平穏に隠された負の感情
第二章

何者?《一》

 長屋の細い道を静かに歩いていく。周りは恐ろしいほど静まっている。
 霊斬は忍びを見遣る。
 細い身体つきをしているが、忍び装束を着ていると、男か女か区別がつかない。
「つかぬことを聞くけれど、誰かから情報が入らなかったかい? 相手方の」
 頭巾を被ったまま、忍びが尋ねる。
「どうして俺しか知らんことを、お前が知っている?」
 訝しげな顔をして霊斬は、忍びを見つめる。
「あたしが情報を手に入れたから、ちょいとお裾分けってところかね」
 目が細められるので分かった。笑っているのだと。
「お裾分けってな。情報をそんな気軽に、渡していいものではなかろう? 誰かの指示か?」
 霊斬は溜息を吐いて額に手を当てる。
「まあ、それはそうなんだけど。あたしは雇われていないよ? きちっと調べた上で、情報を渡す相手は選んでるつもりだよ」
 忍びは心外なというように、不機嫌そうに顔を歪めた。
「そうか。ひとつ言い忘れていた。俺なんぞに関わるな。お前も地獄に引き摺り込んでしまいそうだからな」
 霊斬はそこまで言って片手を上げると、忍びから離れた。

 忍びは立ち去る霊斬を見ながら、言葉を反芻する。
「俺なんぞに関わるな。地獄に引き摺り込んでしまいそう、ねぇ?」
 ――あたしもさんざん、人の闇を目にしてはいるけれど。手を穢したことはないねぇ。
 忍びは頭巾の下で苦笑を浮かべる。
「〝因縁引受人〟霊斬、か。あんたはなにを見て、どうしてそこまで、闇に染まってしまったんだい? あたしもあんたも咎人に変わりなし。なんで、あたしを案じるんだい? あんたの歩いてきた道は、それほどまでに闇に染まっていたのかい?」
 その問いに答えるように、風がびゅうっと吹く。
「人の縁を断ち切る者。どんな人生を歩めば、そんなにも辛い道を歩けるんだい? 何故、そんなにも哀しそうな、寂しそうな、背中をしてるんだい? あんたそのものが、負の連鎖に取り込まれていることに、気づいているとしたら。どうして、それから逃れようと思わないのさ?」
 忍びの声に答える声はない。
「分からないことが怖い。どうしてそこまで、他人事でいられるの……?」
 忍びは困ったように言い、曇った空を見上げた。
 
 富川家を潰してから、動きがあった。
 義徳に加えて富川家の現当主が自身番に捕まった。
 空席となった当主の座を、衝突していた母親の息子が継いだ。
 そんな知らせが、霊斬の耳に入った。

 数日後の朝、霊斬は布団の中で目を開け、寝返りを打つ。
 依頼人の憎しみや怒りや悲しみを、幾度となく見てきた霊斬。生きることは惨く、絶望しかないと思っている。
 幾度となく訪れる依頼人達は、(わら)にも(すが)る想いで頼ってくる。その姿だけでも、哀れでならない。彼らの心は救われても、俺は決して救われない。
 そう思うようになってようやく、この仕事が楽にこなせるようになってきた。
 未だに過去のことは(くすぶ)っている。それを気にしていられないほどの、依頼人達の闇を見せつけられ。俺のことはどうでもよくなってしまう。
 この仕事をしてから、何度絶望したか分からない。
 それほどまでに闇が深い仕事なのだ。俺が始めた手前、最後までやり抜くしかない。
 霊斬は諦めと絶望が、ない交ぜになった表情を浮かべた。

 霊斬は重い身体を強引に動かして、一階へと降りる。板の間に胡座をかいて、ぼんやりと天井を見上げた。
 戸を叩く音で視線を表に向けつつ、立ち上がって引き戸を開けにいく。
 一振りの刀を持った男が、不安そうに立っている。
「どうなさいました?」
「鍛冶屋の次郎ってもんですが、この刀、見てもらえませんか?」
「こちらに」
 霊斬は支度中の看板をそのままに、次郎を招き入れる。
 お互い正座で座ると、霊斬が切り出した。
「見てみますね」
 問題の刀を受け取る。
 鞘を外そうと静かに動かした瞬間、刀身と鞘の間から液体が(したた)り落ちる。
 次郎がぎょっとしたが、霊斬は動じずその液体に指先で触れる。
「この刀はいつ、あなたの許へ、持ち込まれたのですか?」
「今朝です」
「これは血と雨が混じったものです」
 指で触れた少しぬるぬるした感触と、今朝の雨から推測した。
「血ですって!?」
「持ち主が雨の中誰かを斬り、血や雨を拭わないまま鞘に収めた。といったところでしょうね」
 その証拠に霊斬が鞘を抜くと、刃に血糊がついていた。
「雨が降っていたのに、どうして血が……?」
「小雨だったからでしょう。この刀を持ち込んだ方の特徴は?」
「笠を(かぶ)っていたので、顔までは分かりません。ただ、紋があったような……」
「どのようなものでしたか?」
 霊斬は次郎が思い出している間に、筆と和紙、(すずり)の用意をした。
 次郎はしきりに首をかしげながら、紋を描いた。
「ありがとうございます」
「あ、あの!」
 次郎が慌てて声を出した。
「なんでしょう?」
「その人が言っていたんです。〝その刀を幻鷲のところへ持っていってほしい〟と。お代も預かっています」
 次郎が懐から小判一両を取り出し、手渡してきた。
「そうですか。ありがとうございます。この(くだり)については他言無用で」
「は、はい! では、失礼します」
 刀を霊斬に預けると、次郎は店を後にした。
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