野いちご源氏物語 第一巻 桐壺(きりつぼ)
桐壺(きりつぼ)更衣(こうい)様のお幸せは、(みかど)に深く愛されたことだけではないの。
世界にまたとないほど美しい、玉のような男の子——皇子(みこ)までお生みになったわ。
なんというお幸せ。
きっと桐壺の更衣様は、前世から帝と結ばれていらっしゃったのね。

出産は更衣様のご実家でなさったから、帝は早く皇子をご覧になりたくて、急いで内裏(だいり)にお呼びになった。
めずらしいほど美しい皇子。
帝にはすでに皇子が一人いらっしゃるのだけれど、その皇子は右大臣(うだいじん)の姫で、弘徽殿(こきでん)という建物にお住まいの女御(にょうご)様がお生みになったの。
(いち)の皇子として周りの方たちから信頼も期待もされて、間違いなく跡継(あとつ)ぎの皇子だと世間から大事にされているわ。

でもね、桐壺の更衣様がお生みになった皇子の美しさとは、比べ物にならないのよ。
それで帝は、一の皇子は形式的に大切になさるだけで、この桐壺の更衣様の皇子をご自分の宝物だと思って、これ以上ないほど熱心にお世話なさったの。

女御様や更衣様というお妃様たちは、帝にお仕えするあまたの女官(にょかん)のなかでも最上級のご身分よ。
ふつうの女官たちのように、帝のおそば近くでこまごまとした仕事はなさらなくていいの。
それなのに帝は、桐壺の更衣様をずっとおそばからお離しにならなかった。
いつも一緒にいたかったのね。
音楽会だとか何かの行事があるたびに桐壺の更衣様をお呼びになって、一晩ご一緒に過ごされ、昼になっても桐壺のお部屋に帰ることをお許しにならない。

これではまるで、お妃様ではなくてもっと下の身分の女官に見えてしまうわよね。
それはよくないとお思いになったのか、皇子がお生まれになってから、帝は桐壺の更衣様を重々しく(あつか)われるようになったの。
これに驚いたのは一の皇子の母君(ははぎみ)である弘徽殿の女御様。
帝が一の皇子を東宮(とうぐう)——皇太子(こうたいし)とお決めにならないのは、桐壺の更衣様の皇子を東宮になさりたいからなのではとお疑いになっていたわ。

弘徽殿の女御様は父君のご身分もとても高いし、誰よりも先に入内なさって、一の皇子の他に女のお子様もお生みになっているの。
だから帝も、弘徽殿の女御様の申し上げるご苦情だけはしぶしぶお聞きになっているみたい。
一方、桐壺の更衣様は帝の愛だけが頼り。
悪口を言ったりあら探しをしたりする人が多くて、か弱い桐壺の更衣様には悩みが多かったでしょうね。

内裏には桐壺や弘徽殿の他にも建物がたくさんあるの。
建物の周りには廊下(ろうか)があるし、建物と建物は渡り廊下でつながれているから、どこからでも帝のお部屋がある建物へ行けるわ。
でもね、桐壺は帝のお部屋から一番遠くて、いろいろと厄介なのよ。
帝が昼間、桐壺の更衣様のお部屋に遊びにいかれるときは、いくつもの建物の廊下を通っていかれるわけでしょう?
逆に夜、桐壺の更衣様が帝のご寝室に呼ばれたときは、更衣様がいくつもの建物の廊下を通っていかれる。
その建物には他のお妃様たちが住んでいらっしゃるのだから、帝に素通りされてしまったり、更衣様がご寝室に呼ばれていかれたりするたびに、悲しみと恨みが重なっていくのも分かるわ。

更衣様があまりに連続して帝のご寝室に呼ばれたときは、渡り廊下のあちこちに汚いものをまき散らすなんて嫌がらせをされてしまったこともあったわ。
更衣様のお(とも)は、着物の(すそ)がとんでもなく(よご)れてしまったの。

嫌がらせは他にもあるのよ。
建物のなかの廊下を桐壺の更衣様とお供がお通りになっているとき、前後の(とびら)を外から閉じて(かぎ)をかけ、更衣様たちを閉じ込めてしまうなんていうこともあったわ。

数えきれないほどの嫌がらせを受けて、つらいことばかり重なるので、桐壺の更衣様はひどく悩んでいらっしゃった。
それをかわいそうだとお思いになった帝は、ご寝室近くの建物にお住まいのお妃様をよそに移して、空いたところを桐壺の更衣様の休憩室になさったの。
そんなことをしたら、桐壺の更衣様はますます恨まれてしまうというのに。
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