平穏に隠された負の感情
第一章
違和感《一》
軽い気持ちで、店に入った。
霊斬が店にきたと分かるや、そこにいた客達がこちらに視線を向けてくる。
背が高いし、顔立ちも整っている。誰であろうと、ひと目見たいと思うような、派手さがあった。しかし、まるで今にも刀を抜きそうな、隠しきれぬ殺伐とした空気を纏っている。どう見てもそばを食べる気の客ではない。
店の中は広々としており、客達が机を囲んでいる。
昼にしては人が多い。人気の店で繁盛しているのだろう。
「ごめんよ」
「いらっしゃい! 空いてる席にどうぞ!」
この店の女将が声をかけてきた。
今まで通っていた店では、客に対してあっさりとしすぎていた。入ってすぐに声をかけられることがなかった。内心で驚きながらも、空いている席に腰を下ろす。
「そばをひとつ」
出てくるころあいを見計らって、注文した。
「少々お待ちを!」
注文を終えた後、さりげなく店内を見回した。武士や近くの商人や旅の者など、様々な人が利用しているようだ。
「お待たせしました! ご注文の品です」
机に置かれたお茶をそっちのけで、そばを食べ始めた。
美味かったからだろう、かなり早く食べ終えてしまった。
「いかがでした?」
お茶を飲んでいるころ、女――千砂に声をかけられた。
結った黒髪は美しさの塊であり、忙しない動きをしていても、見惚れる男は少なくない。女の中では普通くらいの顔立ちをしているが、ふわりと笑みを浮かべるととても可愛いのだ。それが愛想笑いだとは誰も思わない。
身長は四尺五寸。白の前かけをしているが、着ている黄色の小袖は派手すぎず、地味すぎず。彼女の肌色によく似合う。肌は少し茶系が混じったような色をしている。歳は霊斬より、三つほど下くらいか。
「美味かった」
「それはよかったです!」
お代を机に置き、席を立った。
「ごちそうさん」
その帰り道、霊斬は立ち並ぶ店の間に、人だかりを見つけ、軽い気持ちで見にいく。
小料理屋の前を通りかかると、岡っ引きと定町廻り同心が駆けつけていた。亡くなったのはこの店の看板娘らしい。
「あいつだよっ!」
どこかの店の女将らしき女が、叫んで一人の男を指さす。
その男は青い顔をして慌てて逃げ出した。
動こうとした岡っ引きを、同心が引き止める。
「追い駆けねばならんでしょう?」
岡っ引きは同心を不思議そうに見つめた。
「それは許さん」
岡っ引きに言い放ち、同心は手を叩いて皆の視線を奪う。
「しかし……」
岡っ引きが抗議しようとしたが、同心はそれを無視した。
「騒がせて申しわけない! この件については、見なかったことに! こんなことで足を止めているわけにもいくまい。ささ、早く戻りなされ!」
――人の命がひとつ、消えたというのに。その扱いはなんだ? 遠回しな口封じとは、よほどなにかを隠したいようだな。
そんな同心を不思議に思いながら、霊斬は人の波に紛れた。
店に帰って刀部屋に入った。
水につけておいた刀を取り出し、砥石で何度か研ぐ。そのたびに出来栄えを見ながら。
だいたいの仕事を終わらせ、霊斬は休憩していた。すでに、日は傾き始めている。
しばらくすると、戸を何度か叩く音が聞こえた。
引き戸を開けると、一人の武士が立っていた。
「幻鷲殿とお見受けする。ひとつ、頼みを聞いてもらえぬか」
「では、こちらへ」
霊斬は武士を部屋に上げた。部屋の真ん中に、霊斬とその武士は向かい合って座った。
「それで、頼みとは?」
「この刀を直してほしい」
床に置いていた刀を差し出した。
「拝見いたします」
霊斬は刀を手に取って鞘を抜き、刀身に目を走らせる。
丁寧に扱っているのはすぐ分かった。刀は武士の魂という。それほど大切にしていることが、ひしひしと伝わってくる。
「承りました。七日後に、またお越しください」
霊斬は刀を仕舞うと、深々と頭を下げる。
「こちらの都合ですまぬが、お代は先払いでよいか?」
武士は袖から小判五両を出し、差し出してきた。
「はい」
「では、これで」
「お待ちください。こんなにはいただけません」
霊斬は慌てて小判を返そうとする。修理ならばここまで高額にはならない。銭《ぜに》と銀があれば十分。
「そなたが幻鷲だから、これほどの額を払うのだ」
「……分かりました」
霊斬は渋々、小判を受け取る。
「では、失礼する」
霊斬は武士を見送る。
預かった刀を一瞥し、外に出た。
そば屋の暖簾をくぐった。
「ごめんよ」
静かな低い声を聞いた客達がいっせいに静まる。
「おやおや、旦那じゃないかい。お待ちになって」
女将が奥まった席をすすめ、厨に引っ込んだ。
なにごとかと思っている視線を感じながらも、無視をした霊斬は、奥の椅子に座る。
椅子が悪いのか、霊斬はそこまで巨体ではないのだが、椅子が少し軋んだ。
「おや? 刀屋! 仕事はいいのか?」
そばを掻っ込んでいる男が尋ねた。
「少しくらい休んでも、罰は当たらんさ」
霊斬は薄い笑みを浮かべて、知り合いに軽口を叩く。
ほんの少しの笑みが入る。それだけで周りの男達ですら見惚れる。
霊斬が店にきたと分かるや、そこにいた客達がこちらに視線を向けてくる。
背が高いし、顔立ちも整っている。誰であろうと、ひと目見たいと思うような、派手さがあった。しかし、まるで今にも刀を抜きそうな、隠しきれぬ殺伐とした空気を纏っている。どう見てもそばを食べる気の客ではない。
店の中は広々としており、客達が机を囲んでいる。
昼にしては人が多い。人気の店で繁盛しているのだろう。
「ごめんよ」
「いらっしゃい! 空いてる席にどうぞ!」
この店の女将が声をかけてきた。
今まで通っていた店では、客に対してあっさりとしすぎていた。入ってすぐに声をかけられることがなかった。内心で驚きながらも、空いている席に腰を下ろす。
「そばをひとつ」
出てくるころあいを見計らって、注文した。
「少々お待ちを!」
注文を終えた後、さりげなく店内を見回した。武士や近くの商人や旅の者など、様々な人が利用しているようだ。
「お待たせしました! ご注文の品です」
机に置かれたお茶をそっちのけで、そばを食べ始めた。
美味かったからだろう、かなり早く食べ終えてしまった。
「いかがでした?」
お茶を飲んでいるころ、女――千砂に声をかけられた。
結った黒髪は美しさの塊であり、忙しない動きをしていても、見惚れる男は少なくない。女の中では普通くらいの顔立ちをしているが、ふわりと笑みを浮かべるととても可愛いのだ。それが愛想笑いだとは誰も思わない。
身長は四尺五寸。白の前かけをしているが、着ている黄色の小袖は派手すぎず、地味すぎず。彼女の肌色によく似合う。肌は少し茶系が混じったような色をしている。歳は霊斬より、三つほど下くらいか。
「美味かった」
「それはよかったです!」
お代を机に置き、席を立った。
「ごちそうさん」
その帰り道、霊斬は立ち並ぶ店の間に、人だかりを見つけ、軽い気持ちで見にいく。
小料理屋の前を通りかかると、岡っ引きと定町廻り同心が駆けつけていた。亡くなったのはこの店の看板娘らしい。
「あいつだよっ!」
どこかの店の女将らしき女が、叫んで一人の男を指さす。
その男は青い顔をして慌てて逃げ出した。
動こうとした岡っ引きを、同心が引き止める。
「追い駆けねばならんでしょう?」
岡っ引きは同心を不思議そうに見つめた。
「それは許さん」
岡っ引きに言い放ち、同心は手を叩いて皆の視線を奪う。
「しかし……」
岡っ引きが抗議しようとしたが、同心はそれを無視した。
「騒がせて申しわけない! この件については、見なかったことに! こんなことで足を止めているわけにもいくまい。ささ、早く戻りなされ!」
――人の命がひとつ、消えたというのに。その扱いはなんだ? 遠回しな口封じとは、よほどなにかを隠したいようだな。
そんな同心を不思議に思いながら、霊斬は人の波に紛れた。
店に帰って刀部屋に入った。
水につけておいた刀を取り出し、砥石で何度か研ぐ。そのたびに出来栄えを見ながら。
だいたいの仕事を終わらせ、霊斬は休憩していた。すでに、日は傾き始めている。
しばらくすると、戸を何度か叩く音が聞こえた。
引き戸を開けると、一人の武士が立っていた。
「幻鷲殿とお見受けする。ひとつ、頼みを聞いてもらえぬか」
「では、こちらへ」
霊斬は武士を部屋に上げた。部屋の真ん中に、霊斬とその武士は向かい合って座った。
「それで、頼みとは?」
「この刀を直してほしい」
床に置いていた刀を差し出した。
「拝見いたします」
霊斬は刀を手に取って鞘を抜き、刀身に目を走らせる。
丁寧に扱っているのはすぐ分かった。刀は武士の魂という。それほど大切にしていることが、ひしひしと伝わってくる。
「承りました。七日後に、またお越しください」
霊斬は刀を仕舞うと、深々と頭を下げる。
「こちらの都合ですまぬが、お代は先払いでよいか?」
武士は袖から小判五両を出し、差し出してきた。
「はい」
「では、これで」
「お待ちください。こんなにはいただけません」
霊斬は慌てて小判を返そうとする。修理ならばここまで高額にはならない。銭《ぜに》と銀があれば十分。
「そなたが幻鷲だから、これほどの額を払うのだ」
「……分かりました」
霊斬は渋々、小判を受け取る。
「では、失礼する」
霊斬は武士を見送る。
預かった刀を一瞥し、外に出た。
そば屋の暖簾をくぐった。
「ごめんよ」
静かな低い声を聞いた客達がいっせいに静まる。
「おやおや、旦那じゃないかい。お待ちになって」
女将が奥まった席をすすめ、厨に引っ込んだ。
なにごとかと思っている視線を感じながらも、無視をした霊斬は、奥の椅子に座る。
椅子が悪いのか、霊斬はそこまで巨体ではないのだが、椅子が少し軋んだ。
「おや? 刀屋! 仕事はいいのか?」
そばを掻っ込んでいる男が尋ねた。
「少しくらい休んでも、罰は当たらんさ」
霊斬は薄い笑みを浮かべて、知り合いに軽口を叩く。
ほんの少しの笑みが入る。それだけで周りの男達ですら見惚れる。