邪悪で優しい精霊様、私を捨てた王子の姿で溺愛しないでくれますか
憂鬱だった。
西地区での訪問診療の後、王都に戻るには魔の森を通らなければならない。
迂回するルートもあるけど、それだと時間がかかりすぎるため、今回は森を通る以外の選択肢はなかった。
聖女として多くの民を癒やすことは、自分に課せられた使命だと思ってる。だから、わがままなんて言うつもりはない。
でも、このスケジュールを組んだのが、私の婚約者であるハロルド殿下で、彼は移動に際して何の配慮もしてくれなかった。
そのことが、魔の森を通ること以上に私の心を憂鬱にさせていた。
ハロルド・グレナヴィル第一王子。この国の第一位の王位継承権を持つ、私の婚約者。
彼は社交辞令でも、私に笑顔を向けてくれたことはない。
いつも最低限の事務的な会話だけ。
そもそも私が婚約者になれたのも、聖女の中から妃が選ばれるという国の慣習によるもので、少なくとも私たちは好き合って結ばれたわけではなかった。
──それでも。今は形だけの婚約者だとしても、いつかは心を通じ合える。
私、アデライン・ブライスは、そう信じて、ずっと彼にふさわしくあるよう努めてきた。
聖女として。第一王子の婚約者として。
私は彼のことが好きだった。
それは王子だからじゃない。惹かれていたのは、彼の気高い志にだ。
最初に会ったのは十年前。聖女候補たち一同が、王族に謁見する王宮の広間で。
「──この国を少しでも良くするため、僕は必ず良き王となってみせる。これから聖女となる皆にも、どうか力を貸してほしい」
わずか八歳だったハロルド殿下は、詰まることなく私たちの前でそう宣言した。
その姿は、後光が差しているようだった。
もちろん、王の何たるかをすべて理解してるわけじゃないだろうけど、自らの重責に負けないよう、毅然と胸を張った様子は本当に輝いているようで。
(私と同い年なのに……こんな立派な人がいるなんて)
その時、私は初めて人生の目標ができたと思った。
彼を支えたい。彼とともに歩めたらどれほど素晴らしいだろう。そんな思いで胸がいっぱいになった。
妃の地位なんて別に欲しくはなかった。
ただ、この人の隣にいても恥じない自分であろうと、ずっと己を磨き続けてきた。
──それなのに。
「アデライン。今月は西地区の診療の後で、南東部の港町にも慰問に行ってもらいたい」
「えっ、ですが……それはもともと、殿下のご公務として予定されていたものでは……?」
「ああ。だが、用事ができた。どうせ俺は聖魔法が使えないのだし、それなら君が行って、ついでに診療も行った方が良いだろう」
殿下は当然のことのように、私に自らの公務を押し付けようとした。
私は訝りながら、彼へ尋ねる。
「あの、用事、というのは……?」
「わかるだろう。ナナミの指導だ」
ナナミ・ウタガワ。東の大陸からこの国に亡命してきた、十六歳の少女。
ただ、その経歴は国が捏造したもので、本当はまったく別の世界から飛ばされてきた転移者なのだという。
ナナミの聖女としての素質は稀に見るもので、彼女はさしたる訓練を受けずとも、私と同等の聖魔力を扱うことができた。
評議会はこぞってナナミを聖女に推し、ほどなくして彼女の王宮入りが決定する。
聖女は何人いてもいい。平民上がりの聖女も、今までに例がないわけではない。
私もナナミの王宮入りに異論はなかったし、特段張り合うつもりもなかった。
でも、ハロルド殿下が彼女を思うときの表情は──私には一度として向けてくれたことがないもので。
彼の勝手な予定変更を聞いた時、思わず反論の言葉が口をついて出てしまう。
「……殿下、南東部の慰問は、直近でも三年前だったはずです。やはり、王家の方が行かれないことには──」
「問題ない。俺が行かなかったからといって、何か不都合が生じるわけでもないだろう。それよりも、この世界に来て日の浅い、ナナミについていてやるべきだ」
「いいえ、それこそ宮廷魔術師の方に任せるべきです。私の経験からいっても、聖魔力の教導は、専門の方だけで行う方が効率的だと思います」
「魔術の指導だけじゃない。彼女が心細いだろうと言ってるんだ」
「……そんな理由なら、それこそ慰問に行って下さい。ナナミさんには、戻られてからいくらでも……お会いになる機会があるでしょう。町では殿下がいらっしゃるのを心待ちにしている人もいるんですよ」
「アデライン、何故君は彼女に寄り添ってやろうと思わないんだ! あの子は君などとは違う。この国では、誰も身寄りがいないんだぞ!」
いくらかのやり取りの後、殿下は叩きつけるように声を荒げた。
君などとは──その言葉がどれほど私の心を傷つけたか、彼自身はおそらく気付いてはいない。
そして、他の聖女たちに任務を押し付けるわけにもいかず……結局、私が代行として、南東部へ赴くことになる。
「……どうすれば良かったのよ……」
西地区から帰る馬車の中、先の言い合いが思い出されて、ずっと我慢していた弱音がこぼれた。
誰もいないこの空間では、本音を抑える必要がない。そこだけが今回の旅の良いところだった。
私が乗る馬車には、一人の護衛も付いていない。御者ですら、魔力で駆動する魔導人形が馬を駆っている。
常人では魔の森を通過する際、瘴気にあてられて身体に不調をきたしてしまうからだ。
人員制限は仕方のないところ。けれど、聖女がお供もつけずに危険区域を通過する──そのことに対する配慮や心配を、やはり殿下は少しもすることはなかった。
(……自分と彼女とで、何が違うんだろう……)
いくら考えても答えは出なかった。
出自といい、髪の色といい、確かにあらゆる点で私たちは異なるけど、そこまで差をつけられる理由があるとは思えない。
あの少女の性格は、よく知らない。
まだ異世界から来たばかりで、おびえて素の自分を出すことすらできていないようなのだ。
(……じゃあ、やっぱり殿下が一緒にいてあげることを、快く許してあげるべきだったの……?)
……違う、そうじゃない。
そもそも私は何を考えているのだろう。
私はこの国の筆頭聖女。大事なのは、目の前の任務をこなすことでしょう。
こんな嫉妬の感情に振り回されていては、それこそ示しがつかない。
それに、殿下に愛されるために聖女になったわけじゃない。
確かに彼に認めてほしかったけど、少なくとも、それは自分がやるべきことを終えた後の話だ。
……でも、いつだって感情は理屈を超えていく。
いくら気持ちを抑えようとしても無理だった。
ずっと空回っている自分が情けなくて、殿下があの子に目をかけていることが悔しくて──自分のあさましい感情を自覚しているのに、それはどんどん膨らんでいく。
「……っ」
泣きそうだった。
誰も聞いていないのだから、ここで声を上げて叫んだってかまわない。
けれど、私の聖女としての矜持がその一線を越えることを許さず、だからこそ、抑えた思いで胸が張り裂けそうだった。
「……いっそのこと、消えてしまいたい……」
魔の森を通過する際、思わぬ事故に遭遇したのは、そんなことを口にしてしまったからなのか。
それとも、愚かな嫉妬への罰なのか。
いずれにせよ、それは避けようのない事故だった。
ドッ──
ガンッ、ガガガガガガッ!
「っ!?」
突然の衝撃音と、強い揺れ。
その日はかなりの雨が降っていた。
濡れた道の端を馬の前足が踏み外し、馬がそのまま崖下へと滑落してしまったのだ。
当然、馬車の中に乗っていた私も、同じように。
悲鳴を上げる暇もなかった。
何が起きたかもわからない。
ただ、何度も身体を叩きつけられたことだけは、おぼろげながら覚えている。
そして、直後にもう一度大きな音がして──私の意識は暗転したのだった。
◇
──夢。
夢を見ていた。
青く澄んだ湖のほとりで、私はハロルド殿下と肩を並べて座っている。
そこには私たち以外誰もいない。ただゆっくりと二人だけの時が流れている。そんな静かな夜の夢だ。
それは私がずっと前から見ている夢でもある。
殿下に面会する予定がある時、いつも決まってその前夜に、私は彼の夢を見ていた。
いわばそれは予行演習のようなものだった。
私は夢の中で、次の日に話すべき内容を、前もって夢の殿下にしゃべるのだ。
現実の彼を前にした時、緊張で固まってしまわないように。
今思えば、起きている時にどれだけ上手く話せても意味はなかったのだけど、その夢は殿下とともにいて、唯一安らげる時間だった。
夢の中の殿下は、いつも私の話を笑顔で聞いてくれた。
彼から話すことはほとんどない。けど、きちんとこちらに耳を傾けていてくれる。
時々は、私へと問いかけてくる。
「僕がここにいて、嫌じゃないかな」、「もう少し、君とこうしていたいんだ」、そんな控えめな言葉とともに。
私が受け入れると、殿下は嬉しそうに「良かった」と微笑む。
それがいつものやり取りだった。
そして、今も私はその夢を見ていた。
どうしてだろう。殿下に会う約束なんて、もうずっとしていないはずなのに。
「……──、アデライン、アデライン」
不意に自分を呼ぶ声がして、目を開ける。
夢から覚める。そこはどこかのお屋敷の一室で、私はベッドの上に寝かされていた。
でも、覚醒したというのに、今いるところが夢か現実かわからなかった。
(……えっ? 殿下……?)
何故なら視界に飛び込んできたのは、ハロルド殿下の心配そうな顔だったからだ。
今起きたはずなのに、どうして彼がいるのか。
もしかして、まだ夢の中なのでは。一瞬そう思うけれど、すぐに違うと気付く。
何故なら、目の前の青年は顔こそ殿下と瓜二つだったけど、決定的な違いがあったからだ。
髪の色。
その青年は、ハロルド殿下とは真逆の、漆黒の髪をしていた。
殿下本人は、輝くような金髪だ。
瞳の色も青ではなく、薄い紫。
だというのに、顔のつくりは殿下とまったく同じ。
それはまるで、昼と夜の対比だった。
「……良かった。目が覚めたということは、傷は完全に治癒したみたいだね」
「えっ? あ、あの……」
親しげに話しかけられて、戸惑ってしまう。
殿下はこんな表情で私を見てくれたことなどない。やはり別人だ。
けれど、同じ顔で優しく微笑まれて、どう返せばいいのか言葉に詰まる。
そして、混乱した頭のまま、少しずつ思い出してくる。
確か私は、西地区を出発して、魔の森を通っていた。
その途中で大きな衝撃音がして……おそらく、何らかの事故に見舞われたのだ。
馬車の中だったので子細はわからない。崖から滑落したと知るのは、これより後のこと。
ともあれ、私は気を失うほどの重傷を負い、助けられた。そして、寝ている間に治療を受けたのだろう。
断片的な情報から、とりあえずそこまでの結論を導き出した。
「あの、どなたか存じませんが……ずっと私を看病して下さったのですね。ありがとうございます」
色々聞きたいことはあったけど、まずは彼に謝意を示す。
「私はアデライン・ブライスと申します。……あなたは……あなたのお名前をうかがっても、よろしいでしょうか」
起きる前に自分の名を呼ばれたような気がしたけど、それは夢だと思った。彼とは初対面なのだから。
青年は、少しだけはにかむような素振りを見せて、穏やかな声で名乗ってくれた。
「……ノクス」
ノクス。それが彼の名前。
家名は無いのか。それとも教えたくないのだろうか。
何か事情があるのかもしれなかった。
ただ、申し訳ないのだけど、どこの家の者なのかは、すぐにわかってしまうだろう。
というのも、私が寝かされていたこの部屋。かなり広くて、どこかの名家のお屋敷のように思われたからだ。
(この人……こんなにも殿下にそっくりということは、王家の方かしら……。ということは、私は王都からの救助隊に助けられたということ……?)
「ノクスさん、すみませんが、このお屋敷の主の方を呼んできていただけますか。私はすぐにここを発たねばなりません。お礼はまた、落ち着いてから必ずさせていただきますから」
誰の家かはわからないけど、おそらくここは王都なのだろう。私は早急に任務に復帰することにした。
しかし、私の言葉に、ノクスは数秒きょとんとする。
彼は少し困ったような顔になって言った。
「あの、ここには、僕以外には……誰もいないんだ。僕が、ここの……主です」
「……え?」
「それから……まだ動かない方がいい。治癒したとはいえ、君は命に関わる大怪我を負っていた。外に出るのは体力が回復してからでないと……。王都に戻るのも、もう少し休んでからの方が良いと思う」
「……!?」
何を言っているのか、一瞬理解が追い付かなかった。
彼がここの主人であるのは、まだわかる。でも、彼以外に誰もいないって……? それに……ここは王都ではないの?
「あの、私は救助隊に助けられたのではないのですか?」
質問しながら体が前のめりになって、私はバランスを崩してしまう。
下半身に力が入らなかった。
ベッドの上で、横に倒れ込むような形になり、寸前で彼に抱き留められる。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
彼──ノクスは、私の体をゆっくりと起こす。
優しい手だった。
温かくて、慈しむようにこちらの体を支えてくれる。
なんとなくだけど、助けてくれたのはこの人ではないのか。そんな気がした。
ノクスは穏やかな表情で、私の体から手を離す。
それから、何故か窓際へと歩いていく。
彼は少しだけ逡巡して言う。
「……ごめんね。できれば、あまりがっかりさせたくないんだけど──」
シャッという小気味良い音とともにカーテンが開かれる。
それと同時に、私は驚きで目を見開いた。
「……これって……」
「君が嫌になったら、いつでも出ていってくれてかまわない。でも、今はどうか、ゆっくり体を休めて欲しいんだ」
窓の外に映っていた景色は、王都の街並みではない。
それどころか、建物の一つも存在していなかった。
代わりに広がっていたのは、見渡す限りの木々と、それらにまとわりつく紫紺の瘴気。
すなわち、ここは──魔の森の中。
私がいるこの屋敷は、ただ一軒、魔の森に建っていたのだった。
◇
「どうなってるの……」
思わずそんな言葉が漏れた。
それは異様な光景だった。
異様というよりは、違和感。まるで森のまっただ中に、お人形の家をぽつんと置いたような感じ。住居の配置として、あまりにも不自然なのだ。
配置だけじゃない、家の内装もだ。家具も壁紙も、よく見れば作られたばかりのように汚れ一つなく、生活感がない。こんな場所だというのに。
私が寝かされていたのは、本邸らしき建物。窓の外を見ると、庭や花壇があり、一番向こう側には造りのしっかりした正門が見える。
けれど、そこより外には何もない。生い茂る木々と瘴気があるのみ。
つまり、確かにここは魔の森の中なのだった。
「あ……あなたは……何者なのですか?」
この怪しさからして、もう少し言葉を選んだ方が良かったのかもしれない。
けど、私はそこまで頭が回らず、率直に彼に尋ねてしまっていた。
「……ノクス」
柔らかな笑みとともにはぐらかされた。
怪しすぎる。
魔の森に一軒だけ建っている大きな邸宅。そこにハロルド殿下そっくりの青年が、一人だけ住んでいるなんて。
「ええと、アデライン……さん。他にどこか……痛むところはない?」
「え?」
そこで彼はおずおずと私に尋ねる。
「怪我は全部治癒できたと思うけど……もしかしたら、見落としがあるかもしれない。少しでも体に違和感があれば、遠慮なく言って」
「い、いえ、特には」
「じゃあ、めまいがするとか……吐き気とかは?」
「それも……大丈夫です」
むしろ、とてもすっきりとしていた。
体はまだ上手く動かせない。けど、まるでたっぷり睡眠をとって、天気のいい朝に目覚めたような、そんなすがすがしい気分だった。
「ああ、良かった」
ノクスは心底安堵したように息を吐く。
その表情は演技には見えない。本当に私を心配してくれているようだった。
「治療も……あなたがして下さったのですか?」
この家には他に誰もいないと彼は言った。
となれば、看病だけではない。怪我の手当ても、すべてこの人がやってくれたことになる。
その予想通り、ノクスは私の質問にうなずく。
「……ありがとうございます。あなたは命の恩人ですね」
「馬車の中から君を引っ張り出して、何とか蘇生させて……。僕の力だけじゃ心もとなかったから、君自身の聖魔力で治癒力を底上げさせてもらったんだ。その分、体力が減っているから、満足に動けるようになるまで時間がかかると思う」
体に力が入らないのは、そのためか。
照れているのか、彼はこちらとは目を合わせず、多少饒舌になって説明を重ねる。
その様子はハロルド殿下とはまるで違っていて、どこか可愛らしくて、微笑ましかった。
「馬車のキャビンと魔導人形の残骸は、回収して倉庫に保管してあるからね。それと、残念だけど、馬は僕が見つけた時には二頭とも死んでいた。あと、申し訳ないけど、君が着ていた服、これも廃棄せざるを得なかった。替えさせてもらった服のサイズは、合ってると思うけど──」
と、そこで何故か、彼はハッとして顔を赤らめる。
「……あの?」
私が首を傾げて覗き込むと、彼は「あ、えっと」と言葉に詰まり、直後に頭を大きく下げた。
「着替えさせたのはっ、ぼ、僕がやったわけじゃないから! 確かに、治療に邪魔だったから服は破いたけど……それも、やましいつもりとかは全然なくて! で、でも、肌を見てしまったことは……ごめんなさいっ!」
一瞬、何を慌てているのかわからなかった。
どうやら彼は、治療時に私の裸を見てしまったことを謝罪しているらしい。
そんなこと、気にする必要もないのに。
緊急時に救命を優先させるのは当たり前。それでとやかく言う恥知らずのつもりはない。
「……大丈夫、気にしませんよ」
できるだけ穏やかな声で言う。
すると彼は、「本当?」と子犬のようなまなざしで私を見上げた。
「ええ、本当に」
「……ありがとう。ごめんね」
「いいえ、こちらこそ。気遣っていただいて、嬉しいです」
「でも、まだ動けないだろうから……当面は、寝ていた時と同じように介助が必要だと思う。それで、寝ている時もそうさせてもらってたんだけど……今後もこの子たちを君の傍に付けていいだろうか」
「……『この子たち』?」
私が聞き返すと、ノクスは人差し指を立て、そこに魔力を集中させる。
すると、紫色の光玉が、いくつも彼の指先に集まってきた。
それらの光はふわふわと漂い、ノクスの整った顔を照らす。
「これは……」
「僕に仕えてくれる精霊たち。名前はプルプラっていうんだ。この家は僕一人で住むには大きすぎるからね。家事全般は、この子たちに手伝ってもらってる」
「精霊……。あなたは、精霊を使役できるのですか?」
「うん」
少し誇らしげで、にこやかな返事が返される。
何でもないことのように彼は言ったけど、それはとてもすごいことだった。
そもそも、精霊は人の意思で自由に呼び出せるものではない。
高位の魔術師が自らの魔力を代償に、なんとか力の一部を借りられる程度のものだ。
それをこんなにもたくさん、しかも精霊に日常の家事を手伝わせるなんて。
(こんなことができるのは……神話に出てくる存在、言うなれば神様でもなければ……。あとは、精霊そのものとか……)
そう、精霊かそれに近い存在なら、他の精霊に助力を仰ぐことも容易なはずだ。少なくとも、人間が頼むよりは。
(そういえば、魔の森の瘴気は、そこに棲む邪霊が発生源だと聞いたことがあるわ……。とすると、彼はもしかして、この森の邪霊……?)
でも、その人懐っこい笑顔や態度は、邪霊という言葉のイメージからあまりにもかけ離れていた。
そもそも精霊とは異なり、この青年にはきちんと肉体がある。
……ならば、彼は何者なのか? 考えるほどに謎は深まるばかりだった。
「今の君の服もね、この子たちが選んで着替えさせたんだ。まあ、人がやるようにスムーズにはいかないだろうけど……できればそこは、大目に見て欲しい」
「いえ、そんなことまでしていただいて……恐縮です」
「気にしないで。僕もこの子たちも、したくてやっていることだから」
先ほど彼はこの家に自分以外はいないと言ったけど、つまりそれは、人間はいないということか。
(でも、助けてくれる精霊はいる。だから彼一人で暮らせているわけね……)
いろいろと気になるところはあったけど、私はこの人に命を救われた。それだけは紛れもない事実だった。
彼は悪い人じゃない。それは、ここまでの言動を見ていればはっきりわかる。
助けてもらったからだけじゃない。短い会話でも、その人の本性というものは、少なからず出るものだからだ。
誠実で、真摯で、ちょっと可愛いくらいに純情な人。それが、私が今抱いている彼への印象。
その正体が森に棲む邪霊だったとしても、こうして私に見せてくれた表情が、とても偽りだとは思えなかった。
(それなら、なおのこと……礼節には礼節で、好意には好意で返さないと。たとえ彼が人でなかったとしても)
私は彼に向き直る。人ではないかもしれない──そんな存在にこれからの生活を委ねようというのに、不思議と心は涼やかな気持ちだった。
「……ノクスさん」
「何?」
「色々とありがとうございます。ご迷惑をおかけすると思いますが……もうしばらく、ここでお世話になってもよろしいでしょうか」
ノクスはその言葉に、パッと顔を輝かせた。
「もちろん! ずっといてくれたって構わないよ!」
そして、私の手を取り、はっとしてすぐに離す。
「あっ、ご、ごめん」
「いいえ、お気になさらず。それから……私のことは、どうかアデラインとお呼び下さい」
その言葉に、ノクスは何故か少しだけ苦笑して、私に笑顔を返してくれた。
「それじゃあ僕のことも、ノクスと呼んでくれるかな。どうぞこれからよろしくね、アデライン」
「わかりました。こちらこそよろしくお願いします──ノクス」
そんな感じで、私は魔の森にしばらく留まることとなる。
けれど、彼との出会いが自分の運命を大きく変えることになるとは、この時はまだ思いもしなかったのだった。