まじめ医療部員の由良さんは、北条ドクターの甘々包囲網の中
2 ことんと動いた心
洗濯と排水管の掃除を終えた頃には、深夜三時ほどだった。
これくらいまで仕事をしたこともある。でも由良の体力はそれほどないから、いつもへとへとだった。頭も冴えていて、結局明け方まで寝付けなかった。
朝、浅い眠りから覚めて、重い体を起こす。
どうにか朝ごはんをしっかり食べようと、卵を焼き始める。
「……う」
でもいつもなら美味しそうなその匂いが鼻について、結局一口も食べられなかった。牛乳も気分が悪くて、パンの端だけかじって出勤する。
由良は電車に乗ったものの、頭が重くて、立っているのがつらかった。
あるとき、ふっと足元から力が抜ける感覚があった。
貧血を起こして、由良は仕方なくその場にしゃがみこむ。
満員じゃないのが幸いだけど、人の多い電車の中で座り込んでいるのはみじめな気分がする。それ以上に吐き気が押し寄せてきて、到着してちゃんと歩けるのかもわからなかった。
睡眠不足くらいで立ち上がれないなんて。情けなくて、ただひたすら顔を伏せていたとき。
「大丈夫ですか?」
そんな由良に、声をかけてきた男性の声があった。
びっくりして顔を上げると、どこかでお会いした男性だった。三十代くらいで、ダークグレーのスーツをまとい、ノンフレームの眼鏡の奥の鋭いまなざしが理知的な人。
彼は屈みこんで由良を覗き込みながらたずねる。
「貧血? 持病? 薬は持っていますか?」
医療関係者なのか、的確に由良の状況を確かめようとしてくる。
そのきびきびした問いかけに、由良はつい甘えそうになってしまった。通勤電車の中で、無視して通り過ぎることだってできるのに、気に掛けてくれたのがうれしかった。
けれどそんな和らいだ気持ちも束の間だった。しゃがんでいるのに意識が薄れてきて、このままだと倒れるような気配がしてくる。
由良はどうにか自分を奮い立たせて言う。
「大丈夫です。ただの貧血……次の駅で降ります」
まだ会社まで三駅分あるけれど、周りに迷惑をかけたくなかった。
そう言っているうちに次の駅に着いて、由良はふらつきながらも電車から降りる。
ホームのベンチに座りたかったけど、それももう腰が上がらなくて地面に膝をついた。
こんなところで吐くわけにはいかない。倒れるのもいけない。でも、苦しい。
どうしよう。うずくまって心の中で誰かに助けを呼んだら、肩に触れられた。
「……ああ、もう。見てられない」
のろのろと顔を上げると、さきほど声をかけてきた男性が切ないような顔で立っていた。
「失礼」
「あ」
その人に腕を回して抱き上げられて、由良は具合が悪くなければ悲鳴を上げそうだった。
視界がぐんと高くなって、驚いて声もなかった。由良は小柄な方だけど、でも成人女性を抱き上げるのは大変なはずだった。そんなことが現実にできるとにわかには信じられなくて、由良はベンチに下ろされるまで彼をまじまじと見てしまった。
彼は由良をベンチに寝かせると、自分は由良の頭の側のベンチに座る。
「吐き気は? がまんしているようなら吐いてしまいなさい。楽になります」
「だ……大丈夫、です」
「いいですね、がまんしないんですよ? 少し休んで、良くなるようならそれから会社の医務室に行きましょう」
てきぱきした対処は、やっぱり医療関係の人らしかった。
それに話しぶりから、同じ会社の人で、しかも由良のことを知っているみたいだった。
でも、どこで会ったのだろう? 大事なことのような気がするのに、頭が重くて思い出せない。
由良は横になっているうちに何度か彼に声をかけた。
「あの、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私を置いて出勤してください」
「僕のことはいいですから。水を飲みますか?」
由良がそう言っても、彼は受け流すだけで由良の容態のことだけ話していた。
結局由良は、十五分ほど彼に付き添われてベンチで休んでいた。
幸い気分の悪さは次第に引いていった。医療関係の人がついているという安心もあった。
……でもそれ以上に、由良を見下ろす彼のまなざしが優しくて、つい甘えてしまったのかもしれない。
体に血の流れが戻ってきたのを感じて、由良はゆっくりと体を起こす。
「もう大丈夫です……」
由良が彼を振り向いて言うと、彼は慎重に由良の顔色を見たようだった。
「顔色は戻りましたね。歩けますか?」
「はい……ご心配をおかけしました」
そこまでなら、非日常ではあったけど、まだすぐに日常に戻れる気がしていた。
けれど彼はふいに、由良が思ってもみなかったことを告げた。
「車を呼びましたから。会社まで一緒に行きましょう」
車を呼ぶ?
それは由良のような普通の会社員の使う言葉ではなくて、由良ははっと息を呑む。
由良は慌てて立ち上がって、彼に距離を取るように言った。
「と、とんでもない。私、これで」
彼は由良に距離を取られたのを察したようで、条理を通すように告げる。
「社員の健康を守るのは私の仕事なんです。倒れそうな社員を保護するのは職務の範囲内ですよ」
そこで彼は不意打ちのように優しい目をして言った。
「……というのは、建前で」
彼はどこかで見たまなざしで由良を見て苦笑した。
「ただ心配だからというのでは、だめですか?」
その穏やかな目、柔らかい雰囲気。
由良は急速に意識が覚めてきて、目を見開いた。
「……昨日の」
下の階の住民の男性。由良が水をあふれさせても、責めることもなく労わって、髪を拭くタオルまで渡してくれた人。
彼は仕事のときとプライベートの雰囲気が全然違っていて、気づかなかった。隙のないダークグレーのスーツと、かわいいクマのトレーナーがまるで重ならなかった。
そういえばアパートでなら、何度も彼を見かけた覚えがある。いつもポップなキャラクターものの服を着て、ゴミ捨て場が散らかっていると丁寧に掃除していた。
彼は由良が思い出したのを、ほっとしたように受け止めたようだった。穏やかに微笑んで、喜ぶように言う。
「やっと気づいてくれた」
今はとても可愛いなんて雰囲気じゃなくて、医療関係者ならではの的確さをまとうけど。まなざしの穏やかさは確かに昨日と同じで、由良は思わず泣きそうになった。
「……二度も助けていただいて」
由良の中で、ふいに気持ちはことんと音を立てて動いた。
……心の中に小さな花が咲くような、そんな淡い気持ち。
「わ、私、やっぱり電車で出勤します」
彼が反論の声を上げる前に、由良は慌てて言う。
「タクシーに同乗させていただくのは申し訳ないです。ごめんなさい。ありがとうございました」
この人が呼んだのはタクシーじゃない。そうわかっているから、余計に確かめたくなかった。
由良は何度も頭を下げて、逃げるように踵を返そうとする。
「だめです」
でも手を引かれて、由良はそれ以上一歩も動けなかった。
振り向くと、優しいようで意思の強い目が見える。
「……つかまえてしまいましたから」
何度断っても、やはり答えは同じだった。その柔らかく強い態度に、由良はこの人が何者か気づき始めていた。
根負けして一緒に駅から出ると、わが社の運転手のついた車に乗り込む。
普段由良が使っている社用車と違う、高級車独特の鈍い振動の中で、由良はためらいがちに言葉を切り出す。
「せめて裏口につけて頂けませんか」
由良がうつむいて告げると、彼は苦い声音で返した。
「僕と一緒にいるところは見られたくない?」
「い、いいえ。その、恐縮なんです」
「わかりました。今は別々に会社に入りましょう」
ただ彼は意思の弱い人ではないらしく、念を押すのをやめなかった。
「でも、必ず夕方までには一度医務室に顔を見せてください。約束ですよ? ……それから」
彼は懐から名刺を取り出して何か書き込む。由良が不思議そうに首を傾げると、彼は名刺を差し出して言った。
「持っていってください」
名刺の裏面に、プライベートらしい連絡先が書いてあった。
……そして表面に、「北条勇人」の名前。
彼は由良に名刺を握らせて、医者らしい強い目で言った。
「次会う時までには、顔と名前、覚えてくださいね」
北条勇人先生、それはわが社の社内ドクター兼、取締役だった。
にっこりと笑って、彼は由良に念を押したのだった。
これくらいまで仕事をしたこともある。でも由良の体力はそれほどないから、いつもへとへとだった。頭も冴えていて、結局明け方まで寝付けなかった。
朝、浅い眠りから覚めて、重い体を起こす。
どうにか朝ごはんをしっかり食べようと、卵を焼き始める。
「……う」
でもいつもなら美味しそうなその匂いが鼻について、結局一口も食べられなかった。牛乳も気分が悪くて、パンの端だけかじって出勤する。
由良は電車に乗ったものの、頭が重くて、立っているのがつらかった。
あるとき、ふっと足元から力が抜ける感覚があった。
貧血を起こして、由良は仕方なくその場にしゃがみこむ。
満員じゃないのが幸いだけど、人の多い電車の中で座り込んでいるのはみじめな気分がする。それ以上に吐き気が押し寄せてきて、到着してちゃんと歩けるのかもわからなかった。
睡眠不足くらいで立ち上がれないなんて。情けなくて、ただひたすら顔を伏せていたとき。
「大丈夫ですか?」
そんな由良に、声をかけてきた男性の声があった。
びっくりして顔を上げると、どこかでお会いした男性だった。三十代くらいで、ダークグレーのスーツをまとい、ノンフレームの眼鏡の奥の鋭いまなざしが理知的な人。
彼は屈みこんで由良を覗き込みながらたずねる。
「貧血? 持病? 薬は持っていますか?」
医療関係者なのか、的確に由良の状況を確かめようとしてくる。
そのきびきびした問いかけに、由良はつい甘えそうになってしまった。通勤電車の中で、無視して通り過ぎることだってできるのに、気に掛けてくれたのがうれしかった。
けれどそんな和らいだ気持ちも束の間だった。しゃがんでいるのに意識が薄れてきて、このままだと倒れるような気配がしてくる。
由良はどうにか自分を奮い立たせて言う。
「大丈夫です。ただの貧血……次の駅で降ります」
まだ会社まで三駅分あるけれど、周りに迷惑をかけたくなかった。
そう言っているうちに次の駅に着いて、由良はふらつきながらも電車から降りる。
ホームのベンチに座りたかったけど、それももう腰が上がらなくて地面に膝をついた。
こんなところで吐くわけにはいかない。倒れるのもいけない。でも、苦しい。
どうしよう。うずくまって心の中で誰かに助けを呼んだら、肩に触れられた。
「……ああ、もう。見てられない」
のろのろと顔を上げると、さきほど声をかけてきた男性が切ないような顔で立っていた。
「失礼」
「あ」
その人に腕を回して抱き上げられて、由良は具合が悪くなければ悲鳴を上げそうだった。
視界がぐんと高くなって、驚いて声もなかった。由良は小柄な方だけど、でも成人女性を抱き上げるのは大変なはずだった。そんなことが現実にできるとにわかには信じられなくて、由良はベンチに下ろされるまで彼をまじまじと見てしまった。
彼は由良をベンチに寝かせると、自分は由良の頭の側のベンチに座る。
「吐き気は? がまんしているようなら吐いてしまいなさい。楽になります」
「だ……大丈夫、です」
「いいですね、がまんしないんですよ? 少し休んで、良くなるようならそれから会社の医務室に行きましょう」
てきぱきした対処は、やっぱり医療関係の人らしかった。
それに話しぶりから、同じ会社の人で、しかも由良のことを知っているみたいだった。
でも、どこで会ったのだろう? 大事なことのような気がするのに、頭が重くて思い出せない。
由良は横になっているうちに何度か彼に声をかけた。
「あの、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。私を置いて出勤してください」
「僕のことはいいですから。水を飲みますか?」
由良がそう言っても、彼は受け流すだけで由良の容態のことだけ話していた。
結局由良は、十五分ほど彼に付き添われてベンチで休んでいた。
幸い気分の悪さは次第に引いていった。医療関係の人がついているという安心もあった。
……でもそれ以上に、由良を見下ろす彼のまなざしが優しくて、つい甘えてしまったのかもしれない。
体に血の流れが戻ってきたのを感じて、由良はゆっくりと体を起こす。
「もう大丈夫です……」
由良が彼を振り向いて言うと、彼は慎重に由良の顔色を見たようだった。
「顔色は戻りましたね。歩けますか?」
「はい……ご心配をおかけしました」
そこまでなら、非日常ではあったけど、まだすぐに日常に戻れる気がしていた。
けれど彼はふいに、由良が思ってもみなかったことを告げた。
「車を呼びましたから。会社まで一緒に行きましょう」
車を呼ぶ?
それは由良のような普通の会社員の使う言葉ではなくて、由良ははっと息を呑む。
由良は慌てて立ち上がって、彼に距離を取るように言った。
「と、とんでもない。私、これで」
彼は由良に距離を取られたのを察したようで、条理を通すように告げる。
「社員の健康を守るのは私の仕事なんです。倒れそうな社員を保護するのは職務の範囲内ですよ」
そこで彼は不意打ちのように優しい目をして言った。
「……というのは、建前で」
彼はどこかで見たまなざしで由良を見て苦笑した。
「ただ心配だからというのでは、だめですか?」
その穏やかな目、柔らかい雰囲気。
由良は急速に意識が覚めてきて、目を見開いた。
「……昨日の」
下の階の住民の男性。由良が水をあふれさせても、責めることもなく労わって、髪を拭くタオルまで渡してくれた人。
彼は仕事のときとプライベートの雰囲気が全然違っていて、気づかなかった。隙のないダークグレーのスーツと、かわいいクマのトレーナーがまるで重ならなかった。
そういえばアパートでなら、何度も彼を見かけた覚えがある。いつもポップなキャラクターものの服を着て、ゴミ捨て場が散らかっていると丁寧に掃除していた。
彼は由良が思い出したのを、ほっとしたように受け止めたようだった。穏やかに微笑んで、喜ぶように言う。
「やっと気づいてくれた」
今はとても可愛いなんて雰囲気じゃなくて、医療関係者ならではの的確さをまとうけど。まなざしの穏やかさは確かに昨日と同じで、由良は思わず泣きそうになった。
「……二度も助けていただいて」
由良の中で、ふいに気持ちはことんと音を立てて動いた。
……心の中に小さな花が咲くような、そんな淡い気持ち。
「わ、私、やっぱり電車で出勤します」
彼が反論の声を上げる前に、由良は慌てて言う。
「タクシーに同乗させていただくのは申し訳ないです。ごめんなさい。ありがとうございました」
この人が呼んだのはタクシーじゃない。そうわかっているから、余計に確かめたくなかった。
由良は何度も頭を下げて、逃げるように踵を返そうとする。
「だめです」
でも手を引かれて、由良はそれ以上一歩も動けなかった。
振り向くと、優しいようで意思の強い目が見える。
「……つかまえてしまいましたから」
何度断っても、やはり答えは同じだった。その柔らかく強い態度に、由良はこの人が何者か気づき始めていた。
根負けして一緒に駅から出ると、わが社の運転手のついた車に乗り込む。
普段由良が使っている社用車と違う、高級車独特の鈍い振動の中で、由良はためらいがちに言葉を切り出す。
「せめて裏口につけて頂けませんか」
由良がうつむいて告げると、彼は苦い声音で返した。
「僕と一緒にいるところは見られたくない?」
「い、いいえ。その、恐縮なんです」
「わかりました。今は別々に会社に入りましょう」
ただ彼は意思の弱い人ではないらしく、念を押すのをやめなかった。
「でも、必ず夕方までには一度医務室に顔を見せてください。約束ですよ? ……それから」
彼は懐から名刺を取り出して何か書き込む。由良が不思議そうに首を傾げると、彼は名刺を差し出して言った。
「持っていってください」
名刺の裏面に、プライベートらしい連絡先が書いてあった。
……そして表面に、「北条勇人」の名前。
彼は由良に名刺を握らせて、医者らしい強い目で言った。
「次会う時までには、顔と名前、覚えてくださいね」
北条勇人先生、それはわが社の社内ドクター兼、取締役だった。
にっこりと笑って、彼は由良に念を押したのだった。