手のひらを太陽に

第25話

 部屋の電気をつけると、机の上に置かれたままの登記簿のコピーが目に入った。机の椅子に座った後、登記簿のコピーを見つめていた。
 父と母の名前が書かれた表札が玄関にある。間違いなく父と母が生きているということの現実を確信させるかのように表札は太陽の光を浴びて光っている。家の周辺にある父の所有である畑に、建てられた父の弟妹たちの家が、影も形もないのである。家の周辺には、広大なよく手入れされた農地が広がっている。私の記憶にある家とその周辺の映像が全く違っているのである。 
 私の身に起こったタイムスリップのためにこのような摩訶不思議なことが起こったのだろうか。
 家を鍵で開けて、中に入って行ったのは一体誰であったのだろうか。そのまま家の玄関の前に行って、チャイムを鳴らし、あの女性と話して、いろいろ聞き出せばよかったのだろうか。父と母が家にいるのかどうか確認すればよかったのだろうか。父と母の所在を確認するのは、普通考えることである。玄関のチャイムを鳴らして、あの女性を呼び出して、私の両親の所在を確認するのが、私のすべきことだったのかもしれない。でもそれができなかった。
 あの家を去っていかなければならなかった17歳の頃までの私の記憶が、あの瞬間薄らいでいくのを感じたのである。これはどういうことなのであろうか。私が17歳まで住んでいた家が家の外観以外違っていた。周辺にあるはずだった叔父叔母たちの家が、影形もない。記憶と現実の違いが私自身の記憶に対する信頼をなくしてしまったのか。
 タイムスリップが現実のもので、私に関する現実を変えてしまったのか。私の記憶に関する機能が障害をきたしたのであろうか。

 翌日清掃する部屋が少なかったので、仕事は午前中で終わった。私と時田はコンビニに寄っておにぎりとお茶のペットボトルを買った。窓際のカウンターでおにぎりを食べながらしばらく雑談をした。時田は午後予定があったようで雑談もさほど長くはならなかった。私は17歳の頃まで住んでいた家に実際に行ってきたことについて、時田に話さなかったし、初めから話そうとは思わなかった。
 時田と別れてコンビニを出た後、役所に向かっていった。役所は昼休みが終わって受付を始めたばかりだった。それほど混雑していなかった。私は証明書申請用紙を取り出して必要事項を書いた。
 戸籍謄本が窓口で出るのを待っている短い間に、いろいろな考え思いが頭の中を去来した。
 戸籍謄本に全く違う人の、聞いたこともない名前が、両親の欄に書かれてあったらどうしようか。そうしたら私の17歳までの記憶は、現実世界と関係のないものとなってしまう。戸籍謄本に書かれた両親の名前が、本当の両親の名前ということになってしまう。戸籍謄本に書かれてある住所をたどって、彼らに会いに行かなければならない。17歳までの空白期間を彼らから聞き出さなければならない。戸籍上彼らは、私の親であるのに、私の記憶の中には、彼らの情報が全くない。私の脳の記憶に関する機能に異常があったのか。つまり私は今記憶喪失の状態にあるのか。タイムスリップの記憶は記憶喪失と何らかの関わりがあるのではないか。記憶喪失の過程での危険な状況から防御するための本能的なシステムがジャンク DNAに書かれており、それが作動したのであろうか。記憶喪失の状態なのでこのことは覚えているはずはないのであるが、何らかの記憶喪失を起こさせる決定的なことが私の身体に起こったのかもしれない。記憶喪失を起こさせたのだから、一歩間違えば私は命を失っていたかもしれない状況にいたのかもしれない。そのような状況から私の命を守るために防御システムのようなものが機能したのかもしれない。タイムスリップの記憶はそのことの足跡のようなものなのかもしれない。
 だけどこのことよりも一層恐ろしい、いや比べられないくらい恐ろしい状況が、頭をよぎった。証明書の申請書に必要事項を書いて署名してから、受付に提出した。それから経過した時間が、異常に長く感じられる。本当はそれほど、長い時間は経過していないかもしれないが、異常に長く感じられるのは、私が恐れている最悪の状況の故かもしれない。
 その最悪の状況とは私の戸籍がないということである。
< 25 / 52 >

この作品をシェア

pagetop