思い出巡り
「七海ちゃん、そんなに持って大丈夫?」
心配そうにお兄さんは私を見下ろしていた。
この人、まだ私を子供だと思ってる。
「大丈夫大丈夫、他の女子と比べて力はあるから、ね」
もう私も高校生だ。おこちゃまだとか思われちゃあ困る。
材料がたくさん入った袋を高く掲げて、お兄さんに向けて笑いかけた。
お兄さんは苦笑いした。
◇◆◇
私が初めてお兄さんに会ったのは、三歳の誕生日だった。
鮮明に記憶が残っているわけではないが、お母さんやお兄さんに聞く『思い出話』と自分の『記憶』をつなぎ合わせて、きっとこんな感じの出会いをしたと考えている。
お母さんが誕生日ケーキ作ってた時に、ちょうど引越しの挨拶にきたお隣さん……というか、お兄さんとお兄さんのお母さんが、挨拶に来たらしい。
最初は普通に会話していたんだけど、お兄さんのお母さんが、私のお母さんのほっぺについてる生クリームを指摘したことから、今日が私の誕生日だとお兄さん達に知れ渡ったらしい。
するとお兄さんがいきなり私に近づいて、なんかこう、頭をぽんぽんと撫でながら、私に目線を合わせて、「誕生日おめでとう」って笑顔で言ってくれたらしい。
確かに、お兄さんが私と目線を合わせて、こう、近くでこう、うーん、なんて言おうか……今されたら心臓バクバクのどこ見ればいいの状態で目がキョロキョロ動いて完全に怪しい人になれる程度に、お兄さんはかっこよかった。そんな記憶はある。
ちなみに「お誕生日おめでとう」に私は笑って「おにいちゃんありがとう」とすごい嬉しそうに言ったんだそうだ。
まあ、出会い方なんて正直どうでもいいんだけど。
それからお兄さんはときどき学校の宿題をほっぽって、私の相手をしてくれるようになった。
お兄さんと私は六歳差で、お兄さんは成績優秀で、小さくて馬鹿でわがままな私のいうことをたくさん聞いてくれた、すごく優しい人間。
そう、すごくすごく、優しい人間。
◇◆◇
「にしても七海ちゃんありがとね、彼女の誕生日ケーキ作るの手伝ってもらって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私も暇だったし」
昔は私にだけ向けられていたって思ってた優しさは、いつの間にか違う人に向けられていた。
いや、ちょっと語弊がある。今も確かにお兄さんは優しい。優しいけど、昔みたいにすっごく優しいわけではない。違う、なんか違う。なんか違うけど説明できない。
「彼女さん、チョコレート好きなんですか?」
「そう、大好きなんだよあの子。すごい甘党でさ、会うたびいっつも甘いお菓子ねだってくるんだ」
……ああ、太ればいいのに。
でも、お兄さんは彼女について聞かれたのがよっぽど嬉しかったのか、笑顔で語り始めた。
「彼女ね、あ、夏織っていうんだけど、夏織、全体的に痩せてて、俺と身長十五センチくらいの差があるの。可愛くない? それでね、ツインテールがよく似合うの、怒ると頬膨らませたりね、本当に、本当に可愛い女の子なんだ。俺あの子と付き合って正解だなぁっていっつも思うんだ」
そうやって顔を緩ませるお兄さんに少し腹がたつ。
なにそれ。その夏織って、ただのぶりっ子じゃないの? てかお兄さん確か「今の彼女は同級生なんだ」って前に言ってたよね、つまり今夏織もお兄さんと同じ二十一歳……ハタチ超えてるじゃん、どう考えても気持ち悪い大人だよ、なんでそんな人をお兄さんは「可愛い」って思えるの?
……と、心の奥の方で一人で愚痴って、表面上では「お兄さんよかったね」と笑顔でいる。お兄さんも同じようにニコニコと笑顔でいるから、まあいいかな、とか思う。
「そういえば、勉強のほうはどうなの? この間期末テストあったんでしょ?」
「あー、まあそこそこだったよ、お兄さんには負けちゃうけど」
そっかそっか、と頷いてくれる。
「あれだよね、七海ちゃんって俺の行ってた高校に入学したんだよね」
「はい、そうですよ」
「三学期制って辛くない? テスト多いからさ〜」
「そこまで辛くないですよ」
七海ちゃんはすごいねえ、とまた微笑まれる。
……でも、お兄さんの褒め言葉を素直に受け取れなかった。
どうせそうやって誰でも彼でも褒めるんでしょう、そうやって褒めて、返ってくる言葉が「でもお兄さんの方がすごいよね」って言われるのが一番嬉しいんでしょう。ほら、だって今さっき「お兄さんには負けちゃう」って言ったとき、口元が緩んでまんざらでもない顔してたの知ってるよ、お兄さんのこといつも見てるからね……って私は変態か。
でもね、お兄さん、私昔お兄さんに褒められるのがなによりも嬉しかったのに、今はあんまり嬉しくないよ。これってお兄さんが変わっちゃったの? それとも私が変わっちゃったの?
……と、また愚痴を心の奥で呟いて、それでも顔だけは笑顔でいるようにした。
◇◆◇
重いレジ袋を提げて、夏空の下を二人のんびり歩いていると、見覚えのある曲がり角が視界に入ってきた。
その曲がり角の先には、何もないただの空き地がある。
「……あ」
つい声が漏れる。お兄さんは覚えてるだろうか、いや、ちょっと頬を緩めてどこか遠くを見ているから、もしかするとお兄さんも私と同じように、その時のことを思い出してるのかもしれない。
『ねぇおにいちゃん、ゆきがふったよぉ、ゆきだよ、ゆーき!』
『ほんとだね七海ちゃん、雪が降ったね』
あれは、私が五歳くらいのときの話。
「……あれ、今も残ってるのかな」
「きっと残ってますよ。見に行きませんか?」
お兄さんは少し渋っていたようだけど、私が手を引っ張って角を曲がろうとすると、諦めがついたのか、一緒についてきてくれた。
もちろん、家に帰る道はこっちじゃない。まっすぐ行けば家……というかマンションに帰れるけど。
どうせお兄さんの彼女のために、お菓子を作るんだから、ちょっとくらい褒美があってもいいでしょう?
曲がって数十歩で、すぐ空き地にたどり着いた。
そこに入ってすぐの角っこに、なにか棒が立っている。
……やった。まだ残ってた。
『ねぇねぇおにいちゃん、ゆきだるまつくろ! ゆきだるま! あとねあとね、かまくらもつくりたい!』
『わかったわかった、じゃあ七海ちゃん、おうちからスコップ持ってきてね』
『わかった! ななみ、スコップもってきます!』
「懐かしいね、雪だるまさんのお墓」
「……まだ残ってましたね」
「ほんとうだね、俺も驚きだよ」
自分が持っていたレジ袋をその辺の木陰に置き、雪だるまさんのお墓を観察する。
……お墓って言っても、色褪せたテープに巻かれた割り箸が、ただ地面に刺さっているだけのものだ。
昔これに『ゆきだるまさんのおはか』とマジックペンで書いたような気がするが、まあ消えてるよね、当然。
お兄さんも木陰にレジ袋を置いて、お墓の前でしゃがんだ。
「昔は何回もこうやってお参りに来たよね」
「……懐かしいですね」
目を閉じて、久しぶりに手を合わせる。吹いてくる風が、ほのかに涼しい。
『お〜! おにいちゃんのスコップおっきいね〜!』
『七海ちゃんのスコップ小さくて可愛いね』
『えへへ〜ありがとぉ』
目を閉じると、あのときの光景が浮かんでくる。
『うんしょ、うんしょ……っと、おにいちゃん、これでい〜い?』
『うん、上手上手、さすがだね七海ちゃん』
『えへへ〜』
雪は止んだけどまだ雲が空を覆ってて、積もった雪は溶けたくても溶けれなかった。
そう、すごく寒くて、でもお兄さんのほっぺたはあったかくて、ちょっと赤くなってて、なんだか可愛かった。照れてたのかな、なんて。
『よぉし、ゆきだるまさんのあたまかんせい!』
『僕は体作っといたから、頭のせようか』
『おにいちゃんのせるの? いやだいやだ、ななみがのせるの〜!』
そうやって駄々こねて、お兄さんは困った顔で笑いながら、「じゃあ一緒に持とうか」と提案する。私はそれを受け入れて、せーので一緒に頭を持ち上げて体と合体させた。
『雪だるまの仕上げは、七海ちゃんにお願いしていい?』
『うん! いいよ〜、とびきりかわいくしておくね!』
その辺で拾った石ころや木の枝を使って、雪だるまの顔や腕を作っていく。
その間お兄さんは、ただひたすらに雪を一箇所に集めては固め、集めては固めを繰り返していた。
『おにいちゃん、ゆきだるまさんできたよ〜!』
『お〜、七海ちゃん雪だるまのセンスあるね〜』
『えへへ〜それほどでも〜』
ぽんぽん、と手袋をつけた手で撫でられる。ある程度撫でたらお兄さんはまた大きなスコップを持って、さっきの作業を繰り返し始めた。
『おにいちゃん、なんかやることある?』
『ん〜、じゃあ……そのスコップで雪集めてきて、ここにポイッてしてくれる?』
『りょーかいでありますっ!』
私は空き地の角っこの雪をのせれるだけスコップにのせて、お兄さんのところへ戻り、ポイッと雪を投げ捨てる。
『そうそう、上手上手』
『えへへ〜ななみがんばる! おにいちゃんのためにがんばるよ〜!』
『うんうん、頑張れ頑張れ〜』
……いやいや、待って、かまくらを作りたいのは貴方でしょう七海。
記憶にケチつけても仕方ないけど。
『お〜おにいちゃん、おっきなやまだね〜』
その山はそこまで大きくはなかった。およそ五十センチ? そこらへんだろう。
『そうだね、でもここからだよ』
『わかりました〜! つぎはなにしましょう!』
『七海ちゃん、スコップ貸してくれる?』
お兄さんが手袋をした手を出す。確か、黒。
自分の右手に持っていた小さなスコップをお兄さんに渡す。お兄さんの手の中だと、スコップはもっと小さなものに見えた。
『こうやって……こう、穴を掘るんだ』
『お〜! ちっちゃなかまくらだ〜!』
どんどん穴を掘っていく。時々崩れそうになったり、お兄さんが雪冷たいからって理由で顔を出したり、何かと色々あった。
それで、日が暮れてちょっと経ってから、お兄さんは再び顔を出した。表情はなんだか嬉しそうだった。
『ほら、七海ちゃん、できたよ、かまくら』
『お〜! おにいちゃんおつかれさま!』
入ってみる? と誘われる。笑顔で穴に入っていく私。
中は白い雪、時々土でできていた。ちっちゃな私一人が、すっぽり入れるくらいの大きさの穴。
……これ作るの大変だったろうなぁ。
その日は、ある程度かまくらを満喫してから、一緒にマンションに帰った。手を繋いで。
目を開ける。日差しが眩しい。そして痛い。
隣を見ると、まだ手を合わせて目を閉じているお兄さんがいた。
しばらく見つめるも、目を開ける気配がしないので、もう少し過去回想に浸る。
『おにいちゃん、ゆきだるまさんいなくなっちゃったぁ!』
『外があったかくなってきたから溶けちゃったんだね』
『とけてないとけてない、いなくなったんだよ!』
そう、数日後にもう一度空き地を見に行ったら雪だるまは溶けて無くなっていた。
確か幼稚園の帰りに寄ったら、いなくなってて、慌ててお兄さんを呼びに行ったんだっけ。
お兄さんは『溶けた』って何度も言っていたけど、私が強引に引っ張ってったような。
約十年前だから細かくは覚えてない。
『ほら、いないでしょ!』
『……そうだね、いなくなっちゃったね』
お兄さんはひとつため息をついて、なんか難しい顔で悩んでいた。気がする。
一分くらい待ってたら、お兄さんは解決方法を思いついたらしい。
『いなくなっちゃったなら、お墓を作ろうか』
『おはか?』
この頃の私は馬鹿すぎる。お墓がなんだかわかってないのかこいつ。
『死んじゃっていなくなっても、いなくなった人のことをみんなが覚えておくためのものだよ』
……いや、きっとそうではない。そういう意味もあるだろうけど、それが全部じゃない。
でもお兄さん一筋の七海ちゃんは、お兄さんの言うことが全部正しいと思ってたからか、それを聞いただけで「おはかつくる!」と元気だった。何も理解してないから、そんだけ元気になれるんだね。
……で、そこで作ったお墓がまだ残っていると。すごいねぇ。
再び目を開けると、お兄さんはもう手を合わせていなかった。
「……七海ちゃんは、お墓を作らなかったら、雪だるまさんのこと覚えてた?」
「……いや、覚えてなかったかもですね」
「お墓作って正解だったね」
そうですね、とお兄さんの方を向くと、ちょうど目が合った。
さっとそらす。自制心は大事。この人は既に恋人がいるんだから。
今、本格的に恋に落ちちゃったら大変なことになる。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「はい」
……墓参りは、きっとこれが最後かな。
◇◆◇
マンションの自動ドアをくぐって、ちょっと歩くとそこそこ段差の高い階段がある。
そこでまた私はふと思い出す。思い出して、エレベーターの方へ行こうとするお兄さんの袖を掴む。
「今度はどうしたの七海ちゃん」
「ねえお兄さん、グリコやりません?」
すごくくだらないけど、お兄さんが関わった思い出がまだあった。
最後にお兄さんとグリコやったのいつだっけ、お兄さんが中二のときだっけ。覚えてないや。
「……いいけど、七海ちゃん泣かない?」
「泣きませんよ、もう高校生です」
お兄さん、ほんとにそこのところ忘れてるでしょ……私十五歳だよ、女子高校生だよ、なんでお兄さんには年下萌えがないのかなぁ、同級生とか先輩の良さってなに? なんで年下は選ばないのかな、なんで私のこと選んでくれ……ないのかな。
なんていう愚痴も願いも心の中に収めとく。言ったらおしまいだ。多分。
「何年ぶりにやるかなぁグリコ。あれだよね、グーを出したら三段『グリコ』って階段を上がれて、チョキを出したら『チョコレート』で六段上がれて、パーを出したら『パイナップル』で六段上がれるやつだよね」
「そうですよお兄さん。さあやりましょう」
早速始める。
最初はお兄さんがチョキで勝った。
「ち、よ、こ、れ、い、と……っと」
今日はチョコに恵まれてるのかな? と六段上でお兄さんが笑う。
次勝たれると姿が見えなくなる。なんとかして勝たねば。
「グーリーコ」
今度は私がグーで勝った。三段上がる。
その次はパーでお兄さんが勝った。六段上がる。差は九段。
それからまたグーで私が勝つ。そうするとお兄さんが今度はグーで勝つ。それからお兄さんがチョキで勝つ。すると私がパーで勝つ。でもお兄さんがまたチョキで勝つ。
そうやって私がお兄さんを抜かせないまま、私たちの住んでいる四階までたどり着いた。
「お兄さんはやっぱり強いですね」
そう、昔はお兄さんにグリコで勝てなくてよく泣いていた。そんな姿を見て呆れちゃってたかな、みたいな。
どうしても開いた差がなぜか狭まらなくて、お兄ちゃんの意地悪って、泣き叫んだことがあった。泣くならやるなよグリコ。
「……なんかね、七海ちゃんにだけは勝てるんだよね」
……だけ、か。
少しだけ頰を緩ませてしまう私を頭の中で叱る。
お兄さんはもう彼女がいるから、その夏織って子がいるから。奪えないから。奪うなんてできないから。一緒に居れてるだけましなんだから。だめですだめです、だめなんですよ七海。あなたはお馬鹿さんですか、恋しちゃだめです。
……みたいな。永遠と叱り飛ばしていればいつかいい人が現れるでしょう。年下でも年上でも同級生でも、お兄さんの代わりになれる人がきっとみつかるはずだから。
「お兄さん」
「ん? どうしたの?」
レジ袋を提げて先を歩いていたお兄さんを声で引き止める。振り返ったその顔は、不思議そうだった。
目が合う。さっきよりも長い時間。
……ちゃんと、見てくれてる。
「え、っと、七海ちゃん?」
「……なんでもないです」
さあ、ケーキ早く作りましょう、とお兄さんを動くように催促する。けどお兄さんはその場から動かない。そればかりか、私のことをじっと見つめ続けているような。
お兄さんを抜かしても変わらなかったので、もう一回声をかけてみた。
「……お兄さん、彼女のために作るんじゃないんですか?」
「……あ、うん、そうだったね」
それでもお兄さんは動かない。
……あれ?
もしかして案外、勝算あったり?
お兄さんの背中側に回り、とんと背中を押してあげると、ようやく動き出した。
ああ、お兄さんって確かに、押しに弱いもんね。
心配そうにお兄さんは私を見下ろしていた。
この人、まだ私を子供だと思ってる。
「大丈夫大丈夫、他の女子と比べて力はあるから、ね」
もう私も高校生だ。おこちゃまだとか思われちゃあ困る。
材料がたくさん入った袋を高く掲げて、お兄さんに向けて笑いかけた。
お兄さんは苦笑いした。
◇◆◇
私が初めてお兄さんに会ったのは、三歳の誕生日だった。
鮮明に記憶が残っているわけではないが、お母さんやお兄さんに聞く『思い出話』と自分の『記憶』をつなぎ合わせて、きっとこんな感じの出会いをしたと考えている。
お母さんが誕生日ケーキ作ってた時に、ちょうど引越しの挨拶にきたお隣さん……というか、お兄さんとお兄さんのお母さんが、挨拶に来たらしい。
最初は普通に会話していたんだけど、お兄さんのお母さんが、私のお母さんのほっぺについてる生クリームを指摘したことから、今日が私の誕生日だとお兄さん達に知れ渡ったらしい。
するとお兄さんがいきなり私に近づいて、なんかこう、頭をぽんぽんと撫でながら、私に目線を合わせて、「誕生日おめでとう」って笑顔で言ってくれたらしい。
確かに、お兄さんが私と目線を合わせて、こう、近くでこう、うーん、なんて言おうか……今されたら心臓バクバクのどこ見ればいいの状態で目がキョロキョロ動いて完全に怪しい人になれる程度に、お兄さんはかっこよかった。そんな記憶はある。
ちなみに「お誕生日おめでとう」に私は笑って「おにいちゃんありがとう」とすごい嬉しそうに言ったんだそうだ。
まあ、出会い方なんて正直どうでもいいんだけど。
それからお兄さんはときどき学校の宿題をほっぽって、私の相手をしてくれるようになった。
お兄さんと私は六歳差で、お兄さんは成績優秀で、小さくて馬鹿でわがままな私のいうことをたくさん聞いてくれた、すごく優しい人間。
そう、すごくすごく、優しい人間。
◇◆◇
「にしても七海ちゃんありがとね、彼女の誕生日ケーキ作るの手伝ってもらって」
「いえいえ、大丈夫ですよ。私も暇だったし」
昔は私にだけ向けられていたって思ってた優しさは、いつの間にか違う人に向けられていた。
いや、ちょっと語弊がある。今も確かにお兄さんは優しい。優しいけど、昔みたいにすっごく優しいわけではない。違う、なんか違う。なんか違うけど説明できない。
「彼女さん、チョコレート好きなんですか?」
「そう、大好きなんだよあの子。すごい甘党でさ、会うたびいっつも甘いお菓子ねだってくるんだ」
……ああ、太ればいいのに。
でも、お兄さんは彼女について聞かれたのがよっぽど嬉しかったのか、笑顔で語り始めた。
「彼女ね、あ、夏織っていうんだけど、夏織、全体的に痩せてて、俺と身長十五センチくらいの差があるの。可愛くない? それでね、ツインテールがよく似合うの、怒ると頬膨らませたりね、本当に、本当に可愛い女の子なんだ。俺あの子と付き合って正解だなぁっていっつも思うんだ」
そうやって顔を緩ませるお兄さんに少し腹がたつ。
なにそれ。その夏織って、ただのぶりっ子じゃないの? てかお兄さん確か「今の彼女は同級生なんだ」って前に言ってたよね、つまり今夏織もお兄さんと同じ二十一歳……ハタチ超えてるじゃん、どう考えても気持ち悪い大人だよ、なんでそんな人をお兄さんは「可愛い」って思えるの?
……と、心の奥の方で一人で愚痴って、表面上では「お兄さんよかったね」と笑顔でいる。お兄さんも同じようにニコニコと笑顔でいるから、まあいいかな、とか思う。
「そういえば、勉強のほうはどうなの? この間期末テストあったんでしょ?」
「あー、まあそこそこだったよ、お兄さんには負けちゃうけど」
そっかそっか、と頷いてくれる。
「あれだよね、七海ちゃんって俺の行ってた高校に入学したんだよね」
「はい、そうですよ」
「三学期制って辛くない? テスト多いからさ〜」
「そこまで辛くないですよ」
七海ちゃんはすごいねえ、とまた微笑まれる。
……でも、お兄さんの褒め言葉を素直に受け取れなかった。
どうせそうやって誰でも彼でも褒めるんでしょう、そうやって褒めて、返ってくる言葉が「でもお兄さんの方がすごいよね」って言われるのが一番嬉しいんでしょう。ほら、だって今さっき「お兄さんには負けちゃう」って言ったとき、口元が緩んでまんざらでもない顔してたの知ってるよ、お兄さんのこといつも見てるからね……って私は変態か。
でもね、お兄さん、私昔お兄さんに褒められるのがなによりも嬉しかったのに、今はあんまり嬉しくないよ。これってお兄さんが変わっちゃったの? それとも私が変わっちゃったの?
……と、また愚痴を心の奥で呟いて、それでも顔だけは笑顔でいるようにした。
◇◆◇
重いレジ袋を提げて、夏空の下を二人のんびり歩いていると、見覚えのある曲がり角が視界に入ってきた。
その曲がり角の先には、何もないただの空き地がある。
「……あ」
つい声が漏れる。お兄さんは覚えてるだろうか、いや、ちょっと頬を緩めてどこか遠くを見ているから、もしかするとお兄さんも私と同じように、その時のことを思い出してるのかもしれない。
『ねぇおにいちゃん、ゆきがふったよぉ、ゆきだよ、ゆーき!』
『ほんとだね七海ちゃん、雪が降ったね』
あれは、私が五歳くらいのときの話。
「……あれ、今も残ってるのかな」
「きっと残ってますよ。見に行きませんか?」
お兄さんは少し渋っていたようだけど、私が手を引っ張って角を曲がろうとすると、諦めがついたのか、一緒についてきてくれた。
もちろん、家に帰る道はこっちじゃない。まっすぐ行けば家……というかマンションに帰れるけど。
どうせお兄さんの彼女のために、お菓子を作るんだから、ちょっとくらい褒美があってもいいでしょう?
曲がって数十歩で、すぐ空き地にたどり着いた。
そこに入ってすぐの角っこに、なにか棒が立っている。
……やった。まだ残ってた。
『ねぇねぇおにいちゃん、ゆきだるまつくろ! ゆきだるま! あとねあとね、かまくらもつくりたい!』
『わかったわかった、じゃあ七海ちゃん、おうちからスコップ持ってきてね』
『わかった! ななみ、スコップもってきます!』
「懐かしいね、雪だるまさんのお墓」
「……まだ残ってましたね」
「ほんとうだね、俺も驚きだよ」
自分が持っていたレジ袋をその辺の木陰に置き、雪だるまさんのお墓を観察する。
……お墓って言っても、色褪せたテープに巻かれた割り箸が、ただ地面に刺さっているだけのものだ。
昔これに『ゆきだるまさんのおはか』とマジックペンで書いたような気がするが、まあ消えてるよね、当然。
お兄さんも木陰にレジ袋を置いて、お墓の前でしゃがんだ。
「昔は何回もこうやってお参りに来たよね」
「……懐かしいですね」
目を閉じて、久しぶりに手を合わせる。吹いてくる風が、ほのかに涼しい。
『お〜! おにいちゃんのスコップおっきいね〜!』
『七海ちゃんのスコップ小さくて可愛いね』
『えへへ〜ありがとぉ』
目を閉じると、あのときの光景が浮かんでくる。
『うんしょ、うんしょ……っと、おにいちゃん、これでい〜い?』
『うん、上手上手、さすがだね七海ちゃん』
『えへへ〜』
雪は止んだけどまだ雲が空を覆ってて、積もった雪は溶けたくても溶けれなかった。
そう、すごく寒くて、でもお兄さんのほっぺたはあったかくて、ちょっと赤くなってて、なんだか可愛かった。照れてたのかな、なんて。
『よぉし、ゆきだるまさんのあたまかんせい!』
『僕は体作っといたから、頭のせようか』
『おにいちゃんのせるの? いやだいやだ、ななみがのせるの〜!』
そうやって駄々こねて、お兄さんは困った顔で笑いながら、「じゃあ一緒に持とうか」と提案する。私はそれを受け入れて、せーので一緒に頭を持ち上げて体と合体させた。
『雪だるまの仕上げは、七海ちゃんにお願いしていい?』
『うん! いいよ〜、とびきりかわいくしておくね!』
その辺で拾った石ころや木の枝を使って、雪だるまの顔や腕を作っていく。
その間お兄さんは、ただひたすらに雪を一箇所に集めては固め、集めては固めを繰り返していた。
『おにいちゃん、ゆきだるまさんできたよ〜!』
『お〜、七海ちゃん雪だるまのセンスあるね〜』
『えへへ〜それほどでも〜』
ぽんぽん、と手袋をつけた手で撫でられる。ある程度撫でたらお兄さんはまた大きなスコップを持って、さっきの作業を繰り返し始めた。
『おにいちゃん、なんかやることある?』
『ん〜、じゃあ……そのスコップで雪集めてきて、ここにポイッてしてくれる?』
『りょーかいでありますっ!』
私は空き地の角っこの雪をのせれるだけスコップにのせて、お兄さんのところへ戻り、ポイッと雪を投げ捨てる。
『そうそう、上手上手』
『えへへ〜ななみがんばる! おにいちゃんのためにがんばるよ〜!』
『うんうん、頑張れ頑張れ〜』
……いやいや、待って、かまくらを作りたいのは貴方でしょう七海。
記憶にケチつけても仕方ないけど。
『お〜おにいちゃん、おっきなやまだね〜』
その山はそこまで大きくはなかった。およそ五十センチ? そこらへんだろう。
『そうだね、でもここからだよ』
『わかりました〜! つぎはなにしましょう!』
『七海ちゃん、スコップ貸してくれる?』
お兄さんが手袋をした手を出す。確か、黒。
自分の右手に持っていた小さなスコップをお兄さんに渡す。お兄さんの手の中だと、スコップはもっと小さなものに見えた。
『こうやって……こう、穴を掘るんだ』
『お〜! ちっちゃなかまくらだ〜!』
どんどん穴を掘っていく。時々崩れそうになったり、お兄さんが雪冷たいからって理由で顔を出したり、何かと色々あった。
それで、日が暮れてちょっと経ってから、お兄さんは再び顔を出した。表情はなんだか嬉しそうだった。
『ほら、七海ちゃん、できたよ、かまくら』
『お〜! おにいちゃんおつかれさま!』
入ってみる? と誘われる。笑顔で穴に入っていく私。
中は白い雪、時々土でできていた。ちっちゃな私一人が、すっぽり入れるくらいの大きさの穴。
……これ作るの大変だったろうなぁ。
その日は、ある程度かまくらを満喫してから、一緒にマンションに帰った。手を繋いで。
目を開ける。日差しが眩しい。そして痛い。
隣を見ると、まだ手を合わせて目を閉じているお兄さんがいた。
しばらく見つめるも、目を開ける気配がしないので、もう少し過去回想に浸る。
『おにいちゃん、ゆきだるまさんいなくなっちゃったぁ!』
『外があったかくなってきたから溶けちゃったんだね』
『とけてないとけてない、いなくなったんだよ!』
そう、数日後にもう一度空き地を見に行ったら雪だるまは溶けて無くなっていた。
確か幼稚園の帰りに寄ったら、いなくなってて、慌ててお兄さんを呼びに行ったんだっけ。
お兄さんは『溶けた』って何度も言っていたけど、私が強引に引っ張ってったような。
約十年前だから細かくは覚えてない。
『ほら、いないでしょ!』
『……そうだね、いなくなっちゃったね』
お兄さんはひとつため息をついて、なんか難しい顔で悩んでいた。気がする。
一分くらい待ってたら、お兄さんは解決方法を思いついたらしい。
『いなくなっちゃったなら、お墓を作ろうか』
『おはか?』
この頃の私は馬鹿すぎる。お墓がなんだかわかってないのかこいつ。
『死んじゃっていなくなっても、いなくなった人のことをみんなが覚えておくためのものだよ』
……いや、きっとそうではない。そういう意味もあるだろうけど、それが全部じゃない。
でもお兄さん一筋の七海ちゃんは、お兄さんの言うことが全部正しいと思ってたからか、それを聞いただけで「おはかつくる!」と元気だった。何も理解してないから、そんだけ元気になれるんだね。
……で、そこで作ったお墓がまだ残っていると。すごいねぇ。
再び目を開けると、お兄さんはもう手を合わせていなかった。
「……七海ちゃんは、お墓を作らなかったら、雪だるまさんのこと覚えてた?」
「……いや、覚えてなかったかもですね」
「お墓作って正解だったね」
そうですね、とお兄さんの方を向くと、ちょうど目が合った。
さっとそらす。自制心は大事。この人は既に恋人がいるんだから。
今、本格的に恋に落ちちゃったら大変なことになる。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「はい」
……墓参りは、きっとこれが最後かな。
◇◆◇
マンションの自動ドアをくぐって、ちょっと歩くとそこそこ段差の高い階段がある。
そこでまた私はふと思い出す。思い出して、エレベーターの方へ行こうとするお兄さんの袖を掴む。
「今度はどうしたの七海ちゃん」
「ねえお兄さん、グリコやりません?」
すごくくだらないけど、お兄さんが関わった思い出がまだあった。
最後にお兄さんとグリコやったのいつだっけ、お兄さんが中二のときだっけ。覚えてないや。
「……いいけど、七海ちゃん泣かない?」
「泣きませんよ、もう高校生です」
お兄さん、ほんとにそこのところ忘れてるでしょ……私十五歳だよ、女子高校生だよ、なんでお兄さんには年下萌えがないのかなぁ、同級生とか先輩の良さってなに? なんで年下は選ばないのかな、なんで私のこと選んでくれ……ないのかな。
なんていう愚痴も願いも心の中に収めとく。言ったらおしまいだ。多分。
「何年ぶりにやるかなぁグリコ。あれだよね、グーを出したら三段『グリコ』って階段を上がれて、チョキを出したら『チョコレート』で六段上がれて、パーを出したら『パイナップル』で六段上がれるやつだよね」
「そうですよお兄さん。さあやりましょう」
早速始める。
最初はお兄さんがチョキで勝った。
「ち、よ、こ、れ、い、と……っと」
今日はチョコに恵まれてるのかな? と六段上でお兄さんが笑う。
次勝たれると姿が見えなくなる。なんとかして勝たねば。
「グーリーコ」
今度は私がグーで勝った。三段上がる。
その次はパーでお兄さんが勝った。六段上がる。差は九段。
それからまたグーで私が勝つ。そうするとお兄さんが今度はグーで勝つ。それからお兄さんがチョキで勝つ。すると私がパーで勝つ。でもお兄さんがまたチョキで勝つ。
そうやって私がお兄さんを抜かせないまま、私たちの住んでいる四階までたどり着いた。
「お兄さんはやっぱり強いですね」
そう、昔はお兄さんにグリコで勝てなくてよく泣いていた。そんな姿を見て呆れちゃってたかな、みたいな。
どうしても開いた差がなぜか狭まらなくて、お兄ちゃんの意地悪って、泣き叫んだことがあった。泣くならやるなよグリコ。
「……なんかね、七海ちゃんにだけは勝てるんだよね」
……だけ、か。
少しだけ頰を緩ませてしまう私を頭の中で叱る。
お兄さんはもう彼女がいるから、その夏織って子がいるから。奪えないから。奪うなんてできないから。一緒に居れてるだけましなんだから。だめですだめです、だめなんですよ七海。あなたはお馬鹿さんですか、恋しちゃだめです。
……みたいな。永遠と叱り飛ばしていればいつかいい人が現れるでしょう。年下でも年上でも同級生でも、お兄さんの代わりになれる人がきっとみつかるはずだから。
「お兄さん」
「ん? どうしたの?」
レジ袋を提げて先を歩いていたお兄さんを声で引き止める。振り返ったその顔は、不思議そうだった。
目が合う。さっきよりも長い時間。
……ちゃんと、見てくれてる。
「え、っと、七海ちゃん?」
「……なんでもないです」
さあ、ケーキ早く作りましょう、とお兄さんを動くように催促する。けどお兄さんはその場から動かない。そればかりか、私のことをじっと見つめ続けているような。
お兄さんを抜かしても変わらなかったので、もう一回声をかけてみた。
「……お兄さん、彼女のために作るんじゃないんですか?」
「……あ、うん、そうだったね」
それでもお兄さんは動かない。
……あれ?
もしかして案外、勝算あったり?
お兄さんの背中側に回り、とんと背中を押してあげると、ようやく動き出した。
ああ、お兄さんって確かに、押しに弱いもんね。