平穏に隠された負の感情
侵される日常《四》
「刀についていた血糊。従六殿の左肩に、晒し木綿が巻かれていたからです」
霊斬は冷ややかな声で告げた。
「……そのとおりです。酒に酔った勢いで、少々やりすぎました」
言葉とは裏腹に、喧嘩をして叱られた子どものように、笑ってみせる。
去っていく武士を見送った後、霊斬は思う。
――実の兄を斬りかけたというのに、清々したというあの表情。人とはなんと恐ろしい。ほんの少し暗い顔をすれば、まだ人らしいと思える。しかしそれすらないと、人ではないのかと思えてしまう。
さらに時が経ったある日。霊斬は店を閉めたまま、ぼんやりと考え事をしていた。
すると、荒々しく戸を何度も叩く音が聞こえる。
「なにごとですか?」
霊斬が戸を開ける。
そこには定町廻り同心がいた。
「いったいなんの用でございますか?」
「〝因縁引受人〟という者を知っておるか?」
「いえ、存じ上げませんが……。その方がどうかなさったので?」
「少し前、お家が潰れるまで暴れまわったらしい。幸い死人が出なかっただけよいが」
「そうでございましたか」
霊斬はうなずく。
「彼の者の情報が、入ったらでいい。なんでもよいから自身番へ報告を」
「かしこまりました」
定町廻り同心が立ち去った。
「驚いた」
霊斬は店の中で呟く。
――あれだけ店で噂になっていれば。こうなるのも仕方ないのかもしれない。
それから数日後、戸を叩く音が聞こえる。
「開いておりますよ」
霊斬が顔を出すと、怖い顔をした岡っ引きと目が合う。
「これは、親分。いったいなんのご用で?」
霊斬は動じることなく尋ねる。
「今から一月前くらい武士が何度か、ここを出入りしてるって聞いてなぁ。たいてい夕方に。あんた、なにか隠していやしないかい?」
霊斬が愛想笑いで答える。
「それは刀の修理を、依頼なさった方々ですよ」
「そうか。宗崎家で怪しい者を見たんだが、心あたりないかい?」
「ありません」
即答である。
「怪我してるようだけど、なにか面倒事にでも巻き込まれたかい?」
「いえ、そういうわけではございません」
その問答に割って入る声があった。
「おい、五朗! いつまで話している! そなたが幻鷲か」
「す、すいやせん!」
「はい」
頭を下げる五朗と代わり、霊斬はうなずく。
「その怪我はなんだ?」
「なんでもございません」
「自身番へ連れていけ!」
「旦那! いったいどういうことで? こいつを疑ってんですかい?」
「武家で有名な鍛冶屋だぞ。そんな奴が怪我をしているなど、怪しいに決まっておろう!」
霊斬は抵抗せず縛につき、自身番に連れていかれた。
店から自身番までは歩くとなると、かなり遠い。
この日は霧雨が降っていたので、いきかう人々は傘をさしたり、編み笠で凌いでいる人もいた。
霊斬は目を細め、まっすぐ前を向いて歩いていく。
法に触れたのかという侮蔑と、哀れに思う人などもいたが、野次が飛んでくる。
「あんたの店のものは全部偽物だったのか?」
「武士に頭を下げ続けて、商人としての矜持はねぇのか!」
「その美貌を使って、女達を骨抜きにするだけじゃ飽き足らず、手をつけたって言うのかい!」
「あんた、根っからの商人じゃねぇだろ! 今の地位になるまでどれだけ手を汚したんだ?」
その言葉を聞きながら、霊斬は思う。
――店のものが偽物? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。じゃあ、その目で品を見たことあるのかよ? ないくせに難癖つけてくるな。失せろ。
――商人としての矜持? 意地でも見せろってか? たかが町人にそんなこと言われてもな。俺は武士が大嫌いだよ。
――おいおい。俺は女癖が悪いと噂にでもなってんのか? 心外だな、俺は女にうつつを抜かす阿呆ではない。それに、女遊びも嫌いだ。
――確かに俺は、根っからの商人じゃあない。けどな、俺の実力なのにそれをまるで不正をしたと言われるのは、納得いかねぇよ。いいからそんなこと言わずに、引っ込んでろ。
野次の数々に心の中で反論しつつ、霊斬は美しい顔を歪めた。
霊斬は取り調べを受けることになった。縄で両手を縛られ、上着を脱がされる。晒し木綿も外され、傷だらけの引き締まった上半身があらわに。
「利津家で三年前に、起こった刃傷沙汰。なにか知っていることはないか?」
「ない」
答えた瞬間、腹を殴られた。
「世を騒がせている〝因縁引受人〟という者。知っていることは?」
「……ない」
右頬を殴られた。
「この刀傷はどうした?」
「答えるつもりはない」
左頬を殴られた。
霊斬が閉じ込められてから二日がすぎた。その間寝ずの拷問が続いていた。
寝そうになれば水をかけられ、殴られる。その繰り返しだった。
同心が霊斬の身体を見て、不快そうに顔を歪める。
「この古傷……すべて刀傷だな。どうしてこんなに多いんだ?」
「だいぶ昔のことだ。思い出せん」
腹を殴られる。霊斬は痛みに顔をしかめた。
「思い出せ!」
霊斬は黙るしかない。
それから七日後、また定町廻り同心が顔を出した。
「言えば、楽になるぞ? 楽になりたいとは思わないのか?」
霊斬はその問いかけに、一切答えない。
「おぬしの部屋を調べた。隠し棚のようなものがあったが、開け方が分からぬ。あそこにはなにが入っている?」
その問いにも霊斬は答えない。
「やれ」
その声が響くと大男が入ってきて、何度も霊斬を殴る。
霊斬の呻き声と、殴る鈍い音だけが周囲に響く。
「言えば楽になると、何度言えば分かるのじゃ?」
定町廻り同心は霊斬の髪をつかみ上げた。
霊斬は無言を貫く。
「そうか。続けろ!」
やまない暴行が始まる合図だった。
霊斬は冷ややかな声で告げた。
「……そのとおりです。酒に酔った勢いで、少々やりすぎました」
言葉とは裏腹に、喧嘩をして叱られた子どものように、笑ってみせる。
去っていく武士を見送った後、霊斬は思う。
――実の兄を斬りかけたというのに、清々したというあの表情。人とはなんと恐ろしい。ほんの少し暗い顔をすれば、まだ人らしいと思える。しかしそれすらないと、人ではないのかと思えてしまう。
さらに時が経ったある日。霊斬は店を閉めたまま、ぼんやりと考え事をしていた。
すると、荒々しく戸を何度も叩く音が聞こえる。
「なにごとですか?」
霊斬が戸を開ける。
そこには定町廻り同心がいた。
「いったいなんの用でございますか?」
「〝因縁引受人〟という者を知っておるか?」
「いえ、存じ上げませんが……。その方がどうかなさったので?」
「少し前、お家が潰れるまで暴れまわったらしい。幸い死人が出なかっただけよいが」
「そうでございましたか」
霊斬はうなずく。
「彼の者の情報が、入ったらでいい。なんでもよいから自身番へ報告を」
「かしこまりました」
定町廻り同心が立ち去った。
「驚いた」
霊斬は店の中で呟く。
――あれだけ店で噂になっていれば。こうなるのも仕方ないのかもしれない。
それから数日後、戸を叩く音が聞こえる。
「開いておりますよ」
霊斬が顔を出すと、怖い顔をした岡っ引きと目が合う。
「これは、親分。いったいなんのご用で?」
霊斬は動じることなく尋ねる。
「今から一月前くらい武士が何度か、ここを出入りしてるって聞いてなぁ。たいてい夕方に。あんた、なにか隠していやしないかい?」
霊斬が愛想笑いで答える。
「それは刀の修理を、依頼なさった方々ですよ」
「そうか。宗崎家で怪しい者を見たんだが、心あたりないかい?」
「ありません」
即答である。
「怪我してるようだけど、なにか面倒事にでも巻き込まれたかい?」
「いえ、そういうわけではございません」
その問答に割って入る声があった。
「おい、五朗! いつまで話している! そなたが幻鷲か」
「す、すいやせん!」
「はい」
頭を下げる五朗と代わり、霊斬はうなずく。
「その怪我はなんだ?」
「なんでもございません」
「自身番へ連れていけ!」
「旦那! いったいどういうことで? こいつを疑ってんですかい?」
「武家で有名な鍛冶屋だぞ。そんな奴が怪我をしているなど、怪しいに決まっておろう!」
霊斬は抵抗せず縛につき、自身番に連れていかれた。
店から自身番までは歩くとなると、かなり遠い。
この日は霧雨が降っていたので、いきかう人々は傘をさしたり、編み笠で凌いでいる人もいた。
霊斬は目を細め、まっすぐ前を向いて歩いていく。
法に触れたのかという侮蔑と、哀れに思う人などもいたが、野次が飛んでくる。
「あんたの店のものは全部偽物だったのか?」
「武士に頭を下げ続けて、商人としての矜持はねぇのか!」
「その美貌を使って、女達を骨抜きにするだけじゃ飽き足らず、手をつけたって言うのかい!」
「あんた、根っからの商人じゃねぇだろ! 今の地位になるまでどれだけ手を汚したんだ?」
その言葉を聞きながら、霊斬は思う。
――店のものが偽物? 馬鹿言ってんじゃねぇよ。じゃあ、その目で品を見たことあるのかよ? ないくせに難癖つけてくるな。失せろ。
――商人としての矜持? 意地でも見せろってか? たかが町人にそんなこと言われてもな。俺は武士が大嫌いだよ。
――おいおい。俺は女癖が悪いと噂にでもなってんのか? 心外だな、俺は女にうつつを抜かす阿呆ではない。それに、女遊びも嫌いだ。
――確かに俺は、根っからの商人じゃあない。けどな、俺の実力なのにそれをまるで不正をしたと言われるのは、納得いかねぇよ。いいからそんなこと言わずに、引っ込んでろ。
野次の数々に心の中で反論しつつ、霊斬は美しい顔を歪めた。
霊斬は取り調べを受けることになった。縄で両手を縛られ、上着を脱がされる。晒し木綿も外され、傷だらけの引き締まった上半身があらわに。
「利津家で三年前に、起こった刃傷沙汰。なにか知っていることはないか?」
「ない」
答えた瞬間、腹を殴られた。
「世を騒がせている〝因縁引受人〟という者。知っていることは?」
「……ない」
右頬を殴られた。
「この刀傷はどうした?」
「答えるつもりはない」
左頬を殴られた。
霊斬が閉じ込められてから二日がすぎた。その間寝ずの拷問が続いていた。
寝そうになれば水をかけられ、殴られる。その繰り返しだった。
同心が霊斬の身体を見て、不快そうに顔を歪める。
「この古傷……すべて刀傷だな。どうしてこんなに多いんだ?」
「だいぶ昔のことだ。思い出せん」
腹を殴られる。霊斬は痛みに顔をしかめた。
「思い出せ!」
霊斬は黙るしかない。
それから七日後、また定町廻り同心が顔を出した。
「言えば、楽になるぞ? 楽になりたいとは思わないのか?」
霊斬はその問いかけに、一切答えない。
「おぬしの部屋を調べた。隠し棚のようなものがあったが、開け方が分からぬ。あそこにはなにが入っている?」
その問いにも霊斬は答えない。
「やれ」
その声が響くと大男が入ってきて、何度も霊斬を殴る。
霊斬の呻き声と、殴る鈍い音だけが周囲に響く。
「言えば楽になると、何度言えば分かるのじゃ?」
定町廻り同心は霊斬の髪をつかみ上げた。
霊斬は無言を貫く。
「そうか。続けろ!」
やまない暴行が始まる合図だった。