〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
 心に生まれた微《かす》かな痛みがこの恋の終焉を教えてくれる。憧れからのミーハーな恋心でも、鈴菜の愁への気持ちは紛れもなく本物だった。

 気持ちを切り替えて午後の業務に臨んでも、失恋の亀裂はすぐには癒えない。接待の店のピックアップや上司の日程調整、書類作成と、膨大な量の仕事をこなしていると気付けば終業時間がすぐそこまで迫っていた。

『この書類、木崎さんに最終チェックをお願いしてもらえるかな』
「はい。木崎さんは……」

同僚男性から差し出された書類を受け取った鈴菜は、秘書課のフロアを見渡した。フロアに木崎愁の姿はない。
愁を捜す鈴菜の視線に気付いた同僚女性が腕時計を確認した。

「この時間なら会長室じゃない?」
「そうですね。会長室いってきます」

 秘書課フロアの一階上には、役員にのみ与えられる専用の個室が並んでいる。社長室を通り過ぎて彼女は会長室の扉の前に立った。

 日程表通りなら夏木会長は15時から出掛けている。おそらく部屋には愁ひとり。
会長が不在だとわかっていても会長室への入室は緊張する。権力のオーラをそこかしこに漏らす焦げ茶色の扉をノックして、彼女は会長室に踏み入った。

 会長室と中で繋がっている隣の執務スペースに木崎愁の姿が見えた。愁が秘書課のフロアにいない時は、大概ここいる。

「宇津木《うつぎ》さんからです。書類の最終チェックをお願いしたいと……」
『見せて』

デスクでパソコン作業をしていた愁は片手で書類を受け取り、文字の羅列に素早く視線を走らせた。

 彼の鋭い眼差しに惚れ惚れする。書類を持つ手の甲の筋や骨張った指、書類を見つめる瞳を覆う長い睫毛、形の良い唇、愁のすべてが整っていて美しい。

この美麗な男の心を掴んだ女性に対し、一抹の嫉妬を抱かないほど鈴菜はまだ大人になりきれない。架純の前で口にした諦めの言葉が本心なら、諦めきれない葛藤も本心だ。

『修正箇所はない。このまま宇津木さんに渡して』
「……あの……」
『まだ何か用?』

 終業時刻まで残り10分。けれど定時で業務を終える鈴菜とは違い、愁にはこの後も多くの仕事が残っている。

多忙な彼を煩《わずら》わせるようなプライベートの話をするべきではないと、頭ではわかっていた。しかし時に頭と身体は別々の行動を選択する。

「木崎さんの噂が広まっているみたいです」
『何の?』
「昨日、赤坂で木崎さんが女性を車に乗せているのを私の同期が見かけて……そのことがきっかけで、木崎さんに恋人がいる噂として広まってしまったようです」
『そんなことが噂になるのか……』

 溜息混じりに呟く愁はキーボードに触れる手を休めない。彼が鈴菜をその視界に捉えた時間は、彼女が入室した際の数秒間だけ。

液晶画面と書類にのみ向けられていた愁の瞳に、鈴菜は片時も映らない。
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