借金の向こう側
出逢い
出逢い
春の柔らかな日差しが窓から差し込む金森精神病院の相談室。初出勤の日、香月陽奈は緊張と期待が入り混じる中、廊下で迷っていた。白い壁が連なる病院内の配置図を手にしているものの、どこに行けばいいのか分からない。
「……どうした?」
ふいに後ろからかけられた低い声に振り返ると、黒いスーツを着た若い男性が立っていた。背は高く、無造作にセットされた黒髪の下には、少し眠たげな鋭い目。名札には「佐久間大輝」と書かれている。
「あ、あの、相談室ってどちらに……」
陽奈が質問すると、大輝はため息をつきながら廊下の奥を指さした。
「新人か。そっちの突き当たりだよ。」
「ありがとうございます!えっと……佐久間さん、ですか?」
陽奈はにこやかにお辞儀をするが、大輝はそっけない表情のまま、言葉少なにうなずくだけだった。その態度に少し拍子抜けしながらも、陽奈は気にせず明るく言葉を続けた。
「私、今日からこちらでお世話になります!香月陽奈です。よろしくお願いします!」
「……ああ。」
大輝は軽く頭を下げると、そのまま立ち去ろうとした。しかし、その後ろ姿を見送りながら、陽奈は妙に引きつけられるものを感じていた。その日、昼休みの休憩室でも再び彼に会うことになる。無言でコーヒーを飲む彼の姿を見つけた陽奈は、思わず声をかけた。
「佐久間さんって、どのくらいこちらにいらっしゃるんですか?」
「一年だ。」
「先輩なんですね!いろいろ教えてください!」
明るく話しかける陽奈に対し、大輝は少し困惑した表情を見せたが、「必要ならな」とだけ返すと、またすぐに会話を打ち切った。最初の出逢いは、そっけなく短いものだったが、陽奈の中にはその時から何かが残った。冷たいようでどこか温かさを感じさせる彼の声。どこか遠くを見つめるようなその目。
「不思議な人……」
陽奈は、そんなことをつぶやきながら、自分でも気づかないうちに彼を意識し始めていた。
陽奈の目は自然と大輝を追いかけるようになっていた。相談室での業務中、廊下ですれ違うとき、あるいは昼休みの休憩室。彼の言葉は常に少なく、表情も硬い。それでも、大輝の背中からは不思議な温かさを感じた。だが、そんな彼の意外な一面を目撃する日が突然訪れる。その日は仕事帰りだった。陽奈は友人と約束があり、いつもより早めに病院を出た。春の夕暮れはまだ少し肌寒く、陽奈は駅へと向かう途中、通り沿いの店舗の前で足を止めた。そこには「〇〇消費者金融」と書かれた看板がかかっていた。陽奈が何となく視線を店の入口に向けたその瞬間、扉の向こうから出てくる男性の姿が目に飛び込んできた。
「……えっ?」
陽奈は息を呑む。そこにいたのは――佐久間大輝だった。いつもの病院でのスーツ姿ではなく、ラフなジャケットにジーンズを合わせた私服姿。それでも、彼であることは一目で分かった。彼は周囲を気にする素振りもなく、淡々と店の中へと入っていった。
「なんで……?」
陽奈は動けないまま、その場に立ち尽くしていた。普段の大輝からは想像もつかない光景に、胸がざわつく。彼が消費者金融にいる理由。借金でもあるのだろうか? それとも、何か別の事情が? ふと陽奈の頭をよぎったのは、大輝のいつも無愛想で距離を置くような態度だった。病院での彼の姿を思い返すと、それらが急に違う意味を持ち始めるように感じられる。彼には、何か隠していることがある?陽奈はその場で立ち止まりながら、強く心を乱されていた。翌日、病院で再び顔を合わせたとき、陽奈は平静を装うのに必死だった。大輝はいつもと変わらず、淡々と業務をこなしている。だが、陽奈にとっては彼のどんな些細な仕草も、何かを隠している証拠のように見えてしまう。
「あの……昨日の帰り道、偶然お見かけしました。」
昼休み、陽奈は勇気を振り絞って話しかけた。大輝は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何事もなかったようにコーヒーを口に運んだ。
「そうか。」
「えっと、その……消費者金融の前で――」
そこまで言いかけて、陽奈は大輝の視線が自分を射抜くのを感じた。その目にはいつもの眠たげな雰囲気はなく、鋭い警戒心が宿っているように見える。
「それがどうした?」
短く返された言葉に、陽奈は思わず口を閉じた。
「別に隠すようなことじゃない。ただの用事だ。」
それ以上、彼は何も言わず、立ち上がって休憩室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、陽奈は胸に生まれた疑念がますます大きくなるのを感じていた。それ以来、陽奈は大輝の様子を無意識のうちに注意深く観察するようになった。なぜ彼は、あのときあんなに冷たく答えたのだろう。何を隠しているのか。同時に、陽奈の心の中で芽生え始めた別の感情――彼に対する興味と親近感が、疑念の裏側で密かに育っていくのを感じていた。冷たい表情の奥に、陽奈には見えない「何か」がある。彼がその「何か」を隠そうとしているのなら、自分がそれを知ることで彼に近づけるのではないか――そんな思いが、彼女の心を強く引っ張っていく。その「何か」が、二人の運命を大きく変えるものであることに気づくのは、まだ少し先の話だった。
春の柔らかな日差しが窓から差し込む金森精神病院の相談室。初出勤の日、香月陽奈は緊張と期待が入り混じる中、廊下で迷っていた。白い壁が連なる病院内の配置図を手にしているものの、どこに行けばいいのか分からない。
「……どうした?」
ふいに後ろからかけられた低い声に振り返ると、黒いスーツを着た若い男性が立っていた。背は高く、無造作にセットされた黒髪の下には、少し眠たげな鋭い目。名札には「佐久間大輝」と書かれている。
「あ、あの、相談室ってどちらに……」
陽奈が質問すると、大輝はため息をつきながら廊下の奥を指さした。
「新人か。そっちの突き当たりだよ。」
「ありがとうございます!えっと……佐久間さん、ですか?」
陽奈はにこやかにお辞儀をするが、大輝はそっけない表情のまま、言葉少なにうなずくだけだった。その態度に少し拍子抜けしながらも、陽奈は気にせず明るく言葉を続けた。
「私、今日からこちらでお世話になります!香月陽奈です。よろしくお願いします!」
「……ああ。」
大輝は軽く頭を下げると、そのまま立ち去ろうとした。しかし、その後ろ姿を見送りながら、陽奈は妙に引きつけられるものを感じていた。その日、昼休みの休憩室でも再び彼に会うことになる。無言でコーヒーを飲む彼の姿を見つけた陽奈は、思わず声をかけた。
「佐久間さんって、どのくらいこちらにいらっしゃるんですか?」
「一年だ。」
「先輩なんですね!いろいろ教えてください!」
明るく話しかける陽奈に対し、大輝は少し困惑した表情を見せたが、「必要ならな」とだけ返すと、またすぐに会話を打ち切った。最初の出逢いは、そっけなく短いものだったが、陽奈の中にはその時から何かが残った。冷たいようでどこか温かさを感じさせる彼の声。どこか遠くを見つめるようなその目。
「不思議な人……」
陽奈は、そんなことをつぶやきながら、自分でも気づかないうちに彼を意識し始めていた。
陽奈の目は自然と大輝を追いかけるようになっていた。相談室での業務中、廊下ですれ違うとき、あるいは昼休みの休憩室。彼の言葉は常に少なく、表情も硬い。それでも、大輝の背中からは不思議な温かさを感じた。だが、そんな彼の意外な一面を目撃する日が突然訪れる。その日は仕事帰りだった。陽奈は友人と約束があり、いつもより早めに病院を出た。春の夕暮れはまだ少し肌寒く、陽奈は駅へと向かう途中、通り沿いの店舗の前で足を止めた。そこには「〇〇消費者金融」と書かれた看板がかかっていた。陽奈が何となく視線を店の入口に向けたその瞬間、扉の向こうから出てくる男性の姿が目に飛び込んできた。
「……えっ?」
陽奈は息を呑む。そこにいたのは――佐久間大輝だった。いつもの病院でのスーツ姿ではなく、ラフなジャケットにジーンズを合わせた私服姿。それでも、彼であることは一目で分かった。彼は周囲を気にする素振りもなく、淡々と店の中へと入っていった。
「なんで……?」
陽奈は動けないまま、その場に立ち尽くしていた。普段の大輝からは想像もつかない光景に、胸がざわつく。彼が消費者金融にいる理由。借金でもあるのだろうか? それとも、何か別の事情が? ふと陽奈の頭をよぎったのは、大輝のいつも無愛想で距離を置くような態度だった。病院での彼の姿を思い返すと、それらが急に違う意味を持ち始めるように感じられる。彼には、何か隠していることがある?陽奈はその場で立ち止まりながら、強く心を乱されていた。翌日、病院で再び顔を合わせたとき、陽奈は平静を装うのに必死だった。大輝はいつもと変わらず、淡々と業務をこなしている。だが、陽奈にとっては彼のどんな些細な仕草も、何かを隠している証拠のように見えてしまう。
「あの……昨日の帰り道、偶然お見かけしました。」
昼休み、陽奈は勇気を振り絞って話しかけた。大輝は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何事もなかったようにコーヒーを口に運んだ。
「そうか。」
「えっと、その……消費者金融の前で――」
そこまで言いかけて、陽奈は大輝の視線が自分を射抜くのを感じた。その目にはいつもの眠たげな雰囲気はなく、鋭い警戒心が宿っているように見える。
「それがどうした?」
短く返された言葉に、陽奈は思わず口を閉じた。
「別に隠すようなことじゃない。ただの用事だ。」
それ以上、彼は何も言わず、立ち上がって休憩室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、陽奈は胸に生まれた疑念がますます大きくなるのを感じていた。それ以来、陽奈は大輝の様子を無意識のうちに注意深く観察するようになった。なぜ彼は、あのときあんなに冷たく答えたのだろう。何を隠しているのか。同時に、陽奈の心の中で芽生え始めた別の感情――彼に対する興味と親近感が、疑念の裏側で密かに育っていくのを感じていた。冷たい表情の奥に、陽奈には見えない「何か」がある。彼がその「何か」を隠そうとしているのなら、自分がそれを知ることで彼に近づけるのではないか――そんな思いが、彼女の心を強く引っ張っていく。その「何か」が、二人の運命を大きく変えるものであることに気づくのは、まだ少し先の話だった。