凋落の一等星
「はぁ、疲れた……」

 先週くらいから白くなり始めた息が独り言とともに夜空に溶けていく。

 就職してから数か月、すっかり口癖になってしまったこのフレーズがまた口をついた。

 私は今日も一人暮らしをしているアパートにまっすぐ帰ってきた。

 玄関前のポストを開けて中に入っているものを取り出す。毎月送られてくる通販のカタログや広告が何通も出てくる。どうせ何も買わないしゴミ箱に突っ込んでおこうとまとめて取り出すと、カタログの隙間から一通の茶色い封筒が落ちてきた。

 床に落ちた封筒を拾い上げてみると、表面には丁寧な字で「星乃咲凪(ほしのさな)様」と書かれている。誰からだろうと思いながら裏返すと、差出人の名前は「城代美琴(きのしろみこと)」となっていた。

 城代美琴は、高校生時代の私の同級生でありその当時の一番の親友である。当時学級委員長をしていた彼女は、よくいる堅苦しい風紀委員のような委員長ではなく、フレンドリーで親しみやすい人柄の人物であり多くのクラスメートから気兼ねなく頼れるような存在だった。人脈もかなり広く、仲のいい友人も多かったはずだ。私も彼女とはかなり仲がよく、休み時間や放課後などに一緒に過ごしていることも日常茶飯事だった。

 そんな高校時代の思い出が蘇ってきて、懐かしさにに浸りつつ封筒を開封すると、中からは一枚の折りたたまれた紙とはがきが出てきた。紙を広げてみると、こんなことが書かれていた。



【 戸越高校 72回生 同窓会のお知らせ 】

 戸越高校72回生の皆様、お久しぶりです。卒業してから早5年が過ぎましたがいかがお過ごしでしょうか。

 この度、学年同窓会を開催することとなりました。

 当日は学生時代の思い出話に花を咲かせたり、お互いの近況を語り合ったりなどしましょう。

 もちろん、お世話になった先生方にもご案内をしています。

 皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加ください。一人でも多くの同窓生に会えることを楽しみにしています。



「同窓会かぁ」

 その文章の下に日時と場所が書かれ、一番下に幹事のうちの一人として美琴の名前が記されていた。なるほど、だから送り主の名が彼女だったのか。自ら手を挙げて学級委員長に立候補した彼女らしい。彼女なら同窓会の幹事も自分から引き受けそうだ。

 彼女も含めて、高校時代の友人とは全員卒業してからほとんど会っていない。同じ大学に進学した萌でさえ、キャンパスで見かけたのは二、三回しかなかった。言葉を交わすことは一度もなかった。今、どこで何をしているのか私は全く知らない。学生生活、就職、恋愛、結婚など、何一つ情報がないのだ。だからこの同窓会に参加して昔のようにまた楽しく語らい、現在の友人たちの様子を知りたいと思う。とは思うのだが――。

「……神月蓮(こうづきれん)

 同窓会を開くということは、彼も来る可能性があるということにほかならない。彼は私と同学年なのだから72回生の中には当然彼も含まれているわけで、それならばすなわちこのお知らせも彼のもとに届いているのだろう。そうすれば彼の性格上、予定さえ合えば、というか合わなくても無理矢理合わせて必ず同窓会に来ようとするはずだ。つまり、同窓会に行けば彼に会ってしまう。そうなるかもしないと思うと、行くと返事をするのをどうしてもためらってしまう。

 せっかく封印したはずの気持ちがまた溢れてきてしまうんじゃないかと、不安でならない。

 どうしようか悩みつつ何気なくお知らせの紙を裏返すと、裏面には手書きの文字が書かれていた。


「咲凪へ

 久しぶり。手紙を書くのなんて初めてだからなんか緊張するな。美琴です。

 高校を卒業してからもう5年経つんだね。早いね。咲凪は元気にしてるかな?私は元気にやってます。

 この紙の表にも書いてあるけど、今度同窓会をやろうと思っています。

 咲凪と会って、高校時代のこととか今の状況とかお話できたらいいなって思ってます。

 もちろん予定が合えばでいいんだけど、来てくれたらとても嬉しいです。

 じゃあね。また

 美琴」


 ……こんなものをもらってしまったら行くしかないではないか。

 直筆の手紙など、これまで生きてきて初めてもらった。小学生の頃などは交換日記などを書いてはいたが、それはあくまでも数人のグループで回し書きしていたものであり、たった一人の相手のために書いていたものでも、誰かが私だけのために書いてくれたものでもなかった。

 しかし、今目の前のにあるのは正真正銘、美琴が私のために書いてくれた手紙だ。

 傍から見ればただの同窓会のお知らせの裏に書かれただけの、何の変哲もない手紙。

 それでも、私にとっては大切な友人からもらった大切な手紙だ。

 私は、率直にとても嬉しかった。

 まったく、さすがは私の親友だ。私が何に弱いのかよくわかっている。

 きっと私が同窓会のお知らせを見てどう考えるのかをわかった上でこれを送ってきたのだろう。

 私は、美琴の手紙で同窓会に出席する決心が固まった。

 友人たちに久しぶりに会いたい。

 別に、神月蓮に会ってしまっても構わない。そう思えた。私が自ら封じた感情はそうそう簡単に決壊することはない。

 そうと決まれば早速衣装の準備だ。とりあえずクローゼットに何があるか見てみよう。

 ガチャ。

 バタン。

 ………………すっかり忘れていた。予期していなかった衝撃に、私は思わず床に膝をついてしまった。

 ここ最近は誰かと遊びに行くことも、人が集まるような催しに出席することもなかった。大学かバイトか就活か仕事か、くらいしか家を出ていないのだ。

 だから、クローゼットには仕事着と部屋着が数着しか入っていなかった。無論、靴もスニーカーと飾り気の無いパンプスくらいでとても同窓会には履いて行けそうもない。

 どれだけ私が出かけていないか、どれだけ私に友人が少ないか、どれだけ色恋沙汰が皆無か、それらを重く実感した。

 とりあえず、なにか買おう。いつものネット市場はセール中だっただろうか。

 そもそも同窓会にはどのような服を着ていけばいいのだろうか。同窓会が開かれるのも出席するのも初めてだからよくわからない。

「調べてみるか……」

 通勤カバンに入れっぱなしだったスマホを取り出し、ブラウザを立ち上げる。

 検索欄に『同窓会 服装 女子 冬』と入れて検索ボタンをタップする。

 出てきた検索結果の中から、とりあえず一番上のサイトを開く。

 そのサイトでは冬の同窓会に合う服装が二十代から五十代まで年代ごとに紹介されていた。

「二十代女子は……透け感……レイヤード……?」

 書いてある単語がところどころよくわからない。さらに検索をかけていく。

「……ええと……レイ…なんだっけ……」

 おしゃれ着に無頓着過ぎて今の流行を全く知らないし、自分に似合う服装というのもよくわからない。

 だからとりあえずなんとなく写真を見て綺麗だと感じた服を買うことにした。『シフォンボレロ』と『ネイビードレス』のような名前だったか。

 先ほどポストから持ってきた通販カタログの中に衣料品のカタログもあったはずだ。そっちも見てみて、似たような商品があって安ければそちらから買おう。

 一度はゴミにしようと思っていたものがこんなところで役にたつとは。

 パラパラとカタログをめくっていく。

 ……あれ、なんか楽しいかもしれない。

 物心がついてから、服を選ぶことがこんなに楽しかったのは初めてだった。

 いや、幼い頃に洋服店に行き服を選んで楽しんでいることはあったかもしれない。覚えてはいないが、きっと私にもそんな時代はあったはずだ。

 しかし少なくとも私は中学生になって以降、服選びに楽しみを感じることがなかった。そもそも服を買うということ自体の回数が減った。

 中学や高校は毎日制服だったし部活も文化系の部に所属していたから制服と部屋着さえあればそれ以外は特に服なんていらなかったし、そんなに何枚も服を買えるお金などなかった。

 大学に行っても、だらしなく見えない程度の何の変哲もない服を数着買って、ずっとそれを着回していた。

 服を買うことよりも、バイトとか講義の復習とか課題とか就活とか論文とかやりたいこと・やらなければいけないことはいくつもあった。それらに手一杯で他のことに時間を割く余裕などあの頃はなかった。まあ、今もあまりないのだが。気持ちの余裕がなかったと言っていいかもしれない。

 しかし、大学を卒業して職につき固定給がもらえるようになった。それによってお金にある程度余裕が生まれたため金額を気にすることなく服が見れている。少なくともそれはあの頃はなかった「余裕」になっている。

 そして何より、唯一無二の親友に誘われた初めての同窓会に着ていく服を選んでいるのだ。楽しい催しのための服選びである。これが楽しくないはずがない。

 同窓会に行く決心をして少し気持ちがアガってきたこともあるのだろう。

 初めて感じる喜びが今私の中に生まれた気がする。

 うん、楽しい。

 こんなふうに思うことなんてそうそう無いし、どうせなら同窓会用以外も何着か服と靴と小物を買っておこう。

 紙のカタログとネットショッピングの両方から数着ずつ服を選び、購入手続きをしていく。

 スマホに「購入完了」の文字が現れたことを確認してスマホをテーブルに置き、一息つく。

 しかしふと、なんとなく嫌な予感がして私はもう一度スマホを手に取った。

 確認したいのは購入履歴。特に値段を見ずに購入したのだが、私はいくら使ったのだろうか。

 画面をスワイプして今日の履歴を辿っていく。

「一九八〇〇円、一四八〇〇円、二一九八〇円……」

 合計金額はというと。

「じ、十一万……?!」

 もう一つ、紙のカタログを届けてきた会社のウェブサイトも開く。

 こちらの合計は。

「十、二万……」

 これはまずい。本当にまずい。ものすごくまずい。とてつもなくまずい。

 買いすぎだ。

 これまでにちょっとずつちょっとずつ貯めてきた貯金がすべて飛んだうえ、今月と来月の分の自由資金も使ってしまった。

 もう、今年中は自由に使えるお金がなくなってしまった。

 クリスマスケーキなんて買えない。おせちも用意できない。帰省する資金もすっからかんだ。

「うっそ、やばぁ……まじで……?」

 まさかこんなに使ってしまうとは思わなかった。これを衝動買いというのか。こんなこと初めてだ。

 我ながらどうしてしまったのだろうか。あまりにも浮かれ過ぎている。

 まだ明日・明後日が休日で良かった。その間に浮かれた気持ちを落ち着けられる。

 とりあえず一旦お風呂に入ろう。今週は特に疲れた。

 その後は一杯くらいチューハイを飲んで寝ようか。

 たまには、本当に何も有意義なことをせずに過ごす週末も悪くはない。



 同窓会当日の朝。というか夜明け前。

 時刻で言えば午前五時過ぎ。

 私はいつもよりも二時間以上早く目が覚めてしまった。

 ぼんやりと暗い天井を見上げる。

 久しぶりに会う友人たちはどうしているだろうか。

 あまりにもコーデを決めすぎて気合い入れていると思われやしないだろうか。

 同窓会を楽しみにしている感情と緊張とがないまぜになって心をかき乱す。

 そんな状態だから、もう眠りにつけそうにはなかった。

 ゆっくりとベッドから滑り出る。寒い。

 同窓会のお知らせが届いてからおよそ二ヶ月。季節は真冬、というか厳冬。朝にベッドから出るのが億劫になるような寒さの日が続いている。

 私の住んでいるワンルームのアパートはそれなりに壁が薄い。壁の近くは特に寒さが強い。外から染み込んでくるようだ。

 近くの壁にあるスイッチを押して照明をつける。

 テーブルの上に無造作に置かれているエアコンのリモコンを手に取る。

 暖房をつける。が、すぐには暖かくならない。

 洗面所に行き、こちらも照明をつける。

 髪をあげ、顔全体を濡らす。

 洗顔料を手に取りいつもより少しだけ入念に顔を洗っていく。

 泡を洗い流し、軽く顔表面の水分を拭き取る。

 洗顔を終えたら朝ご飯だ。

 私はご飯もパンも麺も好きだが、どれか一つを選べと言われたらご飯派である。なので、毎朝の朝食はご飯をメインにしている。

 夜のうちにセットしたお米は既に炊きあがっていた。しゃもじを水で濡らして炊飯器の中のご飯を大きく混ぜて一旦蓋を閉じる。

 続いて電気ポットに水を入れて沸かす。沸くのを待っている間に味噌汁茶碗にインスタント味噌汁を出しておく。

 もう一枚、少し大きめの平皿を出す。その皿の半分にレタスとキャベツとミニトマトを盛り、上からドレッシングをかける。

 主菜はどうしようか。そう思いながら冷蔵庫のチルド室を開けてみるとウインナーしか入っていなかった。

 仕方がないのでウインナーの袋を取り出す。

 それを調理台に置いておいて、フライパンをコンロの上に置き火を付ける。

 少しフライパンが温まってきたら油をすこーしだけ垂らしてウインナーを投入。

 パチパチとウインナーが焼ける音がして焼き色がついてきたら火を止めて皿に盛る。

 既にお湯は沸いているので味噌汁茶碗にお湯を注いでいく。

 炊飯器の蓋を開けて、少し蒸らしたお米をお茶碗に盛る。

 それらの皿をテーブルに運ぶ。キッチンに戻って冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、箸とスプーンを持って椅子に座る。

「いただきます」

 いつもの朝食。一口食べる。

 いつもの味だ。何も変化のない、食べ慣れた味。

 だが、それがいい。「いつも通り」が少しだけ私の心を落ち着かせてくれる。


「ごちそうさまでした」

 食べ終わって食器を片付けたら、歯を磨く。こちらも少し丁寧に、時間をかけて綺麗に磨いていく。

 歯を磨き終えたらメイクの前に先に着替えをしていく。

 メイクの後に着替えてメイクが服について汚れたりメイクが崩れてしまったり、ということがないように私はいつもそうしている。

 ただ、メイク中にミスをすると結局服を汚してしまうので正直どちらが先のほうがいいのかはよくわからない。

 クローゼットから今日着る服一式を取り出して身につけていく。

 ボレロとコートだけはハンガーにかけたままにして再び洗面台へ。

 まずは顔全体に日焼け止めを塗っていく。化粧下地の役割も果たしてくれるものだ。服のみならずメイクにもあまり時間とお金をかけていないので、できるだけ時短になって安いもので済ませている。

 まあ、同窓会のメイクは濃すぎたり主張が強すぎたりするものは控えたほうがいいとネット記事で見たので、案外これくらいがちょうどいいかもしれない。

 下地ができたら次はファンデーションだ。付属のパフでファンデーションを取り、顔の中心から外側に向けて優しくトントンたたきこみながら塗りひろげていく。

 続いて、アイブロウで眉を描いていく。いつも通り、細めで薄めの眉になるように慎重に手を動かす。ミスをして変な眉が出来上がったらメイクはやり直しだ。最近は慣れてきてミスをすることもほとんどなくなったが昔は結構ミスをすることが多かった。太くなったり、濃くなりすぎたり、あらぬところまで描いてしまったりしたこともよくあった。

 次はアイシャドウ。控えめな感じの三色を使い、あまり濃くしすぎず少しだけ目元を際立たせるようにしていく。

 アイシャドウがうまくいったら今度はアイライナーで目の形を引き立たせていく。少しずつ丁寧に引いていく。

 アイライナーが完成したら、次に付けるのはマスカラ。ビューラーでまつ毛をしっかりとカールさせて、マスカラでまつ毛が長くなるように目元から毛先へと何度もマスカラを塗っていく。

 今度はチークで頬に色を乗せていく。鏡の前で少し微笑み、頬の高くなった部分に指で乗せて優しくなじませて広げていく。

 最後にリップクリームで唇を保湿し、その上からピンクベージュの口紅を塗って中央部分に色を重ねていけばメイクは完成だ。

 大学に入ってからネットでメイクのやり方を検索し、こういう手順でやるのが基本だと知ったときからずっとこのやり方でやっている。社会人になってからもこれは変わらない。変えたいとも思わないし、変えてしまうとおかしなことになってしまいそうで怖い。

 なにはともあれ、これでメイクも終わった。

 ああ、そうだ。香水をつけていなかった。

 普段は特に香水などはつけていないのだが、同窓会に行くということで今日のために新しいものを買ったのだ。

 フローラルノートの香りの香水をつけ、ハンガーにかけたボレロを身につける。

 その上からコートを身に纏う。

 最後に、装飾のついた黒いリボンで髪をポニーテールにすれば今日のコーデは完成だ。

 出発の前に忘れ物が無いか確認する。

「えっと、スマホと、お財布と、定期と、鍵と……」

 よし、たぶん大丈夫だろう。忘れ物もない。

 乗る予定だった電車までまだしばらく時間があったので、椅子に座ってスマホをいじって時間を潰してから出発をした。



 私の家の最寄り駅から一時間半ほど電車に揺られていると、戸越高校の最寄り駅に到着する。あの頃から五年経つが駅前の様子はほとんど変わっておらず、不思議と安心感を覚えた。

「ええと、会場は確か……」

 同窓会のお知らせをハンドバッグから取り出す。そこには会場は戸越高校と駅のちょうど中間くらいにあるホテルと書かれていた。

 確かあのホテルにはこの辺りの街では最も大きい宴会ホールがあったはずだ。あそこであれば240人ほどの同級生全員が入っても余裕があるだろう。

「道はどう行くんだっけ……」
「さーな」

 背後から懐かしい心地いい声が私の鼓膜を揺らした。高校の三年間何度も聞いていた声だから、間違えるはずがない。五年会っていないと言っても耳がしっかりと覚えている。

「美琴!!」
「せーかい。久しぶり!」

 私の親友にして元学級委員長。この同窓会の幹事のうちの一人で私を同窓会に呼んだ張本人。

 振り返ると城代美琴その人がそこに立っていた。

「久しぶりー!元気だった?」
「うん、元気だったよー!咲凪は?」
「私も元気だったよー」

 久々に見る美琴は学生だったときよりも更に可愛く綺麗になっていて、洗練された雰囲気が漂っていた。あまりにも綺麗すぎて一瞬気後れしそうになるが、もちろんそんなことはおくびにも出さない。

「咲凪は綺麗になったね」
「ええーそんなことないよ。美琴のほうが何十倍も綺麗だよ」
「あはは、ありがと。でも本当に咲凪可愛いよ?私が男だったら口説いてるって」
「そうかな?そう言ってもらえるなんて嬉しい。ありがと」

 会場まで、二人で並んで話しながら向かう。学生時代の思い出話、卒業してからのこと、仕事の愚痴。そんな他愛もない話をしていたらすぐに会場であるホテルに到着した。

「会場はここだよね」
「そう。ここの二階の宴会場でやるの」

 ホテルの建物に入る。フロントの人に軽く会釈しエレベーターホールに向かう。二階に上がってホールに入ると既に十数名の参加者が集まっていた。

「このあと何人くらい来るの?」
「同窓会に出席するっていう連絡があったのが二百人くらいだったから、まあそれくらいは来るんじゃないかな」
「だいたい同級生みんな来る感じなんだね」
「うん。あ、そうそう、萌とか世那とか瞳とか明日花も来るって」
「もう仲良し組勢揃いじゃん」

 今名前が挙がったのは全員、高校のときによく一緒に過ごしていた友人たちだ。一年生のときに同じクラスになって知り合った。昼食を一緒に食べたり、時間が合えば途中まで一緒に帰ったり、文化祭で一緒に回ったり、遠足や修学旅行の自由行動の際に一緒に行動したりと、彼女たちとともに過ごした思い出は多い。

「あ、美琴ー!咲凪も!久しぶりー!」

 声がしたほうを向くと、そこには瞳が手を振って立っていた。

「あ、久しぶりー!」
「久しぶりだねー、瞳。元気だった?」
「そりゃあもちろん!もう元気っていうか幸せっていうか!」

 メイクの上からでもわかるくらい瞳の頬が紅潮している。そして、少しだけ鼻の穴が大きくなっている。これは瞳が何か話したいことがあり、質問してほしいという合図だ。

「どういうこと?何かいいことあったの?」
「実はー……」

 と言いながら瞳は静かに左手を自分の顔の横に持ってくる。その薬指には、

「!!!」
「これはっ……!」
「ふふふふふ、なんと、結婚しましたー!!」

 そう、結婚指輪がはめられていたのだった。

「おめでとー!!」
「すごい、おめでとー!え、相手は?」
「相手はー、二人も知ってる人ー」

 私たちも知っている人ということは同級生だろうか。記憶を辿ってみる。

「あれ、そういえば高二のときくらいから彼氏いたよね?」

 言われてみれば確かにそうだった気がする。美琴の言葉で記憶が蘇ってきた。

「お、そうですねぇ。いましたねぇ」
「えーっと、待って、思い出す。何だっけ、めっちゃ珍しい名字。うんとね、確か、神来社(からいと)くんだったっけ」
「ビンゴ!!!」

 瞳が右手の人さし指をピンと立てる。

「そうなんですよぉ、およそ六年の交際期間を経ましてね、先月プロポーズされまして!ついに結婚となりましたー!!」

 瞳が満面の笑みを浮かべる。つられてこちらも自然と口角が上がる。

「すっごい!本当におめでとう!六年かぁ。ふたりとも一途だねぇ」
「いやーほんとだね!高校のときから喧嘩とかまったくないおしどりカップルって言われてたけど今もそうなの?」
「うん。喧嘩とか一回もしたことないし、浮気ももちろんないし、自分で言うのもアレだけどずっとラブラブ?だったよ」
「うわー、もうほんとすごいね。運命の相手でしょ、それ。羨ましいわぁ。ねぇ、ちょっと、今神来社くんいないの?」
「んー、もうそろそろ来るはずだよ」

 三人で会場の入口の方を向く。すると、まるで来るタイミングを見計らっていたかのように例の人物が姿を現した。

「あ、きたきた!噂をすればなんとやら、ってやつだね」
「もしかして待ってたんじゃない?恭介ー、ちょっとこっちー」

 瞳が神来社くんを呼ぶ。

「おー、どした?」
「この二人が私たちの話聞きたいって。覚えてる?城代美琴と星乃咲凪。同級生にいたでしょ?」
「あー覚えてる覚えてる。ふたりとも、久しぶり」

 神来社くんが目の前にやってきた。なんか丸腰に見えるが大丈夫だろうか。

 とか思っていたらもう既に美琴の目は獲物を前にした虎のように光っていた。手遅れだ。

「ちょっと訊いてもいい?」
「おー、いいよ。なんでも答えるよ」

 あ、それはこの状態の美琴の前では絶対に言ってはいけない一言だ。やっぱりもう手遅れだったか……。

「プロポーズの言葉ってどんな感じだったの?高校を卒業してからはふたりはどういう感じで付き合ってたの?遠距離?もう同棲とかしてたの?あ、ていうか今は同棲してるの?ふたりでどういう場所にデートしに行ってるの?なんか付き合っててめっちゃ思い出に残っている出来事とかある?ふたりはお互いどういうところが好きなの?そういえば名字ってどうなるの?温泉川(ゆのかわ)と神来社でしょ?なんかどっちも二人以外聞いたことない名字だしどっち残す予定?結婚式とかってさ――」

 ああ、始まってしまった。美琴は恋バナになると決まって今のような怒涛の質問ラッシュをしていく癖がある。こうなってしまった美琴は目の前にスイーツが出されない限り止まらない。

 案の定、美琴はまだふたりを質問攻めしていて、その言葉が途切れそうな様子はない。どこからそこまでの質問が出てくるのか、なぜ息切れせずにずっと喋っていられるのか、よくわからない。

 ちらっと瞳と神来社くんの顔を見てみると、ふたりとも顔を引き攣らせて黙っていた。口を挟めるような隙間もないし、質問があまりにも多すぎるし、そのような顔になるのも無理はないだろう。

 瞳が助けを求めるように私の顔をちらちら見てくる。しかし、私にできることは何もない。私はただただ首を横に振った。



 結局、美琴は同窓会が始まる直前までずっとふたりに質問を質問を続けていた。

 一瞬時計に目が向き、もう準備をしなければいけない時間になったということに気がつくと、美琴は「まだ訊くから!」とだけ言い残し慌てた様子でバックヤードと思われるあたりに消えていった。

 その後は私はふたりから離れ、会場の別の場所で談笑していた萌・世那・明日花を見つけて四人で話していた。

 三人とも大学を卒業して職に就き、今はそれぞれやりがいを見つけて仕事を頑張っているらしい。

 明日花は職場で三歳上の彼氏ができたそうだ。高校生の頃は男子嫌い筆頭として名高かった明日花に彼氏ができるとは思ってもみなかった。明日花曰く、「彼は違う」そうである。きっと明日花の理想通りの、大人っぽく落ち着いていて爽やかな優しい男性なのだろう。男子嫌いだったことを持ち出したら「人は変わるんだよ」とも言っていた。

 そうやって談笑していると、会場前方から「みなさん!」という声が飛んできた。ざわついていた会場が静まる。

「今日は戸越高校七十二回生同窓会にお集まりいただきありがとうございます。今回同窓会の幹事を務めました城代美琴です」
「同じく、浮嶋圭です」

 幹事のふたりの司会で会が進行していく。今日来てくれた先生たちの紹介、会食タイム、各クラスと学年での思い出の瞬間を集めたビデオの鑑賞、今日来れなかった先生たちからのサプライズビデオなど、たくさんのプログラムがあった。

 気がつけば、同窓会は終盤を迎えていた。何人もの同級生たちと再会し、昔の思い出話や今の話に花を咲かせ、笑い、楽しむことができた。

 本当に、来て良かったと思う。心配していた神月蓮はいないようだし、ホッとした。心から楽しいと思えたのは随分と久しぶりだ。同窓会に呼んでくれた美琴には感謝しかない。

「あ、よかった、咲凪いた。ちょっといい?」

 帰ろうとしたところを美琴に呼び止められた。どうしたのだろう。

「どうしたの?」
「このあとさ、三年のときのクラスメートで二次会やるんだけど来ない?」
「行く行く。場所は?どこ?」
「えっとね、このホテル出て駅とは反対方向に三分くらい歩いていった方にある居酒屋だって」
「わかった。じゃあ一緒に行こ」

 美琴と二人で居酒屋に向かう。少し音が漏れ聞こえている店内の様子を覗いてみるとそこには既に多くの懐かしい顔ぶれが揃っていた。

「おおー美琴に咲凪だぁー」
「久しぶりー」
「あと何人くらい来るの?」
「もう始めてよくね?」

 私たちが居酒屋に入ると店内にいた同級生たちが更に賑やかになる。こんな雰囲気も懐かしい。三年生のときのクラスは今みたいにいつも賑やかで、ただそこにいるだけで明るい気分になれるような、そんなクラスだった。

 私たちが到着した後も何人か同級生たちがやってきたようだ。私は他の友人たちと話していたからその様子は見ていないが、入口近くが一瞬騒がしくなるのでなんとなくわかった。

 しばらくして二次会が始まり、各々の席にビールが運ばれてきた。ビールが全員の元に届くと美琴がジョッキを持って立ち上がった。

「えーそれでは、元三年二組の二次会を始めたいと思います。乾杯!」
「かんぱーい!!!」

 乾杯の後、ビールを飲む。しばらくぶりに飲んだビールは思っていたよりもほんの少しだけ苦かった。

 各テーブルに様々な料理が運ばれてくる。どれも美味しそうだ。

 たくさん飲んで、たくさん食べて、同じテーブルにいた友人と話して、他のテーブルにいる友人とも話して。

 楽しい。さっきも思っていたが、やっぱり来てよかった。同級生たちが元気そうな様子も見れたし、幸せそうな話も聞けて――。

「咲凪」

 背後から聞き覚えのある声が、聞こえてきた。

 それで私は大事なことをすっかりと忘れていたことを思い出した。

 何があろうとも聞き間違えるはずのない、声。

 学生時代に何度も何度のその声に名前を呼ばれてきた。忘れようにも忘れられるはずがない。だって、本当は忘れたくなんかないのだから。

 後ろを振り返る。身体が硬直してしまったような感覚になり、動作がぎこちないことが自分自身よくわかる。

「神月くん」

 同窓会で見かけなかったから、大丈夫だと安心していた。楽しいという感情で占められた頭は懸念していたことを忘れていて、二次会に来ているとは考えてもいなかった。

 神月蓮は、同学年だった。

 神月蓮は、三年生のときのクラスメートだった。

 たまたま同窓会の会場で見かけなかっただけで、彼は同窓会に来ていたらしかった。

「久しぶり」
「……久しぶり」

 彼が微笑む。私のなんとか口角を上げる。

「元気だった?」
「うん。……神月くんは?」
「僕も元気だったよ」

 一瞬、言葉が切れる。彼の目がほんの少しだけ泳ぐ。

「ちょっとさ、二人で話さない?」
「え……あ、うん。いいよ」

 彼がもといたテーブルからウイスキーのグラスを取ってくる。

「あっちのテラスに行かない?」
「うん。わかった」

 私も今飲んでいるワインのグラスを手に取る。前を歩く彼の背中についていき、テラス席に出る。

「ごめんね、友だちと話している途中だったかもしれないのに」
「ううん、ちょうど話が途切れたところだったから」

 ウッドデッキのテラス席に二人きり。しかもお酒を入れている。自然と心拍数が上がってくる。

 外は真冬の寒さのはずなのだが、身体が少し火照っているようでそこまで寒さは感じない。

「仕事は何してるの?」
「商社の営業部で働いてるよ。神月くんは?」
「僕は大学のときに起業してね。家事に関する情報をユーザーが自由に投稿・閲覧できるサイトを運営する会社なんだけど、そこの経営をしているよ」
「へー起業かぁ。すごいね」

 何気ない話をしているだけなのに、どうしてか心拍数が更に上がっていく。楽しいという感情とは違うものが心を満たしていく。

 理性はそれを必死になって否定しているのに、心は止まらない。それどころか心の暴走がより進行している気がする。

 彼の目を見つめ、話を聞き、相槌をうつ。

 彼が微笑を浮かべて心から楽しそうに話をする。それを見ているだけで私の理性は春の雪のように溶かされていく。

 身体や顔が硬直している感覚もしだいに薄らいでいき、今では普通に笑って話を聞くことができるようになっている。

 彼がまた笑う。つられて私も笑う。

 ……ああ。

 この時間が永遠に続けばいいのに。

 そうしてくれたなら。

 もう何もいらないかもしれない。

「あ、ごめんね。ついついこちらのことばかり話してしまったね」
「ううん、いいよ。聞いてて楽しいし、こっちは特に話せるようなこともないから」
「そうなのかい?うーん、本当にいいのかい?」
「いいって。大丈夫」
「そっか。わかった。ありがとう」

 刹那、沈黙が降りる。

「わざわざテラスに呼んだのはね、咲凪に伝えたいことがあってね」

 彼の纏う雰囲気が変わる。

「うん。何?」

 なんだろう。彼から発せられる恋の香りのするこの空気は。

「実は、僕、近々結婚するんだ」

 一瞬理解できなかった。いや、脳が理解することを拒絶した。

「そうなんだ」

 喉が張り付いてしまったようで、うまく声が出せない。

「うん。大学のときの友だちで一緒に会社を立ち上げた人と付き合っていてね。今は式場を探しているところなんだ」

 彼の頬が僅かに紅潮する。

 先程までよりも明らかに笑顔が明るくなっている。先ほどの会話の時には一度も見せなかったえくぼができている。

「そうなんだ」

 ちょっと視線を下げてテラスの欄干に置かれている彼の左手を見る。その薬指には銀色に輝くリングがはまっていた。

「うん。高校のときに仲の良かった咲凪には伝えておきたくてね。式を挙げる場所とか日時とかが決まったらまた招待状を送るから、よかったら式に来てほしい」

 急速に体温が下がる。目の前が暗くなる。足の力が抜けていく。欄干にもたれかかっていないと自分の体重を支えられない。

 私の心の中で輝き続けていた月のように明るい星が、猛スピードで遠ざかっていく。

 星が、落ちていく。

 どうやったって手が届かないことなんてはじめからわかっていた。

 わかっていてそれでもなお、星を灯したのは他でもない私自身だ。

 だからこそ、高校を卒業すると同時にこの気持ちは固く封じたはずなのに。

 私の心にはまだ一等星が輝き続けていたわけだ。

 脆い。あまりにも脆い。まさかここまで脆いとは思わなかった。

 決壊した感情に心が押しつぶされそうだ。

「……咲凪?大丈夫?気分でも悪い?」

 ……普段は察しが良く気配りも利くのに、こういうときは鈍感なのか。

「あ、あははは、ううん、全然?大丈夫大丈夫!そっかー結婚するんだーおめでと!」
「ありがとう」

 そう言って彼はまた破顔する。しかしその顔は私に向けられたものではないことはよく分かる。

「そっかーあの神月くんが結婚とはびっくりだね!いやー嬉しいね!」

 感情を悟られないようにと焦り、早口になる。

 まだ身体にはうまく力が入らない。グラスを持つ手が震える。

「あ、咲凪ーいたいた、って神月くんも。二人で話してたんだ」
「城代さん」

 酔っているのか、顔が赤くなり始めた美琴がテラスに顔を出した。

「ちょうど良かった。ふたりともさ、この後三次会行かない?」
「僕は行くけど、咲凪は?」

 三次会も行きたいが、身体が言うことを聞かない。三次会どころではない。

「ごめん、私はもう帰るかな」

 美琴が分かりやすく悲しそうな表情をする。

「帰っちゃうの?」

 そのような表情を見せられると心苦しいが、私にはこの後三次会に行けるだけの余裕はない。

「うん、ごめんね」
「そっか……もしかして体調悪い?」
「ううん、体調は大丈夫だよ」
「そっか。じゃあね。今日は来てくれてありがとう。楽しかった!咲凪は楽しめた?」
「うん。楽しかったよ」

 今できる精一杯の微笑みと声で答える。正直なところ顔も声も笑っている感覚はない。

「それならよかったよー。また今度会おうね」
「うん、また今度ね」

 美琴に別れを告げて、テラスから店内に戻る。

 自分の席に置いていたバッグを取る。

 椅子にかけておいたコートを羽織る。

 まだ店内に残っている数人の同級生にも軽く別れを告げ、店を出た。

 外は真冬の寒さだ。吐く息が白い。手足の先から凍ってしまうような凍てつく空気が身体を刺す。

 夜空を見上げれば星が瞬いている。その中には全天一明るい星、シリウスもあった。

 店から駅の方を向いて歩き出す。

 今にも力が抜けて崩れ落ちてしまいそうだ。

 しかしそんな足を叱咤激励し、何とか駅に向かって歩を進める。

 こんなところで頽れたら誰か知り合いに見られるかもしれない。それではあまりにも惨めだ。

 せめて家まではこのまま帰ろう。

 あと一時間半。それなら何とか。

 家に帰っても、何もしなくていい。というかたぶん何も出来ない。

 まだ明日が休日でよかった。その間にこの気持ちを整理できる。

 だから、それまではせめて――。
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