初恋はミルクティー


「いってきまーす」


朝。いつもの時間に家を出て、私は駅へと向かう。

歩いていると、金木犀の甘い香りが爽やかな風に乗って運ばれてきた。


──スンスン。

この香りを堪能したくて、私は思いっきり鼻から息を吸い込む。

……うん、いい香り。


「よし、急ごう」


大好きな香りを思う存分堪能した私は、歩く速度をわずかに上げた。


早く、あの人に会いたい。


高校1年目の秋。私には、最近気になる男の子がいる。

それは毎朝、電車が一緒になる他校の男の子。


私はいつものように最寄りの駅から電車に乗り込み、つり革を手に立ちながら、彼が乗り込んでくる駅に着くのを待つ。


電車に揺られること数分。彼がいる駅に電車が止まった。


……き、来た!


「ふわぁ〜っ」と、眠たそうに欠伸をしながら電車に乗り込んで来た彼は、空いていた私の隣に立つ。


少し癖のあるミルクティーブラウンの髪に、タレ目の二重の瞳。スっと筋の通った鼻に、形の良い唇。

イケメンの彼は、今日も大きなスポーツバックを肩にかけて、髪色と同じミルクティーみたいに甘くて優しい香りがする。


そんな彼の名前を、もちろん私は知らない。学年も知らないし、それどころかまともに話したことすらない。


毎朝ある駅から乗り込んでくる彼のことをいいなと思いつつも、声をかけられずにただ見ているだけ。


ドキドキ、ドキドキ。

彼が隣に来ただけで、胸の鼓動が一瞬で速くなる。


今日も、かっこいいな。

隣に立つ彼のことを、バレないようにこっそりと見つめる。


私は、彼が乗ってから数個先の駅で降りなければいけないから。

ほんのわずかな時間しか、彼を見ることはできない。

だから今、しっかりとこの目に焼きつけたい。


彼の視線は今、手元のスマホに一直線。

スマホを見つめる横顔ですら、かっこいい。


大きなスポーツバッグにはサッカーボールのキーホルダーがついているけど、もしかしてサッカー部なのかな?

名前は、なんていうんだろう?

彼女とかいるのかな?


彼に聞きたいことが、次から次へとあふれ出てくるけれど。

知り合いでも何でもない私は、そんな簡単には聞けない。

せめて、同じ学校だったなら……声をかけられただろうか?

彼と学校が違うことが、恨まれる。


最初は、たまたま電車の車両が一緒になって。

初めて彼を見たときの印象は、芸能人みたいにかっこいい人だな……って思ったくらいだった。

彼のことを、異性として意識するようになったのは……たぶん、あのときから。


* *


1ヶ月ほど前のあの日は、朝から雨だった。


そのせいかいつも乗る通学電車が、普段よりも混んでいた。


つり革も持てないくらいの満員電車。


スクールバッグを胸の前に抱えて立っている私は、倒れたりしないよう必死に足を踏ん張っていた。


──ガタン……ッ!


ところが、乗っていた電車が突然大きく揺れ、人波に押された私は足元がふらついてしまった。


「きゃっ!」


こ、転ぶ……!


衝撃を覚悟してとっさに目をつむったものの、しばらく経っても痛みはない。


その代わりに何か温かいものに包まれている感覚がある中、恐る恐る目を開くと……。


「っ!?」


目の前にはミルクティー色の髪の、あの彼の姿があった。

どうやら彼が私を抱きとめてくれたらしい。


「大丈夫?」

「はっ、はい……」


至近距離で彼と目が合い、心臓がドクンと大きく跳ね上がる。


「君はこっち」


そう言って彼は自分が立っていたドア付近の場所を、私に譲ってくれた。


そして彼は私を支えていた腕を離すと、ドアに手をついて他の人が私に触れないようにしてくれる。

私が潰されないようにしてくれてるんだ。


昔、少女漫画で読んだ壁ドンをされているみたいで、ドキドキするけれど。

彼が人波から守るようにして立ってくれているお陰で、私の周囲には少しの空間ができて圧迫感がなくなる。


「ありがとう、ございます」

「ううん」


彼の顔は私よりも上にあるため、今どんな表情なのかは分からない。


彼はただ黙って、私を守ってくれている。


見ず知らずの私に、こんなふうにしてくれるなんて。優しい人なんだな。


──ガタン……ッ!


再び、電車が大きく揺れた。


その拍子に二人の距離が縮まり、甘い香りがふわっと鼻を掠める。


香水でもつけてるのかな?


彼の髪色と同じ、ミルクティーみたいに甘くて優しい香り。


私、この香り好きだなぁ。


「大丈夫?」


彼に顔を覗き込まれ、ハッと我に返る。


「はっ、はい。何回もすみません」


私が答えるとホッとしたように微笑まれ、初めて見た彼の優しい笑顔に、ドクンと心臓が大きく脈打つ。


私の降りる駅は、もうひとつ先。

彼が降りるのも、まだ少し先。

そのため、この状態のまましばらく電車に揺られていたのだった。


* *


あの日、助けてもらったのをキッカケに、私は彼のことを目で追うようになった。


あのとき初めて見た、彼の優しい笑顔が頭から離れなくて。


電車に乗ると、ミルクティーみたいなあの甘い香りを、無意識に探すようになっていた。


彼と、話してみたい。

彼のことがもっと知りたい。


そう思いながらも、内気な私はなかなか勇気が出せなくて。


あれ以来、彼と話すことはなかったけれど。

毎朝、彼を見るために嫌な学校にも頑張って行こうって気持ちになれたし。

電車でこうして彼を見られるだけでも、十分幸せだった。



それからしばらくガタンゴトンと電車に揺られ、私の降りる駅に到着。


彼との別れを名残惜しく思いながらも、他の人に続いて降車する。


明日は土曜日で、学校が休みだから。

土曜、日曜と、丸2日も彼に会えないって思うと寂しい。

そんなことを考えていたときだった。


「……あの!」


後方から突然、誰かの声がした。


通勤通学の時間帯、駅のホームには多くの人がいるなかで、自分に声をかけられたとは思わずそのまま歩き続けていると。


「ねぇ、待ってよ」


後ろから誰かに、手首をつかまれてしまった。


驚いて振り返ると、そこに立っていたのは……私が密かに想いを寄せている、あの彼だった。


「えっ。な、なんで?」


少し癖のあるミルクティー色の髪は乱れ、肩で息をする彼に私は目を見張る。


「これ、君のだよね? 君が電車を降りるときに、ポケットから落ちるのが見えて……」


彼の大きな手のひらには、見慣れたネコのキーホルダーのついた鍵が。


「あっ、それ……!」


私は慌てて制服のスカートのポケットに両手を突っ込むも、そこにあるはずの鍵はなかった。


「それ、間違いなく私の家の鍵です」

「そっか。良かった……はい」


彼が笑顔で、私に鍵を渡してくれる。


それと同時に、止まっていた電車が発車してしまった。


「あっ」


走っていく電車を、見つめる彼。


彼が降りる駅は、まだ少し先のはずなのに。私の落とし物を拾って、わざわざあとを追いかけてきてくれたなんて。


「ご、ごめんなさい。電車、私のせいで……」

「何も故意に落とした訳じゃないんだし、君のせいじゃないよ。鍵、なかったら困るだろう?」


学校に遅刻するかもしれないというのに、こんなときでも彼は優しい。


「でも、落とし物のお陰でこうして君と話せたから。僕にとっては、ラッキーだったのかもしれない」

「え?」

「僕……ずっと、君と話すキッカケが欲しかったんだ」


彼の言葉に、胸がとくんと小さく跳ねる。


『話すキッカケが欲しかった』って。そんなことを言われたら、期待してしまいそうになるよ。


「この際だから、正直に言うけど。君のこと、いつも可愛いなって思ってて。ずっと気になってたんだ」


う、うそ。彼が、私のことを!?


照れくさそうに手の甲で口元を押さえる彼の頬は、ほんのりと赤くなっている。


「でも……よく知りもしない僕に、突然こんなことを言われても困るよね。ごめん」


それだけ言うと、彼は踵を返して歩いていく。


そんな……私は困ってないのに。困るどころか、すごく嬉しかったのに。


彼の背中が、徐々に小さくなっていく。


……言わなきゃ。


今がきっと、彼と話すチャンスなんだから。私もちゃんと、自分の気持ちを伝えないと。


今この瞬間を逃したら、きっと後悔することになる。


「あ、あの……待って!」


勇気を振り絞って、私は彼に声をかけた。


すると、背を向けて歩いていた彼がゆっくりとこちらを振り返る。


「さっきの話、嬉しかったです。わ、私も……あなたのことが気になってたので。雨の日の満員電車で、助けてくれたあのときからずっと……!」

「え?」

「私、今まではどんな香水よりも金木犀の香りが好きだったんですけど……いつの間にか、あなたの甘い香水の香りが一番好きになってました!」


って、香りが一番好きとか一体何を言ってるんだろう私は。

恥ずかしくて、顔から火が出そうになる。


「あのときは、助けてくれて本当にありがとうございました。今日も落とし物を届けてもらって、助かりました」


速度を上げていく鼓動を感じながら、すうっと息を吸い込む。


「私は、優しいあなたが好きです。あなたのことを、もっと知りたいと思ってます。まずは、お友達からで良いので……私と付き合ってくれませんか?」


はっきりと想いを伝えると、彼の顔が嬉しそうにくしゃりと崩れた。


「……はい。喜んで」



彼が乗る次の電車が来るまで、私は彼と駅のホームのベンチに並んで座る。


学校が始まるまではまだ少し時間があるため、ギリギリまで彼と一緒にいたかった。


「ねえ。僕と、連絡先を交換してくれない?」

「連絡先?」

「うん。朝の電車以外でも、君と話したくてさ」


嬉しいな。


「はい! ぜひ」


私はさっそく、彼とスマホの連絡先を教え合った。


陸斗(りくと)……さん?」


たった今交換したメッセージアプリに表示されている彼の名前は、『陸斗』


「うん、そうだよ。僕の名前は、相楽(さがら)陸斗。ちなみに、高2だよ」


やっと知れた、彼の名前。高校2年生ってことは、先輩なんだ。


「陸斗さんって、素敵なお名前ですね」

「ありがとう。君の名前は?」


そういえば、これまでお互い名乗っていなかったことに今になって気づく。


望結(みゆ)です。私の名前は、倉本(くらもと)望結。高校1年生です」

「望結ちゃん……よろしくね」

「はい。こちらこそ」


私たちは、ニコリと微笑みあう。


これから少しずつ、彼のことを知って。

私のことも、知ってもらって。

二人の距離を、縮めていけたらいいな。

そしていつか、友達じゃなく彼と本当の恋人になれたら……。


「あの。前から気になってたんですけど……陸斗さんは、サッカー部なんですか?」

「ん? 僕はね……」


秋も深まりつつあるこの日、私たちの新たな関係が始まったのだった。


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