この恋は演技
6・夢から覚めた後の日常
翌週の水曜日、紗奈が自分のデスクでデーターの入力をしつつ、次席で仕事をする悠吾の様子を盗み見る。
アルバイトとして彼の恋人役を演じたのは、先週の土曜日のこと。
パーティー会場を抜け出した後、ふたりで食事をして、それでもすぐに離れるには名残惜しくて、彼の車でドライブを楽しんでから家まで送ってもらった。
その全てが、紗奈にとっては夢のような時間だった。
二週連続で着飾った姉の姿を見て慶一はかなり戸惑っていたけど、その反面、年相応の女性らしくお洒落をする姿に喜んでいた。
自分の存在が、紗奈の負担になっているのではないかと気にしていたと打ち明けられて驚いた。
長年胸に燻らせていた思いを言葉にできたのは、悠吾とのデートから帰って来た紗奈の表情が活き活きしていたからだと言う。
そんな慶一を安心させたくて、つい『お姉ちゃんにも、デートする恋人くらいいるんだから』と嘘をついてしまったのは、痛い失敗なのだけど。
適当なタイミングを見て、慶一には、『恋人とは別れた』と、もう一度嘘をつかなくてはいけない。
仕事をしながら頭の片隅でそんなことを考えていると、誰かが「部長」と、悠吾に話しかける声が聞こえた。
(こうやって、仕事をする部長を見ていると、あの日のことが夢だったんじゃないかって思えてきちゃう)
声につられて視線を向けると、部下に話しかけられた悠吾は自席でなにか書類に目を通しながら話しに耳を傾けている。その姿は相変わらずの『冷徹御曹司』といった感じだ。
部下に指示を出す時に、ニコリとすることもない。
紗奈の方も、月曜日からはこれまでと変わりなく、眼鏡にお団子ヘアで出勤している。髪の色は以前より少し明るくなったけど、服装やメイクも今まで通りだ。
もちろんふたりの間に会話もないので、悠吾から紗奈の口座に振り込まれたバイト代の記録と、彼に買ってもらったドレスがなければ、本当に夢だったのではないかと思っていたことだろう。
その時、悠吾のデスクの電話が鳴った。
話しをしていた部下に断りを入れて電話に出た悠吾の表情が、一瞬で引き締まる。
もとからにこやかに話していたわけではないが、それでも一段と険しくなるその表情に、ただならぬものを感じていると、受話器を戻した悠吾が部下に言う。
「すまない、社長室に呼ばれたので、続きは後にさせてくれ」
そして軽くデスクを片付けると、そのまま立ち上がり席を離れる。
踵を鳴らしてフロアを出ていく悠吾の姿が見えなくなると、緊張から解放されたのか、話しをしていた社員が胸をなで下ろしている。
誰かが「社長直々の呼び出しって、本当に専務の存在薄いよな」と、囁くのが聞こえた。
「部長の出来がよすぎるんだよ。婿養子の専務は、実の息子をひがんで毛嫌いしているもんな」
誰かがそう応じた。
そのまま次期社長が誰になるのか、小声で囁き合う声がそこここで聞こえる。
紗奈はそれらの声は聞こえないいフリで、データーの入力に専念する。
でも頭片隅では、どうしても土曜日のことを考えてしまう。
パーティー会場で偶然遭遇した自分の父親を、悠吾は名前でなく役職で呼び、冷めた口調で話しかけていた。父である昌史の方も、息子と話しているといった感じはなく淡々としたものだった。
(お父さんを早くに亡くしたからよくわかんないけど、慶一とお父さん、もっと仲良しだったよね)
慶一が反抗期を迎える歳まで父が健在だったら、多少はケンカとかしたのかもしれない。それでも悠吾と昌史のような、冷めたものにはならなかったはずだ。
セレクトショップの松林も、彼の両親の仲が悪いようなことを言っていたから、家族仲は良好じゃないのかもしれない。
それにデートの際に悠吾が『会社での俺は、組織の歯車でしかないんだから、感情なんて必要ないよ』と言っていたことも気にかかる。
(以前は、部長みたいに裕福な家に生まれれば、なんの憂いもなく安心して暮らせるのだと思っていたけど、違うのかも……)
そこまで考えて、紗奈は首を振る。
(なんか私、最近部長のことばっかり考えている)
バイトは終わったのだから、彼と自分はただの部下と上司の間柄にすぎない。
本物の恋人というわけでもないのだから、あれこれ考えるなんてどうかしている。
自分の思考から悠吾の存在を追い出したくて両頬を軽く叩いていたら、向かいのパソコンの陰からみゆきが顔を覗かして「寝そうになっていたでしょ」と笑う。
「違います」
「眠気覚ましに、総務までこの書類届けてくる気ない? 私、あそこに苦手な人がいるんだよね」
みゆきは紗奈の抗議を無視して、こちらにA4ファイルを差し出してくる。
眠くはないけど気分転換にちょうどいいので、そのお使いを引き受けることにした。
立ち上がると、他の社員もついでの用事を頼んでくるので、それも引き受けた。
それから三十分ほどかけて古賀建設本社ビルを上に下に移動しながらお使いを済ませた紗奈は、飲み物を買ってから自分のオフィスに戻ることにした。
普段は水筒を持ってきているのだけど、今日は忘れてしまった。コンビニで買うより、社内の自販機で買った方が安いので、そういう時はいつもそうしている。
休憩を取るには中途半端な時間なので、自販機がある休憩スペースには誰もいないと思っていたのに、自販機と共に数組の椅子やテーブルが置かれているその場所には先客がいた。
「部長?」
紗奈が遠慮がちに声をかけると、自販機に肩を預けてぼんやりしていた悠吾がこちらへと視線を向けた。
「松浦君も休憩か?」
悠吾は、気まずそうに肩をすくめる。
それが当たり前なのに、彼に苗字で呼ばれることが寂しい。
「私は飲み物を買ったらすぐに戻ります。部長はゆっくりしていてください」
悠吾がひどく疲れているように見えて、早口に伝える。
紗奈が自販機の前に立つと、悠吾も立ち上がり、紗奈の体を包み込むように背後から腕を伸ばしてきた。
「部長?」
彼の行動に驚いた紗奈が戸惑いの声を上げると、悠吾は背後から腕を伸ばして自販機の電子リーダに自分のスマホを添えて言う。
「サボっているのを見付かってしまったからな。口止め料に奢らせてくれ」
「サボるだなんて、いつも誰よりも一生懸命仕事されているじゃないですか」
「認めてくれてありがとう」
首筋に触れる息遣いで、彼が薄く笑ったのがわかった。
オフィスでは悠吾の笑顔などまず見ることはない。彼の貴重な笑顔を見逃してしまったようだ。
それを残念に思いつつ「なにかあったんですか?」と、問いかけた。
「なにか?」
悠吾が質問に質問で返す。
彼がそういう言い方をする時は、自分の内側に踏み込んでほしくない時だということは、なんとなくわかる。
それでもほっておけなくて、紗奈はもう一歩踏み込む。
「あまり一人で抱え込まずに、私にできることがあるなら言ってください」
「え?」
触れる背中で悠吾が息を飲むのを感じた。
思わずといった感じで、彼が紗奈の言葉にそんな反応を示すのは、それだけ重たいものを一人で背負っているということなのだろう。
(私にできることなんてなにもない……)
そんなふうに割り切ってしまうのは簡単だけど、それで彼に孤独な思いをさせたくない。
紗奈は首をそらせて、できるだけ気軽な口調でう。
「雇われですけど、私は悠吾さんのパートナーなんですから」
それは一夜のかりそめの関係だったことは承知している。でも彼を孤独にしたくなくて、あえて鈍感なフリをして微笑む。
目が合った悠吾の纏う空気がわずかに和む。
それをうれしく思っていると、悠吾に「なにを飲むの?」と聞かれた。
「あ、すみません」
自分たちがかなり密着していることを思い出し、紗奈は慌ててミネラルウォーターのボタンを押した。
直後、ガタンと大きな音がする。
その音に悠吾は、紗奈の肩に右手を乗せて左腕を取り出し口に伸ばす。自然と体が密着して、彼の纏う香水のにおいを感じた。
ただそれだけのことに紗奈が胸を高鳴らせていると、悠吾は紗奈の頬に取りだしたペットボトルを押しつけてくる。
「ヒャッ」
不意打ちの冷たさに、紗奈が小さな悲鳴をあげた。
驚いて腰を捻って後ろを見ると、悠吾がニヤッと笑う。
「悪い。そんなに驚くとは思わなかったんだ」
「もう」
悪戯好きの少年のような笑顔を見せる彼を睨んで、紗奈はペットボトルを受け取る。
思わず拗ねた声を出してしまったけど、その後で「ありがとうございます」とお礼を付け足す。
「相変わらず、君は人がいいな」
体を密着させたまま悠吾は紗奈に「君との契約はまだ継続中と思っていいのかな?」と、確認する。
「はい」
紗奈は即答する。
すると悠吾は自販機に片腕を預け、紗奈の顔を覗き込んで言う。
「では俺と結婚してもらおうか」
「はい~?」
紗奈は素っ頓狂な声を響かせる。
その反応を味わっているのか、十分な間を取ってから悠吾が続ける。
「先ほど社長に呼び出されて、先日のパーティーでの件を叱責された。先方も祖父も、俺に思う人がいるくらいでは納得してくれないらしい。それどことか、見合いをすっ飛ばして、強引に縁談に持ち込みそうな雰囲気だ」
「そ、それは大変ですね」
先日顔を合わした明日香の言動を思い出す。
相手の感情を無視して自分の感情を押し付ける彼女は、自身の傲慢さを隠そうともしていなかった。
あの場では、悠吾の気迫に負けて言葉を飲み込んだようだけど、納得はしていなかったようだ。
そのことに同情はするのだけど……。
「だからといって、結婚というのは飛躍しすぎでは?」
顔を引きつらせる紗奈に、悠吾はいやいやと首を横に振る。
「向こうが聞く耳を持たないのであれば、俺も次の対抗策を講じなくてはいけないと思っていたところなんだ」
「それが、私との……」
(結婚でしょうか?)
話が飛躍しすぎている。紗奈は頬を引きつらせるのだけど、悠吾が気にしている様子はない。
「目の前に契約続行中のパートナーがいるんだ、悪くない発想だろ?」
軽く顎を上げ、誇らしげな口調で続ける。
「先に他の女性と籍を入れておけば、さすがに強引に縁談を進めることはできないだろ」
「た、確かにそうかもしれませんけど……」
だからと言って、紗奈と結婚をするなんて。
確かにできることはなんでもすると言ったのは紗奈だし、契約続行中を宣言したのも自分だ。
とはいえ、さすがに結婚するのは無理がある。
「なんだ? 他の男性と結婚の予定でもあるのか?」
「そんなの、あるわけないです」
先日も言ったことだけど、恋人いない歴イコール年齢なのだ。
「では、問題ないな」
「問題、大ありです」
なにせ相手は、古賀建設の御曹司様なのだ。
紗奈が彼の妻になるなんてありえない。そう訴えても、悠吾は「かまわん」と一笑に付す。
「それとも松浦君は、私が夫では不満ということか? そうなら、君のためにできる限りの改善をさせてもらうが?」
悠吾はそう問い掛けて、こちらの思いを探るように目を細める。
男としての色気に溢れた艶っぽいその表情に、紗奈は思わず言葉をつまらせる。
自分の見せ方を熟知している動きに、悔しいけど見惚れてしまう。
フリーズして黙り込む紗奈相手に、悠吾は結婚の条件を並べていく。
「もちろん、夫婦と言っても形だけの関係だ。一緒に暮らすとしても、寝室は別でかまわない。ほとぼりが冷めるか、松浦君に好きな人ができた時には離婚しよう。それでも離婚歴が残ってしまうお詫びも兼ねて、バイトの追加料金として君の弟が大学を卒業するまでの授業料と生活費の面倒を見させてもらう」
その破格の条件は、紗奈と一緒にいたからではなく、女性と絶対に結婚したくないからだ。
紗奈としては、自社の御曹司様と結婚だなんてとんでもない話しなのだけど、ただそれ以上に、あの明日香という女性が悠吾の妻になるなんてありえない。
紗奈は覚悟を決める。
「わかりました。ビジネスとして受けさせてください」
その言葉に悠吾が表情を和ませた。
先ほどまでの、自分の見せ方を熟した計算尽くの表情とは異なる自然な笑顔に、紗奈の顔が熱くなる。
「助かる。君に損をさせない夫になれるよう努力させてもらう」
悠吾は紗奈の肩を軽く叩き、姿勢を直してその場を離れて行った。
彼の背中を見送った紗奈は、脱力してその場にズルズルと座り込む。
先ほど悠吾に買ってもらったペットボトルを首筋に当てて、必死に自分を落ち着かせる。
「結婚? 私が? 古賀部長と?」
そう呟いてみても、少しも実感が湧いてこない。
でも彼が冗談を言っているとは思えないから、本気なのだろう。
アルバイトとして彼の恋人役を演じたのは、先週の土曜日のこと。
パーティー会場を抜け出した後、ふたりで食事をして、それでもすぐに離れるには名残惜しくて、彼の車でドライブを楽しんでから家まで送ってもらった。
その全てが、紗奈にとっては夢のような時間だった。
二週連続で着飾った姉の姿を見て慶一はかなり戸惑っていたけど、その反面、年相応の女性らしくお洒落をする姿に喜んでいた。
自分の存在が、紗奈の負担になっているのではないかと気にしていたと打ち明けられて驚いた。
長年胸に燻らせていた思いを言葉にできたのは、悠吾とのデートから帰って来た紗奈の表情が活き活きしていたからだと言う。
そんな慶一を安心させたくて、つい『お姉ちゃんにも、デートする恋人くらいいるんだから』と嘘をついてしまったのは、痛い失敗なのだけど。
適当なタイミングを見て、慶一には、『恋人とは別れた』と、もう一度嘘をつかなくてはいけない。
仕事をしながら頭の片隅でそんなことを考えていると、誰かが「部長」と、悠吾に話しかける声が聞こえた。
(こうやって、仕事をする部長を見ていると、あの日のことが夢だったんじゃないかって思えてきちゃう)
声につられて視線を向けると、部下に話しかけられた悠吾は自席でなにか書類に目を通しながら話しに耳を傾けている。その姿は相変わらずの『冷徹御曹司』といった感じだ。
部下に指示を出す時に、ニコリとすることもない。
紗奈の方も、月曜日からはこれまでと変わりなく、眼鏡にお団子ヘアで出勤している。髪の色は以前より少し明るくなったけど、服装やメイクも今まで通りだ。
もちろんふたりの間に会話もないので、悠吾から紗奈の口座に振り込まれたバイト代の記録と、彼に買ってもらったドレスがなければ、本当に夢だったのではないかと思っていたことだろう。
その時、悠吾のデスクの電話が鳴った。
話しをしていた部下に断りを入れて電話に出た悠吾の表情が、一瞬で引き締まる。
もとからにこやかに話していたわけではないが、それでも一段と険しくなるその表情に、ただならぬものを感じていると、受話器を戻した悠吾が部下に言う。
「すまない、社長室に呼ばれたので、続きは後にさせてくれ」
そして軽くデスクを片付けると、そのまま立ち上がり席を離れる。
踵を鳴らしてフロアを出ていく悠吾の姿が見えなくなると、緊張から解放されたのか、話しをしていた社員が胸をなで下ろしている。
誰かが「社長直々の呼び出しって、本当に専務の存在薄いよな」と、囁くのが聞こえた。
「部長の出来がよすぎるんだよ。婿養子の専務は、実の息子をひがんで毛嫌いしているもんな」
誰かがそう応じた。
そのまま次期社長が誰になるのか、小声で囁き合う声がそこここで聞こえる。
紗奈はそれらの声は聞こえないいフリで、データーの入力に専念する。
でも頭片隅では、どうしても土曜日のことを考えてしまう。
パーティー会場で偶然遭遇した自分の父親を、悠吾は名前でなく役職で呼び、冷めた口調で話しかけていた。父である昌史の方も、息子と話しているといった感じはなく淡々としたものだった。
(お父さんを早くに亡くしたからよくわかんないけど、慶一とお父さん、もっと仲良しだったよね)
慶一が反抗期を迎える歳まで父が健在だったら、多少はケンカとかしたのかもしれない。それでも悠吾と昌史のような、冷めたものにはならなかったはずだ。
セレクトショップの松林も、彼の両親の仲が悪いようなことを言っていたから、家族仲は良好じゃないのかもしれない。
それにデートの際に悠吾が『会社での俺は、組織の歯車でしかないんだから、感情なんて必要ないよ』と言っていたことも気にかかる。
(以前は、部長みたいに裕福な家に生まれれば、なんの憂いもなく安心して暮らせるのだと思っていたけど、違うのかも……)
そこまで考えて、紗奈は首を振る。
(なんか私、最近部長のことばっかり考えている)
バイトは終わったのだから、彼と自分はただの部下と上司の間柄にすぎない。
本物の恋人というわけでもないのだから、あれこれ考えるなんてどうかしている。
自分の思考から悠吾の存在を追い出したくて両頬を軽く叩いていたら、向かいのパソコンの陰からみゆきが顔を覗かして「寝そうになっていたでしょ」と笑う。
「違います」
「眠気覚ましに、総務までこの書類届けてくる気ない? 私、あそこに苦手な人がいるんだよね」
みゆきは紗奈の抗議を無視して、こちらにA4ファイルを差し出してくる。
眠くはないけど気分転換にちょうどいいので、そのお使いを引き受けることにした。
立ち上がると、他の社員もついでの用事を頼んでくるので、それも引き受けた。
それから三十分ほどかけて古賀建設本社ビルを上に下に移動しながらお使いを済ませた紗奈は、飲み物を買ってから自分のオフィスに戻ることにした。
普段は水筒を持ってきているのだけど、今日は忘れてしまった。コンビニで買うより、社内の自販機で買った方が安いので、そういう時はいつもそうしている。
休憩を取るには中途半端な時間なので、自販機がある休憩スペースには誰もいないと思っていたのに、自販機と共に数組の椅子やテーブルが置かれているその場所には先客がいた。
「部長?」
紗奈が遠慮がちに声をかけると、自販機に肩を預けてぼんやりしていた悠吾がこちらへと視線を向けた。
「松浦君も休憩か?」
悠吾は、気まずそうに肩をすくめる。
それが当たり前なのに、彼に苗字で呼ばれることが寂しい。
「私は飲み物を買ったらすぐに戻ります。部長はゆっくりしていてください」
悠吾がひどく疲れているように見えて、早口に伝える。
紗奈が自販機の前に立つと、悠吾も立ち上がり、紗奈の体を包み込むように背後から腕を伸ばしてきた。
「部長?」
彼の行動に驚いた紗奈が戸惑いの声を上げると、悠吾は背後から腕を伸ばして自販機の電子リーダに自分のスマホを添えて言う。
「サボっているのを見付かってしまったからな。口止め料に奢らせてくれ」
「サボるだなんて、いつも誰よりも一生懸命仕事されているじゃないですか」
「認めてくれてありがとう」
首筋に触れる息遣いで、彼が薄く笑ったのがわかった。
オフィスでは悠吾の笑顔などまず見ることはない。彼の貴重な笑顔を見逃してしまったようだ。
それを残念に思いつつ「なにかあったんですか?」と、問いかけた。
「なにか?」
悠吾が質問に質問で返す。
彼がそういう言い方をする時は、自分の内側に踏み込んでほしくない時だということは、なんとなくわかる。
それでもほっておけなくて、紗奈はもう一歩踏み込む。
「あまり一人で抱え込まずに、私にできることがあるなら言ってください」
「え?」
触れる背中で悠吾が息を飲むのを感じた。
思わずといった感じで、彼が紗奈の言葉にそんな反応を示すのは、それだけ重たいものを一人で背負っているということなのだろう。
(私にできることなんてなにもない……)
そんなふうに割り切ってしまうのは簡単だけど、それで彼に孤独な思いをさせたくない。
紗奈は首をそらせて、できるだけ気軽な口調でう。
「雇われですけど、私は悠吾さんのパートナーなんですから」
それは一夜のかりそめの関係だったことは承知している。でも彼を孤独にしたくなくて、あえて鈍感なフリをして微笑む。
目が合った悠吾の纏う空気がわずかに和む。
それをうれしく思っていると、悠吾に「なにを飲むの?」と聞かれた。
「あ、すみません」
自分たちがかなり密着していることを思い出し、紗奈は慌ててミネラルウォーターのボタンを押した。
直後、ガタンと大きな音がする。
その音に悠吾は、紗奈の肩に右手を乗せて左腕を取り出し口に伸ばす。自然と体が密着して、彼の纏う香水のにおいを感じた。
ただそれだけのことに紗奈が胸を高鳴らせていると、悠吾は紗奈の頬に取りだしたペットボトルを押しつけてくる。
「ヒャッ」
不意打ちの冷たさに、紗奈が小さな悲鳴をあげた。
驚いて腰を捻って後ろを見ると、悠吾がニヤッと笑う。
「悪い。そんなに驚くとは思わなかったんだ」
「もう」
悪戯好きの少年のような笑顔を見せる彼を睨んで、紗奈はペットボトルを受け取る。
思わず拗ねた声を出してしまったけど、その後で「ありがとうございます」とお礼を付け足す。
「相変わらず、君は人がいいな」
体を密着させたまま悠吾は紗奈に「君との契約はまだ継続中と思っていいのかな?」と、確認する。
「はい」
紗奈は即答する。
すると悠吾は自販機に片腕を預け、紗奈の顔を覗き込んで言う。
「では俺と結婚してもらおうか」
「はい~?」
紗奈は素っ頓狂な声を響かせる。
その反応を味わっているのか、十分な間を取ってから悠吾が続ける。
「先ほど社長に呼び出されて、先日のパーティーでの件を叱責された。先方も祖父も、俺に思う人がいるくらいでは納得してくれないらしい。それどことか、見合いをすっ飛ばして、強引に縁談に持ち込みそうな雰囲気だ」
「そ、それは大変ですね」
先日顔を合わした明日香の言動を思い出す。
相手の感情を無視して自分の感情を押し付ける彼女は、自身の傲慢さを隠そうともしていなかった。
あの場では、悠吾の気迫に負けて言葉を飲み込んだようだけど、納得はしていなかったようだ。
そのことに同情はするのだけど……。
「だからといって、結婚というのは飛躍しすぎでは?」
顔を引きつらせる紗奈に、悠吾はいやいやと首を横に振る。
「向こうが聞く耳を持たないのであれば、俺も次の対抗策を講じなくてはいけないと思っていたところなんだ」
「それが、私との……」
(結婚でしょうか?)
話が飛躍しすぎている。紗奈は頬を引きつらせるのだけど、悠吾が気にしている様子はない。
「目の前に契約続行中のパートナーがいるんだ、悪くない発想だろ?」
軽く顎を上げ、誇らしげな口調で続ける。
「先に他の女性と籍を入れておけば、さすがに強引に縁談を進めることはできないだろ」
「た、確かにそうかもしれませんけど……」
だからと言って、紗奈と結婚をするなんて。
確かにできることはなんでもすると言ったのは紗奈だし、契約続行中を宣言したのも自分だ。
とはいえ、さすがに結婚するのは無理がある。
「なんだ? 他の男性と結婚の予定でもあるのか?」
「そんなの、あるわけないです」
先日も言ったことだけど、恋人いない歴イコール年齢なのだ。
「では、問題ないな」
「問題、大ありです」
なにせ相手は、古賀建設の御曹司様なのだ。
紗奈が彼の妻になるなんてありえない。そう訴えても、悠吾は「かまわん」と一笑に付す。
「それとも松浦君は、私が夫では不満ということか? そうなら、君のためにできる限りの改善をさせてもらうが?」
悠吾はそう問い掛けて、こちらの思いを探るように目を細める。
男としての色気に溢れた艶っぽいその表情に、紗奈は思わず言葉をつまらせる。
自分の見せ方を熟知している動きに、悔しいけど見惚れてしまう。
フリーズして黙り込む紗奈相手に、悠吾は結婚の条件を並べていく。
「もちろん、夫婦と言っても形だけの関係だ。一緒に暮らすとしても、寝室は別でかまわない。ほとぼりが冷めるか、松浦君に好きな人ができた時には離婚しよう。それでも離婚歴が残ってしまうお詫びも兼ねて、バイトの追加料金として君の弟が大学を卒業するまでの授業料と生活費の面倒を見させてもらう」
その破格の条件は、紗奈と一緒にいたからではなく、女性と絶対に結婚したくないからだ。
紗奈としては、自社の御曹司様と結婚だなんてとんでもない話しなのだけど、ただそれ以上に、あの明日香という女性が悠吾の妻になるなんてありえない。
紗奈は覚悟を決める。
「わかりました。ビジネスとして受けさせてください」
その言葉に悠吾が表情を和ませた。
先ほどまでの、自分の見せ方を熟した計算尽くの表情とは異なる自然な笑顔に、紗奈の顔が熱くなる。
「助かる。君に損をさせない夫になれるよう努力させてもらう」
悠吾は紗奈の肩を軽く叩き、姿勢を直してその場を離れて行った。
彼の背中を見送った紗奈は、脱力してその場にズルズルと座り込む。
先ほど悠吾に買ってもらったペットボトルを首筋に当てて、必死に自分を落ち着かせる。
「結婚? 私が? 古賀部長と?」
そう呟いてみても、少しも実感が湧いてこない。
でも彼が冗談を言っているとは思えないから、本気なのだろう。