he said , she said
籠める
当たりかもしれないな、と片岡直弥は心の内でひとりごちる。
本ならしおりを挟む、あるいはページの隅を折っておくところだ。要チェック。
いま彼の前には、長机をはさんで三人の女性が座っている。こちらは直弥を含め男性二人だ。
といっても、コンパや飲み会のたぐいではない。
ここは株式会社サカキの打ち合わせスペースだ。どこにでもある無個性なオフィス空間の一室。
女性陣はこちらが渡した、企画要綱とスケジュール表に目を落としている。
「———もちろんこちらはまだ素案です。細部に関しましては、各関連部署の皆さまと打ち合わせが必要になりますのでスケジュールは前後するかと思いますが…」
滑らかな口調で説明しているのは、直弥が勤務するGBBコーポレーションの代表、津島伸樹だ。
直弥より7歳年長で今年36歳になる。世間的には若社長と呼ばれるところだろう。いわゆるIT社長の枠内にも入るだろうか。
新進気鋭の若手起業家としてメディアに取り上げられることもある。
ちなみに津島と直弥は社長と社員だが、また従兄弟という間柄でもある。
「———そして実務の責任者が、こちらにおります片岡です」
津島の紹介を受けて、直弥は神妙に頭を下げた。
顔を上げると、三対の瞳がこちらに向けられている。
真ん中に座っている年配の女性、おそらく四十代だろう、の名は寺島陽香。
先ほど交換した名刺によると肩書きは主任だ。
両隣の二人はまだ若い。
向かって右側の女性の女性は村瀬真紀、と一応記憶のポケットに入れる。
明るい栗色に染めた髪はボリュームのあるボブで、毛先を巻いて首まわりを飾っている。
耳にはゴールドのピアス。一見するとセットアップのようで一枚仕立てになっている、凝ったデザインのニットを身につけている。
メイクが濃い。特に目がチャームポイントといいたいのか、まつ毛は上下とも樹氷のようにマスカラで厚くコーティングされている。
まばたくたびに重くはためいて存在を主張する。それは直弥に画像でしか見たことがない食虫植物を連想させた。
ウツボカズラ? いやハエトリグサか。
いったいそのまつ毛でなにを捕らえるつもりなのか。引っつくのは小バエくらいだろう。
直弥がひそかに目を留めたのは、左側に座る女性だった。
暮林瞳子。名刺を交換した際、さりげなく読みを確認した。
名前からしてなかなか好印象だ。古風なようで透明感がある。
名は体を表すという言葉があるが、本人の容貌とも似つかわしい。
総務部所属、と。いまのところ分かっている個人情報はこれだけだ。
GBBコーポレーションに、建設機械メーカーである株式会社サカキからERP(統合基幹業務システム)の開発の打診があったのは、半年ほど前のことだ。
数社とのコンペを勝ち抜いてつかんだ大型案件だ。ちなみに着手金だけで一億円以上というから、津島の鼻息も荒い。
財務・人事・生産・物流・販売、等々のさまざまな部門の業務を統括するシステムの開発だ。
むろん株式会社サカキのIT部署との連携体制だが、実用化にあたっては現場の声を反映させないことには使える物は仕上がらない。
そこで各部署から数名を選んでもらい、定期的に打ち合わせをし課題を洗い出し、解決しながら精度の高いシステムを完成させてゆくというわけだ。
女性を物色する場ではまったくないのだが、常にアンテナを張っているのは、これはもう男の性というものだろう。
結婚も人生の大きなプロジェクトだ。失敗はしたくないものだ。相手選びは特に慎重に、である。
総務、人事、経理部門のプロジェクト担当として現れたのが、ここにいる三名の女性だった。
「お忙しい業務のかたわら、お時間を頂くことになりますが」
津島の口調はこの上なく丁重だ。
「いえ社を挙げてのプロジェクトですので、こちらこそよろしくお願いいたします」
白い歯をのぞかせて口を開いたのは寺島だ。
おや、と直弥は彼女に観察の目を向ける。
「IT部門からの話によると、現行の機能をベースとしてバージョンアップさせたシステムの完成を目標にするということでしたが」
おっしゃる通りですと津島が鷹揚にうなずく。
年齢や役職もあるのだろう。寺島が話を進め、後の二人は聞き役に努めている。
「開発、試作、移行期間と約二年ですから長丁場になりますね」
よどみなく唇に乗せながら、津島と直弥に視線をあててくる。
失礼ですが、と直弥は好奇心をそそられたといった調子で口にする。
「寺島さんは以前、アナウンサーとかリポーターのような人前で話をするお仕事をされていたんですか?」
寺島はかるく目を見張ってみせたが、その驚きに不快げな様子はない。
「ええ…そんな華やかなものではありませんが、商業施設でPRスタッフをしていたことがあります。案内嬢といいますか。よくお分かりになりますね」
「滑舌が良くて、声がキレイでいらっしゃるので」
腹式呼吸ができているのだろう。発声が明瞭で、何より鼻濁音を使っている。
アナウンサーほど完璧でもないし洗練されてもいないが、表情の作り方といいなんらかの職業的訓練を受けた経験があると察しがついた。
どこでそんな知識を仕入れたかといえば、もちろん売れないフリーアナウンサーやリポーターという類の女性と遊んだ経験があるからだ。
「いえいえ、それほどでも」
言葉は謙遜しているものの、口元は満足げに緩んでいる。
単純な女だ。
軽いジャブは実のところ瞳子に向けてのものだ。
ハエトリグサ村瀬は、あからさまにつまらなそうにまつ毛を伏せ、口角がへの字に曲がっている。
声のことであっても、他の女性が「キレイ」と言われて賛辞を受けているのが気に食わないのだ。
そのプライドの高さが男を遠ざけているとも気づかずに。
瞳子はといえば、表情には出さないよう自重しているものの、感心したようなまなざしをこちらに向けている。
そうでなくてはと、直弥は内心深くうなずいた。
さて、まずはどうやってこの女性、暮林瞳子と二人で話す機会を作るかだ。
・
お前の女の、というか結婚相手に求める条件がそれじゃ厳しすぎるぞ。
また従兄弟にして社長の津島に、なんとはなしに結婚についての持論を口にしたら、そう呆れられたものだ。
ハードルは高いほど乗り越えた達成感は大きいものだ。なにより自分は選べる立場だと自負していた。
直弥の生まれ育ちはいたって平凡だ。
実家は東京近郊のベッドタウンとして開発された新興住宅地の一戸建てで、サラリーマンの父親と専業主婦の母親、三歳違いの兄がいる四人家族だ。
父親は早稲田の理工学部を卒業して、大手電子メーカーのエンジニアとして定年まで勤め上げた。
勤勉で優秀というサラリーマンの鑑のような人材だったことだろう。
知能の80%は遺伝で決定されるというから、自分の脳みその出来の多くは父親から譲り受けたものだろうし、直弥はそこに深く感謝している。
しかし自分は時流に乗りもう少し、いやかなり利に聡く生きることにしたわけだ。
国立大学の経済学部を卒業したのち、就職先に選んだのはスマホ向けのゲームアプリを開発している会社だった。
とにかく羽振りがよかった。
業績は右肩上がり。働けば働くほどインセンティブが得られ、仕事も利益を生み出すことも、遊ぶことも面白くてたまらなかった。
とはいえそこに、いわゆるバブル経済にも似た危うさを、嗅ぎとってもいた。
流行りものは廃りものだ。いつまでも高波に乗り続けられるものでもない。
次なるステップを模索していたところで声をかけてきたのが、また従兄弟の津島伸樹だったのだ。
それまではさしたる親戚付き合いもなかった。母方の法事で顔を合わせたことがあっただろうかという程度。
母親が従姉妹のりっちゃんとこの伸くんが、東工大にいってて在学中から起業したんですって、などと話していたのはうっすら憶えていた。
津島もまた直弥の存在を耳にはさんで、お互いの母親づてでコンタクトを取ってきたのだ。
「優秀な人材なら、いつでも喉から手が出るほど欲しい」と語る津島は三十代の始めながら、早くも成功者の香りを纏っていた。
システム開発を主軸にしたベンチャー企業の経営者と、優秀なエンジニア。
互いの求めるものは合致しており、話は早かった。二十代の若さで役員の肩書きが得られるのも大きな魅力だった。
それから三年近く経とうとしている。
直弥は今年で29歳になる。
仕事は順調だ。父親が同じ歳の頃と比較すれば目を剥くであろう額の収入も手にしている。
東京という街で金があれば、あらゆる種類のきれいな女性と知り合い遊ぶことができる。
もちろんそれもまた一通り体験した。刺激と浪費と享楽と…。
かなり羽目を外したこともあったし、それはそれでいい思い出だ。
ぼちぼち結婚という安定した大地を求めてもいいだろう。
高学歴、高収入に加えて並以上の容姿も持ち合わせていた。今どきの女性がもっとも好むクセのない爽やかな顔立ちをしている。
おかげさまで寄ってくる女性は引きも切らない。
しかしこれがまた自分のめんどくさいところで、狙って落とさないと達成感が得られないのだ。
厄介な性分だが仕方ない。
抜け目なさと立ち回りの上手さは、津島も認めるところだ。
ひとつプロジェクトと並行して暮林瞳子に注力することにしよう。
すでに小さな仕掛けを施してきた。
ひそかに心待ちにしていた連絡は、株式会社サカキを辞した数時間後の夕刻にメールでもたらされた。
自社のデスクで、ポップアップのメール通知にはやる心を抑えてクリックした直弥は、差出人の名が「寺島陽香」であることに気づいて小さく舌打ちをした。
『本日はご来社いただきありがとうございました』という儀礼的な文言の後にところで、と続いている。
『お帰りになった後に、片岡さんが座っていらした椅子にボールペンの忘れ物がありました。もし片岡さんの物でしたら、当方で保管しておりますので、お手数ですがご確認お願いいたします』
という文章とともに画像が添付されていた。
言わずもがな、直弥がわざと置いてきたボールペンだ。古典的な手法だが、なんだかんだ使えるのだ。
そこいらの文房具店やコンビニで手に入るような物ではない。ビジネスパーソンの必需品としてよく名が上げられるメーカーの品を直弥も愛用していた。書き心地の良さもさることながら、細部の安っぽさは持ち主の格まで落としてしまうからだ。
瞳子がそこに気づいてくれるといいのだが…しかし、連絡をよこしてきたのは寺島だ。
あの三人の女性の関係性なら、訪問客が辞した後の部屋の片付けは瞳子と村瀬の役割だろう。
茶を出してくれたのも瞳子だった。
つまり、と直弥は想像を働かせる。
ボールペンを見つけた瞳子はどうするか。独断でこちらに連絡せずに寺島に報告したのだろう。
忘れ物があったんですが、と。そして寺島は言った。
「わたしが連絡しておくわ」
自己顕示欲が強い女だった。いかにも後輩の手柄を横取りしそうだ。
しかしおだてに弱い単純さがあり、喋っている内容を聞く限りそれなりの思考力はある。
あの年増女から情報を引き出すのもありだなと、直弥はメールの返信を打ち始める。
翌日。
直弥は意図的な早足で、株式会社サカキの受付スペースにたたずむ寺島に近づいていった。
「お時間とらせてすみません」
いえいえと口の動きだけでつぶやいて、寺島が手にしている社名入りの封筒を開けた。むき出しで持つような真似はしない。
中からボールペンを取り出した。
「ポケットから落ちたのかな、どうもありがとうございます」
かるく頭を下げて受け取る。
「わざわざ足を運んでいただかなくても。次の打ち合わせまでお預かりしてましたのに」
愛想のいい顔をこちらに向けてくる。
昨日も思ったが上背のある女だ。176センチある直弥と目線がほぼ同じなのだ。
ローヒールを履いているが170センチ以上は確実にあるだろう。
その長身を誇示するように背筋を伸ばした立ち姿からも、元案内嬢という経歴に得心がいった。
モデル体型と呼ぶには骨格がしっかりしすぎているが、見栄えは悪くない。
「そこまでご迷惑はかけられません」
向かい合わず45度の立ち位置で、ビジネスのパーソナルスペースより踏み入った距離をとったが、避けるそぶりはない。
取引先のハンサムな若い男との立ち話にまんざらでもなさそうだ。
寺島さん、と名前を口にする。
「差し支えなければ、プロジェクトに関して二、三お伺いしたいことがありまして。そんなにお時間は取らせないんですが…」
あ、はい。とあっさり受け入れられた。
立ち話もなんですからと、受付の先にある休憩コーナーのようなところに案内された。丸テーブルと簡易的な椅子がいくつか置かれている。
給茶器から紙コップに注がれたひどく不味いコーヒーを一口すすって、直弥は話を切り出した。
「プロジェクトをスムーズに進めるためにメンバーのみなさんのことを頭に入れておきたいんです」
まるであなたのことを知りたいとでも言いたげに、寺島に視線を注いでやる。
安全策だと知っているのは、彼女の左手の薬指にシンプルなリングが光っているからだ。
「と仰いますと…」
小首をかしげてみせる。
直弥は手帳を広げ、先ほど寺島から受けとったペンを手にする。
「みなさん総務部ということですが、具体的にどなたがどのような業務を担当されているのかと思いまして」
そういうことかと寺島は表情をゆるめ、ご自慢の滑舌で喋り出した。
「わたしは総務部の中で、人事を主に担当しております。村瀬は渉外、暮林は経理です。
各々の業務は重なっている部分もありますので、連携をとりながらチームで仕事をしております」
目を見開いてこちらを覗きこむように語りかけてくる。
自意識が強い女だが、本人が思うほどの美貌ではない。大きな丸い目とぽってりした唇という派手やかな顔立ちだが、繊細さに欠ける。
大造りで、ともすれば暑苦しい印象に転びそうだ。
長身も相まって、最大限に褒めれば舞台映えしそうといったところだろうか。
「村瀬さんは渉外、ですか?」
直弥はメモをとる手を止めて聞き返した。
はい、とうなずく。
「村瀬は小学生の頃、お父様の仕事の都合で中国に住んでいたので、中国語がかなり喋れるんです」
それはそれは、と感心してみせた。
器量のわりに尊大な女だと思ったが、なるほどバイリンガルという自負心からか。
重たげなまつ毛が記憶のすみで瞬いた。
「当社は生産・販売の両面で中国に拠点がありますので。契約の締結などでは専門の通訳の方をお願いしたりするんですけど。
細かい業務上のやり取りでも、英語よりやっぱり相手の国の言葉で話すと打ち解けてもらいやすので」
なるほどと受けてから、さりげなく切り出した。
「そして暮林さんが経理なんですね」
「ええ、経理には大きく出金と入金がありますが、暮林は出金の担当です。もちろん入金の業務のことも把握しておりますので、どちらのシステムのことも聞いていただいて大丈夫です」
直弥のなかで瞳子のポイントはさらに加点された。
経理に求められる資質は、処理の正確さや速さといったことより、まずはモラリティだ。
出金業務は社における経費の実態や、社員のプライバシーなどに密接に関わることになる。社長の給与だろうと振り込むのは経理担当の社員なのだ。
人間性も考慮して配属しなければならない。
彼女は真面目で弁えがあり仕事はきちんとこなすと、会社からそう評価されているということだ。
あとは、どう二人で会って話す機会を作るかだ。
定期的にサカキを訪問する機会はあるが、ドラマのような偶然のすれ違いは期待できそうもない。
直弥が立ち入れるのは、基本的に受付と応接スペースのみだ。瞳子がどのフロアで働いているのかも不明だ。
さすがに妙案は浮かばず、結局正攻法でアポイントを取りつけることにした。
プロジェクトのことでヒアリングしたいことがあると、瞳子の会社のアドレスにメールを送る。多少不自然かもしれないが仕方ない。
『メール拝見いたしました』という返信に胸がおどった。
都会の夜で、欲求と快楽が直結している出会いを繰り返していたせいだろう。
丁寧な文面がひどく清冽に目に映る。
お役に立つか分かりませんがとことわりながら、了承の文言が続く。
業務の性格上、五十日と月末月初に処理が集中するので要望に応えられないかもしれない旨が添えてあった。
会社員として実にそつのない返信だ。
下心を隠して女性に近づくのはいつぶりだろうなどと思いながら、直弥は忙しくスケジュールに目を走らせた。
二日後の11時半にアポイントを取ることに成功した。
11時半という中途半端な時間にしたのは、ランチにこぎつけようという狙いだが、さてそこまで首尾よくいくだろうか。
その日の朝は、やはり気に入りのネクタイを選び出した。
GBBコーポレーションは社長の津村の方針で、クライアントに会う際にはスーツが原則だ。
IT企業にありがちな手入れされたヒゲやノータイのカジュアルファッションは「うちにはまだ早い」というのが彼の考えだった。
直弥もそこに異論はない。服装で信用が買えるなら安いものだし、ビジネスの場ではやはりスーツ姿がもっとも映える。
約束の時間の少し前にサカキに着いたが、瞳子はすでに待っていた。
プレーンな濃紺のスーツの上下という格好だが、その色合いが彼女の肌の白さとなめらかさを引き立てている。
スカートはフレアになっており、かっちりしすぎない柔らかな印象だ。脚の形も悪くない。
前回の好印象が目減りすることなく裏打ちされていくと、手ごたえを感じるものだ。
二人だけだからだろう、こぢんまりした応接スペースに通された。距離が近くなるので好都合だ。
瞳子がお茶を出してくれた。
「このあいだ僕が忘れたボールペンを見つけてくれたの暮林さんですよね、ありがとうございます」
とぶつけてみる。
半分ハッタリだが当たりだった。
瞳子の目元がほころんだ。
「あ、やっぱり片岡さんのものだったんですね。片岡さんが座っていた椅子の上にあったのでそうかなと思ったんですけど…よかったです」
やはりそうか、あのノッポ女。さも自分が見つけたかのような顔をして、厚かましいやつだ。
せめて少しはこちらの役に立ってもらおう。
「あの…失礼ですけど、寺島さんはご結婚されてますよね?」
はい、と訝しげに瞳子が返してくる。
「お子さんがいらっしゃるのでしたら、遅い時間に打ち合わせを入れないほうがいいかなと…」
神妙な表情を作ってみせる。
「お子さんはいらっしゃらないので…大丈夫だと、思います」
プライバシーに触れるので瞳子の返事がぎこちなくなった。
寺島を妻にするのはどんな男だろうと、ちらと興味を覚える。
小柄な男かもしれない。自分の身長コンプレックスを長身の妻で埋めたがるパターンはなくもない。
「暮林さんと村瀬さんは、そのあたり大丈夫でしょうか」
何食わぬ顔で聞いてみる。
「はいわたしも村瀬も独身ですので」
お気遣いなくとつぶやく。
万が一ということもあるので確認だ。既婚の女性を口説く趣味はない。
とどめるものが無くなったところで、直弥はプロジェクトにかこつけ言葉を弄して瞳子の個人情報を引き出すことに努めた。
大学卒業後、新卒で入社して三年目(ということは今年で25歳だ)、実家から通勤している、と。
次の関門はもちろん現在交際相手がいるかどうかだが、ここはじっくり攻めることにしよう。
雑談をはさんでやり取りしていると、30分はあっという間に過ぎ去った。
「よろしければお昼いかがですか」
話の続きのように投げかける。
午後からはIT部門の方と打ち合わせでまたここに戻るので、と畳みかける。
「あ、でしたら…」
すんなりと瞳子はこちらの誘いに乗ってくれた。
並んで歩くというのはなかなか新鮮なものだ。
隣の瞳子の身長は高すぎず低すぎず。150センチ台だろう。
自然とこちらを見上げるかたちになる。そうして直弥は彼女の美点を一つ発見した。
おとなしそうな外貌であるのに訴えかけてくる引力があると感じていたが、彼女は黒目が大きいのだ。
カラコン無しでこの大きさはなかなか希少だ。
あるいは彼女の両親も、産まれてきた女児の黒々と濡れた瞳から「瞳子」と名づけたのかもしれない。
オフィス街なのでランチタイムはどこも込むという話だったが、一軒目に入ったイタリアンですんなりとテーブル席に通された。
なにかの吉兆のようだ。
話術には自信があるが、まずは彼女の緊張を解きほぐしていかなければ。
距離を縮めようとすると遠ざかる、瞳子の男性へのこの警戒心は悪くない。
ヤリイカの明太子クリームソーススパゲッティが以前食べて美味しかったと瞳子が選んだので、「じゃあ僕も」とすかさず乗っかった。
初心な女性には、基本的なテクニックが有効だろう。
恋愛テクニックはさておき、出てきたパスタの味はなかなかだった。
美味しいですねと、向かいに座る瞳子に笑いかける。
たまに来る店だと、パスタを口に運びながら瞳子は言った。
普段は、弁当を買って社内の飲食スペースで昼食を済ませることが多いという。
女性と食事をする際に気をつけるべきは、食べる速さを抑えることだ。
こちらにペースを合わせようと相手を焦らせては、会話どころではなくなってしまう。
直弥は意識して一口を控えめにして、ゆっくり咀嚼する。
そうしながらプロジェクトをとっかかりに話を広げてゆく。
「アメリカの企業では、一般的に汎用システムをカスタマイズして使用しています。そうすると一度覚えると転職した先の会社でも使えるので、システムを習熟するインセンティブが働くみたいですね」
そうなんですねと、向かいの瞳子が目を丸くする。
「日本企業は自社の業務に最適化した、専用のシステムを求める傾向にあります。社員第一主義といいますか。どちらもメリットデメリットがあるので、どちらがいいとは一概に言えないですけど。出羽守ではないので」
でわのかみ? と瞳子が目を瞬かせる。
「アメリカ “では” とかヨーロッパ “では” とか、欧米を引き合いに出して日本を落とす人のことを揶揄して出羽守って呼ぶらしいですよ」
瞳子がクスッとする。
「面白いですね」
素敵な笑顔ではないか。安売りしないところがいい。
場の空気がほぐれたところで直弥はすんなりと「またぜひ」と口にすることができた。
短い言葉に意思をこめ、瞳子ははにかみながら「はい」と承諾の言葉を返してきた。
午後からはサカキのIT部門の責任者との打ち合わせだった。
中川という三十代の男で、小太りにメガネ、あまり息継ぎをしない早口の喋りかたといい、いかにもオタク然としている。
容貌はともかく、仕事ぶりは見事なものだ。
頭が切れ、こちらの意図を的確に汲みとって各部署に伝播し、さらにそのフィードバックを集約する、といった面倒なこともそつなくこなしてくれる。
クライアントでなかったらスカウトしたいくらい有能な人物だ。
こういった人材を社内のIT部門に抱えているところからも、サカキという企業のレベルの高さが窺える。
中川との打ち合わせは、常に膝付き合わせての密なものだ。
各部署からの要望をすべて満たしていると、コストが天文学的になってしまう。
どれを取り入れどこを諦めるか、最終的には予算と上層部との折衝になる。
主幹である製造部門の予算案を次回に提出することで、その日の打ち合わせはようやく一段落した。
サカキの現行の基幹システムは相当な年代ものだ。
数十年前にある会社が開発したのだが、ままあることで、その後システム開発の事業から撤退。
保守・管理の責務を果たすために一名が残っているだけという状態だ。
その社員もすでに定年を迎え嘱託になっているのだとか。
どうあってもあと数年でそこには誰もいなくなる。であるからして、新ERPの開発と運用はサカキの急務だった。
「クラシックカーでレースサーキットを走っているようなもんですよ。今までよく致命的なクラッシュを起こさなかったもので」
中川はそんなふうに表現した。
そういった開発にいたる経緯はサカキの社員には秘することではないので、瞳子との2回目のランチで話に出してみた。
「その、今のシステムの保守の方…」
瞳子の興味を引いたようだ。
「なんだか孤島の灯台守みたいですね。最後の一艘まで見送って、一人だけ島に残って」
孤島の灯台守か。なかなかブンガク的な表現をするではないか。
感性、が彼女を解き明かすキーワードなのかもしれない。
分かりやすいブランド物や高価な品ではなく、自分の心の琴線に触れるものを大切にするタイプだ。
同時に彼女を誘う口実が見えてきた。
そういえば、とふと思い出したように口にする。
「いま六本木で印象派の絵画展をやってますよね」
「あ、電車の広告で見ました」
反応ありだ。
「僕の友達が広告代理店で働いてるんですけど、そのチケットがスポンサー筋で回ってきたんです」
少し間をおく。
「暮林さん、よかったらいかがですか」
ここでキッパリ断られたら、彼女には現在恋人がいる、もしくは脈なしと判断すべきだろう。
瞳子の表情にはありありと戸惑いの色が浮かんだ。
「え…と、チケットですか。片岡さんは行かれないんですか?」
「二枚貰ったんです。アートに興味がある人が周りにいなくて」
抜け抜けと口にする、広告代理店に勤める知り合いなら掃いて捨てるほどいるが、チケットを貰った話はもちろん嘘だ。
手に入れる方法はいくらでもあるし、そこは瞳子の返事を聞いてから考えればいい。
「そんなに絵に詳しいわけじゃないんですけど…」
こちらの意図をはかりかね、取引先の相手という関係性もあって、困惑している様子だ。
「僕もですよ。たまたまチケット貰ったので、ムダにするのももったいないかなと思って」
直弥の言葉をどこまで信用したかは不明だが、瞳子は最終的には誘いを承諾したのだ。
そして彼女のプライベートの連絡先を入手した。これは大きな前進だ。
その夜、さっそく瞳子の通信アプリのアカウントに送るメッセージをひねる。
『はじめまして、片岡です。今日は突然誘って驚かせてしまったらすみません。
絵画の展覧会を観にいくのは何年ぶりか思い出せないくらいです。来月末まで開催しているみたいなので、瞳子さんのご都合のいい日を教えてください』
初めて「瞳子さん」と下の名前で呼んだ。さんづけだから受け入れられるだろうとひとりごちて、送信をタップする。
夜の酒席で「アカリですぅ」「マユコでーす」と自己紹介する女性に慣れてしまっていた。
名字から距離を縮めていくまどろっこしさ。しかしそれがいま自分が求めているものだ。
この数年で、アバンチュールのあるなしを含め、あらゆる種類の華やかなりし女性と関わりを持った。
キャビンアテンダント、アパレルや広告代理店で働く女、売れないモデルやタレント、二流どころのアナウンサーやリポーター…
起業家を名乗る女性もいた。
自意識過剰でプライドの高い女性たちと一通り刺激的な時間を過ごし、面白がりながら、どこかで軽蔑している自分に気づいていた。
彼女たちの半数がお小遣い目当てのいわゆる「ギャラ飲み」だったのもあるだろう。
自分の若さと美しさを金銭に換える割り切りのよさは、過ごしていて気楽なものだが、むろん本命にはなり得ない。
モデルやタレントを称する女性たちは、案外しおらしいものだった。
自分が商品である世界で、ショーウィンドウに並べられていながら目を向けられない現実を日々痛感しているせいだろう。
アナウンサー、キャスター、リポーターといった肩書きがつくと、知性なるものも採用項目に入ってくるせいか、ねじくれている印象があった。
燻っている自分への焦りや、売れっ子への妬みを滲ませながら、チャンスや転機といったものの訪れを渇望している。
いちばん面倒なのが、キャビンアテンダント・広告代理店・マスコミ業界・人気アパレルなどに勤める女性たちだった。
企業に勤める社員という安定した枠に収まりながら、自分は何者かであると思っている一般人ほど扱いづらいものはない。
あの中国語が喋れるとかいう村瀬真希もそこに入りそうだ。
行き着くところ、直弥は “普通” の女性を求めているのだ。
ちなみにいわゆるお嬢様と呼ばれる人種にも、食指が動かなかった。
直弥自身が、家柄や財力といったバックボーンを持たない、いわゆる成り上がりだからだ。
「うちの娘を粗略にしたらただではおかない」と権高い両親がセットになったわがまま娘など、こちらから願い下げだ。
自分と同じようなサラリーマン家庭の育ちで、一般企業で働いているOL、となるとやはり仕事を通しての出会いが無難だった。
互いの身元がある程度知れるというメリットもある。
暮林瞳子。
25歳で中堅の建設機械メーカーの経理。社のプロジェクトメンバーに名を連ねるからには、人柄や仕事ぶりで信用を得ている。
大いに結構ではないか。
待つこと三十分ほど、『暮林です』と返信が届いた。
『すごく評判のいい展覧会みたいですね。わたしが誘っていただいていいのか、恐縮です』
小さな汗マークの絵文字が末尾に付いていた。
『週末でしたら、急用が入らないかぎりだいじょうぶです』と続いている。
ということは定期的にデートをするようなステディな相手はいないということだ。
小さくガッツポーズをする。
最小限の絵文字にやや他人行儀な文面だが、少しずつくだけていくだろう。うまくいけばの話だが。
直弥はスケジュールをにらんだ。瞳子とのデート、の前に仕込みを万全にするためだ。
・
「珍しいじゃないっすか、片岡さんから声かけてくれるなんて」
井出克行がビールジョッキを口に運ぶ。
相変わらずフットワークと口調が軽い。
「合コンしたい、とかじゃないでしょう?」
探るような視線をよこしてくる。
「六本木界隈で美味い店を教えてほしくてさ」
駆け引きするような相手ではないので、さらりと告げる。
「女の子と行くんですか」
そういうことと、頷いてみせた。
「ランチとディナーと。流行りの店じゃなくて隠れ家っぽい、デートに使える店」
「てことは相手はカタギの女の子なんですね〜」
井出は広告代理店の営業だが、本職より酒席と女性の手配が得意な便利屋として重宝がられている。
やたらと顔が広く酒と美食に詳しいのが売りだ。
何年か前、 “友達が多い” を自称して闇営業に手を染めたことでスキャンダルになった芸人を思い出す。
金と権力が渦巻く場には、余禄を喰もうとする有象無象が湧いてくる。
井出のようなコバンザメの腹が膨れる業界であり、彼は有能なコバンザメだった。
「あとで店みつくろって、リスト送りますよ」
実に話が早い。
「人気の店はホントに予約が取れないっすね。半年先まで埋まってます。なんとかならないかってお得意さんからよく聞かれるんですけど」とこぼす。
「美食ブームは衰えないな」
井出も直弥もいわゆる美食家や食通ではない。
男二人のこうした見栄のいらない場では、居酒屋にケが生えたような店で十分だった。
砂肝のごま油風味、だし巻き卵といったありきたりな肴をいくつか頼んで、ビールを飲んでいる。
「京都の有名割烹で修行した板前が独立して、全国各地から取り寄せた食材を使って腕をふるう創作懐石、なんていうとコースで二万五千円で満席です。ものの味というより、◯◯で食べた、▲▲も行ったけどなかなかだったな、なんて仲間内で言い合うためにあるようなもんですよ」
自嘲混じりの言葉だ。
井出は軽薄なだけの男ではない。これが自分の渡世だと分かったうえで小物に徹しているのだ。
「うちの若手が飲み会やりたいって言ってるから、今度セッティングしてよ。業務提携先の連中も乗ってくるかも」
見返りに直弥は自分の人脈を与えてやる。
「いいすね、キレイどころを揃えますよ」
酒と美食を媒介に、男と女、人と人を繋げていく。
ある意味win-winだと、直弥はビールジョッキを傾ける。
・
西武池袋線沿いの実家に住んでいると、瞳子はメッセージで教えてくれた。
普段は池袋に出て、そこから丸ノ内線に乗り換えて通勤しているという。
愛車で迎えに行ってみせたいところだが、付き合ってもいないのに実家に乗りつけるのはやりすぎだろう。
数度のやりとりの末、六本木のアマンドの前で待ち合わせになった。
おのぼりさんのようだと思うが、ヒルズやミッドタウンは出入り口が多く、かえって迷うのだ。
約束の週末、直弥はリネンとコットンの混紡のネイビーのジャケットにチノパンツという格好で、六本木の駅に足を下ろした。
くだけすぎず仕事着の延長のような装いだ。
交差点で信号待ちをしながらアマンドに目を向けると、やはりというか、瞳子が店の前で所在なさげに佇んでいた。
真面目で慎重な気質はメッセージのはしばしからも感じとれる。待ち合わせには早めに着いていたいのだろう。
まだこちらに気づいていないので、遠目に彼女を観察することができた。
ライトグレーのワンピースにカーディガンを羽織っている。
過度に自分を主張しない、コンサバなファッションだ。
信号が青に変わり足を踏み出す。
瞳子が顔をこちらに向け、直弥と視線がかち合った。
かるく手を上げてみせると、彼女も小さく手を振った。
交差点を大股で渡り、お待たせしました、と笑いかけると「今日はよろしくお願いします」と瞳子がちょこんとあごを下げる仕草をしてみせた。
会社では肩までの髪をストレートに下ろしているが、今日は内巻きにセットしている。
平日とは違うおしゃれを意識しているということだ。
仕事を離れてプライベートで会うのは、互いに面はゆいものだ。
しかも二人のあいだにはまだ何も始まっていない。
「ちょっと早いけど、お店行きましょうか」
ランチを食べてから絵画展に行く段取りだった。さて初デートのエスコートは腕の見せ所だ。
外苑東通りを二人で歩き、ミッドタウンを右手に見ながら路地に入ってゆく。
とたんに道幅はぐっと狭く建物は小ぶりになる。飲食店がひしめいているが、バーが多く昼の時間帯は扉を閉ざしている店が目についた。
何個めかの小路の角に、その店はあった。うっかりすると通り過ぎてしまいそうだ。
外観はどうということのない和風の小料理屋だ。
からりと引き戸を開ける。と、「いらっしゃいませ」と女性の二重奏に迎えられた。
聞いていた通りだ。
こぢんまりした店内は向かって左側がL字型のカウンター席、右手の壁にそっていくつかテーブル席がしつらえてあった。
オープンキッチンの中に若い女性が一人、そして年配の女性に出迎えられる。
カウンター席に何人か先客がいた。
「予約していた片岡です」と告げると、テーブルの一つに案内された。
「女性だけでやっているんですね」
瞳子が声をひそめてささやく。
「料理人の女性とホールの女性、母娘だそうですよ」
さっそく教えてやる。
えっ、と瞳子は小さく目を見張って、立ち働く二人の女性にちらちらと視線を送った。
「東銀座に若い店主がやっている天ぷら屋があるんですけど。その店主に、妹が六本木に小料理屋を出して母と二人で頑張ってるから顔出してやってほしい、って話で」
正確には井出からの受け売りだが、そこはしれっと割愛する。
「兄妹で料理人になるって、血筋ですかね。二人とも自分のお店を持つなんてすごいですね」
瞳子はいたく感じ入った様子で、品書きを見る目にも熱がこもっている。
厚紙に和紙を貼っただけの手書きの品書きで、メニューも数種類だけだ。
食材にこだわり、定番の和食にひとひねり加えた料理が売りだという。
「この梅香る親子丼、ってどんな味か気になりますね」
品書きを二人で覗きこむので、自然と顔を寄せることになる。瞳子は距離を取ろうとはしなかった。
「それ、僕も気になりました。同じのにしましょうか、店の人もそのほうが楽だし」
「そうですよね、一人ですものね」
ちらりとキッチンに目を向ける。
察しがよく気配りができる。
一緒にいて心地がいい、そんな言葉が心に浮かんだ。
やがて運ばれてきた膳は、期待を裏切らない味わいだった。
いわゆる親子丼に、大胆に料理人のアレンジが施されている。
卵白をメレンゲにして熱を加えたのか、卵は口に入れるとふわふわほろほろと口の中で溶ける。
香ばしく焼き目をつけた鶏肉に、梅の香りで炊いた白米との相性が絶妙だった。
付け合わせもまた洒落ている。
一見とうもろこしの白和えかと思いきや、口に入れると豆腐ではなくカッテージチーズという小さな驚きに出会う。
それでいて風味づけはかつお節と、さらに意表をついてくる。
食べ手の感性を刺激する料理は、まだぎこちない間柄の男女に話題を提供してくれる。
直弥と瞳子は口々に味を賛辞し、隠し味や調理法についてあれこれ考察した。
味覚の確かさから、彼女の家庭環境の素地が垣間見える。
瞳子は恥ずかしそうに、普段は母と祖母に頼りきりで、自分はめったに台所には立たないと打ち明けた。
「お祖母さんと一緒に暮らしてるんですか」
核家族化のご時世では珍しいことだ。
「母方の祖母なんです。父はわたしが学生時代に亡くなったもので。今は女三世代で一つ屋根の下に住んでいます」
父を亡くしたという言葉に、反射的に表情を引き締めてみせたが、内心には後ろぐらい安堵がある。
交際相手の父親ほど男として畏怖を感じるものはない。
姫を守る強力な騎士はすでに亡いのだと知る。
瞳子の表情や言葉に暗い影は感じられない。暮林家は穏やかな女世帯を営んでいるのだろう。
おそらくは一人娘の瞳子を心の主柱として。
こちらから誘ったのでと、直弥は勘定を素早く済ませ、財布を出しかけていた瞳子は、素直にそのままバッグにしまった。
「ごちそうさまです」
店を出たところで期待通りの丁寧なお礼の言葉だ。
「いい店でしたね」
「美味しかったですね、また行きたいくらい。味もお店の雰囲気もよくて」
リラックスした表情で、まんざらお世辞でもなさそうに口にする。
直弥は密かに井出に感謝した。
日本人は印象派が好きだ。印象派展と銘打てば人が呼べると、広告業界ではよく知られていることらしい。
問題は国内に作品が少ないことで、結局海外から借りることになり揃えるのが大変だ…そんな話を表現はソフトに置き換えつつ、道すがら瞳子に話して期待感を膨らませた。
意外なことに、直弥自身気分が高揚してきていた。
興行主が苦心して集めた絵画を鑑賞したいのか、それとも絵の世界に浸っている瞳子を見たいのかは判然としないが。
会場は予想以上に人でごった返していたが、年齢層が高めなので騒々しいというほどでもない。
値段が付けられないほどの価値といわれてもピンとこないが、明るい色彩で表現された光のなかに描かれた人物や風景画は、視覚にすっと入ってくる。
複製ではなく “ホンモノ” を見ているという俗っぽい満足感もある。
なにより人が多いので、瞳子との距離が自然と近くなるのだ。
はぐれないように瞳子の腕や手に触れたり、人波からかばうテイで背中に手を回しても、彼女は拒まなかった。
階段を何段飛ばしかで上がったような達成感だ。
展示の最後のほうに、『印象派展によせて』というパネルがあった。
今回の展示の目玉作品を、高名な美術評論家が解説しているものだった。
時代背景や鑑賞ポイント、画家の生い立ちも織り交ぜてあり、素人にも分かりやすい。
瞳子は熱心に目を通している。
直弥は女性に「知」なるものを求める気はない。おおかたの場合、プライドの高さとセットになっているからだ。
とはいえ基本線は押さえてもらわないと困る。
絵画の展示室ではないので、そのスペースには大きくとられたガラス窓から午後の陽が降り注いでいる。
文章を追う瞳子の横顔を陽が照らし、頬のうぶ毛が透けている。色づきはじめた桃の実のようだ。
それを好もしいと直弥は感じていた。
どこもかしこもつるりと脱毛がゆき届き、眉にはアートメイクが施され、シャワーを浴びてももはやどれが素顔なのか分からない。
そんな女性たちの美への意識の高さ、というより執念は賞賛すべきなのだろうが、なぜか数を重ねるほどに、誰もかれも同じに見えてくるから不思議だ。
瞳子の “自然さ” に自分は心動かされている、もっと直截にいえば、そそられているのだ。
美術館を出た後は、足の向くまま二人で少し歩いた。
余韻にひたるのがいい。デートプランを最初から最後まで組んでおくなど中学生のやることだ。
流れにまかせる余裕を見せる。
ちょうど通りにスタバがあったので「お茶しましょうか」と声をかけた。
テーブル席は満席だったが、カウンターに二人並んでかけることができた。
この際、隣り合って座れたほうが好都合だった。
瞳子は抹茶フレーバーの飲み物を選んでいた。迷う様子がなかったので、彼女のお気に入りなのだろう。
さて、と直弥は自分に言い聞かせる。
ここは大事なところだ。焦ってはいけない。
感想から話を弾ませ、できればここで次の約束を取り付けたいが、がっつくと警戒されてしまうだろう。
直弥は大学の卒業旅行で行ったルーブル美術館を話題にした。
「学生なので貧乏旅行でしたけど。友達に歴史マニアみたいなやつがいて、どうしてもハムラビ法典を見たいとかいうもんで。
僕はミーハーなので、三大美女のモナリザとサモトラケのニケとミロのヴィーナスに会えて満足でしたね」
「わぁ、わたしもいつか会ってみたいです」
瞳子は “会ってみたい” と直弥の言い回しをなぞった。
なかなかいい流れだ。そのままこちらにたぐり寄せたい。
「モナリザは防弾ガラスの向こうでしたけど」
「さすが警備が厳重なんですね」
「瞳子さんは海外旅行とか行くんですか?」
さりげなく下の名前に切り替えた。
「友達と何度か。台湾とか良かったです。時差もほとんどないし、食べ物が美味しくて。故宮博物院も行きました」
相づちを打ちながら、その友達に男は含まれているのだろうかと思う。
無理に話題をひねり出さなくとも、会話はスムーズに続いた。
ここでぬか喜びしないほうがいい。互いのことをまだよく知らないうちは、質問することが豊富にあるからだ。
本当に相性がいいかどうかは会う回数を重ねて、そして最終的にはベッドで確かめることだ。
とはいえ瞳子の、控えめながら自分の意見をきちんと口にし、こちらに対して妙な媚がないところは、直弥の求めるところそのものだった。
まだ二人が会うには理由づけが必要だ。瞳子が “乗ってきやすそう” な誘いを探る。
服もバッグも腕時計も、これみよがしなブランド品は身につけていない女性。形に残るものより心に残るもの…
映画、テーマパーク、グルメ…悪くないが、どれもありきたりに思えた。
「今日ミュージアムショップ覗けばよかったな。一人暮らしもそこそこ長くなったので、インテリアに凝りたくなってきたんですよ」
混雑していたので早々に出てきてしまったのだ。
「美術館のショップって限定品もあって、見てると楽しいですよね」
「最近じゃ転売屋がわいて大変らしいですけど」
困ったものですね、と瞳子が眉を寄せる。
瞳子の眉はなだらかなアーチ形で丁寧に描かれている。
眉の描き方で、その女性のセンスやメイクの腕はあらかた見えるというのが、直弥の持論だ。
まつ毛やアイラインで、ひたすら目元を強調する女性は多いが、実際のところ整形でもしない限りいちばん手を加えられるパーツは眉だ。
そこをおざなりにしてはいけない。
眉尻はきちんと眉頭はぼかすと、メイクの基本ができている。柔らかなブラウンも彼女の雰囲気によく合っていた。
「代官山に、気になってるインテリアのセレクトショップがあるんですけど、今度行ってみませんか?」
「セレクトショップ、ですか」
またも即答を避けられたが、直弥はひるまなかった。
「瞳子さん、センスがよさそうなので。アドバイスもらいたくて」
「わたしのアドバイスなんて。自分の好きなものを選ぶのが一番いいと思いますよ」
言いながらも、瞳子の目元は優しげだ。
見てるだけでも楽しいですよという直弥の押しに、それ以上しぶることなく承諾したのだ。
・
「———何万とあります機械の部品番号は、システムが変わっても引き継いでもらいたいです。いきなり別のものになってしまったら、間違いなくオペレーションに混乱をきたします」
サカキの製造部門の面々は、一人の言葉に同席している全員が無言でうなずいて同意を表す。
「もちろん、そちらに関しては対応させていただきます。昨日と変わらず、そして今以上に業務をスムーズにできるようにするのが完成目標ですので」
直弥は請け合ってみせるが、場の雰囲気は固い。
製造や物流部門のプロジェクトメンバーは年配の男性が圧倒的に多く、考え方ははっきりと保守的だ。
長年手足のように使ってきたシステムが新しくなることがどうしても不安なのだろう。
あれも変えないでほしい、この機能も残してくれないと困る、という彼らの切実な要望を、直弥は一つ一つタスクに加えてゆく。
むろんプロジェクトは完遂してみせる。
プロとして対価に見合う商品を提供するのは当然だが、サカキという会社に個人的な思い入れも加わった。
今この会社には、直弥の彼女がいるのだ。
自分で狙い、ことを運んだとはいえ、展開には想定外のこともあった。
スリルを求めたわけではないのだが、やはり男と女のことは計算通りにはいかず、だからこそ面白い。
直弥は十日ほど前の、代官山の夜のことを反芻する。
代官山。
こぢんまりした品のいいショップがそこここにある街は、デートにもってこいだ。
午後の早い時間に瞳子と駅で待ち合わせた。
前回は昼から夕方で、今回は午後からディナーの約束をしている。
意図的に大人の時間へとずらしているが、どのタイミングで決定打を放つべきか。
言葉でか行動でか。
「付き合おうか」といった言葉で交際を始めるのは、学生かせいぜい二十代半ばまでだ。
自分も瞳子もとうに子どもではない。
遊びで恋愛をする年齢ではないなら、どう進めるべきかと思い巡らせる。
メッセージアプリで毎日のようにやり取りをしているが、瞳子は付かず離れずといった姿勢だ。
拒むではないが、瞳子からの誘いや好意をのぞかせる言葉は今のところないのだ。
今日の瞳子はツインニットにフレアスカートというさりげない装いだった。
ニュアンスカラーのニットはしゃれた色で、いかにも触り心地がよさそうだ。
瞳子にしてはリップの色が濃く、こっくりしたテラコッタカラーだが、それも大人っぽく映って新鮮だった。
道すがら交わすやりとりも、ずいぶんと滑らかなものになってきた。
「インテリアも凝りだすとキリがなくて」
言葉遣いを丁寧語から、いわゆる “タメ口” に変えてゆく。
「インテリアショップで扱っているセンスのいい物を揃えれば、見栄えはいいけどそれだけだとなんていうか…」
「モデルルームみたいになっちゃう?」
瞳子が言葉を引き取る。
「そう、そうなんだ」
思わずうなずく。
「なんかつまらなくて、愛着がわかなかったり。本当に俺はコレが欲しかったんだっけ、って」
言いながらこれは女性にも通じることだなと、ふと気づく。
控えめながらも率直で、ときに鋭さものぞかせる瞳子との会話は楽しい。
自分の祖父は宮大工を生業にしていたと、珍しく瞳子は自分から話してくれた。
暮林家は今も祖父が建てた日本家屋に住んでいるのだと。
「へえ、ぜひ見てみたいな」
興味をそそられる。
「あ、いえそんな立派なものじゃなくて、ただの一軒家ですよ。数寄屋造りっていうらしいですけど。
夏は涼しいけど、冬はそれは寒くて、住みづらいところもあって…」
瞳子には “モノ作り” の血筋が流れているようだ。そして祖父の作った家で暮らすなかで、感性も育まれたのだろう。
彼女を形成する一端が垣間見えた気がした。
そして直弥は、そんな彼女が喜ぶであろう場所に導き入れる。
オーナーがヨーロッパ各地を回り、陶芸家と直接契約して仕入れているというセレクトショップだ。
ここでしか手に入らないという一点物の陶磁器がところせましと並んでいる。
直弥のインテリア探しにかこつけたが、瞳子は狙いどおり目を輝かせた。
「わぁ」と小さく感嘆の息をもらす。
そんな彼女に、ゆっくり見ようよと声をかけて、少し離れた。
品物と値札にざっと目を走らせる。
高価なものはそれなりの値がついているが、手の届く価格帯の物も揃っている。
アーティストから直接仕入れをしているというオーナーの労が窺えた。
輸送コストや店舗のテナント料を考えると、かなりのお値打ちだろうと直弥は冷静に計算する。
瞳子はと視界の端でうかがうと、アートピースのような皿の作品群の前で足を止めて見入っていた。
角が丸い正方形の皿で、釉薬がガラスのように艶やかにかかっており、一枚一枚色合いが違っている。
濃淡の違う二色の組み合わせがどれも洒落ていて、つい次々と手にとってしまうといった様子だ。
サイズといい、インテリアにも実用にも使えそうだ。
引き込まれている瞳子に、目ざとく店員が近寄ってきた。
「そちらはフランスのリモージュ地方のアトリエで作られているんです。日本で直接取り扱っているのは、たぶんうちだけです。
どこかバイヤーさんとか経由で置いているショップはあるかもしれませんけど」
なるべく購買意欲をそそってくれることを念じつつ、店員の説明に耳を傾けている瞳子の背後からそっと近づいてゆく。
瞳子の手には、水色と藍に彩色された皿がある。
いちばん気を引かれている一枚のようだ。
一万円札で釣りがくる値段は、直弥にとってどうということはないし、このタイミングが相応しいと思えた。
「今ちょうどいろいろ入ってきたタイミングなんです。工業品ではないので、一度売れてしまうと次がなかなか…」
瞳子が手にしている皿に目を落とす回数が増えている。
心の天秤が「欲しい」ほうに傾いているのが伝わってくる。
「それ、もらおうよ」と言いながら、すっと足を進めて二人の視界に入りこむ。
えっ、という形に口を開けて瞳子がこちらに視線を振り向ける。
「すごく素敵じゃないか」
「あ、でも…」
戸惑う彼女の手からひょいと皿を抜き取って店員に渡す。
「これ下さい」そして付け加える。
「プレゼント用で」
店を出たところで、小さな紙袋を「どうぞ」と瞳子に差し出した。
「片岡さん、こんな…」
瞳子の目には喜色より戸惑いが浮かんでいる。
「今日の記念に」という台詞は我ながら気障だが、瞳子はおとなしく両手を出して袋を受け取った。
「悪いです…片岡さんのインテリア探しのはずなのに」
小さくとも陶磁器の皿を収めた袋は、確かな重みがある。
「悪いですより、ありがとうって言ってほしいな」
いたずらっぽく笑いかける。
「…ありがとう」
恥ずかしがってうつむく様が、なんとも可愛らしい。
「それと、片岡さんじゃなくて、そろそろ名前で呼んでほしい」
瞳子が顔を上げる。濡れた二つの黒目がこちらに向けられる。この真っ直ぐな瞳が欲しい。
「直弥、さん」
心を決めた声と感じるのは先走りすぎだろうか。
・
ディナーは代官山にほど近い中目黒にあるフレンチを予約していた。
ひところ流行ったネオビストロのスタイルを継承している店といったところだ。
普段着でも行けるようなカジュアルな雰囲気だが、味には本場仕込みのシェフの技が光る。
ホールを仕切るマダムもTシャツにエプロンという格好で、いかにも気さくな接客をしてくれる。
仕事の付き合いで訪れたのが最初だったと思うが、気に入って自分でも使うようになった。
外れのない選択だろうと踏んでいたが、彼女もやはりお気に召したようだ。
前菜のテリーヌは目に美しく、メインの牛肉はミディアムに焼かれた4切れの肉に、それぞれ異なるソースが合わせてある凝りようだ。
そういける口ではないと言うものの、瞳子はグラスの赤ワインをすいすいと口に運んでいる。
料理も酒も口に合ったのだろう。
「ああ、どれも本当に美味しいです」
瞳子が満足の吐息を漏らす。酔いのために頬がほんのり染まっている。
よかった、と意識して声を低めて向かいから彼女に視線を当てる。
「俺も今日は本当に楽しかった」
料理の感想でも言おうとしていたのか。開きかけていた唇を、瞳子がきゅっとつぐむ。
なにかを感じとったのだろうか。たとえば男の欲望とか。
いいことを教えよう。
見返りを求めない、などという男の言葉を信用してはいけないし、そんな男は存在しない。
ここまで来たら逃さない。
会計を終えるとマダムはちらと意味ありげな目くばせをよこした。
ぐずぐずと見送ったりせずに、すぐに引っこんでドアは閉められる。実に心得ている。
この店は半地下にあり、地上に上がるまでのコの字型の踊り場はちょっとしたスポットになっているのだ。
ごちそうさまでしたと、やや儀礼的に口にして階段に足をかけようとする瞳子の腕を、やんわりとしかし力をこめて捕まえる。
薄闇のなか振り向く彼女の表情は知れない。こわばった腕からは緊張が伝わってくる。
ひそかに待ち望んでいた瞬間なのか、それとも———
できればハンドバッグとプレゼントの紙袋で、彼女の両手をふさいでおきたかった。
小ぶりな袋だからか、瞳子は二つを片方の手に提げている。
腕を捕らえた手をそのまま肩へとすべらせ、両手で彼女の肩を包んだ。上質のニットは想像どおりの滑らかな手触りで、直弥の動きを助けてくれる。
そっと顔を寄せる。
が、唇が触れる前に瞳子は後ずさった。空いている片手が直弥の胸元につっかえ棒のように当てられる。
久方ぶりに味わう拒絶だった。
「いけません」と小さく固い声が言う。
いけません。母親か女教師の叱り言葉のような文句を、口説いている女性の口から聞かされるとは。
逃げるように瞳子が身をひるがえし、階段を早足にかけ上がる。
直弥も慌てて続く。
いけません。
こちらに背を向けたままアスファルトの地面に視線を落として、瞳子はもう一度口にした。ふるふると首を振る。
「わたしたち、まだ…」
まだ、なんだと言うのだ。行き場を失った欲望が己の中で渦巻いている。
この女が欲しいと切実なまでに思う。
しかしそのためには———
「あのっ、」言葉がつっかえてしまった。日頃は淀みないトークを得意としているというのに。
それでも彼女の背中に言う。言わねば瞳子は自分の手をすり抜けて、もう戻ってはこないだろう。
「…結婚を前提にお付き合いしてください」
自分がこんな陳腐な決まり文句を口にする日が来るとは。
ことの成り行きにいちばん驚いているのは、おそらく直弥自身だった。
本ならしおりを挟む、あるいはページの隅を折っておくところだ。要チェック。
いま彼の前には、長机をはさんで三人の女性が座っている。こちらは直弥を含め男性二人だ。
といっても、コンパや飲み会のたぐいではない。
ここは株式会社サカキの打ち合わせスペースだ。どこにでもある無個性なオフィス空間の一室。
女性陣はこちらが渡した、企画要綱とスケジュール表に目を落としている。
「———もちろんこちらはまだ素案です。細部に関しましては、各関連部署の皆さまと打ち合わせが必要になりますのでスケジュールは前後するかと思いますが…」
滑らかな口調で説明しているのは、直弥が勤務するGBBコーポレーションの代表、津島伸樹だ。
直弥より7歳年長で今年36歳になる。世間的には若社長と呼ばれるところだろう。いわゆるIT社長の枠内にも入るだろうか。
新進気鋭の若手起業家としてメディアに取り上げられることもある。
ちなみに津島と直弥は社長と社員だが、また従兄弟という間柄でもある。
「———そして実務の責任者が、こちらにおります片岡です」
津島の紹介を受けて、直弥は神妙に頭を下げた。
顔を上げると、三対の瞳がこちらに向けられている。
真ん中に座っている年配の女性、おそらく四十代だろう、の名は寺島陽香。
先ほど交換した名刺によると肩書きは主任だ。
両隣の二人はまだ若い。
向かって右側の女性の女性は村瀬真紀、と一応記憶のポケットに入れる。
明るい栗色に染めた髪はボリュームのあるボブで、毛先を巻いて首まわりを飾っている。
耳にはゴールドのピアス。一見するとセットアップのようで一枚仕立てになっている、凝ったデザインのニットを身につけている。
メイクが濃い。特に目がチャームポイントといいたいのか、まつ毛は上下とも樹氷のようにマスカラで厚くコーティングされている。
まばたくたびに重くはためいて存在を主張する。それは直弥に画像でしか見たことがない食虫植物を連想させた。
ウツボカズラ? いやハエトリグサか。
いったいそのまつ毛でなにを捕らえるつもりなのか。引っつくのは小バエくらいだろう。
直弥がひそかに目を留めたのは、左側に座る女性だった。
暮林瞳子。名刺を交換した際、さりげなく読みを確認した。
名前からしてなかなか好印象だ。古風なようで透明感がある。
名は体を表すという言葉があるが、本人の容貌とも似つかわしい。
総務部所属、と。いまのところ分かっている個人情報はこれだけだ。
GBBコーポレーションに、建設機械メーカーである株式会社サカキからERP(統合基幹業務システム)の開発の打診があったのは、半年ほど前のことだ。
数社とのコンペを勝ち抜いてつかんだ大型案件だ。ちなみに着手金だけで一億円以上というから、津島の鼻息も荒い。
財務・人事・生産・物流・販売、等々のさまざまな部門の業務を統括するシステムの開発だ。
むろん株式会社サカキのIT部署との連携体制だが、実用化にあたっては現場の声を反映させないことには使える物は仕上がらない。
そこで各部署から数名を選んでもらい、定期的に打ち合わせをし課題を洗い出し、解決しながら精度の高いシステムを完成させてゆくというわけだ。
女性を物色する場ではまったくないのだが、常にアンテナを張っているのは、これはもう男の性というものだろう。
結婚も人生の大きなプロジェクトだ。失敗はしたくないものだ。相手選びは特に慎重に、である。
総務、人事、経理部門のプロジェクト担当として現れたのが、ここにいる三名の女性だった。
「お忙しい業務のかたわら、お時間を頂くことになりますが」
津島の口調はこの上なく丁重だ。
「いえ社を挙げてのプロジェクトですので、こちらこそよろしくお願いいたします」
白い歯をのぞかせて口を開いたのは寺島だ。
おや、と直弥は彼女に観察の目を向ける。
「IT部門からの話によると、現行の機能をベースとしてバージョンアップさせたシステムの完成を目標にするということでしたが」
おっしゃる通りですと津島が鷹揚にうなずく。
年齢や役職もあるのだろう。寺島が話を進め、後の二人は聞き役に努めている。
「開発、試作、移行期間と約二年ですから長丁場になりますね」
よどみなく唇に乗せながら、津島と直弥に視線をあててくる。
失礼ですが、と直弥は好奇心をそそられたといった調子で口にする。
「寺島さんは以前、アナウンサーとかリポーターのような人前で話をするお仕事をされていたんですか?」
寺島はかるく目を見張ってみせたが、その驚きに不快げな様子はない。
「ええ…そんな華やかなものではありませんが、商業施設でPRスタッフをしていたことがあります。案内嬢といいますか。よくお分かりになりますね」
「滑舌が良くて、声がキレイでいらっしゃるので」
腹式呼吸ができているのだろう。発声が明瞭で、何より鼻濁音を使っている。
アナウンサーほど完璧でもないし洗練されてもいないが、表情の作り方といいなんらかの職業的訓練を受けた経験があると察しがついた。
どこでそんな知識を仕入れたかといえば、もちろん売れないフリーアナウンサーやリポーターという類の女性と遊んだ経験があるからだ。
「いえいえ、それほどでも」
言葉は謙遜しているものの、口元は満足げに緩んでいる。
単純な女だ。
軽いジャブは実のところ瞳子に向けてのものだ。
ハエトリグサ村瀬は、あからさまにつまらなそうにまつ毛を伏せ、口角がへの字に曲がっている。
声のことであっても、他の女性が「キレイ」と言われて賛辞を受けているのが気に食わないのだ。
そのプライドの高さが男を遠ざけているとも気づかずに。
瞳子はといえば、表情には出さないよう自重しているものの、感心したようなまなざしをこちらに向けている。
そうでなくてはと、直弥は内心深くうなずいた。
さて、まずはどうやってこの女性、暮林瞳子と二人で話す機会を作るかだ。
・
お前の女の、というか結婚相手に求める条件がそれじゃ厳しすぎるぞ。
また従兄弟にして社長の津島に、なんとはなしに結婚についての持論を口にしたら、そう呆れられたものだ。
ハードルは高いほど乗り越えた達成感は大きいものだ。なにより自分は選べる立場だと自負していた。
直弥の生まれ育ちはいたって平凡だ。
実家は東京近郊のベッドタウンとして開発された新興住宅地の一戸建てで、サラリーマンの父親と専業主婦の母親、三歳違いの兄がいる四人家族だ。
父親は早稲田の理工学部を卒業して、大手電子メーカーのエンジニアとして定年まで勤め上げた。
勤勉で優秀というサラリーマンの鑑のような人材だったことだろう。
知能の80%は遺伝で決定されるというから、自分の脳みその出来の多くは父親から譲り受けたものだろうし、直弥はそこに深く感謝している。
しかし自分は時流に乗りもう少し、いやかなり利に聡く生きることにしたわけだ。
国立大学の経済学部を卒業したのち、就職先に選んだのはスマホ向けのゲームアプリを開発している会社だった。
とにかく羽振りがよかった。
業績は右肩上がり。働けば働くほどインセンティブが得られ、仕事も利益を生み出すことも、遊ぶことも面白くてたまらなかった。
とはいえそこに、いわゆるバブル経済にも似た危うさを、嗅ぎとってもいた。
流行りものは廃りものだ。いつまでも高波に乗り続けられるものでもない。
次なるステップを模索していたところで声をかけてきたのが、また従兄弟の津島伸樹だったのだ。
それまではさしたる親戚付き合いもなかった。母方の法事で顔を合わせたことがあっただろうかという程度。
母親が従姉妹のりっちゃんとこの伸くんが、東工大にいってて在学中から起業したんですって、などと話していたのはうっすら憶えていた。
津島もまた直弥の存在を耳にはさんで、お互いの母親づてでコンタクトを取ってきたのだ。
「優秀な人材なら、いつでも喉から手が出るほど欲しい」と語る津島は三十代の始めながら、早くも成功者の香りを纏っていた。
システム開発を主軸にしたベンチャー企業の経営者と、優秀なエンジニア。
互いの求めるものは合致しており、話は早かった。二十代の若さで役員の肩書きが得られるのも大きな魅力だった。
それから三年近く経とうとしている。
直弥は今年で29歳になる。
仕事は順調だ。父親が同じ歳の頃と比較すれば目を剥くであろう額の収入も手にしている。
東京という街で金があれば、あらゆる種類のきれいな女性と知り合い遊ぶことができる。
もちろんそれもまた一通り体験した。刺激と浪費と享楽と…。
かなり羽目を外したこともあったし、それはそれでいい思い出だ。
ぼちぼち結婚という安定した大地を求めてもいいだろう。
高学歴、高収入に加えて並以上の容姿も持ち合わせていた。今どきの女性がもっとも好むクセのない爽やかな顔立ちをしている。
おかげさまで寄ってくる女性は引きも切らない。
しかしこれがまた自分のめんどくさいところで、狙って落とさないと達成感が得られないのだ。
厄介な性分だが仕方ない。
抜け目なさと立ち回りの上手さは、津島も認めるところだ。
ひとつプロジェクトと並行して暮林瞳子に注力することにしよう。
すでに小さな仕掛けを施してきた。
ひそかに心待ちにしていた連絡は、株式会社サカキを辞した数時間後の夕刻にメールでもたらされた。
自社のデスクで、ポップアップのメール通知にはやる心を抑えてクリックした直弥は、差出人の名が「寺島陽香」であることに気づいて小さく舌打ちをした。
『本日はご来社いただきありがとうございました』という儀礼的な文言の後にところで、と続いている。
『お帰りになった後に、片岡さんが座っていらした椅子にボールペンの忘れ物がありました。もし片岡さんの物でしたら、当方で保管しておりますので、お手数ですがご確認お願いいたします』
という文章とともに画像が添付されていた。
言わずもがな、直弥がわざと置いてきたボールペンだ。古典的な手法だが、なんだかんだ使えるのだ。
そこいらの文房具店やコンビニで手に入るような物ではない。ビジネスパーソンの必需品としてよく名が上げられるメーカーの品を直弥も愛用していた。書き心地の良さもさることながら、細部の安っぽさは持ち主の格まで落としてしまうからだ。
瞳子がそこに気づいてくれるといいのだが…しかし、連絡をよこしてきたのは寺島だ。
あの三人の女性の関係性なら、訪問客が辞した後の部屋の片付けは瞳子と村瀬の役割だろう。
茶を出してくれたのも瞳子だった。
つまり、と直弥は想像を働かせる。
ボールペンを見つけた瞳子はどうするか。独断でこちらに連絡せずに寺島に報告したのだろう。
忘れ物があったんですが、と。そして寺島は言った。
「わたしが連絡しておくわ」
自己顕示欲が強い女だった。いかにも後輩の手柄を横取りしそうだ。
しかしおだてに弱い単純さがあり、喋っている内容を聞く限りそれなりの思考力はある。
あの年増女から情報を引き出すのもありだなと、直弥はメールの返信を打ち始める。
翌日。
直弥は意図的な早足で、株式会社サカキの受付スペースにたたずむ寺島に近づいていった。
「お時間とらせてすみません」
いえいえと口の動きだけでつぶやいて、寺島が手にしている社名入りの封筒を開けた。むき出しで持つような真似はしない。
中からボールペンを取り出した。
「ポケットから落ちたのかな、どうもありがとうございます」
かるく頭を下げて受け取る。
「わざわざ足を運んでいただかなくても。次の打ち合わせまでお預かりしてましたのに」
愛想のいい顔をこちらに向けてくる。
昨日も思ったが上背のある女だ。176センチある直弥と目線がほぼ同じなのだ。
ローヒールを履いているが170センチ以上は確実にあるだろう。
その長身を誇示するように背筋を伸ばした立ち姿からも、元案内嬢という経歴に得心がいった。
モデル体型と呼ぶには骨格がしっかりしすぎているが、見栄えは悪くない。
「そこまでご迷惑はかけられません」
向かい合わず45度の立ち位置で、ビジネスのパーソナルスペースより踏み入った距離をとったが、避けるそぶりはない。
取引先のハンサムな若い男との立ち話にまんざらでもなさそうだ。
寺島さん、と名前を口にする。
「差し支えなければ、プロジェクトに関して二、三お伺いしたいことがありまして。そんなにお時間は取らせないんですが…」
あ、はい。とあっさり受け入れられた。
立ち話もなんですからと、受付の先にある休憩コーナーのようなところに案内された。丸テーブルと簡易的な椅子がいくつか置かれている。
給茶器から紙コップに注がれたひどく不味いコーヒーを一口すすって、直弥は話を切り出した。
「プロジェクトをスムーズに進めるためにメンバーのみなさんのことを頭に入れておきたいんです」
まるであなたのことを知りたいとでも言いたげに、寺島に視線を注いでやる。
安全策だと知っているのは、彼女の左手の薬指にシンプルなリングが光っているからだ。
「と仰いますと…」
小首をかしげてみせる。
直弥は手帳を広げ、先ほど寺島から受けとったペンを手にする。
「みなさん総務部ということですが、具体的にどなたがどのような業務を担当されているのかと思いまして」
そういうことかと寺島は表情をゆるめ、ご自慢の滑舌で喋り出した。
「わたしは総務部の中で、人事を主に担当しております。村瀬は渉外、暮林は経理です。
各々の業務は重なっている部分もありますので、連携をとりながらチームで仕事をしております」
目を見開いてこちらを覗きこむように語りかけてくる。
自意識が強い女だが、本人が思うほどの美貌ではない。大きな丸い目とぽってりした唇という派手やかな顔立ちだが、繊細さに欠ける。
大造りで、ともすれば暑苦しい印象に転びそうだ。
長身も相まって、最大限に褒めれば舞台映えしそうといったところだろうか。
「村瀬さんは渉外、ですか?」
直弥はメモをとる手を止めて聞き返した。
はい、とうなずく。
「村瀬は小学生の頃、お父様の仕事の都合で中国に住んでいたので、中国語がかなり喋れるんです」
それはそれは、と感心してみせた。
器量のわりに尊大な女だと思ったが、なるほどバイリンガルという自負心からか。
重たげなまつ毛が記憶のすみで瞬いた。
「当社は生産・販売の両面で中国に拠点がありますので。契約の締結などでは専門の通訳の方をお願いしたりするんですけど。
細かい業務上のやり取りでも、英語よりやっぱり相手の国の言葉で話すと打ち解けてもらいやすので」
なるほどと受けてから、さりげなく切り出した。
「そして暮林さんが経理なんですね」
「ええ、経理には大きく出金と入金がありますが、暮林は出金の担当です。もちろん入金の業務のことも把握しておりますので、どちらのシステムのことも聞いていただいて大丈夫です」
直弥のなかで瞳子のポイントはさらに加点された。
経理に求められる資質は、処理の正確さや速さといったことより、まずはモラリティだ。
出金業務は社における経費の実態や、社員のプライバシーなどに密接に関わることになる。社長の給与だろうと振り込むのは経理担当の社員なのだ。
人間性も考慮して配属しなければならない。
彼女は真面目で弁えがあり仕事はきちんとこなすと、会社からそう評価されているということだ。
あとは、どう二人で会って話す機会を作るかだ。
定期的にサカキを訪問する機会はあるが、ドラマのような偶然のすれ違いは期待できそうもない。
直弥が立ち入れるのは、基本的に受付と応接スペースのみだ。瞳子がどのフロアで働いているのかも不明だ。
さすがに妙案は浮かばず、結局正攻法でアポイントを取りつけることにした。
プロジェクトのことでヒアリングしたいことがあると、瞳子の会社のアドレスにメールを送る。多少不自然かもしれないが仕方ない。
『メール拝見いたしました』という返信に胸がおどった。
都会の夜で、欲求と快楽が直結している出会いを繰り返していたせいだろう。
丁寧な文面がひどく清冽に目に映る。
お役に立つか分かりませんがとことわりながら、了承の文言が続く。
業務の性格上、五十日と月末月初に処理が集中するので要望に応えられないかもしれない旨が添えてあった。
会社員として実にそつのない返信だ。
下心を隠して女性に近づくのはいつぶりだろうなどと思いながら、直弥は忙しくスケジュールに目を走らせた。
二日後の11時半にアポイントを取ることに成功した。
11時半という中途半端な時間にしたのは、ランチにこぎつけようという狙いだが、さてそこまで首尾よくいくだろうか。
その日の朝は、やはり気に入りのネクタイを選び出した。
GBBコーポレーションは社長の津村の方針で、クライアントに会う際にはスーツが原則だ。
IT企業にありがちな手入れされたヒゲやノータイのカジュアルファッションは「うちにはまだ早い」というのが彼の考えだった。
直弥もそこに異論はない。服装で信用が買えるなら安いものだし、ビジネスの場ではやはりスーツ姿がもっとも映える。
約束の時間の少し前にサカキに着いたが、瞳子はすでに待っていた。
プレーンな濃紺のスーツの上下という格好だが、その色合いが彼女の肌の白さとなめらかさを引き立てている。
スカートはフレアになっており、かっちりしすぎない柔らかな印象だ。脚の形も悪くない。
前回の好印象が目減りすることなく裏打ちされていくと、手ごたえを感じるものだ。
二人だけだからだろう、こぢんまりした応接スペースに通された。距離が近くなるので好都合だ。
瞳子がお茶を出してくれた。
「このあいだ僕が忘れたボールペンを見つけてくれたの暮林さんですよね、ありがとうございます」
とぶつけてみる。
半分ハッタリだが当たりだった。
瞳子の目元がほころんだ。
「あ、やっぱり片岡さんのものだったんですね。片岡さんが座っていた椅子の上にあったのでそうかなと思ったんですけど…よかったです」
やはりそうか、あのノッポ女。さも自分が見つけたかのような顔をして、厚かましいやつだ。
せめて少しはこちらの役に立ってもらおう。
「あの…失礼ですけど、寺島さんはご結婚されてますよね?」
はい、と訝しげに瞳子が返してくる。
「お子さんがいらっしゃるのでしたら、遅い時間に打ち合わせを入れないほうがいいかなと…」
神妙な表情を作ってみせる。
「お子さんはいらっしゃらないので…大丈夫だと、思います」
プライバシーに触れるので瞳子の返事がぎこちなくなった。
寺島を妻にするのはどんな男だろうと、ちらと興味を覚える。
小柄な男かもしれない。自分の身長コンプレックスを長身の妻で埋めたがるパターンはなくもない。
「暮林さんと村瀬さんは、そのあたり大丈夫でしょうか」
何食わぬ顔で聞いてみる。
「はいわたしも村瀬も独身ですので」
お気遣いなくとつぶやく。
万が一ということもあるので確認だ。既婚の女性を口説く趣味はない。
とどめるものが無くなったところで、直弥はプロジェクトにかこつけ言葉を弄して瞳子の個人情報を引き出すことに努めた。
大学卒業後、新卒で入社して三年目(ということは今年で25歳だ)、実家から通勤している、と。
次の関門はもちろん現在交際相手がいるかどうかだが、ここはじっくり攻めることにしよう。
雑談をはさんでやり取りしていると、30分はあっという間に過ぎ去った。
「よろしければお昼いかがですか」
話の続きのように投げかける。
午後からはIT部門の方と打ち合わせでまたここに戻るので、と畳みかける。
「あ、でしたら…」
すんなりと瞳子はこちらの誘いに乗ってくれた。
並んで歩くというのはなかなか新鮮なものだ。
隣の瞳子の身長は高すぎず低すぎず。150センチ台だろう。
自然とこちらを見上げるかたちになる。そうして直弥は彼女の美点を一つ発見した。
おとなしそうな外貌であるのに訴えかけてくる引力があると感じていたが、彼女は黒目が大きいのだ。
カラコン無しでこの大きさはなかなか希少だ。
あるいは彼女の両親も、産まれてきた女児の黒々と濡れた瞳から「瞳子」と名づけたのかもしれない。
オフィス街なのでランチタイムはどこも込むという話だったが、一軒目に入ったイタリアンですんなりとテーブル席に通された。
なにかの吉兆のようだ。
話術には自信があるが、まずは彼女の緊張を解きほぐしていかなければ。
距離を縮めようとすると遠ざかる、瞳子の男性へのこの警戒心は悪くない。
ヤリイカの明太子クリームソーススパゲッティが以前食べて美味しかったと瞳子が選んだので、「じゃあ僕も」とすかさず乗っかった。
初心な女性には、基本的なテクニックが有効だろう。
恋愛テクニックはさておき、出てきたパスタの味はなかなかだった。
美味しいですねと、向かいに座る瞳子に笑いかける。
たまに来る店だと、パスタを口に運びながら瞳子は言った。
普段は、弁当を買って社内の飲食スペースで昼食を済ませることが多いという。
女性と食事をする際に気をつけるべきは、食べる速さを抑えることだ。
こちらにペースを合わせようと相手を焦らせては、会話どころではなくなってしまう。
直弥は意識して一口を控えめにして、ゆっくり咀嚼する。
そうしながらプロジェクトをとっかかりに話を広げてゆく。
「アメリカの企業では、一般的に汎用システムをカスタマイズして使用しています。そうすると一度覚えると転職した先の会社でも使えるので、システムを習熟するインセンティブが働くみたいですね」
そうなんですねと、向かいの瞳子が目を丸くする。
「日本企業は自社の業務に最適化した、専用のシステムを求める傾向にあります。社員第一主義といいますか。どちらもメリットデメリットがあるので、どちらがいいとは一概に言えないですけど。出羽守ではないので」
でわのかみ? と瞳子が目を瞬かせる。
「アメリカ “では” とかヨーロッパ “では” とか、欧米を引き合いに出して日本を落とす人のことを揶揄して出羽守って呼ぶらしいですよ」
瞳子がクスッとする。
「面白いですね」
素敵な笑顔ではないか。安売りしないところがいい。
場の空気がほぐれたところで直弥はすんなりと「またぜひ」と口にすることができた。
短い言葉に意思をこめ、瞳子ははにかみながら「はい」と承諾の言葉を返してきた。
午後からはサカキのIT部門の責任者との打ち合わせだった。
中川という三十代の男で、小太りにメガネ、あまり息継ぎをしない早口の喋りかたといい、いかにもオタク然としている。
容貌はともかく、仕事ぶりは見事なものだ。
頭が切れ、こちらの意図を的確に汲みとって各部署に伝播し、さらにそのフィードバックを集約する、といった面倒なこともそつなくこなしてくれる。
クライアントでなかったらスカウトしたいくらい有能な人物だ。
こういった人材を社内のIT部門に抱えているところからも、サカキという企業のレベルの高さが窺える。
中川との打ち合わせは、常に膝付き合わせての密なものだ。
各部署からの要望をすべて満たしていると、コストが天文学的になってしまう。
どれを取り入れどこを諦めるか、最終的には予算と上層部との折衝になる。
主幹である製造部門の予算案を次回に提出することで、その日の打ち合わせはようやく一段落した。
サカキの現行の基幹システムは相当な年代ものだ。
数十年前にある会社が開発したのだが、ままあることで、その後システム開発の事業から撤退。
保守・管理の責務を果たすために一名が残っているだけという状態だ。
その社員もすでに定年を迎え嘱託になっているのだとか。
どうあってもあと数年でそこには誰もいなくなる。であるからして、新ERPの開発と運用はサカキの急務だった。
「クラシックカーでレースサーキットを走っているようなもんですよ。今までよく致命的なクラッシュを起こさなかったもので」
中川はそんなふうに表現した。
そういった開発にいたる経緯はサカキの社員には秘することではないので、瞳子との2回目のランチで話に出してみた。
「その、今のシステムの保守の方…」
瞳子の興味を引いたようだ。
「なんだか孤島の灯台守みたいですね。最後の一艘まで見送って、一人だけ島に残って」
孤島の灯台守か。なかなかブンガク的な表現をするではないか。
感性、が彼女を解き明かすキーワードなのかもしれない。
分かりやすいブランド物や高価な品ではなく、自分の心の琴線に触れるものを大切にするタイプだ。
同時に彼女を誘う口実が見えてきた。
そういえば、とふと思い出したように口にする。
「いま六本木で印象派の絵画展をやってますよね」
「あ、電車の広告で見ました」
反応ありだ。
「僕の友達が広告代理店で働いてるんですけど、そのチケットがスポンサー筋で回ってきたんです」
少し間をおく。
「暮林さん、よかったらいかがですか」
ここでキッパリ断られたら、彼女には現在恋人がいる、もしくは脈なしと判断すべきだろう。
瞳子の表情にはありありと戸惑いの色が浮かんだ。
「え…と、チケットですか。片岡さんは行かれないんですか?」
「二枚貰ったんです。アートに興味がある人が周りにいなくて」
抜け抜けと口にする、広告代理店に勤める知り合いなら掃いて捨てるほどいるが、チケットを貰った話はもちろん嘘だ。
手に入れる方法はいくらでもあるし、そこは瞳子の返事を聞いてから考えればいい。
「そんなに絵に詳しいわけじゃないんですけど…」
こちらの意図をはかりかね、取引先の相手という関係性もあって、困惑している様子だ。
「僕もですよ。たまたまチケット貰ったので、ムダにするのももったいないかなと思って」
直弥の言葉をどこまで信用したかは不明だが、瞳子は最終的には誘いを承諾したのだ。
そして彼女のプライベートの連絡先を入手した。これは大きな前進だ。
その夜、さっそく瞳子の通信アプリのアカウントに送るメッセージをひねる。
『はじめまして、片岡です。今日は突然誘って驚かせてしまったらすみません。
絵画の展覧会を観にいくのは何年ぶりか思い出せないくらいです。来月末まで開催しているみたいなので、瞳子さんのご都合のいい日を教えてください』
初めて「瞳子さん」と下の名前で呼んだ。さんづけだから受け入れられるだろうとひとりごちて、送信をタップする。
夜の酒席で「アカリですぅ」「マユコでーす」と自己紹介する女性に慣れてしまっていた。
名字から距離を縮めていくまどろっこしさ。しかしそれがいま自分が求めているものだ。
この数年で、アバンチュールのあるなしを含め、あらゆる種類の華やかなりし女性と関わりを持った。
キャビンアテンダント、アパレルや広告代理店で働く女、売れないモデルやタレント、二流どころのアナウンサーやリポーター…
起業家を名乗る女性もいた。
自意識過剰でプライドの高い女性たちと一通り刺激的な時間を過ごし、面白がりながら、どこかで軽蔑している自分に気づいていた。
彼女たちの半数がお小遣い目当てのいわゆる「ギャラ飲み」だったのもあるだろう。
自分の若さと美しさを金銭に換える割り切りのよさは、過ごしていて気楽なものだが、むろん本命にはなり得ない。
モデルやタレントを称する女性たちは、案外しおらしいものだった。
自分が商品である世界で、ショーウィンドウに並べられていながら目を向けられない現実を日々痛感しているせいだろう。
アナウンサー、キャスター、リポーターといった肩書きがつくと、知性なるものも採用項目に入ってくるせいか、ねじくれている印象があった。
燻っている自分への焦りや、売れっ子への妬みを滲ませながら、チャンスや転機といったものの訪れを渇望している。
いちばん面倒なのが、キャビンアテンダント・広告代理店・マスコミ業界・人気アパレルなどに勤める女性たちだった。
企業に勤める社員という安定した枠に収まりながら、自分は何者かであると思っている一般人ほど扱いづらいものはない。
あの中国語が喋れるとかいう村瀬真希もそこに入りそうだ。
行き着くところ、直弥は “普通” の女性を求めているのだ。
ちなみにいわゆるお嬢様と呼ばれる人種にも、食指が動かなかった。
直弥自身が、家柄や財力といったバックボーンを持たない、いわゆる成り上がりだからだ。
「うちの娘を粗略にしたらただではおかない」と権高い両親がセットになったわがまま娘など、こちらから願い下げだ。
自分と同じようなサラリーマン家庭の育ちで、一般企業で働いているOL、となるとやはり仕事を通しての出会いが無難だった。
互いの身元がある程度知れるというメリットもある。
暮林瞳子。
25歳で中堅の建設機械メーカーの経理。社のプロジェクトメンバーに名を連ねるからには、人柄や仕事ぶりで信用を得ている。
大いに結構ではないか。
待つこと三十分ほど、『暮林です』と返信が届いた。
『すごく評判のいい展覧会みたいですね。わたしが誘っていただいていいのか、恐縮です』
小さな汗マークの絵文字が末尾に付いていた。
『週末でしたら、急用が入らないかぎりだいじょうぶです』と続いている。
ということは定期的にデートをするようなステディな相手はいないということだ。
小さくガッツポーズをする。
最小限の絵文字にやや他人行儀な文面だが、少しずつくだけていくだろう。うまくいけばの話だが。
直弥はスケジュールをにらんだ。瞳子とのデート、の前に仕込みを万全にするためだ。
・
「珍しいじゃないっすか、片岡さんから声かけてくれるなんて」
井出克行がビールジョッキを口に運ぶ。
相変わらずフットワークと口調が軽い。
「合コンしたい、とかじゃないでしょう?」
探るような視線をよこしてくる。
「六本木界隈で美味い店を教えてほしくてさ」
駆け引きするような相手ではないので、さらりと告げる。
「女の子と行くんですか」
そういうことと、頷いてみせた。
「ランチとディナーと。流行りの店じゃなくて隠れ家っぽい、デートに使える店」
「てことは相手はカタギの女の子なんですね〜」
井出は広告代理店の営業だが、本職より酒席と女性の手配が得意な便利屋として重宝がられている。
やたらと顔が広く酒と美食に詳しいのが売りだ。
何年か前、 “友達が多い” を自称して闇営業に手を染めたことでスキャンダルになった芸人を思い出す。
金と権力が渦巻く場には、余禄を喰もうとする有象無象が湧いてくる。
井出のようなコバンザメの腹が膨れる業界であり、彼は有能なコバンザメだった。
「あとで店みつくろって、リスト送りますよ」
実に話が早い。
「人気の店はホントに予約が取れないっすね。半年先まで埋まってます。なんとかならないかってお得意さんからよく聞かれるんですけど」とこぼす。
「美食ブームは衰えないな」
井出も直弥もいわゆる美食家や食通ではない。
男二人のこうした見栄のいらない場では、居酒屋にケが生えたような店で十分だった。
砂肝のごま油風味、だし巻き卵といったありきたりな肴をいくつか頼んで、ビールを飲んでいる。
「京都の有名割烹で修行した板前が独立して、全国各地から取り寄せた食材を使って腕をふるう創作懐石、なんていうとコースで二万五千円で満席です。ものの味というより、◯◯で食べた、▲▲も行ったけどなかなかだったな、なんて仲間内で言い合うためにあるようなもんですよ」
自嘲混じりの言葉だ。
井出は軽薄なだけの男ではない。これが自分の渡世だと分かったうえで小物に徹しているのだ。
「うちの若手が飲み会やりたいって言ってるから、今度セッティングしてよ。業務提携先の連中も乗ってくるかも」
見返りに直弥は自分の人脈を与えてやる。
「いいすね、キレイどころを揃えますよ」
酒と美食を媒介に、男と女、人と人を繋げていく。
ある意味win-winだと、直弥はビールジョッキを傾ける。
・
西武池袋線沿いの実家に住んでいると、瞳子はメッセージで教えてくれた。
普段は池袋に出て、そこから丸ノ内線に乗り換えて通勤しているという。
愛車で迎えに行ってみせたいところだが、付き合ってもいないのに実家に乗りつけるのはやりすぎだろう。
数度のやりとりの末、六本木のアマンドの前で待ち合わせになった。
おのぼりさんのようだと思うが、ヒルズやミッドタウンは出入り口が多く、かえって迷うのだ。
約束の週末、直弥はリネンとコットンの混紡のネイビーのジャケットにチノパンツという格好で、六本木の駅に足を下ろした。
くだけすぎず仕事着の延長のような装いだ。
交差点で信号待ちをしながらアマンドに目を向けると、やはりというか、瞳子が店の前で所在なさげに佇んでいた。
真面目で慎重な気質はメッセージのはしばしからも感じとれる。待ち合わせには早めに着いていたいのだろう。
まだこちらに気づいていないので、遠目に彼女を観察することができた。
ライトグレーのワンピースにカーディガンを羽織っている。
過度に自分を主張しない、コンサバなファッションだ。
信号が青に変わり足を踏み出す。
瞳子が顔をこちらに向け、直弥と視線がかち合った。
かるく手を上げてみせると、彼女も小さく手を振った。
交差点を大股で渡り、お待たせしました、と笑いかけると「今日はよろしくお願いします」と瞳子がちょこんとあごを下げる仕草をしてみせた。
会社では肩までの髪をストレートに下ろしているが、今日は内巻きにセットしている。
平日とは違うおしゃれを意識しているということだ。
仕事を離れてプライベートで会うのは、互いに面はゆいものだ。
しかも二人のあいだにはまだ何も始まっていない。
「ちょっと早いけど、お店行きましょうか」
ランチを食べてから絵画展に行く段取りだった。さて初デートのエスコートは腕の見せ所だ。
外苑東通りを二人で歩き、ミッドタウンを右手に見ながら路地に入ってゆく。
とたんに道幅はぐっと狭く建物は小ぶりになる。飲食店がひしめいているが、バーが多く昼の時間帯は扉を閉ざしている店が目についた。
何個めかの小路の角に、その店はあった。うっかりすると通り過ぎてしまいそうだ。
外観はどうということのない和風の小料理屋だ。
からりと引き戸を開ける。と、「いらっしゃいませ」と女性の二重奏に迎えられた。
聞いていた通りだ。
こぢんまりした店内は向かって左側がL字型のカウンター席、右手の壁にそっていくつかテーブル席がしつらえてあった。
オープンキッチンの中に若い女性が一人、そして年配の女性に出迎えられる。
カウンター席に何人か先客がいた。
「予約していた片岡です」と告げると、テーブルの一つに案内された。
「女性だけでやっているんですね」
瞳子が声をひそめてささやく。
「料理人の女性とホールの女性、母娘だそうですよ」
さっそく教えてやる。
えっ、と瞳子は小さく目を見張って、立ち働く二人の女性にちらちらと視線を送った。
「東銀座に若い店主がやっている天ぷら屋があるんですけど。その店主に、妹が六本木に小料理屋を出して母と二人で頑張ってるから顔出してやってほしい、って話で」
正確には井出からの受け売りだが、そこはしれっと割愛する。
「兄妹で料理人になるって、血筋ですかね。二人とも自分のお店を持つなんてすごいですね」
瞳子はいたく感じ入った様子で、品書きを見る目にも熱がこもっている。
厚紙に和紙を貼っただけの手書きの品書きで、メニューも数種類だけだ。
食材にこだわり、定番の和食にひとひねり加えた料理が売りだという。
「この梅香る親子丼、ってどんな味か気になりますね」
品書きを二人で覗きこむので、自然と顔を寄せることになる。瞳子は距離を取ろうとはしなかった。
「それ、僕も気になりました。同じのにしましょうか、店の人もそのほうが楽だし」
「そうですよね、一人ですものね」
ちらりとキッチンに目を向ける。
察しがよく気配りができる。
一緒にいて心地がいい、そんな言葉が心に浮かんだ。
やがて運ばれてきた膳は、期待を裏切らない味わいだった。
いわゆる親子丼に、大胆に料理人のアレンジが施されている。
卵白をメレンゲにして熱を加えたのか、卵は口に入れるとふわふわほろほろと口の中で溶ける。
香ばしく焼き目をつけた鶏肉に、梅の香りで炊いた白米との相性が絶妙だった。
付け合わせもまた洒落ている。
一見とうもろこしの白和えかと思いきや、口に入れると豆腐ではなくカッテージチーズという小さな驚きに出会う。
それでいて風味づけはかつお節と、さらに意表をついてくる。
食べ手の感性を刺激する料理は、まだぎこちない間柄の男女に話題を提供してくれる。
直弥と瞳子は口々に味を賛辞し、隠し味や調理法についてあれこれ考察した。
味覚の確かさから、彼女の家庭環境の素地が垣間見える。
瞳子は恥ずかしそうに、普段は母と祖母に頼りきりで、自分はめったに台所には立たないと打ち明けた。
「お祖母さんと一緒に暮らしてるんですか」
核家族化のご時世では珍しいことだ。
「母方の祖母なんです。父はわたしが学生時代に亡くなったもので。今は女三世代で一つ屋根の下に住んでいます」
父を亡くしたという言葉に、反射的に表情を引き締めてみせたが、内心には後ろぐらい安堵がある。
交際相手の父親ほど男として畏怖を感じるものはない。
姫を守る強力な騎士はすでに亡いのだと知る。
瞳子の表情や言葉に暗い影は感じられない。暮林家は穏やかな女世帯を営んでいるのだろう。
おそらくは一人娘の瞳子を心の主柱として。
こちらから誘ったのでと、直弥は勘定を素早く済ませ、財布を出しかけていた瞳子は、素直にそのままバッグにしまった。
「ごちそうさまです」
店を出たところで期待通りの丁寧なお礼の言葉だ。
「いい店でしたね」
「美味しかったですね、また行きたいくらい。味もお店の雰囲気もよくて」
リラックスした表情で、まんざらお世辞でもなさそうに口にする。
直弥は密かに井出に感謝した。
日本人は印象派が好きだ。印象派展と銘打てば人が呼べると、広告業界ではよく知られていることらしい。
問題は国内に作品が少ないことで、結局海外から借りることになり揃えるのが大変だ…そんな話を表現はソフトに置き換えつつ、道すがら瞳子に話して期待感を膨らませた。
意外なことに、直弥自身気分が高揚してきていた。
興行主が苦心して集めた絵画を鑑賞したいのか、それとも絵の世界に浸っている瞳子を見たいのかは判然としないが。
会場は予想以上に人でごった返していたが、年齢層が高めなので騒々しいというほどでもない。
値段が付けられないほどの価値といわれてもピンとこないが、明るい色彩で表現された光のなかに描かれた人物や風景画は、視覚にすっと入ってくる。
複製ではなく “ホンモノ” を見ているという俗っぽい満足感もある。
なにより人が多いので、瞳子との距離が自然と近くなるのだ。
はぐれないように瞳子の腕や手に触れたり、人波からかばうテイで背中に手を回しても、彼女は拒まなかった。
階段を何段飛ばしかで上がったような達成感だ。
展示の最後のほうに、『印象派展によせて』というパネルがあった。
今回の展示の目玉作品を、高名な美術評論家が解説しているものだった。
時代背景や鑑賞ポイント、画家の生い立ちも織り交ぜてあり、素人にも分かりやすい。
瞳子は熱心に目を通している。
直弥は女性に「知」なるものを求める気はない。おおかたの場合、プライドの高さとセットになっているからだ。
とはいえ基本線は押さえてもらわないと困る。
絵画の展示室ではないので、そのスペースには大きくとられたガラス窓から午後の陽が降り注いでいる。
文章を追う瞳子の横顔を陽が照らし、頬のうぶ毛が透けている。色づきはじめた桃の実のようだ。
それを好もしいと直弥は感じていた。
どこもかしこもつるりと脱毛がゆき届き、眉にはアートメイクが施され、シャワーを浴びてももはやどれが素顔なのか分からない。
そんな女性たちの美への意識の高さ、というより執念は賞賛すべきなのだろうが、なぜか数を重ねるほどに、誰もかれも同じに見えてくるから不思議だ。
瞳子の “自然さ” に自分は心動かされている、もっと直截にいえば、そそられているのだ。
美術館を出た後は、足の向くまま二人で少し歩いた。
余韻にひたるのがいい。デートプランを最初から最後まで組んでおくなど中学生のやることだ。
流れにまかせる余裕を見せる。
ちょうど通りにスタバがあったので「お茶しましょうか」と声をかけた。
テーブル席は満席だったが、カウンターに二人並んでかけることができた。
この際、隣り合って座れたほうが好都合だった。
瞳子は抹茶フレーバーの飲み物を選んでいた。迷う様子がなかったので、彼女のお気に入りなのだろう。
さて、と直弥は自分に言い聞かせる。
ここは大事なところだ。焦ってはいけない。
感想から話を弾ませ、できればここで次の約束を取り付けたいが、がっつくと警戒されてしまうだろう。
直弥は大学の卒業旅行で行ったルーブル美術館を話題にした。
「学生なので貧乏旅行でしたけど。友達に歴史マニアみたいなやつがいて、どうしてもハムラビ法典を見たいとかいうもんで。
僕はミーハーなので、三大美女のモナリザとサモトラケのニケとミロのヴィーナスに会えて満足でしたね」
「わぁ、わたしもいつか会ってみたいです」
瞳子は “会ってみたい” と直弥の言い回しをなぞった。
なかなかいい流れだ。そのままこちらにたぐり寄せたい。
「モナリザは防弾ガラスの向こうでしたけど」
「さすが警備が厳重なんですね」
「瞳子さんは海外旅行とか行くんですか?」
さりげなく下の名前に切り替えた。
「友達と何度か。台湾とか良かったです。時差もほとんどないし、食べ物が美味しくて。故宮博物院も行きました」
相づちを打ちながら、その友達に男は含まれているのだろうかと思う。
無理に話題をひねり出さなくとも、会話はスムーズに続いた。
ここでぬか喜びしないほうがいい。互いのことをまだよく知らないうちは、質問することが豊富にあるからだ。
本当に相性がいいかどうかは会う回数を重ねて、そして最終的にはベッドで確かめることだ。
とはいえ瞳子の、控えめながら自分の意見をきちんと口にし、こちらに対して妙な媚がないところは、直弥の求めるところそのものだった。
まだ二人が会うには理由づけが必要だ。瞳子が “乗ってきやすそう” な誘いを探る。
服もバッグも腕時計も、これみよがしなブランド品は身につけていない女性。形に残るものより心に残るもの…
映画、テーマパーク、グルメ…悪くないが、どれもありきたりに思えた。
「今日ミュージアムショップ覗けばよかったな。一人暮らしもそこそこ長くなったので、インテリアに凝りたくなってきたんですよ」
混雑していたので早々に出てきてしまったのだ。
「美術館のショップって限定品もあって、見てると楽しいですよね」
「最近じゃ転売屋がわいて大変らしいですけど」
困ったものですね、と瞳子が眉を寄せる。
瞳子の眉はなだらかなアーチ形で丁寧に描かれている。
眉の描き方で、その女性のセンスやメイクの腕はあらかた見えるというのが、直弥の持論だ。
まつ毛やアイラインで、ひたすら目元を強調する女性は多いが、実際のところ整形でもしない限りいちばん手を加えられるパーツは眉だ。
そこをおざなりにしてはいけない。
眉尻はきちんと眉頭はぼかすと、メイクの基本ができている。柔らかなブラウンも彼女の雰囲気によく合っていた。
「代官山に、気になってるインテリアのセレクトショップがあるんですけど、今度行ってみませんか?」
「セレクトショップ、ですか」
またも即答を避けられたが、直弥はひるまなかった。
「瞳子さん、センスがよさそうなので。アドバイスもらいたくて」
「わたしのアドバイスなんて。自分の好きなものを選ぶのが一番いいと思いますよ」
言いながらも、瞳子の目元は優しげだ。
見てるだけでも楽しいですよという直弥の押しに、それ以上しぶることなく承諾したのだ。
・
「———何万とあります機械の部品番号は、システムが変わっても引き継いでもらいたいです。いきなり別のものになってしまったら、間違いなくオペレーションに混乱をきたします」
サカキの製造部門の面々は、一人の言葉に同席している全員が無言でうなずいて同意を表す。
「もちろん、そちらに関しては対応させていただきます。昨日と変わらず、そして今以上に業務をスムーズにできるようにするのが完成目標ですので」
直弥は請け合ってみせるが、場の雰囲気は固い。
製造や物流部門のプロジェクトメンバーは年配の男性が圧倒的に多く、考え方ははっきりと保守的だ。
長年手足のように使ってきたシステムが新しくなることがどうしても不安なのだろう。
あれも変えないでほしい、この機能も残してくれないと困る、という彼らの切実な要望を、直弥は一つ一つタスクに加えてゆく。
むろんプロジェクトは完遂してみせる。
プロとして対価に見合う商品を提供するのは当然だが、サカキという会社に個人的な思い入れも加わった。
今この会社には、直弥の彼女がいるのだ。
自分で狙い、ことを運んだとはいえ、展開には想定外のこともあった。
スリルを求めたわけではないのだが、やはり男と女のことは計算通りにはいかず、だからこそ面白い。
直弥は十日ほど前の、代官山の夜のことを反芻する。
代官山。
こぢんまりした品のいいショップがそこここにある街は、デートにもってこいだ。
午後の早い時間に瞳子と駅で待ち合わせた。
前回は昼から夕方で、今回は午後からディナーの約束をしている。
意図的に大人の時間へとずらしているが、どのタイミングで決定打を放つべきか。
言葉でか行動でか。
「付き合おうか」といった言葉で交際を始めるのは、学生かせいぜい二十代半ばまでだ。
自分も瞳子もとうに子どもではない。
遊びで恋愛をする年齢ではないなら、どう進めるべきかと思い巡らせる。
メッセージアプリで毎日のようにやり取りをしているが、瞳子は付かず離れずといった姿勢だ。
拒むではないが、瞳子からの誘いや好意をのぞかせる言葉は今のところないのだ。
今日の瞳子はツインニットにフレアスカートというさりげない装いだった。
ニュアンスカラーのニットはしゃれた色で、いかにも触り心地がよさそうだ。
瞳子にしてはリップの色が濃く、こっくりしたテラコッタカラーだが、それも大人っぽく映って新鮮だった。
道すがら交わすやりとりも、ずいぶんと滑らかなものになってきた。
「インテリアも凝りだすとキリがなくて」
言葉遣いを丁寧語から、いわゆる “タメ口” に変えてゆく。
「インテリアショップで扱っているセンスのいい物を揃えれば、見栄えはいいけどそれだけだとなんていうか…」
「モデルルームみたいになっちゃう?」
瞳子が言葉を引き取る。
「そう、そうなんだ」
思わずうなずく。
「なんかつまらなくて、愛着がわかなかったり。本当に俺はコレが欲しかったんだっけ、って」
言いながらこれは女性にも通じることだなと、ふと気づく。
控えめながらも率直で、ときに鋭さものぞかせる瞳子との会話は楽しい。
自分の祖父は宮大工を生業にしていたと、珍しく瞳子は自分から話してくれた。
暮林家は今も祖父が建てた日本家屋に住んでいるのだと。
「へえ、ぜひ見てみたいな」
興味をそそられる。
「あ、いえそんな立派なものじゃなくて、ただの一軒家ですよ。数寄屋造りっていうらしいですけど。
夏は涼しいけど、冬はそれは寒くて、住みづらいところもあって…」
瞳子には “モノ作り” の血筋が流れているようだ。そして祖父の作った家で暮らすなかで、感性も育まれたのだろう。
彼女を形成する一端が垣間見えた気がした。
そして直弥は、そんな彼女が喜ぶであろう場所に導き入れる。
オーナーがヨーロッパ各地を回り、陶芸家と直接契約して仕入れているというセレクトショップだ。
ここでしか手に入らないという一点物の陶磁器がところせましと並んでいる。
直弥のインテリア探しにかこつけたが、瞳子は狙いどおり目を輝かせた。
「わぁ」と小さく感嘆の息をもらす。
そんな彼女に、ゆっくり見ようよと声をかけて、少し離れた。
品物と値札にざっと目を走らせる。
高価なものはそれなりの値がついているが、手の届く価格帯の物も揃っている。
アーティストから直接仕入れをしているというオーナーの労が窺えた。
輸送コストや店舗のテナント料を考えると、かなりのお値打ちだろうと直弥は冷静に計算する。
瞳子はと視界の端でうかがうと、アートピースのような皿の作品群の前で足を止めて見入っていた。
角が丸い正方形の皿で、釉薬がガラスのように艶やかにかかっており、一枚一枚色合いが違っている。
濃淡の違う二色の組み合わせがどれも洒落ていて、つい次々と手にとってしまうといった様子だ。
サイズといい、インテリアにも実用にも使えそうだ。
引き込まれている瞳子に、目ざとく店員が近寄ってきた。
「そちらはフランスのリモージュ地方のアトリエで作られているんです。日本で直接取り扱っているのは、たぶんうちだけです。
どこかバイヤーさんとか経由で置いているショップはあるかもしれませんけど」
なるべく購買意欲をそそってくれることを念じつつ、店員の説明に耳を傾けている瞳子の背後からそっと近づいてゆく。
瞳子の手には、水色と藍に彩色された皿がある。
いちばん気を引かれている一枚のようだ。
一万円札で釣りがくる値段は、直弥にとってどうということはないし、このタイミングが相応しいと思えた。
「今ちょうどいろいろ入ってきたタイミングなんです。工業品ではないので、一度売れてしまうと次がなかなか…」
瞳子が手にしている皿に目を落とす回数が増えている。
心の天秤が「欲しい」ほうに傾いているのが伝わってくる。
「それ、もらおうよ」と言いながら、すっと足を進めて二人の視界に入りこむ。
えっ、という形に口を開けて瞳子がこちらに視線を振り向ける。
「すごく素敵じゃないか」
「あ、でも…」
戸惑う彼女の手からひょいと皿を抜き取って店員に渡す。
「これ下さい」そして付け加える。
「プレゼント用で」
店を出たところで、小さな紙袋を「どうぞ」と瞳子に差し出した。
「片岡さん、こんな…」
瞳子の目には喜色より戸惑いが浮かんでいる。
「今日の記念に」という台詞は我ながら気障だが、瞳子はおとなしく両手を出して袋を受け取った。
「悪いです…片岡さんのインテリア探しのはずなのに」
小さくとも陶磁器の皿を収めた袋は、確かな重みがある。
「悪いですより、ありがとうって言ってほしいな」
いたずらっぽく笑いかける。
「…ありがとう」
恥ずかしがってうつむく様が、なんとも可愛らしい。
「それと、片岡さんじゃなくて、そろそろ名前で呼んでほしい」
瞳子が顔を上げる。濡れた二つの黒目がこちらに向けられる。この真っ直ぐな瞳が欲しい。
「直弥、さん」
心を決めた声と感じるのは先走りすぎだろうか。
・
ディナーは代官山にほど近い中目黒にあるフレンチを予約していた。
ひところ流行ったネオビストロのスタイルを継承している店といったところだ。
普段着でも行けるようなカジュアルな雰囲気だが、味には本場仕込みのシェフの技が光る。
ホールを仕切るマダムもTシャツにエプロンという格好で、いかにも気さくな接客をしてくれる。
仕事の付き合いで訪れたのが最初だったと思うが、気に入って自分でも使うようになった。
外れのない選択だろうと踏んでいたが、彼女もやはりお気に召したようだ。
前菜のテリーヌは目に美しく、メインの牛肉はミディアムに焼かれた4切れの肉に、それぞれ異なるソースが合わせてある凝りようだ。
そういける口ではないと言うものの、瞳子はグラスの赤ワインをすいすいと口に運んでいる。
料理も酒も口に合ったのだろう。
「ああ、どれも本当に美味しいです」
瞳子が満足の吐息を漏らす。酔いのために頬がほんのり染まっている。
よかった、と意識して声を低めて向かいから彼女に視線を当てる。
「俺も今日は本当に楽しかった」
料理の感想でも言おうとしていたのか。開きかけていた唇を、瞳子がきゅっとつぐむ。
なにかを感じとったのだろうか。たとえば男の欲望とか。
いいことを教えよう。
見返りを求めない、などという男の言葉を信用してはいけないし、そんな男は存在しない。
ここまで来たら逃さない。
会計を終えるとマダムはちらと意味ありげな目くばせをよこした。
ぐずぐずと見送ったりせずに、すぐに引っこんでドアは閉められる。実に心得ている。
この店は半地下にあり、地上に上がるまでのコの字型の踊り場はちょっとしたスポットになっているのだ。
ごちそうさまでしたと、やや儀礼的に口にして階段に足をかけようとする瞳子の腕を、やんわりとしかし力をこめて捕まえる。
薄闇のなか振り向く彼女の表情は知れない。こわばった腕からは緊張が伝わってくる。
ひそかに待ち望んでいた瞬間なのか、それとも———
できればハンドバッグとプレゼントの紙袋で、彼女の両手をふさいでおきたかった。
小ぶりな袋だからか、瞳子は二つを片方の手に提げている。
腕を捕らえた手をそのまま肩へとすべらせ、両手で彼女の肩を包んだ。上質のニットは想像どおりの滑らかな手触りで、直弥の動きを助けてくれる。
そっと顔を寄せる。
が、唇が触れる前に瞳子は後ずさった。空いている片手が直弥の胸元につっかえ棒のように当てられる。
久方ぶりに味わう拒絶だった。
「いけません」と小さく固い声が言う。
いけません。母親か女教師の叱り言葉のような文句を、口説いている女性の口から聞かされるとは。
逃げるように瞳子が身をひるがえし、階段を早足にかけ上がる。
直弥も慌てて続く。
いけません。
こちらに背を向けたままアスファルトの地面に視線を落として、瞳子はもう一度口にした。ふるふると首を振る。
「わたしたち、まだ…」
まだ、なんだと言うのだ。行き場を失った欲望が己の中で渦巻いている。
この女が欲しいと切実なまでに思う。
しかしそのためには———
「あのっ、」言葉がつっかえてしまった。日頃は淀みないトークを得意としているというのに。
それでも彼女の背中に言う。言わねば瞳子は自分の手をすり抜けて、もう戻ってはこないだろう。
「…結婚を前提にお付き合いしてください」
自分がこんな陳腐な決まり文句を口にする日が来るとは。
ことの成り行きにいちばん驚いているのは、おそらく直弥自身だった。