平穏に隠された負の感情
第四章
片鱗《一》
その日の昼に顔を出した千砂に、霊斬は低い声で告げた。
「……俺は元を辿れば、武家の生まれだ。だが、育った環境が悪かった。兄に気にかける親だったから、俺のことはどうでもよかったんだ。自分の幼名ですら憶えていない」
――なんということだ。名を呼ばせず、兄ばかり気にかけるなど。
千砂は悔しそうに唇を噛んだ。
その横顔を見ながら、霊斬は語り始める。
当時、父と母と三つ年上の兄である錦と暮らしていた。しかし、両親は彼を育てることはなかった。
乳母に全てを任せ、次期当主となる錦の教育に全力を注いだという。そして次男の名を決して呼ぶなと、父が命じていた。
うだるような暑さの夏。日が陰っているにもかかわらず、暑さが引くことがなかった。
当時三歳で、まだ口の回らない彼は納屋にいる乳母に聞いた。
「どうひて、僕はお父様とお母様と兄様と、別なの?」
「お父上がお決めになったことなので、私には分かりません」
乳母は悲しそうに、目を伏せた。
「なら、お父様に聞いてくる!」
たたたっと駆け出そうとした彼を、乳母が止める。
「なりませぬ!」
乳母の厳しい声にびくっと身体を震わせる。
乳母の許へ戻った彼は、肩を落とした。
それから五年経ち、彼が八歳になったころ、乳母がこっそりと、木刀を渡してくれた。親に見捨てられても武士の子だ、と彼に認識をさせるかのように。
納屋からは昼間、錦が剣の稽古をしているのが見える。
その様子をじっと見つめていた。
そして皆が寝静まったころ、右手で木刀をつかんで構える。
息を吐いて、素振りを始める。空気を裂く音が心地いい。
ひたすら木刀を振り下ろす彼の姿を見ていたのは、乳母だけだった。彼女はその姿を見て、はっとした。
彼が秀でているのは、勉学だけではなかった。今まで、勉学以外にすることがなかった。彼の可能性に気づけなかったということもある。
木刀を振るう横顔は、険しい。その動きは、少しの隙もない。初めて木刀を振るう者とはとうてい思えない、大人顔負けの気迫に満ちている。
――兄と弟。当主になるのはともかく、武士として成長できるのは、どちら? 兄は賢いというわけでもなく、武術に優れているわけでもない。一方、弟は賢いし、武術を学ばせれば、素晴らしい才を発揮するだろう。しかし、それをさせないのが親だ。彼の存在をこの家から消そうとしているように、思えてならない。もう彼は、自分の幼名など憶えていないだろう。とくになんの才もない普通の親から生まれたはずなのに、どうしてここまで違うのか。見た目だけではなく、性格や環境などすべてが兄弟は正反対だ。
あまりに彼がかわいそうだと思う乳母は、視線を離し、部屋に戻った。
彼は内から湧き上がる感情を抑えて、木刀を振るっていた。父が兄に対して「感情に任せて刀を振るうな」と言っていたことを、思い出したからだ。
むやみに斬りかかってはいけない。冷静であることが重要なのだ、と。
その言葉が彼に向けられたことなど、一度もない。それでも構わなかった。彼の望みは生きていくための術を、身につけること。そのうちのひとつが、剣術であっただけ。
彼なりのやり方で、剣の腕を磨く日々が始まった。
ある日の明け方のこと。肌寒い秋の季節になっても、彼は腕を磨き続けていた。
練習を始めてから二年の歳月が流れ、彼は十歳になっていた。様子を見ている乳母が言うには、兄や父にも勝てるとのことだった。その言葉を聞いた彼は、内心で首をかしげた。
そのときの光景を思い出しながら、いつものように素振りをしていた。
雷が轟く。この日は天気が悪く、いつ雨になるかと乳母がやきもきしていた。
「なにをしている!」
父の怒鳴り声が聞こえる。嫌な予感がしたため木刀を構えたまま、身体を反転させる。
父は眦を吊り上げ、木刀に手を伸ばす。
彼はその手を木刀で打った。
父は痛みに顔を歪め、睨みつけてくる。しかし、彼に手を出すことはなかった。
「錦!」
連れてこられたのは、錦の稽古場である中庭だった。
「はい!」
返事をして部屋から出てきた錦に、父は無言で木刀を持たせる。
「父上?」
錦の言葉に対し、父は彼を指差した。本人は木刀を構えている。
「……勝てば、よろしいのですね?」
その言葉にうなずいた父は、両者の間に立ち叫んだ。
「いざ尋常に、始め!」
「武士として育てられていない、お前になんか負けない!」
錦が木刀を振り下ろす。
彼はその攻撃を受け止めた。
「なんで……。お前が……!」
「知るか。……稽古を受けていたんだろう?」
次々に繰り出される、隙だらけの攻撃を受け止めながら彼は問う。
「当たり前だ!」
「そのわりには、教えを忘れている」
「お前に分かるのか?」
「〝感情任せに刀を振るうと、自身を危険に晒す〟……お前の父は、そう言ってなかったか?」
「なっ……!」
「隙あり」
彼は言いながら、兄の左手を打つ。そのまま、木刀の先を喉に向けた。
「……そこまで!」
父の声が響いた。
すぐさま母が、錦に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 痛いでしょう?」
「これくらい、平気です」
母の言葉に錦は呟くと、彼らは去った。
その背を見送りながら、彼は鼻で嗤った。
「……俺は元を辿れば、武家の生まれだ。だが、育った環境が悪かった。兄に気にかける親だったから、俺のことはどうでもよかったんだ。自分の幼名ですら憶えていない」
――なんということだ。名を呼ばせず、兄ばかり気にかけるなど。
千砂は悔しそうに唇を噛んだ。
その横顔を見ながら、霊斬は語り始める。
当時、父と母と三つ年上の兄である錦と暮らしていた。しかし、両親は彼を育てることはなかった。
乳母に全てを任せ、次期当主となる錦の教育に全力を注いだという。そして次男の名を決して呼ぶなと、父が命じていた。
うだるような暑さの夏。日が陰っているにもかかわらず、暑さが引くことがなかった。
当時三歳で、まだ口の回らない彼は納屋にいる乳母に聞いた。
「どうひて、僕はお父様とお母様と兄様と、別なの?」
「お父上がお決めになったことなので、私には分かりません」
乳母は悲しそうに、目を伏せた。
「なら、お父様に聞いてくる!」
たたたっと駆け出そうとした彼を、乳母が止める。
「なりませぬ!」
乳母の厳しい声にびくっと身体を震わせる。
乳母の許へ戻った彼は、肩を落とした。
それから五年経ち、彼が八歳になったころ、乳母がこっそりと、木刀を渡してくれた。親に見捨てられても武士の子だ、と彼に認識をさせるかのように。
納屋からは昼間、錦が剣の稽古をしているのが見える。
その様子をじっと見つめていた。
そして皆が寝静まったころ、右手で木刀をつかんで構える。
息を吐いて、素振りを始める。空気を裂く音が心地いい。
ひたすら木刀を振り下ろす彼の姿を見ていたのは、乳母だけだった。彼女はその姿を見て、はっとした。
彼が秀でているのは、勉学だけではなかった。今まで、勉学以外にすることがなかった。彼の可能性に気づけなかったということもある。
木刀を振るう横顔は、険しい。その動きは、少しの隙もない。初めて木刀を振るう者とはとうてい思えない、大人顔負けの気迫に満ちている。
――兄と弟。当主になるのはともかく、武士として成長できるのは、どちら? 兄は賢いというわけでもなく、武術に優れているわけでもない。一方、弟は賢いし、武術を学ばせれば、素晴らしい才を発揮するだろう。しかし、それをさせないのが親だ。彼の存在をこの家から消そうとしているように、思えてならない。もう彼は、自分の幼名など憶えていないだろう。とくになんの才もない普通の親から生まれたはずなのに、どうしてここまで違うのか。見た目だけではなく、性格や環境などすべてが兄弟は正反対だ。
あまりに彼がかわいそうだと思う乳母は、視線を離し、部屋に戻った。
彼は内から湧き上がる感情を抑えて、木刀を振るっていた。父が兄に対して「感情に任せて刀を振るうな」と言っていたことを、思い出したからだ。
むやみに斬りかかってはいけない。冷静であることが重要なのだ、と。
その言葉が彼に向けられたことなど、一度もない。それでも構わなかった。彼の望みは生きていくための術を、身につけること。そのうちのひとつが、剣術であっただけ。
彼なりのやり方で、剣の腕を磨く日々が始まった。
ある日の明け方のこと。肌寒い秋の季節になっても、彼は腕を磨き続けていた。
練習を始めてから二年の歳月が流れ、彼は十歳になっていた。様子を見ている乳母が言うには、兄や父にも勝てるとのことだった。その言葉を聞いた彼は、内心で首をかしげた。
そのときの光景を思い出しながら、いつものように素振りをしていた。
雷が轟く。この日は天気が悪く、いつ雨になるかと乳母がやきもきしていた。
「なにをしている!」
父の怒鳴り声が聞こえる。嫌な予感がしたため木刀を構えたまま、身体を反転させる。
父は眦を吊り上げ、木刀に手を伸ばす。
彼はその手を木刀で打った。
父は痛みに顔を歪め、睨みつけてくる。しかし、彼に手を出すことはなかった。
「錦!」
連れてこられたのは、錦の稽古場である中庭だった。
「はい!」
返事をして部屋から出てきた錦に、父は無言で木刀を持たせる。
「父上?」
錦の言葉に対し、父は彼を指差した。本人は木刀を構えている。
「……勝てば、よろしいのですね?」
その言葉にうなずいた父は、両者の間に立ち叫んだ。
「いざ尋常に、始め!」
「武士として育てられていない、お前になんか負けない!」
錦が木刀を振り下ろす。
彼はその攻撃を受け止めた。
「なんで……。お前が……!」
「知るか。……稽古を受けていたんだろう?」
次々に繰り出される、隙だらけの攻撃を受け止めながら彼は問う。
「当たり前だ!」
「そのわりには、教えを忘れている」
「お前に分かるのか?」
「〝感情任せに刀を振るうと、自身を危険に晒す〟……お前の父は、そう言ってなかったか?」
「なっ……!」
「隙あり」
彼は言いながら、兄の左手を打つ。そのまま、木刀の先を喉に向けた。
「……そこまで!」
父の声が響いた。
すぐさま母が、錦に駆け寄る。
「大丈夫ですか? 痛いでしょう?」
「これくらい、平気です」
母の言葉に錦は呟くと、彼らは去った。
その背を見送りながら、彼は鼻で嗤った。