この恋は演技

8・深夜のミルク

 悠吾と入籍して半月。
 古賀建設のオフィスで、先輩社員に頼まれた作業に必要な資料を探していた紗奈は、突然うなじに冷たいものが触れて肩を跳ねさせた。
「ヒャッ」
 驚きのあまり、小さな悲鳴をあげてしまい、それに反応して周囲の視線が紗奈に集まる。
 その中には、目を丸くしてこちらを見ている悠吾の眼差しも含まれているのですごく恥ずかしい。
 首を巡らせると、背後にアイスティーのペットボトルを二本持ったみゆきが立っていた。先ほどの冷気の正体はこれだったらしい。
 職場では相変わらず、お団子ヘアに太いフレームの眼鏡といった姿を貫いているので、露わになっているうなじに冷えたペットボトルはかなり心臓に悪い。
「さっきから同じ姿勢でフリーズしてるから。一回気分転換した方が、作業効率上がるんじゃない?」
 そう言って、手にしていたペットボトルの一本を紗奈に差し出す。
「ありがとう」
 それを受け取る紗奈を、みゆきが休憩に誘う。
 先輩に頼まれた作業が途中なのでどうしようかと悩んでいると、離れたデスクに座る悠吾に「松浦君」と、名前を呼ばれた。
「小島君の言うとおり、一度休息を取った方がいい。無理して頑張っても、作業効率を下げるだけだ」
 悠吾が言う。
 紗奈が返事をする暇もなく、彼は手元の資料に視線を戻す。職場で見掛ける彼は、相変わらず『冷淡御曹司』という言葉がピッタリだ。
「部長のお墨付きも出たし、休憩しよ」
 明るい声で、みゆきが誘う。
 確かに、作業効率を上げるためにも休憩を取ったほうがいい。
「そうだね。ありがとう」
 立ち上がる紗奈は、周囲にペコリと頭を下げて、みゆきとふたりその場を離れた。

 みゆきとふたり廊下を歩きながら、彼との暮らしを振り返る。
 悠吾との結婚生活は驚くほど快適だ。
 おもちろん貧乏性が身に染みついている紗奈にとって、彼と暮らすマンションの豪華な設備などにはまだ戸惑っている。
 結婚翌日、さっそく料理を振る舞った紗奈は、初めて使用する食洗機の機能が信用できず一度自分で洗ってから食洗機に食器を入れているのを悠吾に見付かり笑われたのはご愛敬のようなものだ。
 その他諸々戸惑うことは多いのだけど、彼との生活自体は快適と言って間違いない。
 気になることと言えば、ふたりの関係を隠すためか、彼が管理職のためか、悠吾は紗奈に比べかなり早い時刻に出勤し、戻りもいつも紗奈より遅いことぐらいだろう。
 その理由を本人に尋ねたところ、転職したばかりなので古賀建設のやり方を勉強していうるのだと言われた。
 そのついでに紗奈にも資材単価についてあれこれ質問していたから、本当に勉強熱心だ。それはいいのだけど、紗奈としては悠吾の体が心配になる。
「古賀部長、相変わらずクールだよね」
 隣を歩くみゆきが言う。
 紗奈が頷くと、そのままうれしそうに続ける。
「入社式では、社長の希望で司会進行を任されたんだけど、噂では凜々しい部長の姿に女子社員がワーキャーでアイドルのコンサート状態だったんだって」
「そう……なんだ」
 さすがにアイドルのコンサート状態ということはないだろうけど、それでもなんとなくその光景が目に浮かぶ。
 見目麗しい御曹司である彼に、見惚れる女性社員はいただろう。
「まあ、狙ったところで、残念ながら部長には恋人ができたみたいだけど」
「えっ!」
 驚く紗奈に、みゆきは唇に人さし指を添えて言う。
「ビックリでしょ。前に噂に結婚秒読みって噂になっていた建設会社の令嬢とは別の人なんだけど、先週の土曜に受付の子が、部長が髪の長い絶世の美女とデートしているのを見掛けたんだって。渋谷の辺りで」
 紗奈が顔を合わせたことがないだけで、社長のお気に入りである明日香は、時々古賀建設を訪れていたのだという。
 最近になって悠吾から聞いた話では、一応彼女は実家である建築会社の子会社であるリフォーム会社の社長を任されているのだとういう。
 そのため受付の子は、悠吾が連れていた女性が明日香ではないとすぐにわかったのだと言う。
 みゆきは、そのまま受付の社員から聞いた、悠吾が連れていた女性の特徴を話していく。
「あ……」
 それは確実に自分のことだ。
 悠吾とふたり彼の友人が主催する演奏会に出席し、その後、近くのレストランで食事をして、バーに立ち寄って帰った。
 その一連の行動のどこかを、受付の社員に見られていたらしい。
「全身びっしりハイブランドで、部長と並んでも見劣りしない気品が漂っていたっていうから、きっとどこかの社長令嬢とかだよね」
「どうだろうね」
 紗奈は視線を逸らして乾いた笑いを零す。
 悠吾のデートの相手が、まさか自分だとは言えない。
 しかも実は、彼の恋人ではなくすでに妻となっているのでなおさらだ。
(悠吾さんの望み通り、家族に入籍がバレる前に私たちの関係が、周囲に知られてきているみたい)
 それを目的に、悠吾は紗奈を自分のパートナーとして連れ歩き、関係を聞かれれば『妻』と答えている。
 だからこの状況はよろこぶべきことなのだ。
 そうは思うのだけど、自分のことを『絶世の美女』とか『どこかの社長令嬢に違いない』といった尾びれ背びれが付いていくのは、なんともむず痒い。
 そんな噂が流れる原因の一つとしては、悠吾が紗奈の素性を聞かれても、のらりくらりとかわしているからだろう。
(本当は、私なんか悠吾さんに相応しくないもんね)
 そんな当たり前のことに拗ねた気分になってしまうのは、紗奈が彼との暮らしを心から楽しんでいるからだ。
 彼の妻になってまだ半月あまり。週末は悠吾が紗奈をデートに連れ出してくれるので、まだそれほど手料理を振る舞ったわけではないが、平日の朝は必ず紗奈が作っている。
 朝はそれほど凝ったものを作る余裕がないのだけど、それでも彼は必ず『美味しい』と言ってくれる。
 彼とのデートも、彼と過ごす何気ない日常もどちらもすごく楽しい。
 もちろん寝室は別で関係は清いままなので、ふたりの関係は仲のいい同居人といった感じだ。
紗奈は、みゆきと一緒に休憩スペースの椅子に腰を下ろした。
 そしてふたりで他愛ない話をしながら飲み物を飲んでいると、みゆきが紗奈の顔をマジマジとのぞきこんでくる。
「どうかした?」
「松浦ちゃん、最近なんか綺麗になったよね」
 みゆきが言う。
「な、なによ突然っ」
 ちょうど紅茶に口を着けていた紗奈は、コホンと小さく咳き込んだ。
「突然じゃないよ。最近、ずっとそう思ってたんだ。もしかして、恋でもしてる?」
「えっ!」
 その一言に、紗奈の心臓が大きく跳ねた。
 驚く紗奈を見て、みゆきも驚いた表情を浮かべる。でもすぐに、優しく目を細める。
「そうか。そういうことか。なるほどね〜」
 みゆきは、ひとりで納得してウンウンと頷く。
「ちょっと、ひとりで勝手に納得しないでよ」
 咄嗟に否定したけど、紗奈の中では腑に落ちるものがあった。
 悠吾はとてもいい人で、彼との暮らしは充実している。慶一も彼のおかげで安心して学校に通えている。
 だからなに一つ文句をいうようなことはないはずなのに、悠吾の妻役を演じていると胸がモヤモヤする。それは、いつの間にか彼のことを本気で好きになっていたからだ。
 彼が紗奈と一緒に暮らすのも、優しくしてくれるのも、彼にとっては周囲をあざむくための演技にすぎない。
 そもそも、自分と悠吾では立場が違い過ぎるし、彼は恋愛など面倒と考えているからこそ、紗奈を金で雇っているのだ。
 今さらながらに自分の実ることのない恋心に気付き、紗奈は口元を手で隠して考えこむ。
 紗奈のそんな心の内に気付かないみゆきは、前のめりになって聞く。
「え? 本当に好きな人ができたの? どんな人?」
「どんな人って……」
「弟君も大学生になって、紗奈もやっと心に余裕が出来てきたんだね。付き合ってるの?」
 入社以来ずっと仲よくしているみゆきにも、悠吾との関係を明かすわけにはいかない。
「すごく優しい人。でも私の片思いだから」
 後々、彼と入籍していることがバレた時には、今のこの言葉はふたりの関係をごまかすための嘘だったと謝るから、今だけは正直な思いを言葉にさせてほしい。
 そんなことを思いながら、紗奈は言葉を続ける。
「彼は、ひとりでなにか大きな寂しさを抱えているみたい。本当は一緒に支えてあげられたらいいんだけど、彼はそんなことを望んでいないから、私には見守ることしかできなくて。そういうのみていると、せつなくなるの」
 家族について話す時、悠吾はいつもひどく淡々とした口調になる。
 最初は、庶民の紗奈とは違い、彼のように良家の人にとってはそれが普通なのかと思っていた。
 だけど彼と一緒に過ごす時間が増えていくことで、悠吾と彼の家族の間には、どうしようもない大きな溝があるのだと理解できた。
 でも彼はそのことを誰かに話す気はないらしい。
 だから雇われの妻でしかない紗奈は、そのことに触れられずにいる。
「相手を思ってそんなせつない顔するくらいなら、勇気を出して紗奈の方から相手の心に踏み込んでみたら?」
「そんな……私なんかが出しゃばっても、相手の迷惑になるだけだから」
 紗奈は顔の前で手をヒラヒラさせる。
「なんでそんなに消極的なのよ」
 みゆきは不満げに唇を尖らせるけど、相手は見目麗し完璧御曹司様なのだ。紗奈では釣り合うはずがない。
 しかも相手は、恋愛をしたくないからこそ、紗奈をお金で雇っているのだ。
「その人、本当に素敵な人だから、私なんかじゃ釣り合わないの」
 詳しく話すわけにはいかないので、その一言で片付ける。
 でもみゆきは、納得のいかない顔で「そんなこと言ってぇ」と、手を伸ばして紗奈の眼鏡を外す。
「えっ! ちょっと……」
 紗奈が慌てている隙に、みゆきは素早く背後に紗奈の眼鏡を隠す。
「松浦ちゃん、メイクしないだけで美人なんだから、眼鏡をやめてコンタクトにしなよ。それで可愛く変身して、その好きな人にアプローチしてみなよ」
 みゆきが明るい声でそう言った直後、通路の方から咳払いする音が聞こえた。
 存在を主張するための咳払いに視線を向けると、スーツ姿の中高年の男性の一団が見えた。
 その中のひとりに目を留めたみゆきが、「ゲッ」と声を漏らす。紗奈もその中のひとりの存在に息を飲む。
 彼女の失言を聞き逃さず、一団が目を剥く。
「君たち、就業時間中だろ。しかも専務の前で……」
 一歩前に歩み出て、恰幅のよい男性が声を荒らげる。だけどそれを、悠吾の父である昌史が止める。
「彼女たちは、少し休憩しているだけだよ。そんな叱るようなことじゃないだろ」
 昌史は柔らかな口調で、激高する男性を宥める。
 専務にそう言われてしまっては、黙るしかない。
 恰幅のよい男性は、口の中でなにかボソボソ呟きながらも引き下がる。
「この後も、仕事を頑張ってくれたまえ」
 そう声をかけて、立ち去ろうとした昌史は、ハッとした表情で紗奈をふり返った。
 そのまま食い入るように紗奈を見詰める。
「専務、どうかされましたか?」
「なんでもない」
 背後に控えていた社員に声をかけられ、昌史はそのまま歩き出す。彼に随従していた社員たちは足早にその背中を追いかけていった。
「なんだったんだろう?」
 昌史たちが去って行った方に視線を向けたまま、みゆきは紗奈に眼鏡を返してきた。
「さあ……」
(古賀専務は、私の顔なんて覚えてないよね)
 顔を合わせたのは一瞬のことだったし、あの時の紗奈はかなり華やかなメイクを施していた。
 気付かれていないはず。
 紗奈がかけ直した眼鏡を押さえて自分自身に言い聞かせていると、みゆきが立ち上がった。
「そろそろ戻ろうか」
 叱られてテンションが下がったにだろう。
「そうだね」
 十分気分転換はできた。
 紗奈も立ち上がり、ふたりでオフィスに戻っていく。歩きながらみゆきは、紗奈の腕に自分の腕を絡めて言う。
「松浦ちゃんは最高に良い子だよ。私が保証してあげる。せっかく人を好きになったんだから頑張ってみてよ」
 それは、紗奈が誰を好きなのか知らないからこその応援だ。
「まずは、少しで距離を詰める努力をしてみなよ。行動を起こさないと、なにも始まらないよ」
「ありがとう」
 背中を押してくれるみゆきに、紗奈は心からのお礼を言う。

  ◇◇◇

 夕方、悠吾と暮らすマンショに帰って来た紗奈は、玄関に悠吾の靴があることに小さな驚きを覚えた。
 彼と暮らすようになって半月が過ぎたが、いつも紗奈の方が帰りが早かったからだ。
 今日の悠吾は午後から他の部署の社員と共に、古賀建設が新たに施工担う商業施設の予定地の視察に赴いていた。
 視察の後は、そのメンバーで打ち合わせを兼ねた食事会になると思うので、夕食の準備は必要ないと言われている。
 それで少し残業をして帰って来たのだけど、悠吾はすでに帰っているようだ。
(食事会、早く終わったのかな?)
 今の時間は十九時半。視察がよほど早く終わったのだろうか?
「ただいま戻りました」
 そう言って紗奈がリビングの扉を開けたけど、ソファーの定位置に彼の姿はない。
 書斎だろうかと思った時、背後から「おかえり」という声が聞こえた。
 振り向くと、キッチンに悠吾の姿があった。
「悠吾さん、なにしているんですか?」
 紗奈は思わず声を跳ねさせる。
 というのも、悠吾はジャケットを脱いだだけのスーツ姿で、シャツの袖を織り上げてキッチンに立っていたからだ。
 慌てて駆け寄ると、買ったわいいが、紗奈には大きすぎて使わずにいた腰エプロンまで巻いている。
(悠吾さんのエプロン姿、なんだかセクシー)
 思わず手を組んでうっとりしそうになるけど、そんな場合ではない。
 驚く紗奈を見て、悠吾はいたずらを成功させた少年のような笑顔を見せる。
「紗奈の代わりに、夕食の準備をしていたんだ」
 その言葉通り、キッチンには刻んだ野菜やベーコンが皿に準備されている。
 開きっぱなしになっているタブレットには、ベーコンパスタの調理法が表示されているので、それを作る予定なのだろう。
「食事会中止になったんですか? それなら連絡をもらえれば、早く帰ってご飯の準備をしましたよ」
 せめてこの先の作業は自分がして、悠吾にはゆっくりしてもらいたい。
 まずは手を洗って、部屋着に着替えてこよう。
「すぐにご飯作りますね」
 そう声をかけて背中を向けると、突然背後から抱きしめられた。
 驚く紗奈に、悠吾が言う。
「そうじゃない」
「なにが、ですか?」
 紗奈がそのままの姿勢で聞き返すと、悠吾は紗奈の腰に絡めた腕の力を微かに強めて言う。
「紗奈が疲れているようだったから、君のために俺がなにか作ってあげたかったんだ。そのために、仕事も早めに切り上げて直帰させてもらった」
「私のために、手作りをしようとしてくれたんですか?」
「いつも美味しい食事を作ってくれているお礼なんだから、デリバリーや外食で済ますわけにはいかないだろう。と言っても、紗奈ほど美味く作る自身はないが」
 そう言って悠吾は困ったように息を吐く。
 彼の言葉に、紗奈の胸は熱くなる。
 誰かが紗奈のために料理をしてくれるなんて、考えてもいなかった。
 でも確かに悠吾ひとりがお腹を空かせているだけなら、デリバリーでも頼めば用は足りる。
 彼はこれまでずっとそうしてきたのだ。
 それなのにあえて紗奈のために、料理を頑張ろうとしていたのだと聞かされると、ちょっと泣きそうだ。
「悠吾さん、うれしいです」
 紗奈がお礼を言うと、悠吾は一瞬、抱きしめる腕に力を込める。
「そう言ってくれてありがとう。料理ができるまで、たまにはゆっくりしていて」
 紗奈に声を掛け、悠吾は腰に絡めていた腕をほどく。
 悠吾が再びキッチンに向き直ったのを合図に、紗奈は着替えのために自室に向かった。
「びっくりした」
 自室で、着替えを済ました紗奈は、うるさい鼓動を宥めるように丁寧に髪をブラッシングする。
 いつになく時間をかけて髪をとかしても、胸の高鳴りは落ち着く気配はない。今も背中には、彼の体の熱が寄り添っているようだ。
 彼への好意を自覚した途端、気持ちが加速していくばかりで落ち着かない。
(悠吾さん、優しすぎるよ)
 だからつい、彼も自分に好意を持ってくれているのではないかと考えてしまう。
 行動を起こさないと、なにも始まらないよ……。昼間のみゆきの言葉を思い出す。
 今の紗奈の立場で、告白しても悠吾の迷惑になるだけ。
 そう思う反面、彼が紗奈を気遣い、馴れない手料理に奮闘してくれているのなら、紗奈からも、今より一歩前に踏み出してみるくらいは許されるのかもしれないという思いも働く。
 そんなことを考えていると、食事の準備ができたと告げる悠吾の声が聞こえてくる。その声は、優しさに溢れている。
 明るい声で返事をして、紗奈は立ち上がった。

「昼間は、ありがとうございました」
 お風呂上がり、リビングでくつろぐ紗奈は、言いそびれていたお礼の言葉を口にする。
「お昼?」
 言われた悠吾はピンときていないらしく、ワイングラスに口をつけたまま軽く首を傾ける。
「昼間、悠吾さんが休憩を取るよう勧めてくれたおかげで、気分転換が出来てその後の仕事がはかどりました」
 そこまで説明して、やっと理解してくれたようだ。
「それはよかった」
 そう言って、ワインを一口飲み、テーブルに戻す。
 悠吾が作ってくれたパスタは、多少具材が焦げていたけど紗奈としてはこれまで食べた中で一番優しい味に感じた。
 初めて作ったので大目に見てほしいと苦笑する悠吾は、食事をしながら紗奈にパスタ作りのコツを聞いてきた。
 その理由を聞くと、これからも時々は自分が料理をするつもりだと言う。
 そして食事が終わると悠吾は、片付けも自分がするからと、紗奈に先に入浴をするよう声をかけてくれた。
 自分を甘やかそうとしてくれる彼の厚意が嬉しくて、その優しさに甘えさせてもらった。
 そして入れ替わりで悠吾がお風呂に向かうと、彼が入浴している間に簡単なおつまみを作り、ふたりでワインを飲みながら浴後のまったりとした時間を過ごしている。
 あまりアルコールに強くない紗奈は、ワインを炭酸水で割ったものだ。
「なかなか作業進まなかったのに、一度休憩を取ったら急に作業が進むから不思議ですよね」
「そういうものだよ。紗奈は、小島君と仲がいいな」
「そうですね。いつも、どうでもいいようなことをいっぱい話していて、それがいい気分転換になります。今日も……」
 と、話しかけ、紗奈は言葉を呑む。
「今日も、なに?」
 悠吾が聞いてくるが、『あなたへの恋心を応援されました』なんて、もちろん言えない。
「そ、そうだっ! 悠吾さんと私がデートしているのを、受付の子が見かけたそうです」
 ポンッと手を叩いて、急いで話題を変える。
「へぇっ、なんて言ってた?」
 興味を示してくれたのはうれしいけど、それはそれでどう説明したものかと悩む。
「えと……、見かけたという話ししか聞いてないです」
 自分のことなので、『絶世の美女』とか『どこかの社長令嬢に違いない』などといった背びれ尾びれが付いた噂が流れているなんて、恥ずかしくて言えない。
 しれっとついた紗奈の嘘に、悠吾はニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「では、俺が絶世の美女にぞっこんだと噂が広まるよう、もっといっぱいデートしないとな」
「ぅ~っ」
 彼の言葉に、紗奈は唇を奇妙な形に引き結ぶ。
 それを見て悠吾が楽しそうにしているので、彼は、どんな尾びれ背びれが着いているのかも、紗奈がそれを隠したこともお見通しのようだ
(悠吾さん時々ちょっと意地悪)
 思わず紗奈が頬を膨らませて睨むと、いよいよ笑いを堪えられなくなったのか、悠吾は声を上げて笑う。
 そして膨らんでいる紗奈の頬に手を添えて言う。
「紗奈が可愛い嘘をつくから、ついからかいたくなってしまた」
 その何気ない接触に、紗奈の心臓は大きく跳ねる。
「だって、美人とかそんなの……嘘だし」
 噂話も、彼の言葉も、この距離感も、全て恥ずかしい。頭が真っ白になって、何をどう伝えればいいのかわからない。
 それなのに、悠吾はさらに顔を寄せて艶のある声で言う。
「少なくとも、紗奈が美人だっていうのは嘘じゃないだろ」
「そ、そんなことないです。その証拠に、私、男の人に告白されたこともないし」
「一度も?」
 驚く悠吾に、紗奈はコクコクと頷く。
「悠吾さんとこういうことにならなければ、それこそ一生独身だったと思います」
 その瞬間、彼の眼差しに普段とは異なる熱を感じるのは、気のせいだろうか。
「だとしたら、世間の男はよほど女性を見る目がないな」
「あ……」
 無意識に細い声が、口から漏れた。
 その息遣いに導かれるように、頬に触れている悠吾の手が移動する。親指で紗奈の唇をなぞり、そのまま顎を持ち上げた。
 情熱的な眼差しがこちらに向けられる。
「悠吾……さん」
 ドギマギしながら名前を呼ぶと、彼の体がこちらへと傾いてくる。
「そ、そういえば今日、専務をお見かけしました」
 どんどん近付いてくる悠吾の端整な顔に、息の仕方もわからなくなる。
 ソファーの座面に手をついて、慌て言葉を絞り出す。
 紗奈のその言葉に、悠吾の顔が急に引き締まる。
「専務に? あの人に、なにか言われた?」
 紗奈から手を離し、姿勢を直す悠吾が聞く。
(あの人……)
 今に始まったことではないのだが、自分の家族の話題になると、悠吾の表情に影がさす。
 紗奈としては、あったこととして、一応悠吾に報告しておくべきかと思ったのだが、失敗だったかもしれない。
 紗奈は内心眉根を寄せながら、首を横に振る。
「なにも。服装もメイクも全然違うから、私のことは、ただの社員だと思っていたみたいです」
「そう」
 紗奈の言葉に悠吾は、消えそうな声で呟き時計へと視線を向ける。
 その動きにつられて紗奈も視線を向けると、ローチェストの上の置き時計は二十三時にさしかかろうとしている。
「遅くなったし、もう寝ようか」
 お互い明日も仕事がある。だからなにも問題はないのだけど、ひどく胸がざらつく。
「そうですね」
 それでもなにを言えばいいのかわからず、紗奈も頷いて立ち上がった。

 その夜、紗奈はベッドの中で何度も寝返りを打っていた。
 昌史の名前を出した瞬間、悠吾が見せた表情が気になってうまく寝付けない。
 そうやって眠れない時間を過ごしていると、廊下で物音がするのが聞こえた。
「?」
 音が気になり、上半身を起こして耳を澄ませていると、忍び足で廊下を歩く気配がする。
(悠吾さん?)
 彼も眠れないのだろうか?
 紗奈はベッドを抜け出した。
「眠れませんか?」
 彼の気配を追いかけてリビングに入った紗奈は、続き間のダイニングで水を飲む悠吾に聞く。
 最低限の証明しか点けずに水を飲んでいた悠吾は、声をかけられて初めて紗奈の存在に気付いたようだ。
 目を丸くして紗奈を見る。
「悪い。君を起こさないよう気を付けたつもりだったんだが……」
 申し訳なさそうに眉尻を下げる悠吾に、紗奈はそうじゃないと首を横に振る。
「私も寝付けなくて、起きていたんです」
 ダイニングに歩み寄った紗奈は、冷蔵庫の中を確認して悠吾を見た。
「よかったら、ホットミルク飲みませんか?」
「ホットミルク?」
 キョトンとする悠吾に、紗奈が言う。
「ミルクには、メラトニンていう睡眠を促すホルモンを作る手伝いをする作用があるんです。今なら、きな粉とメイプルシロップと砂糖と蜂蜜の中から好きなトッピングが選べますよ」
 紗奈の提案に、悠吾はおかしそうに笑う。
「ホットミルクにそんなに味があるのか?」
「はい。オーソドックスにブランデーを落とすとかもありですけど、今日はアルコールはもう十分でしょうから」
「そうだな。紗奈のお勧めは?」
「きな粉です」
「じゃあ、それを頼む」
 悠吾の言葉に頷き、紗奈は冷蔵庫から牛乳を取りだし、ミルクパンにふたり分牛乳を入れて火にかける。そこにきな粉とグラニュー糖を混ぜて、丁寧に木べらで混ぜていく。
 電子レンジで簡単に作ることもできるけど、今はゆっくりと時間をかけて彼のためのミルクを作りたかった。
 悠吾は、キッチンカウンターに腰を預けてその作業を見守っている。
 そして温めたミルクをカップに注いで差し出すと、大事そうに両手でそれを持った。
「温かい」
 彼がカウンターに腰を預けた姿勢のままホットミルクを飲むので、紗奈もそれを真似て隣で立ったままカップに口をつけた。
「四月になりましたけど、夜はまだ冷えますよね」
 きな粉独特の甘さに、ホッと息を吐いて紗奈が言う。
「ホットミルクもだけど、紗奈がいてくれると心が温かくなる。君や慶一君が、俺の本当の家族だったらよかったのにって思う時があるよ」
 それは一種の告白と思ってもいいのだろうか?
 昼間みゆきに、『行動を起こさないと』と背中を押されたことを思い出す。
「あの悠吾さん……」
 私はあなたが好きです。あなたの本当の家族になりたいです……と、紗奈が言葉を続けるより先に、悠吾が言う。
「専務は、俺の父親じゃないんだ」
「え?」
 深い息と共に吐き出した彼の言葉に、紗奈の思考がフリーズする。
 昌史が婿養子であることは誰もが知っている話しだが、再婚だったなんて話しは聞いたことがない。
 悠吾がなにを言っているのかわからずに、キョトンとしていると悠吾が続ける。
「若い頃、俺の母は家庭のある男性に恋をして、俺を身ごもった。相手の男は、母の妊娠を知った途端母を捨てた。世間知らずの母はそれでも、子供が生まれれば男が帰ってきてくれると夢見ていて、激怒する祖父に、子供を産むと言って譲らなかったそうだ」
 そんな話、聞いたことがない。
「でも、専務は悠吾さんのお父様ですよね?」
「書類上は」
 うす暗い室内に、悠吾の小さな呟きが吸い込まれていく。悠吾は一口ミルクを飲み、話しを続ける。
「専務は、世間体を気にした祖父が、あてがった形式上の夫だ。あの人は、金や出世と引き換えに全て承知の上で母の夫になった」
「そんな……」
 驚くような話ではあるが、それで腑に落ちることもある。
 悠吾はいつも自分の父親のことを、役職で読んでいたし、家族について語る口調はいつも冷ややかだ。
 昌史の方もパーティーで顔を合わせた際、悠吾に突き放すような言葉を投げ掛けていた。
「祖父が出産を許したのは、子供が男子と知り、古賀建設の跡継ぎにできると考えたからだ。だから俺は、祖父に産まれることを許された義理を果たす義務がある。そう思って、これまで古賀建設の跡取りとして励んできたつもりだ」
 以前彼が、会社での自分は組織の歯車でしかないといったことを話していたが、それはそういうことだったんだ。
「会社では、求められる役目を十分に果たしてきた自負はある。だからプライベートな時間まで、犠牲にするのは勘弁してほしい」
 悠吾の声に、紗奈は手の中のミルクが一気に熱を失っていくような気がした。
「悠吾さんのお母様は、今はどうされているんですか?」
「どれだけ待っても相手の男が戻ってこないことで、心が折れたんだろうな。もともと体の弱かったせいもあって、俺が成人した頃からは、一日の大半を自室にこもって過ごしているよ。母には悪いが、大恋愛のお粗末な末路を見ていると、恋なんて愚かだとしか言いようがないよ」
「だから、私に契約結婚を依頼したんですね?」
 紗奈の言葉に、悠吾は頷く。
「そんな事情で君を巻きこんだことを申し訳なく思ってはいるが、俺の目には家庭とは窮屈な牢屋のようなものにしか見えず、祖父の希望通りに結婚する気にはなれなかった。だけ……」
 悠吾は、ハッとした表情で言葉を切る。
 そして手にしていたカップをカウンターに置き、紗奈の顔を覗き込む。
「紗奈?」
 優しい声で名前を呼び、紗奈の頬を撫でた。
 彼の手が触れて、紗奈は自分が泣いていることに気が付いた。
「ごめんなさい。なんでもないです」
 紗奈もカウンターにカップを戻し、自分の頬を乱暴に拭う。
 彼の話しを聞いて、自分がどれほど子供じみた考えをしていたのか気付かされた。
 ずっと、家族に対する彼の言動に違和感はあった。でも悠吾のような立場ではそれが普通なのかもしれないと考え、胸の内を正しく理解しようとしていなかった。
 そして呑気な自分は、かりそめの夫婦ごっこに浮かれて、彼とこのまま本当の夫婦になれたらいいのになんて夢を抱いていた。
 悠吾にとって、家庭は窮屈な牢獄でしかないのに。
(自分が恥ずかしい……)
「重い話をして悪かった。君を泣かせたかったわけじゃないんだ」
 乱暴に顔を擦る紗奈の手首を掴み、悠吾が詫びる。
 涙で喉が使える紗奈は、首を大きく左右に振ることで、そうじゃないのだと訴えるのだけど、彼にはそれが通じない。
 紗奈をそっと抱きしめて、謝罪の言葉をくり返す。
「家族思いの紗奈にとっては、理解できない話しだよな。家族を思う君の優しさにつけ込んで、俺は随分ひどいことをしている」
 彼のパジャマを涙で濡らしながら、紗奈は嫌々をする子供のように首を振る。
 彼の生い立ちも、彼が優しくしてくれる理由も全てが悲しすぎる。
 彼が抱える問題の深さに気付くことなく、彼の家族になりたいと願っていた自分が、その思いを口にすることなんて許されない。
 混乱する感情をどうにか立て直して、紗奈は自分からも彼の背中に腕を回す。
「驚いたのは、事実です。でも悠吾さんにひどいことをされたなんて思っていませんよ。悠吾さんのおかげで、慶一の学費の心配をしなくてよくなったし、こんな素敵な部屋に住まわせてもらうこともできています」
 できるだけ明るい声で言い、彼の腰に回す腕に力を込めて「言い契約をさせてもらいました」と話す。
 紗奈のその言葉に、悠吾の腕から力が抜ける。
 それに合わせて紗奈も腕の力を抜くと、密着していたふたりの体が離れわずかに距離ができる。
「……そうか。そう言ってもらえてよかった」
 こちらを見下ろす悠吾が、小さく頷く。
 紗奈なんかに、彼が長年抱えてきた苦しみを取り除くことはできない。だからせめて、紗奈を巻きこんだことに罪悪感を持たないでほしい。
「契約期間中、悠吾さんの良い奥さんを演じきってみせます。私の演技力を信じてください」
 紗奈のその宣言に、悠吾は安堵したような、泣きたいような顔をする。
「そうだな。紗奈の演技は完璧だから、信頼しているよ」
 そう言ってひとり頷くと、抱きしめていた腕を解く。
 紗奈は彼から離れて、カウンターのカップを再び手に取った。
「ミルク、自分の部屋で飲みます。カップは後でまとめて洗うので、飲んだら水につけておいてください」
 それだけ言うと彼の返事も待たずに、紗奈はその場を離れた。

  ◇◇◇

 紗奈が自室に戻り、ひとりキッチンに取り残された悠吾は、カップに口をつけて先ほどのやり取りを思い返す。
 これまで一度も、自分の出生の秘密を誰かに話そうなんて考えたこともなかった。
 古賀建設の歯車になることだけを望まれて育った悠吾には、不用意に他人に弱みを見せない習慣が染みついる。だから親友と呼べるほど親しくしてきた学生時代からの友人にさえ、そのことは秘めてきた。
 それなのに紗奈を相手にすると、自分の警戒心は呆れるほどあっさりと瓦解する。
「社長が知ったら、激怒しそうな話だな」
 悠吾は自嘲的に笑う。
 出世を餌に昌史を娘婿に迎えた祖父の古賀部長恭太郎だが、社長の座までを譲るつもりはないようで、悠吾を次期社長に据えようと躍起になっている。
 昌史がそれをどう思っているのかは知らないが、常に自分を避ける姿を見るに、快く思っていないのは確かだろう。
 悠吾が自分の出生の事実を聞かされたのは、彼が小学生になる年だった。
 それ以前から、悠吾は幼いながらに自分の家族がよその家庭とは違うことには気付いていた。
 母はいつも萎縮しているし、父はいつも自分や母と距離を取るようにしていた。そしてそんなぎこちない夫婦の上には、絶対的指導者のような祖父の存在が常にあった。
 だから祖父に『お前が生まれることを許したのは、古賀建設のためだ』と言われた時も、それほど大きな衝撃は受けなかった。逆に腑に落ちたくらいだ。
 ただ幼い自分に当然のように感謝するように求め、古賀建設への忠誠を誓わせようとする祖父を、好きにはなれないと思った。
 家族というものが、そんな互いの利己をぶつけ合う存在でしかないのなら、自分は一生結婚などせず孤独に生きていきていこうとその時誓ったのだ。
「一生、孤独でいいと思っていたのに……」
 悠吾はため息をつき、紗奈が淹れてくれたホットミルクを飲む。
 優しい温かさが、喉をなで体の奥へと浸透していく。
 ホットミルクの味付けをすらすらと提案する彼女は、きっと弟が眠れない夜に何度もミルクを温めてきたのだろう。
 眠れない夜にホットミルクを作ってくれる家族がいる。それは、圭税的になに不自由ない生活を送らせてもらうよりずっと価値がある人生に思う。
 長年、家庭など窮屈な牢獄でしかないと思っていた悠吾だが、紗奈が自分の本当の家族になってくれたらと淡い幻が胸をよぎった。
 紗奈が本当の意味で自分の妻になって、慶一に姉の夫として慕われる。それは悠吾にとって、夢のように幸せな光景だ。
 でも彼女が涙を流す姿に、その言葉を飲み込んだ。
 悠吾と家族になるということは、紗奈に、面倒な生い立ちや家のしがらみを一緒に背負わせることに繋がる。
 早くに父を亡くし、親代わりとなって弟の世話を焼いてきた紗奈はこれまで散々苦労してきたのだ。
 今さら辛い思いをさせるとわかっていて、自分の人生の道連れにすることなんてできない。
「そもそも彼女は、俺に本気で好意を抱いてくれているわけでもないのに」
 不意に紗奈との関係は、契約に基づく偽装夫婦であることを思い出し、悠吾は苦く笑う。
 彼女があまりに上手に新妻役を演じきるものだから、時々忘れてしまいそうになるから困る。
 今日も一緒にワインを飲んでいる時に、もう少しでキスをしてしまいそうだった。
 弟への資金援助と引き換えに妻役を演じているに過ぎない紗奈としては、大いに困惑したことだろう。
 温かいミルクを飲みながら、彼女を困らせないためにも、二度と思い上がってはいけないと自分に言い聞かせた。
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