🍶 夢織旅 🍶  ~三代続く小さな酒屋の愛と絆と感謝の物語~
第十七章:佐久乙女
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「自分たちにご褒美をあげてもいいんじゃない」
 幸恵に誘われて、醸は2泊3日の信州旅行に出かけた。結婚以来休む間もなく働き通しだった二人にとって久々の旅行だった。華村酒店も愛夢農園も順調に売上を伸ばしているので心配はなかったし、翔と母が店番してくれているから安心して出かけることができた。

 涼やかな高原をのんびりと歩いた。目的もなく、ただ歩くことを楽しんだ。なんにも考えずに目に見えるものだけに心を向けた。
 2時間近く歩いてお昼前になると、古びた店が右手に見えてきた。蕎麦屋だった。ちょうどお腹が空いてきたのと、雰囲気が良さそうなので入ることにしたが、これが大正解。最高にうまい蕎麦に出会ったのだ。戸隠(とがくし)の十割蕎麦。店主が打った蕎麦は、つなぎや食塩などを一切使わない100パーセントそば粉だけで打った蕎麦で、濃厚な味と香りを楽しむことができた。
「これに合う日本酒はありますか」
 2枚目を注文する時に尋ねると、「蕎麦には蕎麦焼酎でしょう」と店主に(たしな)められた。それはそうだと思って「では、お湯割りで」と言うと、「蕎麦焼酎は蕎麦湯割り。これ常識」と今度は叱られた。醸は教師に叱られた小学生のように首をすくめるしかなかった。
「はい、お待ち」
 蕎麦焼酎と蕎麦湯が別々の容器に入れられて運ばれてきた。
「お好みの濃さに割って飲んでください」
 と言われても見当がつかなかったが、先ずは半々でと思い、一対一で割って口に運んだ。その途端、「いける!」と声が出た。蕎麦の風味がふわっと感じられて、ほのかな甘さが口の中に広がった。
「ぐいぐい飲めるね」
「そう? それなら私もいただこうかしら」
 一口飲んだ幸恵は、「これ好き。飲みすぎちゃいそう」と満面に笑みを浮かべた。

        *

「ここら辺だと思うんだけどな……」
 蕎麦屋の店主に頼んで書いてもらった地図を頼りに目的の酒蔵を探していたが、なかなか見つからなかった。方向感覚に自信のない醸は心配になって「電話で聞いてみようか?」と幸恵に話しかけたが、その時、「ここじゃないかしら」と斜め右の方向を指差した。そこには小さな立て札があり、信州佐久酒造と書かれていた。蕎麦屋の主人から教えてもらった酒蔵の名前だった。
 少し歩くと、歴史を感じさせる建物が見えてきた。近づくと、事務所の玄関は引き戸になっていた。中に入ると、事務服のようなものを着た女性が応対してくれたので、自己紹介をして蔵元を呼んでもらった。
 しばらく待っていると、奥から初老の男性が現れた。小柄で、角刈りの頭はほとんど白髪だった。顔の皺は深く刻み込まれていた。醸は名刺を渡して自己紹介をし、すぐに本題を切り出した。
「先ほど蕎麦屋でいただいたこちらの蕎麦焼酎が余りに美味しかったので、住所を教えてもらってやってまいりました。突然の訪問で失礼なことは重々承知しておりますが、どうしてもお目にかかってご挨拶させていただきたかったので、アポイントも取らずに伺ってしまいました。その上、初対面でこんなことを申し上げるのは不躾だと承知しておりますが、一つお願いがございます。もし可能でしたら弊社で取り扱いさせてをいただけないでしょうか」
 気持ちが通じるようにいつもより少し長く頭を下げたが、顔を上げた時の蔵元の表情は硬かった。
「取り扱いですか。ん~、それはちょっと難しいですね。いま造っている蕎麦焼酎はすべて納品先が決まっていますので、新しい方にはちょっと」
 そこまで言って口を噤み、無理だよな、というような感じで近くにいた親子ほど年の離れた男性に視線を投げた。
「そこをなんとかお願いできないでしょうか」
 簡単に諦めるつもりはなかった。商売は断られた時から始まるのだ。誠意を尽くせば不可能が可能になることもあるのだ。諦めたら終わりなのだ。
「ん~、そう言われてもね~」
 蔵元は腕組みをして首を振った。しかし、まだNOと言われたわけではないので、チャンスの隙間を探すように言葉を継いだ。
「最初から大きな取引をさせていただこうとは思っておりません。少しずつで結構ですので、始めさせていただけないでしょうか」
 それでも蔵元が首を縦に振ることはなかった。
 それを見て、醸は作戦を変えた。
「もし今の生産量では無理ということでしたら、増産を考えていただけないでしょうか。その増産分を弊社で扱わせていただければありがたいのですが」
 すると、蔵元の表情が瞬時に変わった。
「増産はしない」
 そして、「帰ってくれ」と取りつく島もないような状態になった。
「どうしてもダメですか?」
 諦めきれなかったし、簡単に引き下がりたくなかったが、しかし粘り過ぎたせいか、蔵元がいい加減にしろというような怒った顔になり、一気にマズイ雰囲気になった。
 引くしかなさそうだった。やり過ぎは禍根を残すからだ。だから、すぐに前言を翻して、「無理なお願いを何回もして申し訳ありませんでした」と深く頭を下げた。
 しかし、顔を上げた時、そこに蔵元の顔はなかった。後姿が奥に消えようとしていた。事務服の女性と若い男性の申し訳なさそうな視線だけがこちらに向けられていた。

 二人に礼を言って酒蔵をあとにしたが、それでも未練が足を止め、振り返って酒蔵に向き直った。
「けんもほろろだったね」
 肩をすくめるしかなかった。幸恵は同意するように頷いたが、「そういうこともあるわよ」と慰めの口調になった。
「まあね」
 まだ後ろ髪をひかれていたが、断ち切るしかなかった。
「またいいこともあるわよ」
 慰められたが、諦めきれなかった。なんとかならないかと、頭は答えを探し続けていた。

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