この恋は演技

7・新婚生活の始まり

「姉ちゃん、本当に大丈夫なの?」
 三月末、新幹線のホームまで弟である慶一の見送りに来ていた紗奈は、深刻な顔をする弟の言葉に吹きだしてしまった。
「なにそれ? それはお姉ちゃんのセリフでしょ。本当に向こうまでついて行かなくていいの?」
 笑われて、慶一は困り顔で頭を掻く。
 今日、慶一は大学進学のために、東京を離れて一人暮らしを始める。残念ながら国立大学の合格は果たせなかったけど、それでも姉として、現役で医大合格を果たした弟を誇らしく思う。
「そうなんだけど、姉ちゃん、俺の学費ために無理してあの人と結婚するんじゃないの?」
 慶一の視線は、旅立つ直前の姉弟の会話を邪魔しないようにと、離れた場所にいる悠吾に向けられている。
「な、なんでそんなことを言うのよっ!」
 顔の前で手をヒラヒラさせて慌てる紗奈に、慶一が言う。
「だって、俺の学費も生活費も、全部あの人が出してくれることになっただろ? 姉ちゃんと、結婚するからって」
 そうなのだ。
 あの日、恋人役の延長で紗奈に偽装結婚を迫った悠吾は、その代わりに慶一が大学を卒業するまでの学費と生活費の負担することを提案した。
 学生時代、勉強とバイト三昧で学生らしい思い出のない紗奈としては、弟にまで同じ苦労をさせたくないと思っていた。
 ましてや慶一が進むのは医学部だ。
 勉強の他課題や実習も大変だろうから、自由になる時間は、学生らしい思い出を作ることに使ってもらいたい。
 だからとっぴなこととは言え、彼の申し出に感謝している部分もある。
 今日、慶一を見送ったら、その足で悠吾と区役所に赴いて婚姻届を出し、彼が一人暮らしをするマンションに引っ越すことになっている。
「確かに、経済的には悠吾さんに頼る形になっちゃったけど。そういうこと関係なく、お姉ちゃんは、あの人と一緒にいたいと思っているんだよ」
 紗奈はそっと微笑む。
 彼が紗奈に結婚を申し込んだのは、あの明日香と言う女性との結婚を避けるためだ。紗奈をその相手に選んだのは、消去法のけっかだろう。
 紗奈がそれを引き受けたのは、相手が悠吾だからだ。もし他の誰かが相手なら、今以上の条件を提示されても受けたりはしなかった。
 あの日、彼に背中を預けて話した時に、悠吾の心に触れたような気がした。
 紗奈ごときが理解した口を効くのはおこがましいことだけど、悠吾はなにか大きな重荷を背負って生きているような気がしてならない。大企業の御曹司なのだから、当然呂言えば当然のことなのかもしれないけど、悠吾は会社経営の重責云々とは別の苦悩を感じる。
 だから、少しでいいから彼の助けになりたくて結婚を決めたのだ。
「良い奥さんになれる自信はないけど、精一杯悠吾さんを支えていくつもりよ」
 紗奈の決意表明に、慶一は顔をほころばせる。
「頑張って。まあ普通に考えたら、悠吾さんみたいなすごい人が、恋愛感情もなしに姉ちゃんと結婚したなんて思うわけないよな」
「そうでしょ」
「逆に、悠吾さんが無理して姉ちゃんと結婚するんだったりして」
 慶一が陽気に笑う。
 弟としては、軽い冗談のつもりなのだろうけど、なかなかに核心を突いている。
「姉ちゃん、どうかした?」
 グッと黙り込む紗奈に、慶一が首をかしげる。
「なんでもない。……そんなわけだから、慶一はこっちのことは心配しないで、向こうで勉強を頑張ってね」
「ありがとう。医者になったら、悠吾さんに出してもらっているお金はちゃんと返すから」
 そう言うと慶一は、離れた場所にいる悠吾に向かって、深々と一礼をして新幹線に乗り込んでいった。
「ありがとうございました」
 空気を揺らす豪快な音を立てて走り出す新幹線を見送った紗奈は、離れた場所で待機してくれていた悠吾に駆け寄りお礼を告げる。
「慶一君、生真面目ないい子だな」
 カーブを曲がって遠ざかっていく新幹線に目を向けたまま、悠吾が言う。
 慶一の進学先が決定した際に、悠吾が、進学祝いにと紗奈たち姉弟を焼き肉に招待してくれた。
 その際に悠吾は慶一に、自分は紗奈と結婚するつもりでいることと、義兄として彼の学費などは自分が負担すると話したのだ。
 突然の姉の結婚宣言に、慶一はかなり驚いていた。
 そして悠吾から経済支援を受けることで、姉の精神的負担になってはいけないと、最初はその申し出を断った。
 悠吾は、弟のそんな性格をとても気に入ってくれたようだ。
 支援するお金は、慶一の未来への投資だから将来返してくれればいいと納得させ、大学近くの物件を探してくれただけでなく、一人暮らしを始めるのに必要な家電など一式買いそろえてくれた。その上、もしもの時は頼るようにと、近くに住んでいる知人の連絡先まで教えていた。
「自慢の弟です」
 紗奈は誇らしげに返す。
「仲がよくて羨ましいよ」
(悠吾さんも、きょうだいが欲しかったのかな?)
 紗奈がそんなことを考えていると、悠吾がこちらへと手を差し伸べてきた。
「え?」
「俺たちは、夫婦になるんだろう?」
 だから手を繋ごうということらしい。
「はい」
 まだぎこちないけど、自分たちは夫婦として歩み出すのだ。
 紗奈は、照れつつも彼の手を取る。そしてふたり並んで歩き出した。
 ちなみに紗奈の母は、家の金を使い込み、弟の進学費用全てを紗奈に捻出させたことが気まずかったのだろう。
 あれから紗奈を避けているし、紗奈が結婚して家を出ると言ったらすごく安堵していた。どうやら母には、一緒に暮らしたい相手がいるようだった。
 母が父以外の男性と一緒になることに寂しさを覚えるが、母には母の人生がある。
 だから紗奈は、そのことを深く考えることなく、今回の契約結婚は、家族それぞれの門出のチャンスになったのだと思うことにしている。

 悠吾のが暮らすマンションを訪れた紗奈が、その広さに圧倒されていた。
 彼の住まいは、数年前に社長が陣頭指揮を執り、古賀建設の威信を知らしめるがごとく都心の一等地に建てられた分場マンショの最上階にあった。
「すごい……」
 紗奈はリビングの高い天井を見上げて、思わず声を漏らした。
 社員として、もちろんこのマンションの存在は知っていたけど、仲に足を踏み入れたのはこれが初めてだ。
 資料で床材に大理石を使用していることや間取りの広さ、高層階からは都心の夜景が一望出来るといったことは呼んでいる。でも知識として知っているのと、実際に目の当たりにするのではぜんぜん違う。
 絢爛さに圧倒される。
「とりあえず、ゆっくりしたらどうだ? 今日から君の家になるんだし」
 紗奈があっけに取られている間に飲み物の準備を済ませた悠吾が、そう言ってソファーの前のローテーブルに紅茶を置く。
「すみません。ありがとうございます」
 眼下の眺望に気を取られていた紗奈は、慌てて駆け寄りソファーに腰を下ろした。
 ソファーは海外メーカーのもので、白い革張りのゆったりとした造りをしている。
 小柄な紗奈なら、ベッドとして使えそうだ。
「新居は気に入ってくれた?」
 少し間を開けて、紗奈と並んで座る悠吾が聞く。
「気に入ったと言うか……」
 そこで紗奈が言葉を切って黙り込むと、紅茶を飲もうとしていた悠吾は動きを止めてこちらに視線を向ける。
「なにか不満でも?」
 気遣わしげな視線を向けてくる彼に、紗奈は慌てて言葉を足す。
「すごすぎて、色々圧倒されているんです。私なんかが、こんな所にいていいのかなって……」
 紗奈のその言葉に、悠吾がフッと息を吐く。
 そして張りつめていた空気を解くように薄く笑って紅茶を飲んだ。
「俺は、紗奈に、自分の妻としてこの部屋にいてほしいと思っているよ」
 ティーカップをソーサーに戻して悠吾が言う。
 彼のその言葉に、紗奈の心臓が大きく跳ねた。
(そ、それは、奥さん役を任せるなら、私が良いって意味だよね)
 紗奈だってそれくらいわかっている。
 でもいくら頭でわかっていても、簡単には感情のセーブが追いつかない。
 紗奈が赤面して黙り込んでいると、腕を伸ばしてソーサーをテーブルに戻した悠吾がこちらに視線を向けてくる。
「紗奈?」
 戸惑い気味に自分の名前を呼ぶ彼は、そのままこちらへと手を伸ばしてくる。
「あっ!」
 頬に触れる彼の手の冷たさに驚いて、妙な声が漏れた。それが恥ずかしくて、よけいに心臓がドキドキする。
 それなのに悠吾は、紗奈の緊張などお構いなしに距離を詰めてくる。
 紗奈の頬に手を添えてジッと顔を覗き込む。
「紗奈……顔がやけに熱くないか」
 そんなことを呟いて、しまいには互いのおでこを密着させる。
(し、心臓が爆発するっ!)
 間近に迫る彼の顔の造形のよさに、紗奈は息を止めてひたすら緊張に耐えていると、悠吾がハッと息を飲んだ。
「悪いっ」
 早口に謝ると、慌ててふたりの距離を適切なものに戻す。
「いえ。大丈夫です」
 そうは答えたけど、顔が熱くてしょうがない。
 紗奈は頬を両手で包んで、自分の気持ちを整える。
「心配していただいて、ありがとうございます。顔が赤いのは、その……」
 自分の頬をぺちぺちたたきながら、紗奈は少し考える。
 そして「天気が良すぎたせいです」と、少々苦しい言い訳をした。
 確かに天気は良いけど、まだ三月末なので、のぼせるほどの気温ではない。
「なるほど」
 悠吾は前髪を乱暴に掻き上げて窓の外に視線を向ける。
 そのまま数秒外に視線を向けることで気持ちを切り替えたのか、紗奈に視線を戻した時には落ち着いた表情になっていた。
「ところでこれからのことだが、会社への報告は、俺に任せてもらっていいか?」
 ふたりの結婚のことを、彼は自分の家族に伝えていない。そのため、自分たちの関係を公にするタイミングは少し考えさせてほしそうだ。
 事務的な手続きも、なるべく話しが広まらないよう、悠吾の方で信頼できる社員に頼むとのことだ。
 とはいえ、同じ会社に勤めているので、それは多少の時間稼ぎにしかならない。
「もちろんです。悠吾さんの都合のいいようにしてください」
 紗奈とは違い、悠吾には色々と立場というものがある。
 詳しい事情はわからないけど、彼の好きにしてもらって構わない。
 あっさり承諾した紗奈にお礼を言い、悠吾は話題を変える。
「じゃあ、これからどうするかを決めようか」
「これから? 夕飯の心配とかですか? それなら私がなにか作りますよ」
 これまでずっと家のことをしていたので、紗奈はかなり料理が得意だ。
 今はまだ十五時過ぎなので、材料の買い出しから始めるとしてもよほど手の込んだ料理でない限り、リクエストしてもらえればなんだって作る。
 そう言って腰を浮かせようとする紗奈を、悠吾は笑って引き留めた。
「俺は家政婦が欲しくて結婚を申し込んだわけじゃない。掃除や洗濯は専門の業者に任せているし、食事は外食やケータリングで済ませている。それに今日の夕食は、結婚祝いにレストランを予約済みだ」
(家事は業者任せで、食事は外食やケータリング……)
 これまでの暮らしとは、大きく違い過ぎる。
 彼の生活水準を守るには幾らかかるのだろうかと考えかけたけど、御曹司の彼と自分と比べても意味がないと気が付き軽く頭を振る。
「レストランの予約……なんだか大げさですね」
 契約結婚なのだから、そこまでしなくていいのではないか。紗奈としては思うのだけど、悠吾はそうじゃないと首を振る。
「俺としては、夫婦仲よく出歩くことで、俺には特定のパートナーがいると印象付けておきたいんだ。聞かれれば、もちろん紗奈を自分の妻として紹介する。そうすることによって、家族が俺の入籍に気付く前に外堀を埋めておきたい」
「だから、社への報告を悠吾さんに任せてほしいって言ったんですね」
 紗奈の言葉に、悠吾はうなずく。
「世間体を気にする祖父のことだ、そうすればおいそれと離婚を迫ることもできないだろう。それで東野のご令嬢が俺との結婚を諦めた頃合いを見て、紗奈とは離婚するつもりでいるから」
 以前から思っていることだけど、悠吾が家族について語るとき、身内の話とは思えない距離を感じる。
 一般家庭で育った紗奈には理解できないだけで、大企業の重責を担うような立場の者としてはそれが普通なのだろうか?
 本当のパートナーでもない紗奈が、気軽に口だししていい話とも思えないので黙っているが、なんとなく胸の奥に重い石がつかえるような気分になる。
 悠吾は軽い口調で言う。
「俺が決めようと言ったのは、この先の暮らし方についてだよ」
「?」
「君が結婚に望むことを教えてもらいたい。最初に言ったとおり、俺が望むのは一緒に暮らして、世間的に仲の良い夫婦に見えるよう演じてほしいということだけだ。その謝礼に、もし途中で離婚するようなことになっても、慶一君が大学卒業するまでの生活は俺が保証する」
 悠吾の言葉に紗奈は考える。
 ふたりの寝室を別にすることは、すでに告げられている。
 彼としては本当に、世間的に妻として振る舞う以上のことを紗奈にもとめていないのだ。
 慶一の入学金どころか、卒業までの授業料や生活の面倒まで見ると言ってもらえたのだ。それ以上望むものなどない……。
 そう伝えようとして、紗奈はすんでのところで大事な見落としに気付いた。
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
 思わず前のめりになる紗奈に、悠吾は驚いた表情を見せつつ「どうぞ」と、先を促す。
「悠吾さんの迷惑にならない範囲でいいので、食事は私に任せてもらえませんか?」
 これまで弟の世話をしながら仕事をしてきたのだから、本当は家事全般を任せてもらいたいくらいだ。
 だけどあまりこちらの希望を押し通して、彼の生活リズムを崩すのもよくない。
 でもせめてケータリング任せにしている食事くらいは、担当させてもらえないだろうか。
「さっきも言ったが、俺は家政婦が欲しかったわけじゃない。経済支援に負い目を感じているのなら……」
 困り顔を見せる悠吾に、紗奈はそうじゃないと首を横に振る。
「人間の体は、自分が選んで口にしたもので出来ているんです。悠吾さんみたいに忙しい方はなおさら、自分に優しくするための食事が必要だからです」
「自分に優しくするための食事?」
 微かに目を見開き、悠吾は紗奈の言葉をなぞる。初めての食材を味わうようなぎこちない舌の動かし方だ。
「かりそめでも、私は悠吾さんの奥さんです。妻を演じる間だけでも、悠吾さんの体調を思って、夫の体調管理のお手伝いをさせてください」
 どこかぎこちない彼の反応を奇妙に思いつつ紗奈が言う。
「それは、妻役を演じるのに必要なことか?」
「はい。良い奥さんを演じるのに、必要なことです」
 彼の問に紗奈はすかさず断言する。
 一瞬、悠吾が喜んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える表情を見せた。
「悠吾さん?」
 自分は、なにか言ってはいけないことを言ったのだろうかと心配になる。
 紗奈が小さな声で名を呼ぶと、表情を整えて言う。
「では、紗奈の負担にならない範囲で頼む」
 そう言うと、自分のカップを手に立ち上がる。
「食事は十九時の予約だから、少しゆっくりするといい。紗奈の部屋はリビングを出てすぐの左の部屋だ。必要になりそうなものはひととおりそろえておいたが、足りないものがあれば教えてくれ」
 それだけ言うと、シンクにカップを置きリビングを出ていこうとする。
「悠吾さん」
 紗奈が呼び止める。
「どうかした?」
 振り返る彼の表情は、感情が読み取れない。
「私、なにか悪いことを言いましたか?」
 うまく言葉で表現できないけど、自分と彼の間に目には見えない境界線が惹かれたような気がした。
「まさか。俺はいい契約をしたと思っているよ」
 悠吾は軽く肩をすくめてそれだけ言うとリビングを出て行く。
 スリッパが床を叩く音と、どこかの部屋のドアが開閉される音がする。
 紗奈はその音を、心許ない気持ちで聞いていた。

  ◇◇◇

 夜、結婚記念に紗奈を食事に連れ出した悠吾は、向かい合って座る彼女の様子をうかがう。
 箸の方が食べやすいかと思い、店は和風創作ダイニングを選んだのだが正解だったようで、彼女は小鉢に盛り付けられている料理をどれも美味しそうに食べていく。
「悠吾さん? どうかしましたか?」
 こちらの視線に気付いた紗奈が、小さく首をかしげる。
 その声に悠吾は首を軽く振る。
「新妻に見とれていただけだ」
 紗奈はわかりやすく顔を赤くする。
「口が……うますぎます」
 恥ずかしそうに呟く紗奈に、「本気だ」と返したところで、彼女はその言葉を演技だと思うだろう。
 なにせ自分たちは、契約夫婦なのだから。
 もちろんそれで構わない。
 悠吾にとって家族なんて、呪縛のようなものなのだから。
(それでも……)
 手に取ったグラスを揺らし、ワインを空気となじませながら悠吾は思い出す。
 今日の昼間、自分の体を気遣い、料理を任せてほしいと話す紗奈に、彼女が本当に自分の家族だったらいいのにと思った自分がいる。
 悠吾はこれまで家族に『自分に優しくするための食事が必要』なんて気遣いの言葉をかけられたことはない。
 悠吾の出産を詫びる母と、悠吾が生きることを許した祖父と、悠吾の父になることで得をした男がいるだけだ。
 紗奈のように悠吾の体調を気遣ってくれる者などいない。気遣うにしても、それは悠吾を、古賀建設をつつがなく運営する部品として扱ってのことにすぎない。
 だからこそ、彼女が自分に向けたいたわりの言葉が、耳の奥でいつまでもこだまし続ける。
 食事を取りながら紗奈の言葉を思い出し、フッと笑う。
「悠吾さん、こういう味付けが好きなんですか?」
 紗奈に問われて、悠吾は視線をあげた。
 ふたりの前には、格子状に区切られたお重がそれぞれおかれている。九マスに区切られたスペースには異なる種類の料理が盛り付けされており、悠吾はハモの梅肉和えを口にしたところだった。
「嫌いではない」
 悠吾の返答に、紗奈は微かに唇を尖らせた。その些細な変化を見逃さない悠吾は、視線でどうかしたかと問いかける。
「嫌いではないって答えだと、今後の料理の参考にならないじゃないですか」
「ああ……」
 妻として、これから料理を担当すると宣言していた紗奈は、悠吾の好みの味を把握しようとしているのだ。
「好き嫌いもアレルギーも特にないから、なにを出されても問題ない」
「そんなに気を使わないでください。正直に教えてもらったほうが、古賀さんの舌に合うご飯が作りやすいので、私も助かります」
 悠吾が好きな料理を教えないのは、紗奈の料理の手間を気遣ってのことだと思ったようだが、そうではない。
 悠吾は本当に、そこまで食に執着していないのだ。
 それなのに、紗奈は急にハッと目を見開いてこんなことを言う。
「嫌いな食べ物は隠さなくても大丈夫です。意地悪なんてしませんし、体にいいものなら、どのみち上手に味付けして食べさせます」
 どこかお姉さん口調で話す彼女の姿に、どういうやって弟を育ててきたのか垣間見た気がした。
「なるほど……」
 口元を隠してクスクス笑う悠吾に、紗奈が「どうかしましたか?」と、不思議そうに首をかしげる。
「慶一君の背が高かったのは、紗奈の努力の結果なのだろなと思って」
 彼女の弟は、肩幅などはまだ成長途中といった感じだったが、背は悠吾より少し低い程度だった。
 紗奈はうれしそうにはにかむ。
「小さいころの慶一は、魚とピーマンが大嫌いでした。でも南蛮漬けみたいに調理して、トマトケチャップを使った甘酢あんに絡めると味が気にならなくなるんです」
 これまで彼女は、そうやって家族のために思考錯誤しながら毎日料理をしてきたのだ。
 そしてこれからは、悠吾のためにそれをしてくれると言う。
「そうだな……カフェラテは好きかな」
 紗奈のためになにか答えなくては。そんな思いで、記憶を探ってどうにか絞り出すことができたのがそれだった。
「カフェラテ?」
 紗奈が不思議そうに瞬きする。
 これまで悠吾は、彼女の前でカフェラテなんて飲んだことないのだから当然だ。
 ついカフェラテと言ってしまったのは、水族館でデートをした時、その後立ち寄ったカフェでそれをすごく嬉しそうに飲む紗奈の姿が強く記憶に焼き付いていたからだ。
 それなのに紗奈は「カフェラテ……てことは、洋食派ってことですね」と呟き、真剣な顔で考え込む。
 悠吾のよろこびそうなメニューを考えているのだろう。
「ありがとう。紗奈の手料理を楽しみにしているよ」
 悠吾は、心からの思いを告げた。
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