龍生の血刀
 薄紅色の桜の花弁が散る宮中の中庭で、藤原龍生(ふじわらのりゅうしょう)は龍笛を吹いていた。
 やわらかな春の空気の中、龍生の笛の音だけが凛と冴えて響いている。瞳を閉じ、長い睫毛を伏せて笛を吹く十三歳の少年は、鈍く光る白い水干に、髪は上げ美豆良(みずら)の輪を作っている。紺色の揚巻結びの組紐が風に乗った花弁に触れて揺れていた。龍笛を吹いている時、龍生は魂が自分の体から解き放たれたかのような、何か宇宙の星のひとつとして漂っているような、不思議な快い気持ちに浸ることができた。

「兄上~!」

 ぱたぱたと自分に向かって走ってくる妹の響姫(ゆらひめ)の声と足音を耳に入れた瞬間に、ふ、と意識が急速に現実に引き戻された。
 瞼を上げ、振り返る。

()ぐでない」

 妹の響姫がにこにこと笑顔を振りまき、腰まで伸びた艶やかな黒髪を扇のように広げながら走ってくる。橙色の(あこめ)を着た響姫は数えで十になる。小柄で丸い顔が愛らしかった。ふくよかな両手は指先だけ桜色で、色とりどりの糸で作られた鞠を抱えている。

「兄上、響と鞠で遊んでたも」

「またか」

「響、兄上の笛の音を聴くのも好きじゃけれども、兄上と蹴鞠をしている時がいっとう好きじゃ」

「そなた、下手のくせに」

 まんざらでもなさそうにふふっと笑い、響姫の手から鞠を取り上げると、自分の右足に乗せ、天高く蹴り上げた。陽光に重なり逆光となった鞠を見上げながら、響姫は桃色の頬にあかるい笑顔を花咲かせた。

  一度目に龍生の蹴った鞠は、響姫から人ひとり分離れた個所に落ち、二度目に蹴った鞠は響姫の鼻先すれすれで手前に落ちた。三度目の正直にと蹴ったそれは、今、空を飛び、紅、藍、深緑の糸が陽光に輝きながら放物線を描き、響姫の元へ落ちようとしている。地では響姫がその鞠を捕えようと、左右にちょこまかと動き、距離感を確かめながら真剣な表情で目を細めていた。しかし、鞠は響姫の足には拾われず、頭の上をぽーんと跳ね、地を二転三転しながら逃げてしまった。兄の足元へ走り、拾い上げると龍生は堪え切れずからからと笑う。

「響よ。鞠がもちっと地上へ近づいてから足を蹴り上げい。そなたの心の迷いが蹴鞠には現れておるゆえのう」

 自分の頭をせこせこと撫でていた響姫は、両手を握り、瞳を輝かせる。

「兄上すごい。響も、兄上みたいに上手くなりとうございます」

 この素直でまっすぐに、透明な気持ちで自分を慕ってくれる妹が、龍生は大好きであった。
 今の宮中は、権力争いが絶えない。
 信用できる者は帝の異母弟で太政大臣である父の藤原龍己(ふじわらのたつき)。父の側室でふたりの母の白檀(びゃくだん)。白檀の従者で、龍生と響姫の子守り役である助鐘(すけかね)。そしてこの響姫だけと言っても過言ではなかった。
 というのも、今現在、(みかど)が病の縁に立っており、不謹慎にも次期帝は誰かという噂で持ち切りとなっている。
 父である龍己は太政大臣であるが、冷静で頭が冴え、優しい心を持つ男で、公家達からの人望も厚かった。
 宮中では「呪い」の(たぐい)が後を絶たない。
 例えばある男と懇ろになった御息所は、その男が身分の卑しい女と外で愛し合っていた際に、呪いの力でその女を亡き者にしてしまったことがあった。
 この(まつりごと)の状況から、卑しい者が父・龍己の権力を狙い、危害を加えるのではないか、と龍生は悩んでいた。そんなことはない、そなたは昔から物事に対し気にしすぎると、龍己は笑っていたが、どろどろとした目に見えぬ闇が漂う宮中では、誰を信じ、誰を疑えばいいのかも、もうとうにわからなくなっていた。
 そんな中で、龍笛を吹いている時間と、可愛い妹と遊んでいる時間は自分にとって何よりの癒しであった。
 響姫と笑い合っていると、渡り廊下から中庭に息せき切って飛び出してきた女房が現れた。
 助鐘である。髪は乱れ、額には玉のような汗が浮き出ていた。

「助鐘……、どうした」

 ふたりの前に膝をつき、顔を伏せていた助鐘は、息を整え面を上げた。
美人ではないが、すっきりとした顔が歪んでいる。
 響姫と龍生はその顔を不安げな面持ちで見つめ返した。
 助鐘は再び顔を伏せ、苦し気に声を発した。

「龍生さま、響姫さま、落ち着いてお聞きくだされ。……龍己さまが先ほど、身罷られましてございまする」

 その語尾は泣き声となって消え、聞き取れなかった。
 響姫は茫然としていたが、言葉の意味を理解すると、震えながら両手で己の口を覆った。
 龍生は表情を動かさなかったが、瞳の色が徐々に暗くなり、やがて虚空を見つめた。
 手にしていた鞠を落とす。
 鞠は空の陽光を糸の間にうつしながら、ぽんぽんと跳ね、止まり、動かなくなった。
 風が吹き、龍生の美豆良を揺らすと、龍生は静かに瞼を伏せた。

 色彩があったはずの内裏の中が、今は目にするものすべてが白黒灰色で染まっていた。その中で棺の中で死んでいる父の顔を見た時、奇妙な違和感を感じた。
 父・龍己は蹴鞠が得意で、よく笑う健康な男だったはずだ。それなのに今、目の前で白菊に体を包まれながらに染まった顔をして棺の中で横たわっている龍己には、自然な滅びが感じられなかった。

(それを感じているのは私だけだろうか)

 龍生は思う。
 彼の後ろにいる白檀と響姫は、なめらかな頬に透明な涙をさらさらとこぼし、泣くばかりである。

「龍己さま……」

 射干玉(ぬばたま)の黒髪に聡明な白皙の顔。額の髪の生え際はけぶるような産毛が生え、艶めいている。唇はあかく湿っている。近づくだけで白檀の香が漂う母は、更衣上がりとは思えぬほどの凄絶な美貌の人であった。
その美しき(かんばせ)が、今は涙で濡れている。
 龍己の葬式に参列した公家たちは、生前龍己に良くしてもらっていた者も多くいて、その死を嘆いている様子があったが、一部の公家たちの毒の囁きを、耳聡い龍生は聞き逃さなかった。

「何という急な身罷られ方じゃ。龍己殿は帝の異母弟で次期帝とも噂されておったというにのう」

「後ろ盾を失くした白檀更衣とそのご子息と姫君はお可哀そうじゃのう……」

 その響きに哀れみながらも、一滴の嘲りを感じ取った龍生は、懐に手を入れ、龍笛を強く握りしめた。彼が愛用している赤漆に螺鈿の入った龍笛は、昔父がくれた物、父の形見だった。

「あの頑健な父上がこのように急に死ぬわけがない。誰かに毒を盛られたか、殺されたのじゃ。だが、今の非力な私では調べ上げ、敵を討てようはずがない……」

 強くくちびるを噛み、血がひとすじ顎を伝う。眉間に皺を寄せ、下を向く。
零れそうになる涙を必死で耐えた。
 急な出来事に心が追い付かず、不安げに辺りを見回していた響姫は、兄の後ろに立つと、暗い湖を彷徨った末にようやく寄る辺の岸を見つけた小舟のように、兄の水干の袖をぎゅっと握った。

 昼の柔らかな温かさが嘘であったかのごとく、その日の夜は冬が舞い戻ったかのように冷えていた。
 父の突然の訃報に気持ちを鎮めることが出来なかった龍生は、自室へ戻っても落ち着かなかった。引きこもり、鬱々と考えていると、おかしくなりそうになる。
このままではまずいと思い、普段は行っていない夜の散歩をすることにした。
 裸足で歩くと、宮中の渡り廊下はひんやりと冷たい。今はその冷たさが、生きていることを実感できる感覚となり、心地よかった。

(大丈夫……。私は、まだ大丈夫だ)

 一歩一歩足を踏み出すごとに、冷たさと反動して、心に灯が灯っていくように感じる。いつの間にか無意識に、うっとりと半分瞼を伏せていた。
 頭を空っぽにして歩んでいると、心が落ち着いてくるのを実感した。

(おや……、あれは母上の部屋では? こんな時間に何故明かりが漏れているのであろう)

 龍生の進む廊下の先の横手には、白檀の部屋に繋がる御簾があった。まだ童の頃は、よく母の部屋の御簾を開け、甘えに来たものだが、十四歳となり、元服が近づいた今となってはもうご挨拶以外では訪れることがなかった。
 幼き日、傍に白檀がいないと寂しくなり、助鐘に縋り付き泣いて困らせた。そんな時に後ろから白檀に目をふさがれ、目を開けると母の顔があり、笑顔で抱き着いたという出来事があったことを急に思い出した。
 懐かしさで胸がいっぱいになる。
母から漂う白檀の香りに包まれると、まだ遊びたくても心地よい眠気に誘われ、そのまま膝の上で優しく撫でられながら眠ってしまった。

(父上亡き今、母上と響を守ることが出来るのは私しかおらぬ。私はもう、守られる立場ではなく、守る立場となったのだ……)

 もうあの日々に戻れることはない。今自分がすべきことは強く心を保ち、母と妹をこの宮中の闇に触れさせず、清らかなまま日々を過ごさせることだ。

(私がやるしかないのじゃ。私が……私がしっかりせねば)

 瞳を強く閉じると、瞼の上で長い睫毛が震えた。かといって不安からは逃げられない。
敵がどこの誰かもわからぬ、誰を信じ誰を疑えばいいのかもわからぬ。
そんな状況で生活を営まなければいけないこれからの事を考えると、不安で仕方なくなる。

(父上……)

 父がいてくれたら、いや、もう父はいない。
自分しかいないのだ。自分が父の代わりに盾と剣となり、この黒い霧の中を生きていくしかない。
 龍生は一歩踏み出す。母が今起きているのであれば、せめて母と御簾越しでも話したかった。この心を母の玲瓏でたおやかな声でいっぱいに満たし、安心してから今日という日を終わらせ、眠りにつき、明日を始めたかった。

「母上、夜遅くに失礼致しまする。龍生でございまする……」

 御簾の前に正座し、恐る恐る話しかける。
しかし求めていた白檀の声は返ってこない。

「……?」

 自分は嫌われたのであろうか? それとも明かりを消し忘れてもう眠っておられるのか?
思考を逡巡させる。戸惑っていると御簾越しに衣が擦れるような物音が聞こえていることに気づく。それは渡り廊下を十二単を着て渡っている女性が奏でるような、ひとつの衣が擦れている音ではなく、衣と衣が合わさって擦りあっているような音だった。

(この音は何じゃ…)

 失礼を承知で、御簾に耳を近づける。

「うっ……、くぅっ……、はっ……」

 白檀の声だ。しかし、普段の玲瓏な響きとは違っている。苦し気に呻いているように聞こえ、得体のしれない不安がどっと胸に押し寄せる。

「母上……?」

 龍生のこめかみに冷や汗が流れる。母は苦しんでいる。何に苦しんでいるというのか。
御簾に手を掛ける。早く母上の状態を確認し、介抱しなければ―。

「開けてはなりませぬ!!」

 白檀の叫ぶような怒声が御簾越しに龍生を撃った。
 驚き、御簾から手を離す。

「母上、どうされたのです? どこか痛むのですか? 苦しいのですか?」

「いいからっ、……早くっ……、行くのですっ……」

 血を吐くような声音で龍生を制止する母に圧され、金縛りにあったように龍生はその場を動けなくなった。
爪を立て、無理やり力を込めて一歩、また一歩と後ずさり、元来た道を駆け戻る。

「うっ……、ふっ……」

 駆けながら汗とも涙ともつかないものが顔を濡らしていく。美豆良はほどけ、線の細い黒髪が額や頬に張り付く。
扇のように広がった髪は龍生の恐怖や虚しさを夜の空気に揺蕩わせていた。
 やがて激しい雨が降り、水干はびしょ濡れとなって白い素肌が透けていたが、そのことにも気づかぬまま虚空へ向かい走り続けていた。

 どこかで雷が落ちたのか、雷音が鳴り、続いて雷光が御簾を照らす。
深緑色の御簾に、四つん這いになり、腰まで着物が脱がされた白檀の姿と、その後ろでぴったりと尻に腰をつけ、両手で白檀の腰を押さえ、激しい律動で犯している男の姿が影絵のように映された。
白檀の豊かな乳房が、男の律動に合わせて激しく揺れている。

「あっ……、もうっ……! いやっ……!」

 心の激しい苦痛と肉体の抗いがたい快楽に、顔を赤く染め、目をきつく閉じ耐えている。
 龍己の手がついてから、龍己以外の男に体を許したことがなかった白檀だったが、龍己が亡くなった今、強引に御簾に入られ、抗う術を持てなかった。

「龍己が死んでくれたおかげでそなたの部屋にも入りやすくなった……っ。前からそなたを狙っていた男はこの宮中に何人もいる。初夜を奪えて嬉しいぞっ……。白檀っ……。白檀っ……、そなたは儂のものじゃ。これから先何百回もそなたを可愛がってやろう…!」

 唾を白檀の背に飛ばしながら、更に粗々しく腰を押し付ける。

「ふっ……! あァ……っ!」

 弓形に背を仰け反らせると見開かれた瞳から涙が流れ、頬を伝い、口から流れていた涎と交わる。
 白檀の瞳はもう何も映していない。瞳には紅い曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が海のように広がって咲いていた。

 龍生は濡れた体を抱きしめ、震えながら自室の隅で蹲っていた。膝の上に組んだ腕に顔を埋める。濡れた衣がためていた雨水が流れ、円を描くように体の周りに水たまりが出来、畳が黒く湿っていく。

(母上に一体何が……。私は、何故逃げた……? 私は何も出来なかった……。先ほどの決意は何だったのじゃ。私は無力だ。無力な()れ者じゃ)

 抱きしめた腕に爪を立て、肌を裂き血が流れる。
 突然、誰かが障子を開ける音が耳に届いた。
 驚き、顔を上げると月光が開かれた障子から差しこんだ。光に瞳を眇め、逆光になった人影を確認する。
 そこには、袷のすべてが白という、純白の十二単を着た白檀が立っていた。目を見開く龍生に向かい、優しく微笑んでいる。

「母上……?」

 燐光を纏ったかのように、薄い紗に全身が包まれている。

「龍生、強く、強く生きるのですよ。そなたは美しく優しい子。負けてはなりませぬ。響を頼み申す」

 くるりと後ろを向くと廊下に戻り姿を消した。純白の打掛と射干玉の黒髪が翻り、この世の者とは思えぬほど美しかった。

「母上……、 お待ちくだされ!」

 ふ、と我に返り、勢い良く立ち上がると母を追った。
 しかし、渡り廊下まで飛び出ても、そこには白檀の姿はなかった。
 廊下の先に続く暗闇を見つめ、茫然とする。忘れていたかのように汗をかいていた。

「母上……?」

 翌日の夜、中庭の蓮池で白檀更衣は仰向けになった状態で浮かんでいた。手首からは血が流れ、水彩のように水面に漂っていた。
 その緑色の池の中を、白檀の遺体に向かって水を掻き分けて龍生は歩いた。
 冷たく固くなってしまった白檀の体に手をかけると、無言で縁まで運ぶ。
 池から中庭へ白檀を抱え、横たわらせる。
 白い顔で瞳を閉じ、髪は顔に張り付いてた。まぶたの上に、桜の花弁が降りてくる。
 うつくしい母だ。自分を産んだ母だ。
 桜は満開で、雨は上がったというのに、白檀だけが死んでいる。

「母上、母上……!」

 龍生はじっと母の死に顔を見つめていたが、急に堰を切ったように、白檀の胸に顔を埋め、大声で泣き始めた。それは童に戻り、見失った母を探し当てた子供のように見えた。
 昨日父を失い、今日母を失った。
やがて咳き込むように涙を止めると、白檀の手を握り頬に当てた。そしてもう一度目を閉じ、今度は泣き声も上げず静かにはらはらと雫の涙を落とした。
 水干の懐に手を入れ、取り出したのは龍笛だった。
 くちびるに当て、その場でゆっくりと吐息を吹き込み、音を奏でる。最初は途切れとぎれであったが、やがて流れる水流のごとく、音階を刻んだ。
 しかし、後ろから聞こえてきた猥雑な拍手で、その音階は止められた。
 龍生は、口からそっと笛を離し、魂を失った瞳で振り返る。

「流石は龍己殿のご子息じゃ。美しい音色ですのう」

「それでは我らの笛も鳴らして頂こうぞ。その口で」

 龍生の背後には、下卑た笑いを浮かべた公家の男達が、彼を取り囲む状態で立っていた。
一歩、二歩と彼との間合いを詰め、やがてその中のひとりが、彼の頬に手を伸ばす。
 龍生は瞳を震わせながら目を見開き、真珠のように白い顔を、更にしろくさせた。
 醜い男達の脂ぎった手が、そのやわらかな頬を撫でた。


 池を囲っている苔の生えた岩に手をつき、口から胃の中の物をすべて池の中へ吐き出しても、まだ吐き気は収まらなかった。
 男たちは次々に龍生の口へ己の熱を突っ込み、犯した。
 その光景を思い出すだけで、また次の吐き気に襲われ、物を失った胃からは、淡い黄色の胃液だけが吐かれ続ける。

「おえっ……、おえっ、ぐっ……」

 岩に背を向け、ぐったりと体を預けると、立膝をついて、座る。

「はあ……、はあ……」

 口から垂らした涎を手の甲で拭うと、情けなさから涙が零れた。

(何故じゃ、何故こんな目に……。私たちが何をしたというのじゃ)

「あいうえ……?」

 横に振り向くと、いつの間にか響姫が立っていた。しかし、様子がおかしい。

「響……?」

「ああうえあ……。あおこい、あおれえ、ああうえ……、おういあお?」

 響姫は必死に自分に向かって何かを話していた。だが、その声は言語を知らない赤子のようにたどたどしい喋り方であった。

「響、そなた、どうしたのじゃ……!」 

 立ち上がり、彼女の両肩を掴み、激しく揺さぶると、右耳から何かが落ちる。
 訝し気に拾い上げ、その正体がわかると、わなわなと震え、体中から脂汗が噴き出した。
 血まみれの短い釘が、響姫の耳に打ち込まれていた。
 両耳から、たらたらと血が流れている。

「あっ……、はっ……」

 上手く息が出来ない。途切れ途切れの呼吸からくぐもった呻き声を発した。

「そなた、耳を潰されたのか……。なんということを。なんということを!!」

 強く響姫を抱きしめる。
 固く目を閉じ、顔を上げ見開くと、口惜しさとも怒りともつかない眼差しで、天を睨んだ。

「殺してやる……。殺してやる……。皆殺しじゃ」
 
 池の水面には白檀の残した血が漂っていた。
やがてその血は徐々に水底に沈んでいく。苔に覆われた細長い錆びれた何かに触れると、白い光が池を満たした。

 鈴の音が聞こえたかと思うと、一つではなく幾重に折り重なるように響き渡った。
 龍生は池を振り返る。
 池の中央が波打つように白く光っている。
 響姫から手を離し、池に足から入っていくと、体で水を掻き分けながらその光の根源へ近づいていった。
 脳に直接語り掛けるように、年老いた、だが玲瓏な女の声が聞こえる。

――力が欲しいか 童。

 疑いもせず、返答する。

――欲しい。

――母と己を凌辱し、妹の聴力を奪った者共を殺したいか。

――殺したい。

――ならば儂に貴様の血を与えよ さすれば我が力 貴様にすべて与えたもうぞ。じゃが一度でも人を殺した人間が 二度と修羅の道から引き返せると思うなよ

共に地獄へ落ちようぞ あっひゃっひゃっひゃっひゃ。

 邪悪な笑い声が鈴音と混ざり、響き渡る。
 躊躇わず、光の根源へ腕を突っ込み、引き抜いた。
 鞘、柄、鍔、ともに純白の刀が現れた。
 息を飲む。
 鞘の長さは、自分の上半身を優に超えている。両手で抱え、鞘を引き抜く。
 現れた刃もまた純白であった。
刃に腕を当て、肌を裂く。流れ出た血は刃を伝い、刀身全体に血脈が広がっていく。
片手に鞘。片手に刀を持ち、手を下すと後ろを振り向く。
 瞳は紅く染まっていた。

 渡り廊下には先ほど龍生を犯した数人の公家が、自室への帰り道についていた。
柔らかく、薄紅色の龍生の唇。
 それに包まれた己の物――。
これから何度でもその快楽を味わおうと蛙のような笑みを浮かべる。
 ふと、渡り廊下の板が軋む音がした。
何事かと振り返ろうとしたら、暗転し、暗闇に包まれていた。

「うわああああ!!」

 足元に転がった公家の頭は先ほど先頭を歩き、自分と話していた男の顔だ。
胴体の首から吹き出した血が自分の顔に降り注ぐ。紙で指を切ったような痛みを腹に感じた瞬間、激しい痛みとなり、口から血を大量に吐いた。腹が斬られ、内臓が袋を切った小判のように外に流れている。白目を向き、倒れる。
 その後ろの公家は、わなわなと震え、逃げ出そうと、来た道を引き返す。
 足を踏み出した瞬間、妙に己の体が軽いと感じた。ふと体を見下ろすと、右肩から血が噴き出している。自分の肉はこんなに紅かったのか。と切断面を眺め、倒れてそのまま動かなくなった。
 
公家達の血を全身に浴び、純白の刀「月白切冬景(つきしろぎりふゆかげ)」を真っ赤に染め上げながら、龍生は宮中を走り抜けていく。

――美味い! 美味いぞ童! もっとじゃ! もっと儂に血を食らわせい! したらばもっとそなたに儂の力を与えてやろうぞ。

 月白は生き血を餌とし、強度を増していく「吸血刀」だという。
この世に二口(ふたふり)あるうちの一口で、二口手に入れた者は自身が吸血鬼となり、永遠の命と強さを手にすることが出来るという。
 龍生の目指す道はそこにしかないと思った。何十人も何百人も人を斬り、「月白」を強くし、もう一口の吸血刀「陽黒切春景(ひこくぎりはるかげ)」を手に入れ、自分が吸血鬼となり再び宮中に舞い戻る。そして自分が帝となるのだ。

 宮中の公家の中で、息がある男はいなかった。皆が月白の餌食となり、斬られ、血を食われていった。これで一旦の復讐は終えたと、荒く息をつき、龍生は思った。

(もう宮へは戻らぬ。私は旅に出る。吸血刀の旅だ)

 顔に付着したどろりとした血を拭わないまま、龍生は軽やかに飛び、宮外へ繋がる塀の上に降り立った。

「あいうえ……?」

 声がした方を見下ろすと、響がこちらを見上げている。

「響……」

「ああいを、うえええって、おいえいかあいえ」

 はっと目を見開く。
 赤子のような言葉になってしまっても、今の言葉の意味がわかった。その時に泣きたいような気持ちになり、顔を歪ませた。

――私も、連れてって、置いていかないで――

 龍生は飛び降りると、腰に刀を結わえた。そして、響姫の腰に手を当て、一息で抱きかかえる。

「響、そなたも来い。兄が天下を取る様を真横で見せてやろう」

 響姫は、血まみれの兄の凄絶な笑みに一瞬怯んだが、笑顔を見せ、こくんと頷いた。

 月が煌煌と辺りを照らす夜のことである。
 村人はその晩宮中から木から木へ飛ぶように駆けていく影を見たという。月光に照らされ、逆光となって姿は確認出来なかったが、扇のように細く長い髪を広げ、空を走っていく様は、幻想的であったということだ。
 稀に美しい少年神が遊んでいると考え、祈るように手を合わせたそうな。
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