王子様カフェにようこそ!
【第四章】
第34話 この道は、どこまで
「今日はもう帰りな。調子悪そうだ」
周囲から声をかけられ、「大丈夫です」と強がることもできずに、エルトゥールは素直に礼を言って仕事を切り上げることにした。
(目立ったミスをしたつもりはないけど、全然笑えていないし、声も出ていない。心配させた挙句、取り返しのつかない失敗をする前に、終わりにした方が良い)
「エル、俺も切りの良い所で上がる。少し待ってて。鍋磨き終わったら行く」
挨拶をしながら厨房を通り抜けていると、アーノルドもすぐに気付く。
帰る場所が同じで、一人歩きには遅すぎる時間帯。
危険回避の為に、アーノルドと二人でシェラザードを出るのは、エルトゥールが仕事を始めてからずっと続いてきた習慣だ。
(こういう部分で「頼って」しまっているから、心が弱くなるのかな。アーノルド殿下が側にいることを当然のように感じて、それどころか「もっと」と願ってしまう。浅ましい。あのひとの横は私のための場所じゃない)
アルとアーノルド。同一人物である二人を、いつまでも別人のように分けて考えるのは無理がある。
学校では話さないように心がけていても、仕事で接するたびに、思い知らされてしまうのだ。
(これ以上……、あの優しさに溺れたくない)
抜けられない深みにはまる前に、さらに突き放して距離を置かねばという危機感は、日毎に募っていく。
「待たせたな。行こう」
悩みながらも、夜道を歩く危険を思えば振り切ってひとりで帰ることもできずに、結局一緒にシェラザードを出ることになる。
必要だからそうしている、そこに互いの感情を挟んで考えるべきではないと、理解はしている。
自分の思い詰めた心だけが、ただひたすらに重い。
「ずっと浮かない顔してる。元気もない。何がそんなに、気がかりなんだ」
並んで歩き出してすぐ、アーノルドから切り出してきた。
エルトゥールには予期できていた質問。彼は、他人の不調を見過ごすようなひとではないのだ。
(その優しさが辛いんです。殿下にとっては当たり前のことでも、私がおかしいから)
心配されるとすがりたくなるし、笑いかけられると自分を特別だと勘違いしそうになる。
言えない。
“あなたが原因です”なんて。
(海に飛び込んで、泡になって消えてしまいたい。この思いを捨てられないとしても、おかしなことを口にする前に、声が出なくなってしまえばいいのに)
「疲れかもしれません。ぐっすり寝たら、明日には元気です」
「最近、食欲もないだろ。食べる量も減っているみたいだし、顔色も良くない。困ったことがあるなら」
「大丈夫です。学校ではレベッカが何かとフォローしてくれていますし、周りも親切です」
「侯爵家からの招待の件は」
「断りました。ご心配なく」
嘘ではないので、そこだけは胸を張って言える。たとえアーノルドの顔を見て話すことがとにかく辛くて、目を合わせることができなくなった今でも。
会話が途絶えると、アーノルドもそれ以上無理に何かを話そうとする素振りはなかった。
(二人で過ごす時間は、アーノルド様の重荷になっているかもしれない。アーノルド様からすれば私は、どんなに親切に接しても、暗い顔をしているだけで、良いところが全然なくて)
「仕事……、シェラザード以外に探し……た方が良いかなと考えていて」
「どうして。シェラザードに、何か問題でも?」
思っていたことが、声となって出てしまった。
アーノルドには当然の如く問い返される。少々きつい口調で。
「違います。卒業後のことを考えると、もっといろんな仕事が出来た方がいいかと思って」
「国に簡単に呼び戻されないために? 帰れば縁談が待っているから?」
「覚えていましたか。ええ、まあ、そうですね……」
アーノルドは、エルトゥールの「やめたい」という思い付きを頭から否定するようなこともなく、理由を確認するように問い返してきた。
エルトゥールは思わず、隣を歩くアーノルドの横顔を見上げる。
夜の乏しい光の中で、アーノルドは真面目な表情のまま続けた。
「公式行事に国賓待遇で招待するにあたり、エルトゥール姫のことは少し調べさせてもらった。姫が卒業を期限として、学業や結婚で成果を出すように厳命されていることも、メリエム様ご本人からの書簡で知った。おそらく、俺は姫の事情を、姫が考えている以上に把握している。その上で言うが、あまり焦らないように。仕事に関しても、安易によそで働こうと考える前に、シェラザードで通用するようになるまでもう少し続けてみればいい。何も今すぐ、違うことに手を出す必要はない」
(メリエム姉さま……)
放り投げられたような感覚でいたが、きちんとバックアップしてくれていると聞くと気恥ずかしくも、嬉しい気持ちになる。
その反面、あの姉姫のこと、何か裏があるのではないかと勘繰りたくもなるのだった。
「一年が、短すぎるんです。編入ではなく、せめて二年前に留学できていたら」
「それは言っても仕方のないことだな。メリエム様は、姫のことが可愛くて手放せなかったらしいから。縁談から逃がすために、ようやく外に出す決心がついたとの話だったが」
アーノルドがくすっと噴き出す。
そのまま、思い出し笑いを堪えるようにくっくっと喉を鳴らして不自然な息をしている。
エルトゥールは咎めるように軽く睨みつけてから、前を向いた。
「殿下は騙されています。姉さまがそんなことを言うときには、必ず裏があります。私は王宮では大体にして『何かとできの悪い末の姫』でした。その期待値の低さから注目もされませんでしたから、これ幸いとメリエム姉さまにあれこれ雑用を言いつけられて……。おかげで身の回りのことができるようになり過ぎて、長い船旅でも不便はありませんでしたし、出された食べ物はなんでも美味しく頂きますし、寮生活も仕事も……」
(仕事に関しては、「満足にできています」と言うと、言い過ぎかもしれませんが)
視線を感じた気がして、ふと横を歩くアーノルドを見上げると、目が合った。
たとえようもなく、優しい表情。
まるで愛おしいものに向けるようなまなざし。
「そういう、姫の話には興味がある。言っておくが、俺は今でこそ仕事でそれなりに動けるが、最初は何もできなかったからな。エルとは全然違う。適応力の高さに驚かされたし……、それからもずっと、毎日ドキドキするようなことばかりだ。姫といると、本当に楽しい。ずっと一緒にいたいし、別れ際は辛いし、夜寝るときは早く朝になってほしいと願っている。メリエム様には悪いが、国に帰せと言われても無理だ。諦めてもらうしかない」
「アル……」
(「アル」としての、話。シェラザードをやめてほしくないとか、そういう意味。「アーノルド殿下」じゃなくて。でもアルがメリエム姉さまの話をするわけがない。その発言はアーノルド殿下だし、だってそもそも二人は同一人物なのだから)
話しているうちに、女子寮の近く、普段別れるところまでたどり着いてしまった。
なんと言うべきか、言葉を見つけられぬまま、エルトゥールは凍り付いたように沈黙してしまう。
(はやく、別れの挨拶を。「おやすみなさい、また明日」と)
――別れ際は辛い
(…………殿下も、いま、同じ気持ちですか?)
感情の処理が追いつかない。
何も言えぬまま、数歩後退し、背を向ける。「さよなら」とだけ言い捨てて、なにもかも振り切るように駆け出し、その場を離れた。
どこかからまとわりつくような視線を感じたが、アーノルドだと決めつけていたばかりに、振り返って確認することもなかった。
周囲から声をかけられ、「大丈夫です」と強がることもできずに、エルトゥールは素直に礼を言って仕事を切り上げることにした。
(目立ったミスをしたつもりはないけど、全然笑えていないし、声も出ていない。心配させた挙句、取り返しのつかない失敗をする前に、終わりにした方が良い)
「エル、俺も切りの良い所で上がる。少し待ってて。鍋磨き終わったら行く」
挨拶をしながら厨房を通り抜けていると、アーノルドもすぐに気付く。
帰る場所が同じで、一人歩きには遅すぎる時間帯。
危険回避の為に、アーノルドと二人でシェラザードを出るのは、エルトゥールが仕事を始めてからずっと続いてきた習慣だ。
(こういう部分で「頼って」しまっているから、心が弱くなるのかな。アーノルド殿下が側にいることを当然のように感じて、それどころか「もっと」と願ってしまう。浅ましい。あのひとの横は私のための場所じゃない)
アルとアーノルド。同一人物である二人を、いつまでも別人のように分けて考えるのは無理がある。
学校では話さないように心がけていても、仕事で接するたびに、思い知らされてしまうのだ。
(これ以上……、あの優しさに溺れたくない)
抜けられない深みにはまる前に、さらに突き放して距離を置かねばという危機感は、日毎に募っていく。
「待たせたな。行こう」
悩みながらも、夜道を歩く危険を思えば振り切ってひとりで帰ることもできずに、結局一緒にシェラザードを出ることになる。
必要だからそうしている、そこに互いの感情を挟んで考えるべきではないと、理解はしている。
自分の思い詰めた心だけが、ただひたすらに重い。
「ずっと浮かない顔してる。元気もない。何がそんなに、気がかりなんだ」
並んで歩き出してすぐ、アーノルドから切り出してきた。
エルトゥールには予期できていた質問。彼は、他人の不調を見過ごすようなひとではないのだ。
(その優しさが辛いんです。殿下にとっては当たり前のことでも、私がおかしいから)
心配されるとすがりたくなるし、笑いかけられると自分を特別だと勘違いしそうになる。
言えない。
“あなたが原因です”なんて。
(海に飛び込んで、泡になって消えてしまいたい。この思いを捨てられないとしても、おかしなことを口にする前に、声が出なくなってしまえばいいのに)
「疲れかもしれません。ぐっすり寝たら、明日には元気です」
「最近、食欲もないだろ。食べる量も減っているみたいだし、顔色も良くない。困ったことがあるなら」
「大丈夫です。学校ではレベッカが何かとフォローしてくれていますし、周りも親切です」
「侯爵家からの招待の件は」
「断りました。ご心配なく」
嘘ではないので、そこだけは胸を張って言える。たとえアーノルドの顔を見て話すことがとにかく辛くて、目を合わせることができなくなった今でも。
会話が途絶えると、アーノルドもそれ以上無理に何かを話そうとする素振りはなかった。
(二人で過ごす時間は、アーノルド様の重荷になっているかもしれない。アーノルド様からすれば私は、どんなに親切に接しても、暗い顔をしているだけで、良いところが全然なくて)
「仕事……、シェラザード以外に探し……た方が良いかなと考えていて」
「どうして。シェラザードに、何か問題でも?」
思っていたことが、声となって出てしまった。
アーノルドには当然の如く問い返される。少々きつい口調で。
「違います。卒業後のことを考えると、もっといろんな仕事が出来た方がいいかと思って」
「国に簡単に呼び戻されないために? 帰れば縁談が待っているから?」
「覚えていましたか。ええ、まあ、そうですね……」
アーノルドは、エルトゥールの「やめたい」という思い付きを頭から否定するようなこともなく、理由を確認するように問い返してきた。
エルトゥールは思わず、隣を歩くアーノルドの横顔を見上げる。
夜の乏しい光の中で、アーノルドは真面目な表情のまま続けた。
「公式行事に国賓待遇で招待するにあたり、エルトゥール姫のことは少し調べさせてもらった。姫が卒業を期限として、学業や結婚で成果を出すように厳命されていることも、メリエム様ご本人からの書簡で知った。おそらく、俺は姫の事情を、姫が考えている以上に把握している。その上で言うが、あまり焦らないように。仕事に関しても、安易によそで働こうと考える前に、シェラザードで通用するようになるまでもう少し続けてみればいい。何も今すぐ、違うことに手を出す必要はない」
(メリエム姉さま……)
放り投げられたような感覚でいたが、きちんとバックアップしてくれていると聞くと気恥ずかしくも、嬉しい気持ちになる。
その反面、あの姉姫のこと、何か裏があるのではないかと勘繰りたくもなるのだった。
「一年が、短すぎるんです。編入ではなく、せめて二年前に留学できていたら」
「それは言っても仕方のないことだな。メリエム様は、姫のことが可愛くて手放せなかったらしいから。縁談から逃がすために、ようやく外に出す決心がついたとの話だったが」
アーノルドがくすっと噴き出す。
そのまま、思い出し笑いを堪えるようにくっくっと喉を鳴らして不自然な息をしている。
エルトゥールは咎めるように軽く睨みつけてから、前を向いた。
「殿下は騙されています。姉さまがそんなことを言うときには、必ず裏があります。私は王宮では大体にして『何かとできの悪い末の姫』でした。その期待値の低さから注目もされませんでしたから、これ幸いとメリエム姉さまにあれこれ雑用を言いつけられて……。おかげで身の回りのことができるようになり過ぎて、長い船旅でも不便はありませんでしたし、出された食べ物はなんでも美味しく頂きますし、寮生活も仕事も……」
(仕事に関しては、「満足にできています」と言うと、言い過ぎかもしれませんが)
視線を感じた気がして、ふと横を歩くアーノルドを見上げると、目が合った。
たとえようもなく、優しい表情。
まるで愛おしいものに向けるようなまなざし。
「そういう、姫の話には興味がある。言っておくが、俺は今でこそ仕事でそれなりに動けるが、最初は何もできなかったからな。エルとは全然違う。適応力の高さに驚かされたし……、それからもずっと、毎日ドキドキするようなことばかりだ。姫といると、本当に楽しい。ずっと一緒にいたいし、別れ際は辛いし、夜寝るときは早く朝になってほしいと願っている。メリエム様には悪いが、国に帰せと言われても無理だ。諦めてもらうしかない」
「アル……」
(「アル」としての、話。シェラザードをやめてほしくないとか、そういう意味。「アーノルド殿下」じゃなくて。でもアルがメリエム姉さまの話をするわけがない。その発言はアーノルド殿下だし、だってそもそも二人は同一人物なのだから)
話しているうちに、女子寮の近く、普段別れるところまでたどり着いてしまった。
なんと言うべきか、言葉を見つけられぬまま、エルトゥールは凍り付いたように沈黙してしまう。
(はやく、別れの挨拶を。「おやすみなさい、また明日」と)
――別れ際は辛い
(…………殿下も、いま、同じ気持ちですか?)
感情の処理が追いつかない。
何も言えぬまま、数歩後退し、背を向ける。「さよなら」とだけ言い捨てて、なにもかも振り切るように駆け出し、その場を離れた。
どこかからまとわりつくような視線を感じたが、アーノルドだと決めつけていたばかりに、振り返って確認することもなかった。