〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
 英国大使館別荘記念公園を過ぎて、イタリア大使館別荘記念公園の看板が見えた。敷地内はチョコレートケーキに粉砂糖をまぶしたように、茶色い地面を白銀の雪が覆っている。

駐車場からここまでは徒歩10分とインターネットの案内には書いてあったが、不慣れな雪道では体感的にそれ以上の時間を歩いた気分だ。爪先まで冷えた両足に鈍い疲労を感じる。

 積もる雪に美夜と愁以外の足跡はない。冬の早朝に、休館と知りつつこの場を訪れる物好きは朝日を浴びる中禅寺湖を撮影したがるカメラマンか、人が来ない場所を求めて彷徨《さまよ》う者のみ。

 湖を臨むベンチからは桟橋《さんばし》が見えた。山からの風で水面は揺れ、湖畔に近い場所の水は凍っている。

「まだ知識もなかった四、五歳の頃、海や湖の水はすくうと透明なのに、どうして空と同じ色に見えるのか不思議だったの」
『変なこと考えるガキだな。お前、夕焼けはどうして赤く見えるのか……を延々と考察するタイプの子どもだっただろ?』
「そうそう。大人に聞いても正確に答えられる人はいなくて。小学生の時に光の波長の吸収と反射によって見える色が違うって知った」

 雪まみれのベンチの背もたれに身体を預けた美夜は空を仰ぎ見た。朝焼けの空が少しずつ孔雀青《くじゃくあお》に染まってゆく。

愁と会う時はいつも夜か雨の日だった。今日に限って、曇りのない青い空。存在を信じてもいない神の祝福を、最後くらいは信じてみたくなる。

「自然って凄いと思ったけど、海や湖の底に実は絵の具のパレットがあると信じていた五歳の私はきっとがっかりしたんだと思う。その頃はまだおとぎ話を信じるくらいには純粋だったからね」
『今は純粋さの面影もねぇな』

 愁が笑っている。彼の隣にいる美夜も口元から笑みが溢れた。
笑う唇に押し当てられたもう片方の唇。冷えた外気が届かないここだけは熱く、絡めた二つの舌も熱っぽい。
ひとつになったふたつの唇と身体が、またひとつずつになった。

 傍らに添えたハンドバッグを開いた美夜は、そこに忍ばせていた三つの物を順に取り出した。まずは美夜の警察手帳、次に手錠がベンチの座面に並ぶ。
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