平穏に隠された負の感情
片鱗《二》
残ったのは父と彼。
「いつからだ。……いつから、お前は剣の腕を磨き始めた?」
父は落ちた木刀を拾って構え、彼に問う。その声音は静かだ。
「今から、ちょうど二年前です」
「どのように腕を磨いた?」
「中庭で稽古をしているのを、観察しました。夜に記憶を辿りながら、練習を繰り返してきました」
「腕に自信があるようだな」
「ありませんよ」
「本気で向かってこい。お前の腕がどれほどのものなのか、私に見せてみろ」
「……分かりました」
彼は右手で構える。
「何故、両手で構えんのだ!」
「その方が、動きやすいんですよ。……こちらから、仕掛けますよ」
彼は父との距離を詰め、木刀を振り下ろす。それをなんとか受け止めた父であったが、彼の力に圧《お》されている。
父の顔には怒りと驚愕が入り混じった、複雑な表情が浮かぶ。
父は一歩下がって、彼の体勢を崩そうと突きを繰り出した。だが、その攻撃は躱される。
体勢を戻そうとしたところで、木刀を喉に突きつけられた。
「信じられん……」
「これが現実です。正直、俺も驚いています」
「驚く?」
「あなたに勝てる、とまでは思っていなかったんです。この武家の将来が楽しみですね」
彼は冷たく言って、木刀を喉から引き、背を向ける。
天気がさらに悪くなってきたらしく、激しい雨が降り出した。
「頼む。家に戻ってくれ。私が間違っていた。お前に当主の座を渡そう。今までのことは、水に流してくれないか」
「は」
彼はその申し出に対し、鼻で嗤った。
肩越しに父を睨みつける。
「断る。あなたを赦すつもりはありません。ここに俺の居場所は、ない」
茫然とする父の背中を睨みつけながら、彼は雨に打たれ続けた。
それから少し経ち、乳母とともに、育った武家を去った。
二度と帰らないと心に決め、この家で受けた仕打ちのすべてを、忘れようとしていた。
「最低な奴らだった」
霊斬は憎しみをあらわに呟く。
「本当に、そのとおりだよ。どうして、あたしにこんな話を?」
「お前は俺が興味深いという、変わり者だからな。これくらい言ってもいいかと、思っただけだ」
「そうかい。あたしは、親の顔すら憶えてない」
霊斬は千砂の顔を凝視する。
「物心ついたとき、あたしは忍びの里にいた。あたしは貧しさのあまりに、売られてここにきたらしいって教えてもらった。そこからはずっと修行。子どもらしいことなんてなにひとつない。強く優秀な忍びになるためだけに、育てられた」
千砂は遠い目をした。
「そうか……」
ほんの僅かだが、お互いの距離が縮まった瞬間でもあった。
それから一月後、霊斬はいつものように刀を作っていた。
「ごめんください!」
声がしたので、霊斬は手を止めて表に向かう。
「なんの用でございますか?」
霊斬が言いながら戸を開けると、一人の女が立っている。
「失礼ですが、幻鷲様で間違いございませんでしょうか?」
「はい」
「折り入った話があるのです」
霊斬は女を、奥の部屋へ通した。
女にお茶を出し、正座をして霊斬は問いかけた。
「折り入った話とは?」
「ここにくれば、〝因縁引受人〟に会えると聞きました。あなたが、そのお方ですか?」
「はい」
女は少し驚いた表情をした後、顔を引き締めると話し始めた。
「私は呉服問屋の娘でございます。あなた様に修理の依頼をさせていただきたく、参りました。
それから……ある武家に対しての憎しみが消えません」
「何故、憎んでいるのですか?」
霊斬が静かな声で尋ねる。
「……実の親を、斬られたからです」
「その武家の名は、ご存知ですか?」
「西日家です。当主の三津五郎」
憎しみのこもった双眸を向けてくる。
「分かりました。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「はい。それではこれを」
懐刀を床に置いた。
「どうかあの家を、壊してくださいまし」
「承知いたしました。七日後、またお越しください」
霊斬が頭を下げると、女は店を去った。
霊斬は預かった懐刀の刀身に、目を走らせる。
鞘とこすれた瑕さえも、少なかった。
――ほとんど、使われていない。
霊斬は目の細かい砥石で研ぎ始めた。
しばらくして、霊斬は千砂の隠れ家に、顔を出す。
「いるか?」
「はいよ」
霊斬は部屋に入るや、壁に寄りかかって片膝を立てて座る。
千砂は彼と向かい合うように、正座をした。
「依頼が入った。今回は西日家だ」
霊斬は静かな声で告げる。
「そうかい。あの家は昔、忍び込んだことがある。後ろ暗いことは、なにも聞かなかったよ」
「そうか。西日三津五郎の情報を頼む」
「任せておくれ。二日、くれるかい?」
「ああ」
霊斬はそれだけ告げると、さっさと隠れ家を後にした。
千砂は少し焦っているように思えた霊斬を、疑問に思いながら支度を始めた。
その日の夜、千砂は西日家に忍び込む。
千砂が見た光景は、家族皆集まって、静かに夕餉をとる西日家の姿。
千砂が見るのはいつも、不快になるものばかりで。今回のような普通の様子を見るのは、とても久し振りで新鮮だった。
夕餉を終え、全員がそれぞれに動き出す。千砂はその中での一番年上の男を追う。
「いつからだ。……いつから、お前は剣の腕を磨き始めた?」
父は落ちた木刀を拾って構え、彼に問う。その声音は静かだ。
「今から、ちょうど二年前です」
「どのように腕を磨いた?」
「中庭で稽古をしているのを、観察しました。夜に記憶を辿りながら、練習を繰り返してきました」
「腕に自信があるようだな」
「ありませんよ」
「本気で向かってこい。お前の腕がどれほどのものなのか、私に見せてみろ」
「……分かりました」
彼は右手で構える。
「何故、両手で構えんのだ!」
「その方が、動きやすいんですよ。……こちらから、仕掛けますよ」
彼は父との距離を詰め、木刀を振り下ろす。それをなんとか受け止めた父であったが、彼の力に圧《お》されている。
父の顔には怒りと驚愕が入り混じった、複雑な表情が浮かぶ。
父は一歩下がって、彼の体勢を崩そうと突きを繰り出した。だが、その攻撃は躱される。
体勢を戻そうとしたところで、木刀を喉に突きつけられた。
「信じられん……」
「これが現実です。正直、俺も驚いています」
「驚く?」
「あなたに勝てる、とまでは思っていなかったんです。この武家の将来が楽しみですね」
彼は冷たく言って、木刀を喉から引き、背を向ける。
天気がさらに悪くなってきたらしく、激しい雨が降り出した。
「頼む。家に戻ってくれ。私が間違っていた。お前に当主の座を渡そう。今までのことは、水に流してくれないか」
「は」
彼はその申し出に対し、鼻で嗤った。
肩越しに父を睨みつける。
「断る。あなたを赦すつもりはありません。ここに俺の居場所は、ない」
茫然とする父の背中を睨みつけながら、彼は雨に打たれ続けた。
それから少し経ち、乳母とともに、育った武家を去った。
二度と帰らないと心に決め、この家で受けた仕打ちのすべてを、忘れようとしていた。
「最低な奴らだった」
霊斬は憎しみをあらわに呟く。
「本当に、そのとおりだよ。どうして、あたしにこんな話を?」
「お前は俺が興味深いという、変わり者だからな。これくらい言ってもいいかと、思っただけだ」
「そうかい。あたしは、親の顔すら憶えてない」
霊斬は千砂の顔を凝視する。
「物心ついたとき、あたしは忍びの里にいた。あたしは貧しさのあまりに、売られてここにきたらしいって教えてもらった。そこからはずっと修行。子どもらしいことなんてなにひとつない。強く優秀な忍びになるためだけに、育てられた」
千砂は遠い目をした。
「そうか……」
ほんの僅かだが、お互いの距離が縮まった瞬間でもあった。
それから一月後、霊斬はいつものように刀を作っていた。
「ごめんください!」
声がしたので、霊斬は手を止めて表に向かう。
「なんの用でございますか?」
霊斬が言いながら戸を開けると、一人の女が立っている。
「失礼ですが、幻鷲様で間違いございませんでしょうか?」
「はい」
「折り入った話があるのです」
霊斬は女を、奥の部屋へ通した。
女にお茶を出し、正座をして霊斬は問いかけた。
「折り入った話とは?」
「ここにくれば、〝因縁引受人〟に会えると聞きました。あなたが、そのお方ですか?」
「はい」
女は少し驚いた表情をした後、顔を引き締めると話し始めた。
「私は呉服問屋の娘でございます。あなた様に修理の依頼をさせていただきたく、参りました。
それから……ある武家に対しての憎しみが消えません」
「何故、憎んでいるのですか?」
霊斬が静かな声で尋ねる。
「……実の親を、斬られたからです」
「その武家の名は、ご存知ですか?」
「西日家です。当主の三津五郎」
憎しみのこもった双眸を向けてくる。
「分かりました。人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「はい。それではこれを」
懐刀を床に置いた。
「どうかあの家を、壊してくださいまし」
「承知いたしました。七日後、またお越しください」
霊斬が頭を下げると、女は店を去った。
霊斬は預かった懐刀の刀身に、目を走らせる。
鞘とこすれた瑕さえも、少なかった。
――ほとんど、使われていない。
霊斬は目の細かい砥石で研ぎ始めた。
しばらくして、霊斬は千砂の隠れ家に、顔を出す。
「いるか?」
「はいよ」
霊斬は部屋に入るや、壁に寄りかかって片膝を立てて座る。
千砂は彼と向かい合うように、正座をした。
「依頼が入った。今回は西日家だ」
霊斬は静かな声で告げる。
「そうかい。あの家は昔、忍び込んだことがある。後ろ暗いことは、なにも聞かなかったよ」
「そうか。西日三津五郎の情報を頼む」
「任せておくれ。二日、くれるかい?」
「ああ」
霊斬はそれだけ告げると、さっさと隠れ家を後にした。
千砂は少し焦っているように思えた霊斬を、疑問に思いながら支度を始めた。
その日の夜、千砂は西日家に忍び込む。
千砂が見た光景は、家族皆集まって、静かに夕餉をとる西日家の姿。
千砂が見るのはいつも、不快になるものばかりで。今回のような普通の様子を見るのは、とても久し振りで新鮮だった。
夕餉を終え、全員がそれぞれに動き出す。千砂はその中での一番年上の男を追う。