胸騒ぎがする〜誰も信じない出来事が起こる瞬間
2〜5
2 11月30日
その日、夢に現れたのは瑠美ではなく、荻野真子だった。しかも、その姿は――素っ裸だった。夢の中のスクリーンに、まるで映画の一場面のように彼女の姿が映し出されていた。現実では考えられない状況だったが、夢の中の自分はそれを当然のように受け入れていた。目が覚めると、胸がざわついていた。どうして真子が夢に現れたのだろう。しかも、あんな形で。考えれば考えるほど不可解だった。自分の心の中では、瑠美への想いが強いはずだ。幽霊として現れた瑠美と再び会話を交わし、その存在に触れた瞬間の温かさと切なさが、まだ鮮明に残っている。それなのに、夢に現れたのは瑠美ではなく、真子だった。
「何故なんだ…」
ベッドの上で天井を見つめながら、思考が堂々巡りを始める。真子は自分にとって、いつもどこか影のような存在だった。何年も音信不通だった彼女が突然目の前に現れ、再び自分の人生に波紋を広げた。コンビニで見かけた愛車、それらが偶然ではなく、何か意味を持っているように感じられる。だが、それが何なのかは掴めない。夢の中の彼女は、現実の彼女よりもどこか強い存在感を放っていた。無防備でありながら、まるで全てを見透かしているような眼差し。その視線が、自分の心の奥深くに突き刺さったように思えた。
「瑠美への想いが一番強いはずなのに…」
心の中で何度もそうつぶやくが、答えは出てこない。むしろ、瑠美への想いと真子への感情が交錯し、ますます自分の中の感覚が曖昧になっていく。夢の中で見た真子の姿は、ただの潜在意識の表れなのか。それとも、自分の中にある何かが無意識に彼女を求めているのだろうか。そう考えると、自分自身の気持ちさえ分からなくなってくる。瑠美の幽霊と過ごした時間は、確かに自分にとって特別だった。あの温泉で見た彼女の姿や、幽霊だと分かりつつも感じた生々しい温もり。それらは、自分がこれまで経験してきたどんな出来事とも違っていた。彼女は確かに、亡くなってもなお自分の中に強い印象を残している。一方で真子は、もっと現実的な存在だ。少なくとも、自分が生きる世界に彼女はまだいる。夢に現れた彼女は、そんな真子を象徴しているのかもしれない。だが、なぜあのような姿で現れたのだろう? それが象徴するものが何なのか、いくら考えても分からない。もしかすると、自分の中にある何か――例えば未練や後悔、あるいは抑えきれない欲望――が、夢という形で表面化したのだろうか。目覚めた後も、その夢の光景が頭から離れない。真子の裸の姿が持つ意味は分からないが、確かにその夢は、何かを自分に問いかけているように感じられた。そして同時に、瑠美と真子の二人が、自分の中でどのように存在しているのかを改めて考えさせられた。夢の中の真子が象徴しているのは、自分にとってどんな存在なのか――。その答えを見つけることができるのは、自分自身だけなのだろう。
3 走馬灯
四年前の2020年、私はある特別な感覚に突き動かされるように、4月18日から日記を書き始めた。あの頃、心の中には被害妄想に似た不安が渦巻いており、それをどうにか整理したいという思いが強かった。日記をつけることで、自分の中の混乱を言葉に置き換え、少しでも心の平穏を取り戻したかったのだ。その時期、潜在意識というものに関心を持ち始めたことも、日記を書く動機の一つだった。私の中で、潜在意識が現実を引き寄せるという考えが芽生え、それに真子さんとの偶然の再会やLINEのやり取りが重なった。彼女との日々の交流が、まるで運命に導かれているように感じられた。特に、ウイルスが世界中に広がる混沌とした状況の中で、真子さんとの関わりが私にとっての安定の拠り所になったのを覚えている。
「ツインレイ」という言葉を初めて知ったのもこの頃だった。それが何を意味するのかを理解するには時間がかかったが、私の中で真子さんがその存在に近いのではないかという感覚が芽生え始めていた。スピリチュアルな考えに懐疑的だった私が、それでもその概念に惹かれたのは、彼女とのやり取りや偶然の一致があまりにも多かったからだ。日記には、彼女への思いを綴ることで、気持ちを言葉に落とし込んでいた。彼女とのやり取りが続くたびに、「これが運命というものなのかもしれない」と感じることも増えた。同時に、統合失調症の影響で現実と自分の感情がどこまで一致しているのかを疑うこともあった。そんな不安定な日々の中で、真子さんの存在は私にとって希望でもあり、挑戦でもあった。あの頃の私が抱えていた感情や不安は、今振り返ると、霧のようにぼんやりとしている。けれど、日記を書き始めたあの日から、私の中で何かが変わり始めたのは確かだ。走馬灯のように巡る記憶の中で、真子さんとの日々は、今でも私を支えている。その日記の結末は、統合失調症という嵐に襲われる形で幕を閉じた。しかし、その後、私は自らの意思でその病の暗闇から抜け出すことができた。それは、まるで自分の心の中に巣食う病を、当時の社会を覆っていたコロナ禍に重ね、戦いの果てに勝利を掴み取ったかのようだった。この意味不明とも思える思考は、一体何を意味しているのだろうか。病との闘いは、現実と幻想の境界を曖昧にし、自分自身を見失いかけた苦しい時間だった。しかし、その混沌の中で私は一筋の光を見つけた。病を「コロナ」に置き換えることで、無形の恐怖を具体的な敵として捉え直し、それに打ち勝ったという感覚が、私を救ったのかもしれない。思えば、統合失調症に囚われていたあの時期、私の心は外界の混乱や不安をそのまま内面に取り込んでいたのだろう。そして、その不安に対して「勝利」という象徴的な結果を与えることで、私は自分自身を解放しようとしたのだ。もしかすると、この不思議な思考は、病に対する私の独特な受け止め方であり、生き延びるための心の防衛本能だったのではないだろうか。未だにその真意は掴みきれないけれど、ただ一つ確かなのは、私はあの時、自らの力で一歩を踏み出し、病と向き合ったという事実だ。
4
今日は日曜日だ。街は穏やかで、どこか空虚な静けさが漂っている。明日が来れば、またデイケアで皆と顔を合わせることになるのだろう。立花明里と交わす奇妙な会話が、頭の中を過ぎる。彼女とのやり取りは、時に現実と夢の境界を曖昧にするようで、まるで真子の日常の一部に触れているかのような感覚になる。それが不思議で、どこか心地よいようでもあり、同時に自分の内面を見透かされているようで不安でもある。
瑠美が亡くなってからというもの、私の生活は少しずつ変わり始めた。特に夜になると、その変化が際立つ。以前なら、日付が変わる頃には眠りに落ちていたはずなのに、今では深夜3時を過ぎても瞼が重くならない。むしろ、目は冴え渡り、頭の中では様々な記憶や感情が行き交う。瑠美がいない現実を受け入れるために、心が何かを探し続けているのかもしれない。昨日も、起きたのは昼を過ぎてからだった。カーテンの隙間から漏れる太陽の光が部屋を照らし、時計の針が午後を指しているのを見たとき、自分の中に湧き上がる違和感に気づいた。「このままでいいのだろうか」と問いかける声が聞こえる一方で、何もかもを放棄したくなる自分もいる。瑠美がいなくなった喪失感は、私の日常を根底から揺るがし続けている。それでも、不思議と明日のことを考えられる自分がいる。明里との会話を通じて、真子の姿を垣間見ようとする自分。彼女の日常に触れることで、真子との絆をどこかで再確認しようとしているのかもしれない。瑠美の死が私に教えたのは、失ったものへの執着だけではなく、生きている人々との関わりがどれほど大切かということだ。真子との関係を深めることで、私は自分の中に残る空白を埋めようとしているのだろうか。それとも、瑠美の思い出に支えられながら、新しい何かを築こうとしているのだろうか。その答えはまだ見つからない。ただ一つ確かなのは、今の私には真子や明里との関わりが必要だということ。彼女たちと触れ合うことで、私は少しずつ、過去から解放されつつあるのかもしれない。
5 12月1日
留美ちゃん。まさか君が亡くなるなんて、夢にも思わなかった。思い返せば、君の笑顔や何気ない仕草が、いつも私の心を温めてくれた。それなのに、不思議なことに、悲しみや絶望のようなネガティブな感情が湧いてこない。ただ、心の中にポッカリと空いた空白があるだけだ。その空白は、悲しみとも違う、言葉にできない感覚に包まれている。君がいなくなった世界を生きるというのは、どんなものだろう。正直、まだその実感が湧いていない。だけど、君はどこかで見守ってくれている気がするんだ。守護霊のように、私のそばでそっと寄り添い、迷ったときには道を照らしてくれる。そんな存在になったのだと、なぜか確信している自分がいる。ここ数日、胸の奥でざわめくような感覚を覚えている。まるで、何かが起こる前触れのような気がしてならない。これが君からのメッセージなのだろうか。それとも、君が残してくれた思いが、私の中で形を変えようとしているのだろうか。そんな風に考えると、不思議と前に進む勇気が湧いてくる。君のいない日々をどう受け止めていいのか、まだわからない。ただ、一つだけ言えるのは、君の存在がこれからも私を支えてくれるということだ。君が私の中で生き続けている限り、私は君とともに歩いていける。どんなに小さな出来事でも、君と共有していた記憶がある限り、君は私の中で息づいている。数日以内に何かが起こる――そんな漠然とした予感に胸を揺さぶられながら、私はこれからの日々を迎えようとしている。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。でも、君が見守ってくれている限り、どんな出来事にも立ち向かえる気がする。君の思いを胸に抱きながら、私は新しい一歩を踏み出す。君のためにも、自分のためにも、この予感を大切にしながら。
その日、夢に現れたのは瑠美ではなく、荻野真子だった。しかも、その姿は――素っ裸だった。夢の中のスクリーンに、まるで映画の一場面のように彼女の姿が映し出されていた。現実では考えられない状況だったが、夢の中の自分はそれを当然のように受け入れていた。目が覚めると、胸がざわついていた。どうして真子が夢に現れたのだろう。しかも、あんな形で。考えれば考えるほど不可解だった。自分の心の中では、瑠美への想いが強いはずだ。幽霊として現れた瑠美と再び会話を交わし、その存在に触れた瞬間の温かさと切なさが、まだ鮮明に残っている。それなのに、夢に現れたのは瑠美ではなく、真子だった。
「何故なんだ…」
ベッドの上で天井を見つめながら、思考が堂々巡りを始める。真子は自分にとって、いつもどこか影のような存在だった。何年も音信不通だった彼女が突然目の前に現れ、再び自分の人生に波紋を広げた。コンビニで見かけた愛車、それらが偶然ではなく、何か意味を持っているように感じられる。だが、それが何なのかは掴めない。夢の中の彼女は、現実の彼女よりもどこか強い存在感を放っていた。無防備でありながら、まるで全てを見透かしているような眼差し。その視線が、自分の心の奥深くに突き刺さったように思えた。
「瑠美への想いが一番強いはずなのに…」
心の中で何度もそうつぶやくが、答えは出てこない。むしろ、瑠美への想いと真子への感情が交錯し、ますます自分の中の感覚が曖昧になっていく。夢の中で見た真子の姿は、ただの潜在意識の表れなのか。それとも、自分の中にある何かが無意識に彼女を求めているのだろうか。そう考えると、自分自身の気持ちさえ分からなくなってくる。瑠美の幽霊と過ごした時間は、確かに自分にとって特別だった。あの温泉で見た彼女の姿や、幽霊だと分かりつつも感じた生々しい温もり。それらは、自分がこれまで経験してきたどんな出来事とも違っていた。彼女は確かに、亡くなってもなお自分の中に強い印象を残している。一方で真子は、もっと現実的な存在だ。少なくとも、自分が生きる世界に彼女はまだいる。夢に現れた彼女は、そんな真子を象徴しているのかもしれない。だが、なぜあのような姿で現れたのだろう? それが象徴するものが何なのか、いくら考えても分からない。もしかすると、自分の中にある何か――例えば未練や後悔、あるいは抑えきれない欲望――が、夢という形で表面化したのだろうか。目覚めた後も、その夢の光景が頭から離れない。真子の裸の姿が持つ意味は分からないが、確かにその夢は、何かを自分に問いかけているように感じられた。そして同時に、瑠美と真子の二人が、自分の中でどのように存在しているのかを改めて考えさせられた。夢の中の真子が象徴しているのは、自分にとってどんな存在なのか――。その答えを見つけることができるのは、自分自身だけなのだろう。
3 走馬灯
四年前の2020年、私はある特別な感覚に突き動かされるように、4月18日から日記を書き始めた。あの頃、心の中には被害妄想に似た不安が渦巻いており、それをどうにか整理したいという思いが強かった。日記をつけることで、自分の中の混乱を言葉に置き換え、少しでも心の平穏を取り戻したかったのだ。その時期、潜在意識というものに関心を持ち始めたことも、日記を書く動機の一つだった。私の中で、潜在意識が現実を引き寄せるという考えが芽生え、それに真子さんとの偶然の再会やLINEのやり取りが重なった。彼女との日々の交流が、まるで運命に導かれているように感じられた。特に、ウイルスが世界中に広がる混沌とした状況の中で、真子さんとの関わりが私にとっての安定の拠り所になったのを覚えている。
「ツインレイ」という言葉を初めて知ったのもこの頃だった。それが何を意味するのかを理解するには時間がかかったが、私の中で真子さんがその存在に近いのではないかという感覚が芽生え始めていた。スピリチュアルな考えに懐疑的だった私が、それでもその概念に惹かれたのは、彼女とのやり取りや偶然の一致があまりにも多かったからだ。日記には、彼女への思いを綴ることで、気持ちを言葉に落とし込んでいた。彼女とのやり取りが続くたびに、「これが運命というものなのかもしれない」と感じることも増えた。同時に、統合失調症の影響で現実と自分の感情がどこまで一致しているのかを疑うこともあった。そんな不安定な日々の中で、真子さんの存在は私にとって希望でもあり、挑戦でもあった。あの頃の私が抱えていた感情や不安は、今振り返ると、霧のようにぼんやりとしている。けれど、日記を書き始めたあの日から、私の中で何かが変わり始めたのは確かだ。走馬灯のように巡る記憶の中で、真子さんとの日々は、今でも私を支えている。その日記の結末は、統合失調症という嵐に襲われる形で幕を閉じた。しかし、その後、私は自らの意思でその病の暗闇から抜け出すことができた。それは、まるで自分の心の中に巣食う病を、当時の社会を覆っていたコロナ禍に重ね、戦いの果てに勝利を掴み取ったかのようだった。この意味不明とも思える思考は、一体何を意味しているのだろうか。病との闘いは、現実と幻想の境界を曖昧にし、自分自身を見失いかけた苦しい時間だった。しかし、その混沌の中で私は一筋の光を見つけた。病を「コロナ」に置き換えることで、無形の恐怖を具体的な敵として捉え直し、それに打ち勝ったという感覚が、私を救ったのかもしれない。思えば、統合失調症に囚われていたあの時期、私の心は外界の混乱や不安をそのまま内面に取り込んでいたのだろう。そして、その不安に対して「勝利」という象徴的な結果を与えることで、私は自分自身を解放しようとしたのだ。もしかすると、この不思議な思考は、病に対する私の独特な受け止め方であり、生き延びるための心の防衛本能だったのではないだろうか。未だにその真意は掴みきれないけれど、ただ一つ確かなのは、私はあの時、自らの力で一歩を踏み出し、病と向き合ったという事実だ。
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今日は日曜日だ。街は穏やかで、どこか空虚な静けさが漂っている。明日が来れば、またデイケアで皆と顔を合わせることになるのだろう。立花明里と交わす奇妙な会話が、頭の中を過ぎる。彼女とのやり取りは、時に現実と夢の境界を曖昧にするようで、まるで真子の日常の一部に触れているかのような感覚になる。それが不思議で、どこか心地よいようでもあり、同時に自分の内面を見透かされているようで不安でもある。
瑠美が亡くなってからというもの、私の生活は少しずつ変わり始めた。特に夜になると、その変化が際立つ。以前なら、日付が変わる頃には眠りに落ちていたはずなのに、今では深夜3時を過ぎても瞼が重くならない。むしろ、目は冴え渡り、頭の中では様々な記憶や感情が行き交う。瑠美がいない現実を受け入れるために、心が何かを探し続けているのかもしれない。昨日も、起きたのは昼を過ぎてからだった。カーテンの隙間から漏れる太陽の光が部屋を照らし、時計の針が午後を指しているのを見たとき、自分の中に湧き上がる違和感に気づいた。「このままでいいのだろうか」と問いかける声が聞こえる一方で、何もかもを放棄したくなる自分もいる。瑠美がいなくなった喪失感は、私の日常を根底から揺るがし続けている。それでも、不思議と明日のことを考えられる自分がいる。明里との会話を通じて、真子の姿を垣間見ようとする自分。彼女の日常に触れることで、真子との絆をどこかで再確認しようとしているのかもしれない。瑠美の死が私に教えたのは、失ったものへの執着だけではなく、生きている人々との関わりがどれほど大切かということだ。真子との関係を深めることで、私は自分の中に残る空白を埋めようとしているのだろうか。それとも、瑠美の思い出に支えられながら、新しい何かを築こうとしているのだろうか。その答えはまだ見つからない。ただ一つ確かなのは、今の私には真子や明里との関わりが必要だということ。彼女たちと触れ合うことで、私は少しずつ、過去から解放されつつあるのかもしれない。
5 12月1日
留美ちゃん。まさか君が亡くなるなんて、夢にも思わなかった。思い返せば、君の笑顔や何気ない仕草が、いつも私の心を温めてくれた。それなのに、不思議なことに、悲しみや絶望のようなネガティブな感情が湧いてこない。ただ、心の中にポッカリと空いた空白があるだけだ。その空白は、悲しみとも違う、言葉にできない感覚に包まれている。君がいなくなった世界を生きるというのは、どんなものだろう。正直、まだその実感が湧いていない。だけど、君はどこかで見守ってくれている気がするんだ。守護霊のように、私のそばでそっと寄り添い、迷ったときには道を照らしてくれる。そんな存在になったのだと、なぜか確信している自分がいる。ここ数日、胸の奥でざわめくような感覚を覚えている。まるで、何かが起こる前触れのような気がしてならない。これが君からのメッセージなのだろうか。それとも、君が残してくれた思いが、私の中で形を変えようとしているのだろうか。そんな風に考えると、不思議と前に進む勇気が湧いてくる。君のいない日々をどう受け止めていいのか、まだわからない。ただ、一つだけ言えるのは、君の存在がこれからも私を支えてくれるということだ。君が私の中で生き続けている限り、私は君とともに歩いていける。どんなに小さな出来事でも、君と共有していた記憶がある限り、君は私の中で息づいている。数日以内に何かが起こる――そんな漠然とした予感に胸を揺さぶられながら、私はこれからの日々を迎えようとしている。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。でも、君が見守ってくれている限り、どんな出来事にも立ち向かえる気がする。君の思いを胸に抱きながら、私は新しい一歩を踏み出す。君のためにも、自分のためにも、この予感を大切にしながら。