平穏に隠された負の感情
第九章
身分を越えた恨み《一》
それから数月後、霊斬の許に行商人が訪れた。
まだ日も高く、出歩いている人も多い。
「いらっしゃいませ」
「鍛冶屋ですか。なかなか大きい。さすがは江戸ですな」
「江戸の外からおいでで?」
「はい」
「それはそれは」
「ある人を捜して、ここまできたのです」
霊斬は商い中の看板をひっくり返し、戸をぴしゃりと閉める。
「ある人とは?」
「江戸のどこかにいるという〝因縁引受人〟というお人です」
「何故、その方をお捜しに?」
霊斬は刀屋としての芝居を続ける。
「晴らしていただきたい、恨みがあるからです」
「こちらに」
霊斬は奥を示した。
きょろきょろしている行商人を案内し、正座で向かい合う。
「直してくださいますか?」
使い古された短刀を差し出した。
「承知いたしました」
霊斬は愛想笑いで短刀を受け取り、状態を見る。
鞘の鯉口と重なるはばきの辺りが緩んでいる。短刀の滑らかな鞘抜きの邪魔をしていた。
短刀を見終えると、霊斬が口を開いた。
「その前にひとつ、確かめたいことがございます」
「なんでしょうか?」
「人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「はい」
「……依頼内容をお聞かせ願えますか?」
「では、あなたが……!」
行商人は顔を輝かせる。
「〝因縁引受人〟。またの名を、霊斬と申します」
霊斬は頭を下げる。
「私は以前、江戸で武士をやっておりました。武家はなにかと体面ばかりを、気にする身分。それが嫌になり、私は武士を辞めたのでございます。それでもあの家に対しての、恨みは晴れませんでした」
「あの家とは?」
霊斬は話を聞きながら、尋ねた。
「利津家です」
その名を聞いた瞬間、霊斬は顔から血の気が引いていないかと焦った。何故そんな心配をするのか、分からなかった。
「……どのような恨みがあるのですか?」
なんとか平然を装い、話を続ける。
「私の家がお取り潰しに遭ったのです」
「何故ですか?」
「利津家は武士を一人斬ったというのに、その罪を我らに着せたのです。私どもは利津家より下でしたので、それに従わざるを得ませんでした」
行商人は言いながら、唇を噛む。
霊斬はその話を聞きながら、なんて奴だと思った。
「それはいつごろの出来事にございますか?」
「今から三年前にございます」
「その人物はご存じですか?」
「はい。重五郎です」
「承知いたしました。こちらでも調べてみますので、七日後にお越しくださいますか?」
「分かりました。では、これにて」
行商人は店を後にした。
「利津家、か」
霊斬は行商人が去った後、一人、床に寝転んで天井を睨む。
動じたときを思い出したが、誤魔化しができていることに、安堵している自分がいた。
どうしてあんなに動揺したのか、皆目見当がつかない。
忌々しげに舌打ちをした後、短刀の修理に取りかかった。
――しかし、あそこまで、はばきが緩むとなると相当使い込んでいるのだろう。武士の身分を捨ててまで行商人になったのに、まだ命を狙われているのだろうか?
霊斬はそんなことを思いながら、手を動かした。
修理を三日で終わらせると、霊斬はそば屋へ向かった。
「いらっしゃい! あら、旦那!」
千砂の声に出迎えられ、霊斬はいつもの席に座る。
「千砂」
「はい、なんでしょう?」
「耳を貸してくれ」
霊斬は小声で、今夜隠れ家にいくことを伝える。
小さくうなずいた千砂が、霊斬から離れた。
「おお? 逢引の約束か?」
「違います!」
常連客の茶化しに、千砂はとっさに否定する。
――まあ、似たようなもんだけど。
霊斬は思いながら、お茶を飲んだ。
すっかり日も暮れた時刻に、霊斬は隠れ家に向かう。
すでに千砂がおり、霊斬は思わず聞く。
「待たせたか?」
「いいや。ついさっき、きたところ」
「よかった」
霊斬は胸を撫で下ろす。
「それで、今回は?」
「利津家の利津重五郎。それと家族の様子も。頼んだぞ」
「はいよ」
霊斬はその言葉を聞くと、隠れ家を後にした。
千砂は忍び装束に着替えると、利津家に向かった。
屋根裏で聞こえてくる会話に耳を澄ませる。
「あの子はまだ見つからないのか!」
「家を出て乳母の実家にいたところまでは、つかんでいるのです。それから先がぱったりでして……」
「満久は、当主に相応しくない! あの子しかいないのだ! さっさと見つけ出せ!」
千砂は移動し、再び声を聞く。
「父上も諦めが悪い。もう弟が家を出て二十年以上にもなるというのに、未だに捜しているとは。私なりに精いっぱい、やっているのに」
「そうですね。父上はあれから、狂ってしまわれた。あの子が戻らぬ限り、あのままでしょう」
話を聞いていた千砂は訝しむ。
――なんだい、そりゃあ。
千砂は無言でその場から去った。
――どういうこと? 当主に相応しくないだけで、二十年も前にいなくなった息子を躍起になって捜すなんて。
千砂は元きた道を走りながら思った。
千砂は翌日の同じ時刻、利津家に潜り込む。
「おい、三年前の件は、誰にも嗅ぎつけられてないだろうな?」
「は、はい!」
「これが知られたら大変なことになる。分かっておるな!」
「は!」
まだ日も高く、出歩いている人も多い。
「いらっしゃいませ」
「鍛冶屋ですか。なかなか大きい。さすがは江戸ですな」
「江戸の外からおいでで?」
「はい」
「それはそれは」
「ある人を捜して、ここまできたのです」
霊斬は商い中の看板をひっくり返し、戸をぴしゃりと閉める。
「ある人とは?」
「江戸のどこかにいるという〝因縁引受人〟というお人です」
「何故、その方をお捜しに?」
霊斬は刀屋としての芝居を続ける。
「晴らしていただきたい、恨みがあるからです」
「こちらに」
霊斬は奥を示した。
きょろきょろしている行商人を案内し、正座で向かい合う。
「直してくださいますか?」
使い古された短刀を差し出した。
「承知いたしました」
霊斬は愛想笑いで短刀を受け取り、状態を見る。
鞘の鯉口と重なるはばきの辺りが緩んでいる。短刀の滑らかな鞘抜きの邪魔をしていた。
短刀を見終えると、霊斬が口を開いた。
「その前にひとつ、確かめたいことがございます」
「なんでしょうか?」
「人を殺めぬこの私に頼んで、二度と後悔なさいませんか?」
「はい」
「……依頼内容をお聞かせ願えますか?」
「では、あなたが……!」
行商人は顔を輝かせる。
「〝因縁引受人〟。またの名を、霊斬と申します」
霊斬は頭を下げる。
「私は以前、江戸で武士をやっておりました。武家はなにかと体面ばかりを、気にする身分。それが嫌になり、私は武士を辞めたのでございます。それでもあの家に対しての、恨みは晴れませんでした」
「あの家とは?」
霊斬は話を聞きながら、尋ねた。
「利津家です」
その名を聞いた瞬間、霊斬は顔から血の気が引いていないかと焦った。何故そんな心配をするのか、分からなかった。
「……どのような恨みがあるのですか?」
なんとか平然を装い、話を続ける。
「私の家がお取り潰しに遭ったのです」
「何故ですか?」
「利津家は武士を一人斬ったというのに、その罪を我らに着せたのです。私どもは利津家より下でしたので、それに従わざるを得ませんでした」
行商人は言いながら、唇を噛む。
霊斬はその話を聞きながら、なんて奴だと思った。
「それはいつごろの出来事にございますか?」
「今から三年前にございます」
「その人物はご存じですか?」
「はい。重五郎です」
「承知いたしました。こちらでも調べてみますので、七日後にお越しくださいますか?」
「分かりました。では、これにて」
行商人は店を後にした。
「利津家、か」
霊斬は行商人が去った後、一人、床に寝転んで天井を睨む。
動じたときを思い出したが、誤魔化しができていることに、安堵している自分がいた。
どうしてあんなに動揺したのか、皆目見当がつかない。
忌々しげに舌打ちをした後、短刀の修理に取りかかった。
――しかし、あそこまで、はばきが緩むとなると相当使い込んでいるのだろう。武士の身分を捨ててまで行商人になったのに、まだ命を狙われているのだろうか?
霊斬はそんなことを思いながら、手を動かした。
修理を三日で終わらせると、霊斬はそば屋へ向かった。
「いらっしゃい! あら、旦那!」
千砂の声に出迎えられ、霊斬はいつもの席に座る。
「千砂」
「はい、なんでしょう?」
「耳を貸してくれ」
霊斬は小声で、今夜隠れ家にいくことを伝える。
小さくうなずいた千砂が、霊斬から離れた。
「おお? 逢引の約束か?」
「違います!」
常連客の茶化しに、千砂はとっさに否定する。
――まあ、似たようなもんだけど。
霊斬は思いながら、お茶を飲んだ。
すっかり日も暮れた時刻に、霊斬は隠れ家に向かう。
すでに千砂がおり、霊斬は思わず聞く。
「待たせたか?」
「いいや。ついさっき、きたところ」
「よかった」
霊斬は胸を撫で下ろす。
「それで、今回は?」
「利津家の利津重五郎。それと家族の様子も。頼んだぞ」
「はいよ」
霊斬はその言葉を聞くと、隠れ家を後にした。
千砂は忍び装束に着替えると、利津家に向かった。
屋根裏で聞こえてくる会話に耳を澄ませる。
「あの子はまだ見つからないのか!」
「家を出て乳母の実家にいたところまでは、つかんでいるのです。それから先がぱったりでして……」
「満久は、当主に相応しくない! あの子しかいないのだ! さっさと見つけ出せ!」
千砂は移動し、再び声を聞く。
「父上も諦めが悪い。もう弟が家を出て二十年以上にもなるというのに、未だに捜しているとは。私なりに精いっぱい、やっているのに」
「そうですね。父上はあれから、狂ってしまわれた。あの子が戻らぬ限り、あのままでしょう」
話を聞いていた千砂は訝しむ。
――なんだい、そりゃあ。
千砂は無言でその場から去った。
――どういうこと? 当主に相応しくないだけで、二十年も前にいなくなった息子を躍起になって捜すなんて。
千砂は元きた道を走りながら思った。
千砂は翌日の同じ時刻、利津家に潜り込む。
「おい、三年前の件は、誰にも嗅ぎつけられてないだろうな?」
「は、はい!」
「これが知られたら大変なことになる。分かっておるな!」
「は!」