〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
Act1.徒花恋歌
 形容しがたい精液の匂いが身体にまとわりついている。シャワーを浴びても石鹸の香りに包まれても、拭いきれない男の匂いが紅潮と蒼白の両方を引き連れて彼女を悩ませた。

 事後の腹部の痛みも肌に流された白濁の体液もとっくに消えているはずなのに、薄れていく身体中に刻まれた赤い花びらを見るたび、抱かれた腕のぬくもりを思い出す。

 彼女が経験した真夜中の楽園は気持ちが悪くて気持ちが良い、羞恥で淫《みだ》らで穢《けが》らわしい甘い幸福。
雄と雌に成り下がった男と女は互いの裸を晒して一晩中、相手を求めていた。

二十八年の人生で初めて彼女が抱かれた相手は、最低で自分勝手で優しく残酷な、破滅を呼ぶ男だった。

 彼を受け入れた彼女の心には、あの夜の直後からある不安が巣食っていた。たぶん、大丈夫。そう言い聞かせてもしばらくは不安な日々が続き、そのことを考えると夜も眠れない。

 眠れぬ日々に、夜な夜な婦人科のホームページで膣外射精における妊娠の可能性を調べていた。
調べた情報は、彼女が成人女性の一般知識として備えていた情報ばかりで目新しい情報はひとつもない。

確信したのは、やはり性行為なんてするものではないということ。ましてや妊娠して困るような立場の男と……。

 霜月を迎えた最初の日曜の昼下がり。下半身の違和感を感じて駆け込んだトイレで目にした赤い血に、彼女は初めて安堵を覚えた。

念のためサニタリーショーツに装着していた白い生理ナプキンは、一面を真っ赤に染めていた。誕生日の夜に経験した性交痛と似た痛みが、下腹部をきつく締め付けている。

 普段は忌々《いまいま》しい経血が安心の証だなんて、全くどうかしている。

 切らしていた生理痛の鎮痛剤と予備のナプキンを求めて、薬局に立ち寄った彼女の頭によぎったのは避妊具の存在。たまたま入った薬局には、生理用品の陳列棚と同じ場所に箱入りのコンドームも陳列してある。

「……馬鹿だな」

小さく呟いた独り言は己への愚弄《ぐろう》。避妊具をつけずに事に及んで生理の到来に安堵した自分を、彼女は馬鹿な女だと嘲笑った。

 あんなに軽蔑していた性の交わりを後先も考えずに行った結果、生まれたのは未来への不安。
身体の交わりのしわ寄せは必ず女に向かう。

望んでもいないのに女は生まれながらに皆、子宮を持っている。
生む予定のない、かりそめの命のために準備をした一切合切が血液となって数日間流れ続ける月経期間は、誰もが女の性別を呪っているだろう。

 結婚も出産も望まない。相手があの男ならば、普遍的な恋愛は望めない。
彼と彼女はどうしたって相入れない同士なのだから。

 コンドームを買う行為はまるでまた、彼が会いに来てくれることを期待しているようだ。避妊もしないあんな男に、二度と絆《ほだ》されてなるものか。……二度と。

 パッケージに多い昼用と書かれた生理ナプキンを掴んだ彼女は、物言わぬ避妊具に背を向けた。白を基調としたコンドームの外装は彼が彼女の自宅に置き去りにした煙草の箱と似ていて、その存在が余計に憎たらしい。

 恋も愛も、知りたくなかった──。

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