必要がある。そのために店を予約してあるから、今からそこに行く」
「ドレス」
紗奈は自分が着ているワンピースに視線を落とす。
香里の身代わりをした時に着たワンピースは、普段の紗奈ならまず手が出ないハイブランドの品だ。
上品なデザインだけど地味という感じもなく、華やかな場所に着ていっても差し障りがないように思うのだけど。
「あの……、この後行くパーティーって、皆さんどういった装いで出席されるんですか?」
なんとなく嫌な予感がして聞くと、悠吾は事もなげに返す。
「男性はカクテルスーツ、女性はドレスが基本だな」
「えっ!」
思いがけない言葉に、紗奈は肩を跳ねさせた。
「どうかしたか?」
「それって、すごく格式が高いパーティーなんじゃないですか?」
「いや。普通だろ」
悠吾はさらりと返すけど、紗奈にはそうは思えない。
そもそも、紗奈と悠吾では、なにを普通と思うのかの基準が違うのだ。今更だけど、この依頼を受けたのは軽率だったのかもしれない。
あれこれ考えて頬を引きつらせる紗奈に悠吾が不思議そうな顔をする。
「どうかしたか?」
「いえ。なんでもないです。ただ……」
「金のことなら心配しなくていい。必要経費だから俺が支払う」
悠吾が言う。だけど紗奈が気にしたのは、そういうことではない。
悠吾との生活レベルの違いに、戸惑っているのだ。
とはいえ、彼の恋人役を引き受けたのは自分の意思だ。
今さら尻込みしてもしょうがない。今日一日、彼の恋人役を精一杯演じよう。
(そんなふうに思えるのは……)
紗奈は、向かいに座る悠吾の右手へと視線を向ける。
水族館を廻る間、彼と手をつないでたくさんのお喋りをしながら歩いた。それこそ、本物の恋人のように。
その時間が楽しかったおかげで、頑張ろうと思える。
「悠吾さんのお見合い相手の方に諦めてもらえるよう頑張ります」
覚悟を決める紗奈の眼差しに、悠吾は緩く笑う。
「よろしく頼む」
彼のその言葉に、紗奈は大きく頷いた。
カフェでの食事を終えると、悠吾は紗奈を、彼も時々利用するというセレクトショップに案内した。
高級住宅街の一区に古くから建つ洋館をリフォームしたというその店は、オーナー自らパリやニューヨークで買い付けるドレスの他、バッグやアクセサリーといった小物も多く揃えられている。
そして二階にはエステも併設されていて、メイクやヘアセットもお願いできるのだという。
「どうした?」
スタッフの案内を受け、店の奥に脚を踏み入れるなり動きを止めた紗奈に、悠吾が声をかける。
「ちょっと、ビックリしています」
こういった場所を初めて訪れた紗奈は、デザインも多岐にわたる色とりどりのドレスや、まばゆいばかりの装飾品の全てに驚かされる。
漆喰壁にモカブラウンの腰壁が合わせられている店内の棚やソファーはクラシカルなデザインで、古い映画のセットにまぎれこんだような気分になる。内装だけでなく、扱う商品がどれも可愛くて、女子の憧れを詰め込んだような店なのだ。
「ビックリ?」
「お店が素敵すぎて」
紗奈が表情を輝かせて応えると、背後から「ありがとうございます」と、言葉が聞こえてきた。
振り向くと、こざっぱりした黒のワンピースを着た女性が立っていた。年齢は五十を少し過ぎたくらいだろうか。
悠吾がここのオーナーだと教えてくれた。
「そう言ってもらえるとうれしいわ」
オーナーは松林と名乗り、悠吾に頭を下げる。
「本日はご来店ありがとうございます」
「先にお伝えしたとおり、彼女に似合うドレスを見立ててほしい」
そう言って、悠吾は紗奈の背中をそっと押す。そうされたことで一歩前に踏み出す形になった紗奈を見て、松林は目尻に皺を寄せる。
「悠吾様にお似合いの可愛らしいお嬢様で」
「え、あの……お似合いなんて……」
思いがけない言葉が恥ずかしくて、紗奈が顔の前で手をパタパタさせていると、悠吾が紗奈の肩に手を載せて言う。
「俺の自慢の恋人だ」
「えっ!」
ただの演技だとわかっていても、その紹介はやっぱり恥ずかしい。顔をまっ赤にして、彼を見上げる。
そのやり取りに、松林はまた目尻に皺を刻む。
「悠吾様も人が悪い。こんな素晴らしいパートナーがいらっしゃるなら、早く紹介してくださればよろしかったのに」
「素敵な人すぎて、簡単に人に紹介するのがもったいなくてね」
悠吾はさらりとそんなことを言ってのける。
紗奈としては、そんな歯の浮くような台詞、どう反応すればいいかわからない。
顔を赤くして口をパクパクさせていると、松林は優しく微笑んで、「ではこちらへ」と紗奈を店の奥へと案内する。
「え、悠吾さんは? 一緒にいてくれないんですか?」
初めて訪れたラグジュアリーな空間に圧倒されているのに、彼と引き離されるなんて……。紗奈がすがるような眼差しを向けると、悠吾が揶揄いの表情で聞く。
「着替えについて行っていいのか?」
その言葉に、紗奈はハッと息を飲んだ。
「駄目ですっ!」
自分が彼になにをお願いしていたのか理解して、紗奈は慌てて首を横に振る。
「どんなふうに変身するか楽しみにしている」
笑いをかみ殺す悠吾に見送られ、紗奈は松村と奥へと向かう。
店の奥には幾つかの部屋があり、紗奈はその中の一つに通された。
中は六畳程度のフィッティングルームになっていて、既に数着のドレスが用意されている。
「古賀様のお衣装に合わせて数点の候補を用意させていただきましたが、お気に召すものがなければ、他のものを用意させていただきます」
そう言われて、紗奈はラックに掛けられているドレスを確認していく。
どれもお洒落で素敵なデザインだけど、だからこそ自分に似合うとは思えない。
(だったら、一番安いドレスにしよう)
そう思って値札を探すのだけど、どのドレスにもそれがない。
途方に暮れた顔でドレスを見比べていると、松林が赤いドレスを勧めてきた。かなり背中が開いた大胆なデザインをしている。
でもそれを断っても、他になにを選べばいいのかわからないので、それを着ることにした。
「では、一度着ていただいて、サイズの調整をさせていただいてもよろしいですか?」
この店ではサービスとして購入したドレスのサイズ調整をしているのだという。
ひとりひとりのボディーラインに合わせて裾や腰回りを調整することで、ドレスの魅力を最大限に引き出せるそうだ。
フィッティングを待つ間に、紗奈はエステとプロのメイクを受けることになっている。
「悠吾さんは、このお店をよく利用されているのですか?」
ドレスを着て松林が針を打つのを待つ間、紗奈はふと思いついた疑問を投げかけてみた。
悠吾と松林はかなり親しげな様子だったので、なんとなく気になったのだ。
紗奈の質問に、松林は手を動かしながら答える。
「ええ、今はご本人様のスーツを準備させていただくことがほとんどですが、昔からお母様に付き合ってお越しになられていました」
「お母様……」
「悠吾様のお母様は開店当時からお客様で、まだ学生だった悠吾様もご一緒にご来店されることがあったんです」
なるほど。だから悠吾のことを、苗字ではなく下の名前で呼んでいたのかと、納得がいく。
男性向けのスーツも扱っているらしいけど、女性向けの品が圧倒的に多いこの店のオーナーと悠吾が親しげな理由が理解できた。
「悠吾さん、お母さんの買い物に付き合うなんて、優しいんですね」
日用品の買い出しならともかく、慶一なら恥ずかしがって母親のこういった買い物には絶対付き合ったりしない。
オフィスでは知ることのない、彼の新しい一面をまた知った。紗奈がそんなふうに思っていると、松林が重い息を吐く。
それは無意識のものだったのだろう。
紗奈が視線を向けると、さっきのため息を取り消すように口元を手で隠した。
「どうか、されました?」
なにか事情がありそうな気がして紗奈が聞く。すると松林は、鏡越しにこちらの表情を窺う。
そのまま数秒見つめ合っていると、松林は困ったような顔をして言う。
「古賀ご夫妻は、夫婦として少々距離がるようで、夫婦同伴で出席するような公の場でも、お父様の代わりに悠吾様がお母様に付き添われることがあるものですから」
神妙な顔でそんなことを話す松林は、最後に「マザコンだとか思わないであげてくださいね」と、付け足す。
紗奈のことを悠吾の本物の恋人だと思っている彼女は、紗奈が変な誤解をしないか心配していたみたいだ。
「大丈夫です」
そう返事をして、紗奈は彼の父についての記憶を掘り返す。
彼の父である古賀昌史(まさし)氏は、古賀建設の専務を務めているので顔はわかる。でも紗奈にとっては雲の上の存在過ぎて、顔と名前以外それといった情報が思い出せない。
(あとは確か、婿養子だよね)
どこまで本当なのかは知らないが、専務はもともと社長秘書だったが、密かに社長の一人娘と交際し、彼女が妊娠したことにより社長が渋々結婚を認めたという話を耳にしたことがある。
そのため、社長は娘婿である専務を飛ばして悠吾に社長の座を譲るのではないかと噂されている。
もしかしたら、彼の両親の仲がよくない理由もその辺にあるのかもしれないけど、それは紗奈が詮索するような話しではない。
そう判断した紗奈は、先ほど聞いた話しを意識の隅に追いやって、早く忘れることに決めた。
◇◇◇
カクテルスーツに着替えた悠吾は、応接スペースで雑誌を読みながら紗奈の支度を待っていた。
視線は雑誌に向けられているけど、文字を全然追えていない。
頭の中では、紗奈と過ごした時間のリプレイを繰り返していた。
水族館に生まれて初めて来たと話す彼女は、心から楽しそうにはしゃいでいた。
真に迫った演技をするための模擬デートのはずが、無邪気に喜ぶその姿につられて、気が付けば悠吾も自然な気持ちで楽しんでいたのだ。
「どうかしている」
ポツリと呟き、首筋を撫でた。
普段の自分は、簡単に他人に気を許したりはしない。それなのに、紗奈のペースに載せられてらしくないほどのびのびとしている。
それは紗奈の演技がうまいからと言うより、自分が彼女の人柄を信用しているからだろう。
上司になってまだ日は浅いが、それでも彼女が勤勉でズルのない仕事をする社員だということは理解している。
そんな彼女が相手だからこそ、自分はここまでリラックスしているのだ。
そう思うと、今日一日でこの関係を終わらせるのが惜しくなる。
そんな考えに辿り着いた時、人が近付く気配に顔を上げた。視線の先にいる紗奈の姿に、思わず目を見開く。
「あ……」
「ごめんなさい。似合ってないですよね」
思わず声を漏らした悠吾に、紗奈が申し訳なさそうに肩を落とす。
だけどそうじゃない。
「その逆だ。あまりに似合っていて、驚いたんだよ」
そう微笑んで、悠吾は立ち上がる。
さっきまで紗奈は、上品なデザインのワンピース姿で、清楚なお嬢様という感じだった。
だけど赤いドレスに着替えた彼女は、髪を緩く結い上げ、形の良い目を強く印象づけるメイクをし、全体的に昼間とは異なる女性的な魅力に溢れている。
大ぶりなイヤリングとネックレスが、華奢な首筋を際立たせているのも魅力的だ。
蕾だった花が一気に開花したような変貌ぶりに驚いて、それを表現する上手な言葉が見つけられない。
近付いて、背中に大胆な切れ込みが入っていることにも驚かされる。
マジマジと見詰める悠吾の視線に、紗奈は照れくさそうにはにかむ。
「それは私の台詞です」
彼女にそんなふうに言われ、悠吾は自分の姿を俯瞰してみた。
今日の自分はかなり黒に近い濃紺のスリーピースに、光沢のある織りのネクタイを合わせている。胸元から覗くポケットチーフは、ネクタイと同系色である。
場に合わせて洒落た着こなしを意識してはいるが、それでも紗奈ほどの華やかさはない。
「どちら様もお似合いですよ」
松林が、お互いの姿に目を見張る紗奈と悠吾を見て笑う。
「悠吾様がこんな可愛らしいお嬢様を連れて現れたら、パーティーに参加される方は、さぞ驚かれるでしょうね」
母が子にも背の常連で、悠吾のことを学生時代から知る松林がしみじみした声で言う。その言葉に、本来の自分の役目を思い出したのか、紗奈の表情が引き締めた。
緊張でさっきまでの自然な美しさが失われたことを残念に思いながら、彼女の方に肘を突き出す。
「では行こうか」
そう声を掛けると、紗奈は「はい」と、悠吾の肘に自分の腕を絡めた。
◇◇◇
悠吾のパートナーとしてパーティーに参加した紗奈は、その豪華さにただただ圧倒されていた。
会場は、紗奈が一生足を踏み入れることもないと思っていた老舗ホテルの宴会場で、それだけでも十分緊張するのに、参加者たちの華やかな装いにも目を奪われる。
悠吾に言われるままドレスに着替えた自分を見た時は、別人としか思えない自分の姿に、派手すぎるのではないかと不安になったけど、そんなことは全然なかった。
色とりどりの花が咲き誇る温室の中のように、会場は美しく着飾った人々で溢れている。
そんな中でも、悠吾の存在感は別格だ。
紗奈は自分の隣に立つ悠吾の姿をチラリと見た。
彼が着ているのは、洒落たデザインをしちえるけど落ち着いた色合いのスーツで、そこまでの派手さはない。それにもかかわらず、周囲の視線は自然と悠吾へと引き寄せられていく。
そこに男女の違いはない。引力に導かれるように悠吾を見て、その後で、彼のかたわらにいる紗奈に気付いて微妙な顔をする。それは紗奈ごときでは、彼に相応しくないということだろう。
(こういうのをカリスマ性って言うのかな?)
「どうかした?」
紗奈が感心していると、視線に気付いた悠吾が聞く。
「私は、なにをすればいいですか?」
あなたに見とれていましたなんて、恥ずかしくて言えない。正直に答えず、質問に質問を返す。
悠吾は紗奈の腰に腕を回し、体を密着させて囁く。
「仲よくして」
もちろんそれは、そういう演技をしてくれという意味だ。
それでも完璧とも言えるイケメンに、腰を抱かれ、艶のある笑顔を向けられるとどうしてドキドキしてしまう。
紗奈は、彼に自分の鼓動の速さを悟られるのではないかと緊張して息を詰める。
「どうかしたか?」
口を真一文字に引き結んで若干挙動不審になる紗奈に、悠吾が怪訝な顔をする。
彼が腰に回していた腕を離してくれたので、紗奈は彼から距離を取り、周囲に視線を向ける。
「なんでもないです。それじゃあ、一緒になにか食べますか?」
会場は立食形式になっており、感覚を開けて料理が載せられたテーブルが並んでいる。
テーブルに載る料理は、食べやすいよう小さくカットされ、彩りよく盛り付けられてどれも美味しそうだ。
せっかくなので、少しくらい食べてみたい。
「いい考えだな」
紗奈の誘いに、悠吾は笑顔で頷く。
彼と連れだってテーブルを見に行き、皿に料理を取り分けてもらう。
悠吾は車の運転があるのでアルコールは控えるが、紗奈にはせっかくだからどうぞと勧めてくれた。だが紗奈はそれほどアルコールに強くないのでそれを断った。
それでも食事やノンアルコールのドリンクが豊富で、残念に思うことはない。
味の感想を言いながらふたり氏くじをしていると、「悠吾さん」と、彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
見ると、少しつり目で、艶やかな髪を高い位置に結い上げて、タイトな青いドレスを着た細身な女性が立っていた。
年齢は紗奈より少し上だろうか。可愛らしい顔立ちをしているのだけど、ツンと尖った唇や大きな目に気の強さが滲み出ている。
「悠吾さん、その方は?」
悠吾に問い掛けつつ、女性は紗奈を睨む。
彼女の険のある視線から守るように、悠吾は再び紗奈の腰に腕を回す。それを見て、青いドレスの女性の表情がますます険しくなる。
悠吾にだってそれはわかっているはずなのに、涼しい顔で言う。
「明日香さん、お久しぶりですね。あなたもこのパーティーに参加されていたんですね」
近くのテーブルにもう一方の手に持っていたグラスを置いた悠吾は、さも偶然の遭遇といった演技で微笑む。
花が咲くような艶やかな笑顔に頬が熱くなるのを感じつつ、自分の役目を果たすべく紗奈も微笑みを返す。
視線を重ねて微笑み合うふたりの姿に、明日香と呼ばれた女性が唇をわななかせて聞く。
「その女は誰ですの?」
「私の愛する人です」
悠吾は誇らしげな表情で言う。それを聞いて、明日香は、深く息を吸う。
「そんな話、私は聞いていません」
「それは、私が誰を愛しているかを、明日香さんに伝える必要がない話しだからですよ」
爽やかな笑みを添えて、言外に相手と関わる気はないのだと告げる。
その言葉に、明日香はカッと目を見開く。
「でも私たちが結婚式を挙げる際には、是非招待させてください」
すぐには言葉を発せずにいる明日香に、とどめを刺すように悠吾が言う。
「あなたは、私の夫になるはずですっ! あなたのおじい様は、東野家と縁戚関係を結べることを喜ばれていますよ」
音量は抑えているけど、声の端々に強い怒りを感じる。
「そんなの、おかしいです」
ひどく高圧的な明日香の言葉に、紗奈は思わず口を挟む。
紗奈が発言すると思っていなかったのか、悠吾と明日香が揃って驚いた顔でこちらを見た。そのことに、若干の緊張を覚えながら紗奈は言う。
「人の心は、他人が支配出来るようなものじゃないです。彼が人生のパートナーに誰を選ぶか、それは本人の自由です」
悠吾の意思を無視して、彼と結婚するのが自分の権利だと主張する彼女の考が理解できない。
紗奈の言葉に、明日香の眉間がピクリと跳ねる。
「何様のつもりなのっ!」
感情任せに一歩前に踏み出す明日香から庇うように、悠吾が紗奈の立ち位置をずらして前に出る。
「彼女は、私が選んだ人だ。それで納得がいかないというのであれば、私が話しを聞こう」
凄む彼の瞳には、不用意に触れることが許されない切れのいい刃物のような気迫がある。
かたわらで横顔を見上げている紗奈でさえ肌が粟だったのだ、睨まれている明日香はたまらないだろう。
「お、おじい様に話しますっ」
それがせめてもの虚勢だったのだろう。
明日香は裏返る声でそう言うと、踵を返して立ち去っていく。
コツコツとヒールを鳴らして明日香が立ち去る。その背中を見送る悠吾が「ありがとう」と囁く。
その声があまりに優しくて、無事に恋人役を演じきったお礼だとわかっていてもドキドキしてしまう。
「無事に役目を果たせてよかったです」
紗奈のその言葉に、悠吾は首を軽く横に振る。
「人の心は、他人が支配出来るようなものじゃない……全くだ」
小さく笑って、悠吾は紗奈から腕を解く。そして、何事かと遠巻きにこちらの様子を窺う人たちに軽くお辞儀をした。
「じゃあ、これで私のお役目は終わりですね」
(シンデレラの魔法が解けるときって、こんな気分だったのかな?)
彼との楽しい時間の終わりが来てしまったことを寂しく思いながら、紗奈が頭を下げようとしたとき、離れた場所から彼の名前を呼ぶ声がした。
「悠吾」
声のした方を見ると、白髪交じりの髪を丁寧になでつけている男性の姿があった。
目が細く鷲鼻が印象的なその人の顔を見て、紗奈は思わず口元を手で隠した。隣に立つ悠吾も緊張したのがわかる。
「お前が参加しているとは思わなかったよ」
感情を感じさせない声で悠吾に声を掛けるのは、彼の父で古賀建設の専務でもある古賀昌史だ。
自社の重役の登場に、紗奈は緊張で体を硬くする。
(大丈夫。専務は、私の顔なんて知っているはずない)
自分で自分に大丈夫だと言い聞かせて、横目で悠吾の様子を窺うと、彼も難しい顔をして黙り込んでいる。
「悠吾さん?」
心配になって紗奈が名前を呼ぶと、彼はハッとした感じで表情を取り繕う。
「専務もお越しになっていたんですね」
同じ会社に勤務する者としての礼儀なのだろうか?
悠吾は、社交辞令的な笑みを浮かべて父親を役職で呼ぶ。
話しかけられた昌史は、紗奈と悠吾を見比べて視線でふたりの関係を問いかけるが、悠吾に答える気はないらしい。
視線を逸らし黙りを決め込む悠吾に、昌史は冷めた息を吐いて言う。
「お前がいると知っていたら、参加しなかったよ」
実の親子の会話とは思えないやり取りに、紗奈は目を丸くする。
「私はもう帰りますので、専務は気兼ねなくお楽しみください」
悠吾は気にする様子もなく、一礼すると紗奈の肩を抱いて歩き出した。
「あの……いいんですか?」
悠吾に肩を抱かれ、促されるままに会場を出た紗奈は、一階ロービーまで下りてきたところで戸惑いつつも声を出した。
「いいて、なにが? 紗奈の演技には感謝しているよ」
「そうじゃなくて……」
悠吾だってもちろん、紗奈がなにを言いたいのかはわかっているはずだ。
わかっていてあえてとぼけるのは、そのことに触れてほしくないからなのだろう。だとしたら、それ以上踏み込んではいけない。
「せっかくの料理、ほとんど食べられなかったから」
胸に渦巻く感情を飲み込んでそう言うと、悠吾は一瞬、虚を突かれた顔をした。
でも次の瞬間、ふわりと笑う。
「確かに、もったいないことをしたな」
柔らかな表情でそう返して、悠吾は紗奈に手を差し出す。
「え?」
戸惑う紗奈に悠吾が言う。
「お詫びにどこかで食事をしてから送らせてくれ」
パーティー会場を後にした段階で、紗奈の役目は終わったものだと思っていたが、まだ継続しているらしい。
(今日一日くらい、いいよね)
彼の恋人役は、今日一日限りのアルバイト。週が明ければ、紗奈と悠吾の距離は本来の形に戻る。
今日みたいな時間を一緒に過ごすことは二度とないのだから、最後にもう少しくらい恋人ごっこをするのも悪くない。
「はい」
紗奈は満面の笑顔で頷いて、彼の手を取った。