野いちご源氏物語 第一巻 桐壺(きりつぼ)
女官が内裏に戻ると、帝は寝ずに女官の帰りを待たれていた。
お庭のお花が美しく咲いているのをご覧になるような格好でお座りになって、四、五人の落ち着いた女房たちと静かにお話をなさっていたの。
中国や日本の、愛する人に先立たれた物語や和歌のことをお話しになっていたわ。
帝は、桐壺の更衣様のご実家の様子をとても細かくお尋ねになった。
女官はお気の毒なご様子だったことをしんみりと申し上げる。
帝からのお手紙に対する母君からのお返事を女官は預かってきていたの。
そこには、
「恐れ多いお手紙をいただき、体が震えております。皇子と内裏に上がるようにというお話については、心が乱れて悩んでおります。親を失った皇子のことは、私も頼りない小さな花のようにご心配しております」
と書かれていたわ。
帝は、
「私も皇子の親なのであるが。私など頼りにならぬと思っているのか」
とお気になさったけれど、
「更衣の母は娘が亡くなって気が動転したままなのだろう。私を頼ることを思いつかないのも仕方がないことかもしれぬ」
とお許しになった。
あまり気の弱いところを人に見せたくないと帝はお思いなのだけれど、悲しみを我慢することはおできにならない。
更衣様と出会われてからこれまでのことを一つ一つ思い出されて、ご自分はなぜまだ生きていられるのだろうと苦笑なさる。
帝は、
「更衣の母が亡き夫の遺言を守って娘を入内させたことは私も知っていた。入内させた甲斐があったと思わせたかったのだが、更衣が亡くなってしまってはそれも実現できないではないか」
と悲しそうにおっしゃたわ。
そして、
「しかし皇子が成長すれば、いつか甲斐があったと思える日も来るであろう。その日のために長生きするがよい」
と独り言のようにおっしゃった。
更衣様の母君からの贈り物を帝はご覧になった。
「どこかに更衣の幻が暮らしていて、使者が幻を見つけた証拠としてこの髪飾りを持ってきたというのならよかったのに」
とおっしゃったけれど、現実逃避よね。
帝は最近、楊貴妃の絵をよくご覧になっている。
楊貴妃というのは中国の皇帝のお妃様なのだけれど、皇帝が彼女だけを愛しすぎたために国が滅亡したというとんでもない美女。
「絵では美しさを完全に表現することはできないから、楊貴妃本人はもっと美しかったのだろう。しかし桐壺の更衣には適わないはずだ。更衣には優しいかわいらしさがあった」
と帝はお思いになる。
帝と更衣様は、
「あの並んで飛ぶ鳥と鳥のように、あの仲良さそうに交差する枝と枝のように、私たち二人はいつまでも一緒ですよ」
とお約束なさっていたのに、寿命は思いどおりにならなくて恨めしいものよね。
弘徽殿の女御様は、もうずっと帝のご寝室に呼ばれていらっしゃらない。
月が美しい夜だったので、女御様は夜遅くまで音楽会をなさっていたわ。
帝は風の音や虫の音に耳をすませて悲しく更衣様を思い出していらっしゃったから、弘徽殿の方から音楽が聞こえてくると、
「ずいぶんにぎやかに楽しそうにしている。私の気持ちを思いやりはしないのか」
といまいましくお思いになっていたわね。
女房たちも貴族の男性たちも、
「帝に嫌われるようなことをわざわざなさらなくてもよいのに」
と思っていらっしゃったけれど、弘徽殿の女御様は気の強いお方だから、「私は私で楽しくやります」と言わんばかりのご態度だったわ。
帝は月が沈んでしまったのをご覧になって、
「私が泣いてばかりいるせいだろうか、ここは内裏だというのに月が沈んで暗くなってしまった。まして荒れ果てた更衣の実家は、月の光に照らされてなどいないだろう」
とおっしゃった。
女官たちからお聞きになった更衣様のご実家の様子を想像なさいながら、帝は夜中になっても起きていらっしゃる。
午前一時になった。
お仕えしている人たちの目を気にしてご寝室に入られたけれど、うとうとされることもない。
更衣様と夜を過ごした翌朝は、よく二人で朝寝坊されたことなどを帝は思い出されていたわ。
今はもう朝寝坊する理由もなくなってしまったのだけれど、早起きして政治をしようという気にはおなりになれなかったようね。
帝は食欲もなく、正式なお食事は嫌がられて簡単なものを少しだけ召し上がっていた。
お食事をご用意する係の人たちをはじめ、帝の近くでお仕えしている人たちは皆、
「帝があのようなご状態でいらっしゃっては」
「本当に困りましたね」
「桐壺の更衣様のこととなると常識を忘れてしまわれていたけれど、今は政治をすっかり忘れていらっしゃって」
「外国でも似たようなことがあったそうですよ」
なんて、こそこそ話していらっしゃったわ。
お庭のお花が美しく咲いているのをご覧になるような格好でお座りになって、四、五人の落ち着いた女房たちと静かにお話をなさっていたの。
中国や日本の、愛する人に先立たれた物語や和歌のことをお話しになっていたわ。
帝は、桐壺の更衣様のご実家の様子をとても細かくお尋ねになった。
女官はお気の毒なご様子だったことをしんみりと申し上げる。
帝からのお手紙に対する母君からのお返事を女官は預かってきていたの。
そこには、
「恐れ多いお手紙をいただき、体が震えております。皇子と内裏に上がるようにというお話については、心が乱れて悩んでおります。親を失った皇子のことは、私も頼りない小さな花のようにご心配しております」
と書かれていたわ。
帝は、
「私も皇子の親なのであるが。私など頼りにならぬと思っているのか」
とお気になさったけれど、
「更衣の母は娘が亡くなって気が動転したままなのだろう。私を頼ることを思いつかないのも仕方がないことかもしれぬ」
とお許しになった。
あまり気の弱いところを人に見せたくないと帝はお思いなのだけれど、悲しみを我慢することはおできにならない。
更衣様と出会われてからこれまでのことを一つ一つ思い出されて、ご自分はなぜまだ生きていられるのだろうと苦笑なさる。
帝は、
「更衣の母が亡き夫の遺言を守って娘を入内させたことは私も知っていた。入内させた甲斐があったと思わせたかったのだが、更衣が亡くなってしまってはそれも実現できないではないか」
と悲しそうにおっしゃたわ。
そして、
「しかし皇子が成長すれば、いつか甲斐があったと思える日も来るであろう。その日のために長生きするがよい」
と独り言のようにおっしゃった。
更衣様の母君からの贈り物を帝はご覧になった。
「どこかに更衣の幻が暮らしていて、使者が幻を見つけた証拠としてこの髪飾りを持ってきたというのならよかったのに」
とおっしゃったけれど、現実逃避よね。
帝は最近、楊貴妃の絵をよくご覧になっている。
楊貴妃というのは中国の皇帝のお妃様なのだけれど、皇帝が彼女だけを愛しすぎたために国が滅亡したというとんでもない美女。
「絵では美しさを完全に表現することはできないから、楊貴妃本人はもっと美しかったのだろう。しかし桐壺の更衣には適わないはずだ。更衣には優しいかわいらしさがあった」
と帝はお思いになる。
帝と更衣様は、
「あの並んで飛ぶ鳥と鳥のように、あの仲良さそうに交差する枝と枝のように、私たち二人はいつまでも一緒ですよ」
とお約束なさっていたのに、寿命は思いどおりにならなくて恨めしいものよね。
弘徽殿の女御様は、もうずっと帝のご寝室に呼ばれていらっしゃらない。
月が美しい夜だったので、女御様は夜遅くまで音楽会をなさっていたわ。
帝は風の音や虫の音に耳をすませて悲しく更衣様を思い出していらっしゃったから、弘徽殿の方から音楽が聞こえてくると、
「ずいぶんにぎやかに楽しそうにしている。私の気持ちを思いやりはしないのか」
といまいましくお思いになっていたわね。
女房たちも貴族の男性たちも、
「帝に嫌われるようなことをわざわざなさらなくてもよいのに」
と思っていらっしゃったけれど、弘徽殿の女御様は気の強いお方だから、「私は私で楽しくやります」と言わんばかりのご態度だったわ。
帝は月が沈んでしまったのをご覧になって、
「私が泣いてばかりいるせいだろうか、ここは内裏だというのに月が沈んで暗くなってしまった。まして荒れ果てた更衣の実家は、月の光に照らされてなどいないだろう」
とおっしゃった。
女官たちからお聞きになった更衣様のご実家の様子を想像なさいながら、帝は夜中になっても起きていらっしゃる。
午前一時になった。
お仕えしている人たちの目を気にしてご寝室に入られたけれど、うとうとされることもない。
更衣様と夜を過ごした翌朝は、よく二人で朝寝坊されたことなどを帝は思い出されていたわ。
今はもう朝寝坊する理由もなくなってしまったのだけれど、早起きして政治をしようという気にはおなりになれなかったようね。
帝は食欲もなく、正式なお食事は嫌がられて簡単なものを少しだけ召し上がっていた。
お食事をご用意する係の人たちをはじめ、帝の近くでお仕えしている人たちは皆、
「帝があのようなご状態でいらっしゃっては」
「本当に困りましたね」
「桐壺の更衣様のこととなると常識を忘れてしまわれていたけれど、今は政治をすっかり忘れていらっしゃって」
「外国でも似たようなことがあったそうですよ」
なんて、こそこそ話していらっしゃったわ。