平穏に隠された負の感情

何者?《五》

「これは?」
「見ていただければ分かります。これで光里家の暗い噂は、払拭されるでしょうね」
 霊斬は報酬を袖に入れた。
「承知した。では、失礼する」
「なにかありましたら、またいらっしゃいませ」
 霊斬は深々と頭を下げた。

 それからしばらくして、戸を叩く音が聞こえてきた。
 表までいき、戸を開けると富川家の依頼の際に見かけた忍びが立っていた。
 霊斬は内心で驚きながら、忍びを中に通し、戸をぴしゃりと閉めた。
「十兵衛も哀れというか、無様だったねぇ」
「姿を消して様子を見ていたわけか」
 霊斬はそれならば気づきようがない、と思いながら苦笑する。
「まあね?」
 霊斬は顔を覆う布を首まで引き下げる。
「〝因縁引受人〟と鍛冶屋幻鷲の主をしている」
 霊斬はそこまで言い、苦笑を浮かべた。
「あたしは〝烏揚羽〟」
 忍びが頭巾を外す。
 にこりと忍び――千砂が笑う。
 昼間そば屋で働いているときとはまるで違う。昼間の明るい感じはどこからくるのだろうと、疑問に思ってしまう。纏う気配は忍び特有の、気配の薄さ。
 昼間はあれほど強い存在感を放っているのに、今はいちいち目で確認しないと、そこにいること自体を忘れてしまいそうだ。
「襲うなんてしないからさ」
 懐から苦無を取り出して、霊斬に見せる。
 苦無の一番太いところに、烏揚羽の紋があしらわれている。
「……まさか、そば屋の娘がなあ。界隈で有名な〝烏揚羽〟だったとは」
 霊斬はしみじみと言った。
「よく分かったねぇ」
「勘に近いぞ」
「それにしたって、あれだけの情報でよく、結びつけられたね」
 千砂は己の正体が知られたというのに、口封じはおろか、脅しもない。ただ、知られてしまったのかと笑っているだけ。
「声だけは変えられんだろ?」
 霊斬は低い声で呟く。
「あんたもふたつの顔を持っていたわけかい」
 千砂はやっぱりと呟いた。
「まあな。口は堅いよな?」
「そうに決まってるだろ。じゃなきゃ、忍び稼業なんてできないよ」
 霊斬に軽い口調に、千砂は呆れてしまう。
「そうだな。どうして、俺の前にあらわれた?」
 霊斬は低い声で尋ねる。
「そうだねぇ……強いて言えば、あんたの本当の顔を知りたい、かね」
 千砂は顎に右手の人差し指をあてて考え込んだ。
 その仕草を見た霊斬は、口にはしないが、可愛いと思ってしまった。
「本当の顔か。はっ」
 霊斬は思わず口端を吊り上げて嗤った。そんなものありはしないと言いたげに。
「そうやって隠すんだねぇ」
 千砂は困ったような顔をしつつ、霊斬を見上げる。本当に整った顔立ちをしている。
「礼をしないとな、ほら」
 霊斬は懐から小判一枚を取り出して渡す。
「要らないよ」
 千砂はふいっと顔を背けつつ言った。そんなもののために、情報を渡したわけではない、とでも言いたげだった。
「何故?」
 霊斬は千砂が断るのか、見当がつかなかった。ただ働きはしないものと思っていたからだ。
「あたしは上っ面な関係に飽き飽きしていてね。方法は違うかもしれないけれど、ともに闇を駆ける仲間のような。いずれはそんな間柄になりたい。それだけなんだよ」
 千砂は真面目な顔をする。そのまっすぐな目に射抜かれた霊斬は、腕組みをした。言っていることに嘘はない。そうでなければ、あんなにまっすぐな目をするはずがない。
「……理由は分かった。なにを所望する?」
 霊斬は低い声で言い、小判を仕舞いながら、千砂に視線を投げる。
「そうだねぇ。あんたの隣人になれれば」
「それくらいなら、いいだろう」
 霊斬は少し息を吐き出した。なんと言われるか想像がつかなかったので、緊張した。

 霊斬はいったん上着を脱ぐ。
 右肩からの出血は今も続いている。この程度の傷となると、医者にいかなければならないだろう。
「この時刻だと、相当不機嫌なんだよな」
 霊斬は格子の隙間から見える、白んできた空を眺めた。
「放っておくわけにもいかないだろうに。知り合いなんだろ?」
「まあな」
「なら、さっさといこうじゃないか」
「どうしてお前がついてくる?」
 霊斬は不愉快そうに顔を歪める。
「ただの付き添いさ」
「そうか」
 怪我人を一人でいかせることが心配だと、あえて口にしなかった。
 素直じゃない奴だなと、霊斬は思った。
 少し気が抜けたのか、傷の痛みが酷くなってきた。
 ――明日医者にいくなどと、悠長なことは言ってられねぇか。
 霊斬は思わず溜息を零した。
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