王子様カフェにようこそ!

第2話 黒髪の少年との出会い

 ボーっという船舶の汽笛が、青空に届くほどに鳴り響いていた。
 耳をすませば寄せては返す潮騒が遠く微かに聞こえる。頭上ではウミネコの鳴き声。

 四角い革鞄の持ち手を両手で握り直して、エルトゥールは目の前に聳える石造りの建物を見上げた。 

(ティム商会……、ここだ)

 船を下りてほとんど目と鼻の先。
 第五王女の迎えは、なかった。

 帽子と外套の旅装で、短距離とはいえ慣れぬ異国の道を、重い鞄を手にひとりで歩いて来た。
 磯の香を乗せた潮風が吹く中、忙しなく行き交うひとびと、笑いながら走り抜けていく子供たち。
 道中目にした何もかもが物珍しく感じられたので、気分は爽快であったが、ぼんやり観光している場合ではない。
 
 エルトゥールは、海の向こうの国から長い船旅を経て、このリンドグラードの地へ留学のために降り立ったところである。

(「一年以内に学業で成果を上げる」もしくは「結婚相手を見つける」ですか。姉さまのような美貌があるわけでもないし、王女とはいえ持参金もたかがしれている第五王女なので、めくるめく出会いは正直難しいかもしれないけど……)

 エルトゥールには、いざというときの奥の手が、無いわけではない。
 今はどこの国でも廃れて久しく使い手のいなくなった「魔法」が、エルトゥールは自覚的に、ほんの少しだけ使えるのだ。
 「魔法」は、生得的なものとされているので、持たない者はどれだけ修行しても得ることができないと考えられている。使えるというのは、それだけで大きな特徴なのだ。

 とはいえエルトゥールの持つ力は、手品と紙一重程度というささやかさである。

 念じるだけで大きなものを宙に浮かせたり、自分が空を飛んだりといった、大げさなものではない。何もないところから水や炎を生み出すというのも、できないわけではないが、本当に子どもだまし程度。とても魔法使いを名乗れるレベルではない。期待されても応えるほどのものは、何もないのだ。
 そのため、王宮暮らしの間は公表することもなく隠し通してきた。
 身近でこの事実を知っている者は、ごく少数。長姉のメリエムは、その数少ない中の一人。

 ――うかつに事情を知られたら「実験動物」にされるかもしれないから、使いどころは気を付けて。ただし、リンドグラードにはいまだ「聖女伝説」もあるし、魔法使いも多少いると聞くわ。あなたが行くランカスター寄宿学校にはカリキュラムに魔法学もあるの。うまくいけば、魔法関係の研究者の道があるかもしれないし、自分の血筋に魔法使いの血を入れたい貴族からの求婚があるかもしれない。ただしこの辺の事情は、遠く離れたこの国からではハッキリとわからない部分もあるから、迂闊に魔法が使えることは言わない方がいいわ。

 メリエムには念押しをされているので、さしあたりは秘密にするつもりではいる。

(そもそも、使おうとしても、全然たいした魔法使えないですから……! ほとんど一般人と変わらないし、「王宮育ち、世間知らず」のせいで普段の生活さえ危うい。長い船旅でだいぶ無知をさらして鍛えられたけど……)

 その間付き従ってくれた護衛や侍女は、そのまま船で帰国するとのこと。
 大型客船にも碇泊期間があるはずなので、もしかしたら今頃こっそり下船して観光をしているかもしれないが、「姫様はここからおひとりで頑張ってください!」と笑顔で送り出されてしまった。
 かくして、現地での手続き関係を担当しているという、国の出先機関「ティム商会」を目指して来たの次第。

「よし」

 気合を入れるように息を吸い込み、エルトゥールは建物正面の石段を数段上る。
 門番よろしく大きな木戸の両側に立った中年男性二人に視線をすべらせながら、思い切って口を開いた。

「あの」
「そこで立ち止まると、危ないよ」

 背後から、低く通りの良い声が響いた。予想もしておらず、エルトゥールは飛び上がる。
 慌てた拍子に石段を踏み外して、バランスを崩した。

(うそっ)

 踵がむなしく空を踏みしめる。落ちる。背筋に、ぞっとした悪寒が走った。
 瞬間的に。

(魔法、使った方が良い!? いきなり!?)
 
 頭をよぎったものの、実際にはすぐに誰かの腕に抱き留められていた。

「おっと。大丈夫?」

 相手が覗き込んできて、顔に影が落ちた。
 青空を背景に、光と影の落差に目が眩んで、エルトゥールからはよく見えない。
 笑みを浮かべた唇が一瞬、視界をかする。

「離すよ。落ち着いて、自分の足で立って」

 そっと、腕と体が離れていく。

「申し訳ありませんっ。その、助けて頂いて、ありがとう、ございます」

 エルトゥールは、早口で謝罪とお礼を告げてから、相手の顔に目を向けた。

「うん。俺も悪かった。突然声をかけたから、驚かせたかな」

 強い潮風に、柔らかそうな黒髪が靡いていた。
 光を湛えた黒瞳は涼し気で、かすかに細められている。端整な面差し。年の頃はエルトゥールとあまり変わらない印象の少年。
 軽快な足取りでエルトゥールの横をすり抜け、石段を数段駆けあがる。ドアに手をかけてから、肩越しに振り返ると目にも鮮やかな、開けっぴろげな笑みを向けてきた。

「俺、中のことわかるよ。誰に取り次げば良い?」
「ブラッドリーさん、に、会いに来ました」 

 ひゅう、と口笛を吹かれた。

(どういう反応だろう……)

 ティム商会の責任者の名前である。聞かれたから答えたのだが、何か変だっただろうか。
 エルトゥールが緊張で固まっていると、少年は笑みを深めて頷いてきた。

「わかった。おいで」

 ちらりと鞄に目を向けて「それ、重い?」と聞いてきたが、エルトゥールは「大丈夫です。自分で持ちます」と片手で持ち直しながら、少年の後に続いた。

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