平穏に隠された負の感情
明かされる過去《二》
「これはおれが預かる」
飛虎は苦無を懐に仕舞った。
「差は分かっただろ。とっとと帰んな。それと、二度とこの子に手を出すな。お前ら、寄って集ってこの子を殴ってさ。自分のことしか頭にないようだから、言ってやる。この子は、お前らなんぞが、鬱憤をぶつけていい相手じゃない。そんなもの他人にぶつけず、自分でなんとかできもしない奴が、偉ぶるな。長に事実を話す。どのような沙汰が下るか、家で待ってろ」
飛虎は男達に向かって、冷ややかに言い放つ。
男達は悔しそうな顔をして、その場を後にした。
「いつから……見ていたんですか?」
「最初から。前みたいにぼこぼこにされるなら、助けに入ろうと思っていた」
そんな必要なかったかもしれないが、と呟く飛虎は苦笑する。
「修行、辛くないか」
「……今は、楽しいです」
千砂は初めて笑顔を見せた。自分にできることが少しずつ増えていく。それが嬉しかった。
飛虎は千砂の頭に手をやると、よしよしといった具合に撫でる。
突然のことにぽかんとする千砂だった。
それからというもの、千砂が家の裏の庭で殴られることはぱったりとやんだ。
噂で聞いたのだが、殴っていた連中は、里を出ていくことになったらしい。罰としては相応しいかもしれないが、千砂にとっては命を取ってもよかったのではないか、なんて物騒なことを思った。
千砂は修行に集中し、知識と腕を磨き続けた。なにが起こっても一人で対処できるよう、自分の身を守れるのは自分だけと、強く意識して。
それから五年後、一人前になった千砂は里から出て、江戸に向かった。
「それからずっと、情報を売り捌いているのさ」
千砂は苦笑する。
「……そうか」
霊斬は低い声で呟く。
「話は終わり。もう眠ったほうがいいよ」
「気遣い感謝する」
霊斬はそう言って、目を閉じる。
千砂は霊斬をちらりと見てから、診療所を去った。
霊斬は千砂の昔話を思い出す。
女だからと舐められ続けた日々は、彼女にとっては苦痛以外の何物でもない。
――辛かっただろうな。苦しかったはずだ。
よく、一人きりで耐えたものだと霊斬は思う。
千砂は普通の人間なのだ。俺とは違う。
それを話してくれた礼も含め、俺のことを話さなければ。
霊斬はそう思いながら、目を閉じた。
それから一月後のある日。
夕方、旅の者が店を訪れる。
「……貴州さん」
「久し振りだな」
「はい。どうぞ」
霊斬はその男――貴州を招き入れ、商い中の看板をひっくり返す。
「お前と会うのは十数年ぶりだな」
「はい」
「店は繁盛しているか?」
「はい。貴州さんのおかげで」
「お前に素質があっただけだ」
貴州は十数年前、霊斬が家を出て旅をしているときに会った鍛冶職人。見た目は四十歳くらいの大男だ。
「用はいったい?」
「お前、後ろ暗いことをしているだろう?」
「後ろ暗いこと?」
霊斬が惚ける。
「かつて裏の世にいた人だ。お前の噂を聞かなかった日はない。裏稼業から足を洗え」
「何故そのことを?」
「話題なんだよ。武士に媚びを売っている奴がいる、ってな」
霊斬は忌々しげに、舌打ちをする。
――武士に媚びを、売った憶えはない。自分にできることを淡々とやっているだけだ。
「貴州さん。俺は人斬りをしていたころから、自分の命だけは軽んじて考えてきた。そうしていないと、俺は生きているという実感ができない。
俺は恨みを晴らしながら、顔も知らぬ誰かの恨みを買っている。それを分かった上でこの稼業を、〝因縁引受人〟を、続けている。……平穏だけで、この世は回っていない」
それでも貴州は食い下がる。
「だがな……」
「貴州さんの忠告はとてもありがたい。だが、もう引き返せないところまできている。かつて、多くの命を奪った。
こんなことで罪が、消えるわけじゃあない。俺が生きている間ずっと抱えていかなければならない、業火だ。せめて、贖いだけでも……しなければならない」
霊斬は頭を下げる。
「……その証拠に、上着を脱げ」
「分かった」
霊斬は上着を脱ぐ。
「……っ!」
貴州は息を呑んだ。
霊斬の引き締まった身体には、真新しいものから古傷まで、全身に刀傷が刻まれていた。
背中も見ると、大きな火傷が目を惹いた。
「もういいぞ」
霊斬は無言のまま、上着を着る。
――生半可な覚悟ではない。そうでなければ、あんなふうはならない。
貴州は思わずには、いられなかった。
誰よりも多くの血を流し、痛みに耐え続けた身体だった。それもたった独りで。
貴州が願ったとおりの人に、霊斬はなったのだ。
こんな哀しい気持ちになるくらいなら、願わなければよかった。それさえなければ霊斬はこんなにも、哀しい人にはならなかっただろう。
貴州は内心で悔やむ。
「背中の火傷はどうした?」
暗い表情をして問うと、霊斬は苦笑する。
「先日、あらぬ疑いをかけられ、自身番に連行された。十四日で出てこられた」
「そうか。……霊斬」
よほど痛く辛かったろうに、霊斬が笑ってみせた。霊斬は〝痛み〟に、慣れてしまったのかもしれない。
「はい」
「……生きろ」
霊斬は頭を下げる。
飛虎は苦無を懐に仕舞った。
「差は分かっただろ。とっとと帰んな。それと、二度とこの子に手を出すな。お前ら、寄って集ってこの子を殴ってさ。自分のことしか頭にないようだから、言ってやる。この子は、お前らなんぞが、鬱憤をぶつけていい相手じゃない。そんなもの他人にぶつけず、自分でなんとかできもしない奴が、偉ぶるな。長に事実を話す。どのような沙汰が下るか、家で待ってろ」
飛虎は男達に向かって、冷ややかに言い放つ。
男達は悔しそうな顔をして、その場を後にした。
「いつから……見ていたんですか?」
「最初から。前みたいにぼこぼこにされるなら、助けに入ろうと思っていた」
そんな必要なかったかもしれないが、と呟く飛虎は苦笑する。
「修行、辛くないか」
「……今は、楽しいです」
千砂は初めて笑顔を見せた。自分にできることが少しずつ増えていく。それが嬉しかった。
飛虎は千砂の頭に手をやると、よしよしといった具合に撫でる。
突然のことにぽかんとする千砂だった。
それからというもの、千砂が家の裏の庭で殴られることはぱったりとやんだ。
噂で聞いたのだが、殴っていた連中は、里を出ていくことになったらしい。罰としては相応しいかもしれないが、千砂にとっては命を取ってもよかったのではないか、なんて物騒なことを思った。
千砂は修行に集中し、知識と腕を磨き続けた。なにが起こっても一人で対処できるよう、自分の身を守れるのは自分だけと、強く意識して。
それから五年後、一人前になった千砂は里から出て、江戸に向かった。
「それからずっと、情報を売り捌いているのさ」
千砂は苦笑する。
「……そうか」
霊斬は低い声で呟く。
「話は終わり。もう眠ったほうがいいよ」
「気遣い感謝する」
霊斬はそう言って、目を閉じる。
千砂は霊斬をちらりと見てから、診療所を去った。
霊斬は千砂の昔話を思い出す。
女だからと舐められ続けた日々は、彼女にとっては苦痛以外の何物でもない。
――辛かっただろうな。苦しかったはずだ。
よく、一人きりで耐えたものだと霊斬は思う。
千砂は普通の人間なのだ。俺とは違う。
それを話してくれた礼も含め、俺のことを話さなければ。
霊斬はそう思いながら、目を閉じた。
それから一月後のある日。
夕方、旅の者が店を訪れる。
「……貴州さん」
「久し振りだな」
「はい。どうぞ」
霊斬はその男――貴州を招き入れ、商い中の看板をひっくり返す。
「お前と会うのは十数年ぶりだな」
「はい」
「店は繁盛しているか?」
「はい。貴州さんのおかげで」
「お前に素質があっただけだ」
貴州は十数年前、霊斬が家を出て旅をしているときに会った鍛冶職人。見た目は四十歳くらいの大男だ。
「用はいったい?」
「お前、後ろ暗いことをしているだろう?」
「後ろ暗いこと?」
霊斬が惚ける。
「かつて裏の世にいた人だ。お前の噂を聞かなかった日はない。裏稼業から足を洗え」
「何故そのことを?」
「話題なんだよ。武士に媚びを売っている奴がいる、ってな」
霊斬は忌々しげに、舌打ちをする。
――武士に媚びを、売った憶えはない。自分にできることを淡々とやっているだけだ。
「貴州さん。俺は人斬りをしていたころから、自分の命だけは軽んじて考えてきた。そうしていないと、俺は生きているという実感ができない。
俺は恨みを晴らしながら、顔も知らぬ誰かの恨みを買っている。それを分かった上でこの稼業を、〝因縁引受人〟を、続けている。……平穏だけで、この世は回っていない」
それでも貴州は食い下がる。
「だがな……」
「貴州さんの忠告はとてもありがたい。だが、もう引き返せないところまできている。かつて、多くの命を奪った。
こんなことで罪が、消えるわけじゃあない。俺が生きている間ずっと抱えていかなければならない、業火だ。せめて、贖いだけでも……しなければならない」
霊斬は頭を下げる。
「……その証拠に、上着を脱げ」
「分かった」
霊斬は上着を脱ぐ。
「……っ!」
貴州は息を呑んだ。
霊斬の引き締まった身体には、真新しいものから古傷まで、全身に刀傷が刻まれていた。
背中も見ると、大きな火傷が目を惹いた。
「もういいぞ」
霊斬は無言のまま、上着を着る。
――生半可な覚悟ではない。そうでなければ、あんなふうはならない。
貴州は思わずには、いられなかった。
誰よりも多くの血を流し、痛みに耐え続けた身体だった。それもたった独りで。
貴州が願ったとおりの人に、霊斬はなったのだ。
こんな哀しい気持ちになるくらいなら、願わなければよかった。それさえなければ霊斬はこんなにも、哀しい人にはならなかっただろう。
貴州は内心で悔やむ。
「背中の火傷はどうした?」
暗い表情をして問うと、霊斬は苦笑する。
「先日、あらぬ疑いをかけられ、自身番に連行された。十四日で出てこられた」
「そうか。……霊斬」
よほど痛く辛かったろうに、霊斬が笑ってみせた。霊斬は〝痛み〟に、慣れてしまったのかもしれない。
「はい」
「……生きろ」
霊斬は頭を下げる。