野いちご源氏物語 第一巻 桐壺(きりつぼ)
秋も深くなった。
急に冷えて肌寒くなった夕方、帝はいつも以上に桐壺の更衣様の皇子のことをお考えになっていたの。
女官に皇子のご様子を見てまいるようお命じになって、美しい夕月夜をぼんやりと眺めていらっしゃったわ。
こんな月の美しい夜、帝と更衣様はよく楽器の演奏をなさっていた。
更衣様は他のお妃様たちとはちょっと違ったの。お琴の音色とか、ふとつぶやかれる昔の和歌の選び方とか。
さまざまなことを思い出されているうちに、帝は更衣様の幻をご覧になったわ。
ご自分のすぐ隣に、寄りそって座っていらっしゃる更衣様。
帝はお手を伸ばされた。
でも、更衣様を抱きしめることはできなかった。
女官が更衣様のご実家に着くと、門を入ったところからすでに物寂しい雰囲気が漂っていた。
更衣様の父君が早くに亡くなってから、母君は一人で更衣様を育てていらっしゃったの。
そんな大切な大切な一人娘を失って、母君は悲しみの暗闇に沈んでいらっしゃる。
お庭はしばらく手入れがされていないようだった。
更衣様が生きていらっしゃったころは、母君がきちんと手入れさせておられたのに。
伸び放題になっていた草が最近の強い秋風で倒れて、そこへ月の光が悲しいほど美しく射しこんでいるの。
女官がお屋敷にお入りになったけれど、母君はしばらく何もおっしゃることができない。
やっとのことで、
「娘に先立たれたのに生きつづけている自分が嫌になります。こんな荒れたところへ帝のお使者にお越しいただくのも恥ずかしゅうございます」
とおっしゃって、ひどくお泣きになった。
女官は、
「『胸が張り裂けそうなほど母君はお気の毒なご様子で』と他の女官から聞いてまいりましたが、ものの分からない私にも、母君のおつらさが伝わってまいります」
と申し上げてから、帝からのご伝言をお伝えになった。
そのご伝言とは、
「更衣が亡くなったことは夢だとばかり思っていたが、最近はやっと現実のことだと考えられるようになった。すると今度は新しい悲しみに襲われている。
この悲しみを乗り越える方法を相談する相手もいない。目立たないようにして内裏においでなさい。幼い皇子が物寂しいところで暮らしているのも気にかかるから、なるべく早く一緒においでなさい」
ということだった。
女官は母君に申し上げる。
「帝は涙にむせびながらそのようなことをおっしゃいました。周りにお仕えする人たちに『帝はお気が弱すぎる』と思われてはいけないと気になさっていらっしゃって、それがお気の毒で私は、お話が終わったかどうかのところでお部屋の外に出てしまいました」
そう言って帝からのお手紙を母君にお渡しすると、母君は、
「ありがたい帝のお言葉は明るい光のようです。私は悲しみの暗闇におりまして目もよく見えませんが、その光にかざしてどうにかお手紙を読ませていただきます」
とおっしゃってお読みになったわ。
帝はお手紙に、
「時が経てば少しは悲しみも落ち着くかと、この何か月を過ごしてきた。しかし時が経てば経つほど耐えられなくなっていくのはどうしたことだろう。幼い皇子が私の目の届かないところにいるのは気がかりである。私を亡き桐壺の更衣の代わりと思って、皇子を内裏に連れてまいれ。内裏に強い風が吹いて小さな花が揺れていると、頼りない立場の幼い皇子を思い出して心配になるのだ」
と心をこめてお書きになっていた。
母君は涙で最後まで読むこともできず、
「長生きなどするものではないと思い知らされております。生きているのも恥ずかしいのです。ありがたいお見舞いのお言葉を帝から何度もいただいておりますが、私はとてもとても内裏にはまいれません。
皇子はどれほど状況を理解されているか分かりませんが、早く内裏に戻りたいと思っていらっしゃるようです。その方が皇子にとってよいのかもしれませんが、やはり悲しい気持ちもいたします。
とはいえ私は夫にも娘にも先立たれた不吉な者でございますから、皇子が私とお暮らしになるのも不吉で申し訳なく思っているのです。
更衣の母は内心このように考えているようだと帝にお伝えください」
とおっしゃったわ。
皇子はもう寝ていらっしゃる。
女官は、
「皇子にお会いして、くわしいご様子を帝にお伝えできればよかったのですが。帝は私の帰りを待っていらっしゃるでしょうに、夜もふけてきましたので急いで内裏に戻りませんと」
と申し上げた。
母君は、
「また今度、お使者としてではなく、ゆっくりお越しくださいませ。子を失って暗闇にいるような気持ちでございますが、話を聞いていただければその悲しみも少しは晴れるような気がいたします。
帝からのお使者といえば、いつもおめでたい知らせを持ってお越しくださっていましたのに、このような悲しいお使者がお越しになるようになるとは。かえすがえすもなぜ私だけが長生きしてしまったのでしょうか。
亡き夫は、娘が生まれたときから将来は入内させるつもりでおりました。亡くなる直前まで、『入内は必ずさせるように。私が死んだからといって、あきらめてはならぬ』と繰り返し繰り返し申しておりました。頼りになる父親も親戚もいない状態での入内は無茶だと思いはしましたが、夫の遺言を守るために入内させたのです。
そんな娘を帝はもったいないほど愛してくださいました。そのおかげで、実家が頼りにならない恥ずかしさをごまかしながら娘は内裏にいられたわけですが、その帝のご愛情のために皆様に嫌われてしまったのでしょうね。
つらい思いをたくさんして、本当はもっと生きられたでしょうに災難に遭ったような形で亡くなったのです。ありがたいご愛情のせいで、なんとも皮肉なことになってしまいました。
ああ、失礼なことを申し上げましたね。お許しくださいませ。これも子を失って暗闇にいるせいでございます」
と言い終える間もなく、涙にむせかえっていらっしゃる。
そうしてすっかり夜がふけてしまった。
女官は母君に申し上げる。
「帝は、『自分でも信じられないほど桐壺の更衣に夢中になってしまった。長く一緒にはいられないと予感していたのかもしれない。更衣と出会う前は誰からも恨まれないよう生きてきたが、更衣を愛しすぎたせいで他の妃たちに恨まれてしまった。その罰として更衣を奪われたのだから、なんとも皮肉なことである。私はとんだ愚か者だよ』と何度もおっしゃって、気落ちなさっています」
話は尽きないのだけれど、女官は泣きながら、
「すっかり遅くなってしまいましたが、夜が明ける前に内裏に戻って、帝に母君のお言葉をお伝えします」
とおっしゃって、急いで乗り物の近くまで行かれたわ。
月はもう山に沈もうとしている。
空は清らかに澄みわたっている。
涼しい風が吹いて、お庭の草むらから虫の音が聞こえる。
女官は立ち去りにくいお気持ちになって、このまま乗り物に乗ってしまうのがためらわれたの。
それで母君に、
「鈴虫が声のかれるまで鳴いたとしても、涙があふれる悲しい夜は明けないような気がいたします」
と申し上げると、母君は、
「虫の音がうるさいほど荒れた庭に帝のお使者が来てくださったので、ありがたくて悲しくて涙があふれます。ああ、また恨み言のように聞こえてしまいますかしら」
と女房を通じてお返事なさったわ。
使者の女官には何かお礼を差し上げなければいけないのだけれど、風流な品物がふさわしい場面でもない。
母君は、更衣様の形見として残しておかれたお衣装ひとそろいと、お髪の飾りのような物を差し上げたわ。
この女官がおいでになったころ、更衣様にお仕えしていた若い女房たちは、住み慣れた内裏が恋しくなってきていたようね。
更衣様が亡くなったことはもちろん悲しいのだけれど、母君に、
「帝もおっしゃっていることですし、早く皇子をお連れして内裏に上がりましょう」
なんておすすめしていた。
でも母君は、ご自分のような不吉な者が皇子に付き添って内裏に上がるのは人聞きが悪いと思っていらっしゃる。
かといって皇子だけを内裏にお戻しになって離れてお暮らしになるのもご心配で、皇子をどのようになさればよいか簡単にはお決めになれない。
急に冷えて肌寒くなった夕方、帝はいつも以上に桐壺の更衣様の皇子のことをお考えになっていたの。
女官に皇子のご様子を見てまいるようお命じになって、美しい夕月夜をぼんやりと眺めていらっしゃったわ。
こんな月の美しい夜、帝と更衣様はよく楽器の演奏をなさっていた。
更衣様は他のお妃様たちとはちょっと違ったの。お琴の音色とか、ふとつぶやかれる昔の和歌の選び方とか。
さまざまなことを思い出されているうちに、帝は更衣様の幻をご覧になったわ。
ご自分のすぐ隣に、寄りそって座っていらっしゃる更衣様。
帝はお手を伸ばされた。
でも、更衣様を抱きしめることはできなかった。
女官が更衣様のご実家に着くと、門を入ったところからすでに物寂しい雰囲気が漂っていた。
更衣様の父君が早くに亡くなってから、母君は一人で更衣様を育てていらっしゃったの。
そんな大切な大切な一人娘を失って、母君は悲しみの暗闇に沈んでいらっしゃる。
お庭はしばらく手入れがされていないようだった。
更衣様が生きていらっしゃったころは、母君がきちんと手入れさせておられたのに。
伸び放題になっていた草が最近の強い秋風で倒れて、そこへ月の光が悲しいほど美しく射しこんでいるの。
女官がお屋敷にお入りになったけれど、母君はしばらく何もおっしゃることができない。
やっとのことで、
「娘に先立たれたのに生きつづけている自分が嫌になります。こんな荒れたところへ帝のお使者にお越しいただくのも恥ずかしゅうございます」
とおっしゃって、ひどくお泣きになった。
女官は、
「『胸が張り裂けそうなほど母君はお気の毒なご様子で』と他の女官から聞いてまいりましたが、ものの分からない私にも、母君のおつらさが伝わってまいります」
と申し上げてから、帝からのご伝言をお伝えになった。
そのご伝言とは、
「更衣が亡くなったことは夢だとばかり思っていたが、最近はやっと現実のことだと考えられるようになった。すると今度は新しい悲しみに襲われている。
この悲しみを乗り越える方法を相談する相手もいない。目立たないようにして内裏においでなさい。幼い皇子が物寂しいところで暮らしているのも気にかかるから、なるべく早く一緒においでなさい」
ということだった。
女官は母君に申し上げる。
「帝は涙にむせびながらそのようなことをおっしゃいました。周りにお仕えする人たちに『帝はお気が弱すぎる』と思われてはいけないと気になさっていらっしゃって、それがお気の毒で私は、お話が終わったかどうかのところでお部屋の外に出てしまいました」
そう言って帝からのお手紙を母君にお渡しすると、母君は、
「ありがたい帝のお言葉は明るい光のようです。私は悲しみの暗闇におりまして目もよく見えませんが、その光にかざしてどうにかお手紙を読ませていただきます」
とおっしゃってお読みになったわ。
帝はお手紙に、
「時が経てば少しは悲しみも落ち着くかと、この何か月を過ごしてきた。しかし時が経てば経つほど耐えられなくなっていくのはどうしたことだろう。幼い皇子が私の目の届かないところにいるのは気がかりである。私を亡き桐壺の更衣の代わりと思って、皇子を内裏に連れてまいれ。内裏に強い風が吹いて小さな花が揺れていると、頼りない立場の幼い皇子を思い出して心配になるのだ」
と心をこめてお書きになっていた。
母君は涙で最後まで読むこともできず、
「長生きなどするものではないと思い知らされております。生きているのも恥ずかしいのです。ありがたいお見舞いのお言葉を帝から何度もいただいておりますが、私はとてもとても内裏にはまいれません。
皇子はどれほど状況を理解されているか分かりませんが、早く内裏に戻りたいと思っていらっしゃるようです。その方が皇子にとってよいのかもしれませんが、やはり悲しい気持ちもいたします。
とはいえ私は夫にも娘にも先立たれた不吉な者でございますから、皇子が私とお暮らしになるのも不吉で申し訳なく思っているのです。
更衣の母は内心このように考えているようだと帝にお伝えください」
とおっしゃったわ。
皇子はもう寝ていらっしゃる。
女官は、
「皇子にお会いして、くわしいご様子を帝にお伝えできればよかったのですが。帝は私の帰りを待っていらっしゃるでしょうに、夜もふけてきましたので急いで内裏に戻りませんと」
と申し上げた。
母君は、
「また今度、お使者としてではなく、ゆっくりお越しくださいませ。子を失って暗闇にいるような気持ちでございますが、話を聞いていただければその悲しみも少しは晴れるような気がいたします。
帝からのお使者といえば、いつもおめでたい知らせを持ってお越しくださっていましたのに、このような悲しいお使者がお越しになるようになるとは。かえすがえすもなぜ私だけが長生きしてしまったのでしょうか。
亡き夫は、娘が生まれたときから将来は入内させるつもりでおりました。亡くなる直前まで、『入内は必ずさせるように。私が死んだからといって、あきらめてはならぬ』と繰り返し繰り返し申しておりました。頼りになる父親も親戚もいない状態での入内は無茶だと思いはしましたが、夫の遺言を守るために入内させたのです。
そんな娘を帝はもったいないほど愛してくださいました。そのおかげで、実家が頼りにならない恥ずかしさをごまかしながら娘は内裏にいられたわけですが、その帝のご愛情のために皆様に嫌われてしまったのでしょうね。
つらい思いをたくさんして、本当はもっと生きられたでしょうに災難に遭ったような形で亡くなったのです。ありがたいご愛情のせいで、なんとも皮肉なことになってしまいました。
ああ、失礼なことを申し上げましたね。お許しくださいませ。これも子を失って暗闇にいるせいでございます」
と言い終える間もなく、涙にむせかえっていらっしゃる。
そうしてすっかり夜がふけてしまった。
女官は母君に申し上げる。
「帝は、『自分でも信じられないほど桐壺の更衣に夢中になってしまった。長く一緒にはいられないと予感していたのかもしれない。更衣と出会う前は誰からも恨まれないよう生きてきたが、更衣を愛しすぎたせいで他の妃たちに恨まれてしまった。その罰として更衣を奪われたのだから、なんとも皮肉なことである。私はとんだ愚か者だよ』と何度もおっしゃって、気落ちなさっています」
話は尽きないのだけれど、女官は泣きながら、
「すっかり遅くなってしまいましたが、夜が明ける前に内裏に戻って、帝に母君のお言葉をお伝えします」
とおっしゃって、急いで乗り物の近くまで行かれたわ。
月はもう山に沈もうとしている。
空は清らかに澄みわたっている。
涼しい風が吹いて、お庭の草むらから虫の音が聞こえる。
女官は立ち去りにくいお気持ちになって、このまま乗り物に乗ってしまうのがためらわれたの。
それで母君に、
「鈴虫が声のかれるまで鳴いたとしても、涙があふれる悲しい夜は明けないような気がいたします」
と申し上げると、母君は、
「虫の音がうるさいほど荒れた庭に帝のお使者が来てくださったので、ありがたくて悲しくて涙があふれます。ああ、また恨み言のように聞こえてしまいますかしら」
と女房を通じてお返事なさったわ。
使者の女官には何かお礼を差し上げなければいけないのだけれど、風流な品物がふさわしい場面でもない。
母君は、更衣様の形見として残しておかれたお衣装ひとそろいと、お髪の飾りのような物を差し上げたわ。
この女官がおいでになったころ、更衣様にお仕えしていた若い女房たちは、住み慣れた内裏が恋しくなってきていたようね。
更衣様が亡くなったことはもちろん悲しいのだけれど、母君に、
「帝もおっしゃっていることですし、早く皇子をお連れして内裏に上がりましょう」
なんておすすめしていた。
でも母君は、ご自分のような不吉な者が皇子に付き添って内裏に上がるのは人聞きが悪いと思っていらっしゃる。
かといって皇子だけを内裏にお戻しになって離れてお暮らしになるのもご心配で、皇子をどのようになさればよいか簡単にはお決めになれない。