手のひらを太陽に

第50話

 これまでにないほどの数の退院者が出た。かなりの数の空室が、出たが、その数のほとんどを埋め尽くすほどの数の感染者が報告された。
 いつもより早い時間に仕事を始めたが、それでも予定より仕事を終えるのが間違いなく遅くなるのは明らかであった。医療従事者の間では、マスクや防護服が不足しており、私たちのような清掃作業員には回ってこないほどになっていた。使用済みのマスクと防護服と手袋は、その日に処分することになっていたが、翌日使わざる得なくなってしいた。
 前日使っていたマスクと防護服とマスクと手袋で、清掃と消毒の仕事を始めることになった。今回は空き部屋だけでなく、各フロアーのトイレの清掃と消毒もしなければならなかった。
 作業をしている時に、いつもと違うことに気がついた。いつも掃除の作業をしている時に匂う臭いがしないのである。消毒の作業をしている時も消毒液の臭いがしないのである。
 すべての作業が終わった時間が、普段よりもかなり遅くなってしまった。私たちは、コンビニで弁当を買ったが、いつものようにカウンター席で食べることをしないで、家に帰って食べることになった。
 家に帰ってから、弁当を食べ始めた時、異変を感じた。何も味がしないのである。食欲がなくて、弁当の半分も食べることができなかった。
 ゾクゾクと身体中に寒気を感じるようになった。こんな感じは始めてなのだが、息をするのが辛いというか、苦しい。
 体温計を出して、測ってみると、38度5分あった。
 かかりつけの医師に電話して、詳しい状況を話した。車を手配するので、自宅で待機しているように言われた。
 頭が朦朧としてきた。30分ほど経っただろうか。玄関のチャイムの音が鳴った。
 玄関の扉を開けると、二人の人が立っていた。二人とも防護服とフェイスシールドを身につけていた。
 家の前庭には車が停めてあった。車まで案内され、後ろの座席に乗るように指示された。一人は運転席に、もう一人は、後ろ座席で、私の隣に乗った。車はすぐに走り出した。私の隣に座っている人は、非接触タイプの体温計を出して、私の体温を測った。
 ますます息苦しくなっていく感じがした。体が震えてきた、震えが止まるどころか、ますます激しくなっていくのを感じた。
 円形状の透明の蓋付きの入れ物を渡された。中に唾を入れて蓋をするように言われて、そのようにした。
 携帯で話している声が聞こえた。
「重症者用の部屋を準備してください。それからICUも用意してください」
体の震えがますます激しくなってきた。目がだんだんと霞んでくる。携帯で話している声が少しずつ聞こえなくなってきた。暗闇の中に突き落とされていく。暗闇の底に向かって体が落ちていく。何も音が聞こえない。沈黙と暗闇の中でただ下に向かって落ちていくばかりだ。
 黒い頭だけの生き物のようなもの数体が、今まで聞いたことのないような奇妙な音を発生して上下している。今まで感じたことのない恐怖で、舌が硬直していく。恐怖の叫び声をあげようとしても、声が全く出ない。
 身体中を、無数の針が、通り抜けていくような、激しい痛み・・・痛みをこらえようと叫び声をあげようにも声が出ない。
 黒い顔だけの生き物の数が、少しずつ増えていく。その生き物の発する奇妙な音はますます大きくなっていく。鼓膜が破けそうな大きさだ。
 体が少しずつ回転し始める。その回転はますますスピードを速めていく。目がまわる感覚を超える感覚が体を包んでいく。
 意識が、得体の知れない何かによって、吸い取られていくようだ。一瞬、星の数ほどの映像が、暗闇の中で輝いた。それが私の記憶の全てであることがなぜか分かった。私の全存在が暗闇の底に落ちていく。
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