〜Midnight Eden〜 episode5.【雪華】
せめて後少し、恋の終演時間を引き伸ばさせて。
元彼の浮気相手と同じレベルになりたくないなど、臆病者が吐き捨てた綺麗事だ。架純にはいい子過ぎると指摘されたが、鈴菜は本当はいい子になんてなりたくなかった。
好きな男に好意を知ってもらいたい。好きな男の視界に映りたい。
たとえ望みが薄くても好きな男の体温を感じたい。
デスクに向かう大きな背中に手を伸ばし、背後から彼を抱き締めた。愁は鈴菜の接触を拒むでもなく受け入れるでもなく、平然とキーを打ち続けている。
女に抱き着かれても動揺の素振りも見せない愁が憎らしい。最初から愁の眼中にない事実を突き付けられて、心の亀裂はますます広がった。
「ごめんなさい。少しでいいんです。気持ちに決着をつけさせてください」
『君の気持ちはだいたいわかっていた。男の趣味が悪いな』
「それ、よく言われます」
首筋に顔を埋めて初めて嗅いだ木崎愁の香りは、とても甘い。間近で目にした愁の右耳にピアスの穴がひとつ存在していることを、初めて知った。
「木崎さんの恋人の話を聞かせてください」
『この状況で聞きたい話?』
「はい。木崎さんが好きになった人がどんな人か知れたら、諦めようって言い聞かせられるから」
嘘が半分、本当が半分の鈴菜の無駄話を愁は嫌がらない。無表情の仮面の一部がわずかに剥がれ、彼が鈴菜に見せたのは口許に浮かぶ微笑だった。
『不器用な女だよ』
「不器用って性格がですか?」
『そう。脆いくせに必死で強くあろうともがいて、ひとりで立とうとする。男に媚びは売らない、お世辞も言わない、笑わない、可愛げもない』
「……本気でその人を愛しているんですね」
『今の発言で、どうしてその解釈になる?』
“ミヤ”の話をしている時に、どれだけ優しい顔をしているか愁は知らない。一度、鏡を見ながら恋人の話でもすれば愁も自身の恋心の深さを自覚するかもしれないが、この真実は黙っておこう。
恋に破れた女の意地悪は、神様に少しくらい許されてもいいはずだ。
愁の背中を巣立った彼女は確認書類を携えて、秘書の仮面を張り付けた。社会人を数年続けていれば苦手なポーカーフェイスも嫌でも上手くなる。
「木崎さんも思っているよりも不器用かもしれませんね。……お疲れ様でした」
最後の一礼は深々と長く。恋の幕引きの挨拶だ。
今日の仕事を終えた鈴菜を迎えてくれたのは、ビルの谷間に広がる薄暮《はくぼ》の空。柔らかな色合いの空を見上げた鈴菜の目尻から一滴の雫が溢れ落ちる。
長かった片想いが穏やかに死んでいく。今回の恋の終わりは、浮気されて振られた2年前に比べればよっぽどマシだ。
さようなら、咲けなかった恋の花。
いつか新しく芽生えるその日まで。
さようなら。
Act1.END
→Act2.心恋涙雨 に続く
元彼の浮気相手と同じレベルになりたくないなど、臆病者が吐き捨てた綺麗事だ。架純にはいい子過ぎると指摘されたが、鈴菜は本当はいい子になんてなりたくなかった。
好きな男に好意を知ってもらいたい。好きな男の視界に映りたい。
たとえ望みが薄くても好きな男の体温を感じたい。
デスクに向かう大きな背中に手を伸ばし、背後から彼を抱き締めた。愁は鈴菜の接触を拒むでもなく受け入れるでもなく、平然とキーを打ち続けている。
女に抱き着かれても動揺の素振りも見せない愁が憎らしい。最初から愁の眼中にない事実を突き付けられて、心の亀裂はますます広がった。
「ごめんなさい。少しでいいんです。気持ちに決着をつけさせてください」
『君の気持ちはだいたいわかっていた。男の趣味が悪いな』
「それ、よく言われます」
首筋に顔を埋めて初めて嗅いだ木崎愁の香りは、とても甘い。間近で目にした愁の右耳にピアスの穴がひとつ存在していることを、初めて知った。
「木崎さんの恋人の話を聞かせてください」
『この状況で聞きたい話?』
「はい。木崎さんが好きになった人がどんな人か知れたら、諦めようって言い聞かせられるから」
嘘が半分、本当が半分の鈴菜の無駄話を愁は嫌がらない。無表情の仮面の一部がわずかに剥がれ、彼が鈴菜に見せたのは口許に浮かぶ微笑だった。
『不器用な女だよ』
「不器用って性格がですか?」
『そう。脆いくせに必死で強くあろうともがいて、ひとりで立とうとする。男に媚びは売らない、お世辞も言わない、笑わない、可愛げもない』
「……本気でその人を愛しているんですね」
『今の発言で、どうしてその解釈になる?』
“ミヤ”の話をしている時に、どれだけ優しい顔をしているか愁は知らない。一度、鏡を見ながら恋人の話でもすれば愁も自身の恋心の深さを自覚するかもしれないが、この真実は黙っておこう。
恋に破れた女の意地悪は、神様に少しくらい許されてもいいはずだ。
愁の背中を巣立った彼女は確認書類を携えて、秘書の仮面を張り付けた。社会人を数年続けていれば苦手なポーカーフェイスも嫌でも上手くなる。
「木崎さんも思っているよりも不器用かもしれませんね。……お疲れ様でした」
最後の一礼は深々と長く。恋の幕引きの挨拶だ。
今日の仕事を終えた鈴菜を迎えてくれたのは、ビルの谷間に広がる薄暮《はくぼ》の空。柔らかな色合いの空を見上げた鈴菜の目尻から一滴の雫が溢れ落ちる。
長かった片想いが穏やかに死んでいく。今回の恋の終わりは、浮気されて振られた2年前に比べればよっぽどマシだ。
さようなら、咲けなかった恋の花。
いつか新しく芽生えるその日まで。
さようなら。
Act1.END
→Act2.心恋涙雨 に続く