まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中

1 雨降る夜のひと騒動

 春の小雨が降る日、ほの明るい夜道に白い桜の花びらが降っていた。
 今年も忙しくてお花見をする時間はなかった。入社して十年目、満開の桜を見上げていた学生の頃とは違うけれど、それでも淡い光のような花に心が和らぐ。
 その日、由良はちょっと早く退社できて気が弾んでいたのを覚えている。
 なじみのスーパーで食材を買って、一人のアパートで夕食を取った。朝干した洗濯物も乾いていて、そんな何でもないこともうれしかった。ゆっくりと湯船に浸かってお風呂を満喫する。
 ……だからなのか、お風呂があふれていることにちっとも気づかなかった。
「えっ」
 ユニットバスから出ようとしてカーテンを開いたら、洗面所が水浸しだった。
 バスの上からあふれるほどの水は流していない。だからたぶん、配管が詰まっていて逆流したのだった。
 あふれた水をバスマットで吸っては洗面所で絞ることを繰り返す。一応水が引いたら、大慌てで服を着てアパートの階下に向かった。
「すみません! 天井から水が染み出していませんか!?」
 上司にはいつも、由良さんは真面目すぎてすぐ慌てちゃうからと苦笑される。そんな必死さで、由良は階下の住民を呼んだ。
 ここは入社して以来ずっとお世話になっている社員寮で、由良は会社にも同僚にも決して迷惑はかけたくなかった。
 帰り道では小雨だった雨は、今はざあざあ降っていた。
 由良は泣きそうな思いで住民が出てくるのを待った。心の中もどしゃぶりで、どうしていいかわからなかった。
 由良の必死さに反して、階下の住民はのんびりと姿を見せた。
「はいはい。今出ます」
 玄関口に現れた男性を見た途端、由良の心の雨が一瞬だけ上がった。
 その人は女の子が着るようなキャラクターもののクマのトレーナーを着て、子猫の形をしたスリッパをはいている、三十代ほどの若い男性だった。
「あなたは……」
 彼の方も由良を見て、一瞬考えたようだった。それで、なんだかお医者さんが言うように優しくたずねた。
「どうしました?」
 彼がちょっと苦笑して言った声は、包み込むような温かな声音だった。
 かわいい格好の男性だけど、よく見れば目鼻立ちは端正で、柔らかく目じりを下げた表情が温かい。
 彼は言葉に迷った由良に、手を差し伸べるみたいにもう一言告げる。
「また雨漏りしました?」
 由良は緊張をまとって走ってきた勢いを思い出して、まだ息を切らしながら言った。
「ごめんなさい! 上の階のお風呂場で水をあふれさせてしまって。もし下に染み出していたらって……!」
 由良は慌てて状況を説明しながら、怒られるのを覚悟する。
 初対面の他人に迷惑をかけてしまった。由良は声を震わせながら彼の反応を待つ。
 でも彼はいつまで経っても怒る素振りを見せなくて、やがてひとつうなずいた。
「ちょっと見てきます」
 彼は踵を返して部屋に戻ると、少しして戻ってくる。
「少しだけこぼれてました」
「ご、ごめんなさい! あの、弁償を」
「お風呂場なので大丈夫ですよ」
 彼はおっとりと返して、肩の力を抜いた様子で言う。
「いいです、いいです。このアパートは古いのでよくあるんです。前の住民の方もこぼしたことがあるので、元々天井に染みがありますし」
 彼は安心させるように笑うと、ふいに言葉をやめてじっと由良を見た。
 優しげなまなざしが何かに気づいたように感情を宿したとき、中性的に見えてこの人も男性だったと、少し怯んだ。
 でもそういう由良の恐れを見透かしたように、彼は穏やかに由良を引き留めて言う。
「……もうちょっと待ってくださいね」
 彼は部屋に戻ると、バスタオルを持って現れた。戸惑った由良に、彼は由良よりよく見える目で的確に指摘する。
「どうぞ拭いてください。髪、濡れてますよ。洗ったばかりのタオルですから」
「え、あ……っくしゅ!」
 由良はドライヤーもかけずに降りてきたから、髪から水が滴っていた。
 由良は寒さに気付いた途端くしゃみが出た。ティッシュも持っていないから、人前なのにどうしようとおろおろする。
 どうして自分、いつも慌てんぼうなんだろう。由良は恥ずかしくなって、肩を小さくして困っていた。
 ふいに、そんな由良の肩をふわりと温かいものが包んだ。
「慌てないで」
 彼は持ってきたバスタオルを由良の首にかけて、手にタオルの先を持たせる。反射的に、由良はそれで鼻を押さえる格好になった。
「ご、ごめんなさ……」
「慌てて飛んできたんですね。その格好を見ればわかります。でも、そんなに慌てなくていいんです。大丈夫ですよ」
 謝ろうとした由良に、彼は苦笑して言葉をかけてくれた。
 彼に大丈夫と言われると、なんだかほっとする。背中をぽんと叩かれたように気持ちが楽になる。
 それから彼は少し考えて、優しく提案してきた。
「もしよければ排水管、見てみましょうか? 僕はこのアパートは長いので、多少は力になれると思いますが」
 初対面の人からの提案だったのに、由良は思わずお願いしそうになった。だって彼のまとう空気は、それくらい由良に親身に添っていた。
 私って、子どもなのかもしれない。鼻の頭を赤くして、由良は首を横に振った。
「……いいえ。大丈夫です」
 どうにか社会人として距離を取ると、由良は頭を下げる。
「ありがとうございました。タオルは洗ってお返しします」
 目がにじんだことに気づかれないうちに、由良は急いで踵を返した。
「よく拭いて、よく休んでくださいね」
 背中に、階下の男性の少し切ないような声が聞こえた。
「もし手が必要なら言ってください。僕は迷惑じゃありませんから」
 由良はまたぺこりと頭を下げて、にじんだ目をごまかしながらそこを後にした。
 階段を上る前に、真新しいタオルに真っ赤になった顔を埋めながら思う。
 優しい人だった。良かった……けど、なんだか特別に甘やかされたみたいで、むずかゆい。もうちょっとで、甘えてしまいそうだった。
 そういう甘え心は簡単には消えないけど、そんな弱い自分との付き合い方は、子どもの頃より上手になったから。温かいミルクでも飲んで、ぐずぐず泣いて、それで今日は寝ようと思う。
 その前に配管掃除とびしょぬれになったバスマットの洗濯をしないと。
 首にかけたタオルで目の端を拭って、由良はぱこぱことサンダルの音を立てながら階段を上っていった。
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