平穏に隠された負の感情

身分を越えた恨み《四》

 次の部屋の襖を蹴り飛ばす。
 中には怯える女が二人いた。一人は比較的若く、もう一人は年老いていた。若い女について情報はなかったものの、居合わせただけだろう。
 怖がりながらも刀を構える、三十くらいの男の姿があった。
 霊斬は鼻と口を覆っている布を、乱暴に下ろした。
「人斬り!」
 年老いた女が叫ぶ。
「結果を見て言え!」
 霊斬が怒鳴る。彼の背後には、痛みに呻く男達の姿がある。
「ひいっ!」
「母上に手を出すな!」
 ――へっぴり腰のくせに、威勢だけはいい。
「貴様の負けは最初から、決まったようなものだが」
「うるさい!」
 男は姿勢を整えて、斬りかかってくる。
 その刀をやすやすと受け止め、霊斬はぞっとするほどの冷笑を浮かべた。
 その表情に怯えながらも再度距離を取った男は、突きを入れてくる。
 それを躱し、右腕を斬りつける。
「ぐっ!」
「満久!」
「黙れ!」
 年老いた女の悲痛な叫びに、すかさず霊斬の怒号が飛ぶ。
「私は死ぬわけには、いかないんだ!」
「斬らねぇよ」
 即答である。
 霊斬は攻撃を躱し左腕をも斬り裂くと、満久ががくっと膝をつく。
「おのれ……!」
 ぼろぼろになった満久に年老いた女が駆け寄る。
 満久が睨みつけてきて、立ち上がり、霊斬に刃を向ける。
「ここで、賊を仕留めれば、きっと……」
「評価が上がるとでも? それはない。俺はこんな場所で死ぬつもりは、微塵もない」
 満久の心に灯ったであろう意思を、霊斬は容赦なく否定した。
 満久の横顔は血の気が失せ、震えていた。目の前にいるのは圧倒的な力を持つ、けれど()一人(・・)なのだから。
「やあ!」
 負傷しながらも洗練された動きで、攻撃を繰り出してくる。
 霊斬はそれを簡単に受け止めるも、満久の変化に驚いた。
 ――俺には及ばない。その辺の雑魚に比べたら、まだましな動きをする。
 満久の刃を押し返し、下から斬り上げる。腹から胸にかけて一閃すると、鮮血が飛び散る。
「ぐっ!」
 痛みを堪え、霊斬の胸を狙って横に薙ぎ払う。
 霊斬はそれを受け止める。互いに力を込めているため、刀がかたかたと音を立てる。
「いったいなにがあった?」
「教えを思い出しただけだ」
 霊斬は冷笑を、見せるだけに留まった。
 その力を利用して、体勢を崩すと、満久が倒れる。
 急所を外し、腹に黒刀を突き立てた。
「ぐああっ!」
 身体が焼けるような痛みを訴える。満久はなにも考えられず、悲鳴を上げた。
「……気が変わった。苦痛に苛まれながら、死ぬがいい」
 霊斬は容赦なく傷を抉りながら、冷笑を浮かべた。
 抉るたびに、満久が叫ぶ。
 視界の端で、なにかが動く。同時に、こちらに向かってきた。
 霊斬は咄嗟に柄から手を離し、突然繰り出された、隙だらけの攻撃を躱した。
「なんの真似だ?」
「これ以上、満久を苦しませないで!」
 攻撃を仕掛けてきたのは、満久の母だった。抜き身の懐刀を両手で持ち、がたがたと震えている。その姿はとても哀れだ。一方満久と同い年であろう女は、見ているだけだった。恐怖に目を見開いている。
「ちっ」
 霊斬が忌々しげに、舌打ちをした。
「だめだ、母上……」
 ――そんな動きで、こいつを助けようとでも? 親子愛など反吐(へど)が出る。
 霊斬は内心で思いながら、懐から短刀を取り出して構える。
 と瞬時に満久の母との距離を詰め、右腕を斬りつけた。続いて左腕を。これでもう、懐刀は使えまい。
「ああっ!」
 焼けるような痛みに呻いた満久の母は、彼と同じく畳に倒れた。
 鮮血を払い落とし、流れるような動きで短刀を仕舞う。畳に落ちた懐刀を、遠くへ蹴飛ばす。
 霊斬はよほど恨みでもあるのか、執拗に満久を痛めつけた。
 何度も叫ぶ満久を、霊斬は冷ややかな目で見ていた。
 霊斬が執拗に痛めつけ、気がすんだのか動きを止めた。
 満久の身体の周りは真っ赤に染まり、傷からはどくどくと鮮血が溢れ出していた。
 真っ先に駆け寄ったのは女ではなく、満久の母だった。
 痛む腕を無視して、何度も満久に声をかけている。
「っ……!」
 女の視線が、霊斬に釘付けになる。恐怖に顔を歪めていた。
「見逃す……というのですか?」
 女は黒刀に怯えたまま、か細い声で言った。
「お前は、なにもしていない。斬る価値など、初めからない」
 霊斬は鮮血のついた黒刀をそのままに、部屋から去った。
 
 霊斬は最後の襖を蹴り開けた。
 そこには父だった男――重五郎がいた。
「そなたはもしや、(あかつき)……」
 霊斬は名を口にした重五郎に、無言で黒刀を突きつける。
 それが自分の幼名だと、霊斬には分からなかった。
「満久はどうしたのじゃ!」
「放っておけば、死ぬほど痛めつけた」
 霊斬が冷ややかな声で告げた。
「なっ……!」
「それから、お前の妻も負傷している。満久に比べれば、程度は軽いがな。余計な手出しさえしなければ、無傷でいられたものを。一人、無事な奴がいたか」
 霊斬が鼻で嗤いながら、吐き捨てた。
「わしの家族を壊しおって……!」
「それを望んだのは依頼人だ。そんなことより、三年前一人の武士が斬られた。その罪を別の者に着せたな?」
 霊斬は話を変える。
「あの時は、そうするしかなかったんじゃ!」
 突きつけられた黒刀に怯えながらも、重五郎が叫んだ。
「事実から、目を背けただけだろう!」
 霊斬は激昂する。
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