平穏に隠された負の感情

身分を越えた恨み《六》

「そうだな」
 霊斬が苦笑した。
「でも、あんなに怖いあんたは初めて見たよ」
 霊斬は顔をしかめた。全身の傷が痛むのだ。
 それでも、声だけは普段どおりになるように努めた。
「たまには酒でも、呑みにいくか」
「それもいいねぇ」
 霊斬と千砂は笑い合った。
 
 それから七日後のある日、行商人が店を訪れた。
「お久し振りです」
「こちらへ」
 霊斬は頭を下げた。
 まだ全身の晒し木綿が取れておらず、頭を下げた際に傷が痛む。
 表情を変えずに、行商人を迎え入れた。
「あの騒ぎの後、瓦版を読みました。あの男は三年前のことを、自身番に話したそうですな」
「ええ」
「あの日を境に、刺客もぱったりやみました」
「それはようございました」
「いえ、あなたのおかげです」
「私は依頼を受けただけですよ」
 霊斬が苦笑する。
「これからどちらへ?」
「江戸を出ようと思います。これでのびのびと、商売ができます。……ささやかなものですが、どうぞ」
 行商人は濃紺のたすきを差し出す。
「よろしいのですか?」
「お礼をさせてください」
「ありがとうございます」
 霊斬はたすきを受け取った。
「これにて。ありがとうございました」
 行商人は店を後にした。
 
 霊斬は普段どおりの恰好で、自身番を訪れた。
「おや、刀屋じゃねぇか。なんの用だ?」
 岡っ引きが顔を上げる。
「利津重五郎に会いにきた」
「こっちだ」
 岡っ引きの後に続く。

「好きに話すといい」
 岡っ引きはそれだけ言って、立ち去った。
 霊斬は牢の柵越しに、正座をしている重五郎を睨みつける。
 着ている着物の合わせ目から、晒し木綿が覗いている。
 牢に入れられる前、手当ては施されたようだ。
「なんじゃ?」
「満久はどうなった?」
「近くの診療所に運ばれたが、しばらくして死んだわ」
「は」
 霊斬が鼻で嗤った。
「なにがおかしい?」
「あの男らしい無様な最期だったな、と。あれだけ刺せば、死にもするか」
「お主! 罪深さや悲しさなどを、感じないのか!」
 霊斬がやれやれといった具合に、溜息を吐く。
「感じないわけではないが、反応とすれば薄い方だろうな。だが、それがどうした? もともと俺は穢れている。それが余計穢れたからと言って、気にする馬鹿がどこにいる?」
「なっ……! お主はいつから、そんな冷酷な人になったんだ……」
「家を出てから、だろうな。貴様らへの憎しみを、忘れられるはずがなかろうが。それもあって、俺は()()歪められた(・・・・・)
「……何故、責めない?」
「無駄だからだ。そんな真似をしても、俺の時が戻るわけでもなし。貴様は己の罪に向き合うことだな。もう、守るものなどないのだろう?」
 霊斬が即答した。
「お主の言うとおりじゃ。最初から道を間違えていたのかもしれんの」
「今さら気づいたか。馬鹿な男だなぁ」
 霊斬がくくっと嗤った。
「お主を歪めてしまったこと。その原因はわしらにも、あるのだろう。それは、すまなかった」
「それは貴様の、自己満足にすぎん。謝罪ごときで貴様を、あの家の連中を、赦すはずがなかろうが! 俺は生家を潰した罪。実の兄を亡き者にした罪を、背負っても構わない。貴様らのことは、たとえ死んだとしても、憎み続ける」
 霊斬が吐き捨てる。
「お主の憎しみは、そこまでに強く深いものなのだな……」
「そうだ。俺が忘れ去ろうとしても、その憎しみだけは消えなかった。忌まわしき家の名も忘れていたというのに」
 霊斬は右手で顔半分を覆って、重五郎を睨みつける。
「お主が行方知れずになってもなお、捜し続けたのだぞ!」
「それが本心とは思えんな。ただ、満久を引き摺り下ろしたかっただけだろう」
 霊斬は吐き捨てて、口端を吊り上げて嗤う。
「くっ……」
 重五郎はなにも言い返せなかった。
「貴様らは最初から人を見る目がなかったんだよ。まあ、そこは哀れと思いつつも、よかったと思っている」
 霊斬は低い声で言う。殺気を身に纏いながら。
「よかっただと?」
「貴様らなんぞに、縛られなくてすんだからな」
 霊斬は鼻で嗤い、重五郎を見遣る。
「親をなんだと思っている!」
「血が繋がっただけの、他人。親から愛されなかったからな、そう思うのが自然だろ。それと、俺は自分のことが大事ではない」
 霊斬は低い声で吐き捨てる。
「なんだと……?」
 重五郎は茫然としてしまう。
「そういう反応になるのも無理はないが……」
「何故じゃ、誰しも自分のことは大事であろう?」
「俺をそこら辺にいる、普通の人として当て嵌めて考えるな」
 霊斬は顔を忌々しげに歪めた。
「自分のことは大事にせよ、(わらべ)でも分かること。何故、そんなふうに思ったのじゃ?」
 重五郎は戸惑いを隠せない。
「貴様と話す機会はこれで最後だろうな。なにも犠牲にせず得たものなど、まやかしに、霞に、すぎない。俺は自分のことを考えないようにしたのは、冷静さを保つため。なにごとにも冷静でいれば、対処できると思ったからだ」
 霊斬は吐き捨てる。
「だから、怪我をしても動じなかったと?」
 重五郎は当時を思い出しながら言う。
「まあな。俺は本心と、なくてもいい壁を作った。そうしなくてはならなかったんだ」
 霊斬の声はどこまでも冷たい。
「自分から逃げる? あり得ぬ! 自分から逃げていいことなどひとつもない!」
 重五郎は怒りのあまり叫ぶ。
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