大好きなおばあちゃんへ。
私は、おばあちゃんっ子でした。
両親は私が一人娘だから、好きなものを買ってくれたり、一緒にご飯を食べたり、遊びに出かけたりしてくれました。
だけど、両親がたまに喧嘩をするときがあり、それがとても苦しい。私のことで話をしているんじゃないか……と不安になりながらひとり部屋に籠もることもあります。
でも、母方のおばあちゃんに会えばそんな心の痛みも無くなりました。
おばあちゃんは『パーキンソン病』という足の持病があり、一緒に何処かへ出かけた思い出も多くありません。
それでも私は、おばあちゃんといるだけで胸があたたかくなりました。
おばあちゃん家は自宅から数十分ほどで着くところに住んでいて、車ですぐに行ける距離でした。
いつも「まなみんちゃん、いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれて、お菓子を出してくれて一緒に頬張ったり、塗り絵で遊んだりしました。
足が悪いため、おばあちゃんは毎日数分、庭でウォーキングしていました。
痛そうにしながらも「リハビリだから頑張るね」と言って汗水垂らして歩いていました。
私は幼かったから、辛いのにどうして歩くのだろう、と思っていました。でも今なら分かる。おばあちゃんは歩くことが好きだったんだ、と。
真夏の時期におばあちゃんに会いに行ったとき、私は熱中症で体調が悪くなってしまいました……。
そのときおばあちゃんは冷たい枕を用意して寝かせてくれて、そばにいてくれたのが記憶に残っています。
お母さんが迎えに来て私はすぐに帰ったのだけれど、ありがとうと言えなかったことを後悔していました。
私が中学一年生になる、春休み。お母さんからこう告げられた。
「まなみん、おばあちゃん、心の病気になっちゃったんだ」
心の、病気。私は何が何だか分かりませんでした。
ーーでもおばあちゃんはおばあちゃんだ。絶対に変わらない、あの優しくて大好きなおばあちゃん。
お母さんと一緒に、おばあちゃん家へ行きました。私は……絶望しました。
「ごめんね、迷惑掛けて、本当にごめんなさい、ごめんなさい……」
「あぁ、ありがとうございます……」
おばあちゃんは、お母さんにまで敬語で話していたのです。
ありがとうございます、ごめんなさいしか言いませんでした。私は……ただただ、立ち尽くしていることしかできませんでした。
「お母さん、まなみんが来てくれたよ」
母にそう言われて、私は震えました。
おばあちゃんには最近会えてなかったから、もし……孫の私のことを忘れてしまっていたら。
そう考えるとすごく怖かったです。
「まなみんちゃん、来てくれてありがとうございます……」
少し切なそうに笑って、おばあちゃんはそう言いました。
おばあちゃんは歩けないことのストレスや家庭での不満があったそうで、心の病気になってしまったそう。
ーーあぁ、私にも敬語で他人みたい。それはもう、おばあちゃんが大好きな私にとって辛いとしか思えませんでした。
中学校に入学してから忙しくなり、私はおばあちゃんに会いに行く回数が減っていきました。
でもそれで良かったと思っていたのです。会いに行っても悲しくなるだけだし、普通の会話もできないし、何より行くのが……面倒くさい。
初めてでした。おばあちゃんに会いたくないと思ったのは。
私が中学一年生、九月のとき。
「まなみん、落ち着いて聞いてね」
ーー母が焦るなんて珍しいけれど、何かあったんだろうか?
私は不思議としか思っていませんでした。この後の信じられない言葉が、私を襲います。
「おばあちゃんが倒れて、ドクターヘリで運ばれたの」
頭の中が真っ白になり、一晩何も考えられずにいました。
数日後、おばあちゃんは一命を取り留めたとのことでホッとしていました。
だけど、植物人間状態になったと聞きました。眠り続けたままで、入院が必要だと言うこと。
でも私はそこまで深く考えていませんでした。
「お母さん、おばあちゃんは無事なんだよね?」
「うん」
「おばあちゃん、いつかは目覚ますんでしょ?」
「うーん……難しいかなぁ」
え?
いつか、目を覚ますのかと思ってました。入院しているおばあちゃんに会いに行ったら、静かに眠っていたのです。
ーーただ寝てるだけなのに何でおばあちゃんは目を覚まさないの?
そう、私は少しだけ、苛立ちを覚えていました。
「お母さん、お見舞いに来たよ。まなみんが来てくれたよ」
母は、そうやっておばあちゃんに話しかけていました。
もちろん、ずっと眠りについているのだから、返事はありません。
私は何も言葉を掛けられない自分に、腹が立ちました。
そのあともずっと、おばあちゃんは眠り続けたまま。
ねぇ、あの優しいおばあちゃんはどこ?
一緒に塗り絵で遊んでくれたおばあちゃんは?
辛いとき、一番そばにいてくれたおばあちゃんは?
消えてしまいました。私の心は空っぽでした。
私は食べ物もろくに食べられない状態になり、そして毎日夜になると泣いていました。
「おばあちゃん、おばあちゃん……!!」
ありがとう。
たったそれだけを、何故伝えることができなかったのだろうか。私は心の底から後悔していました。
結果、私も過呼吸が起こるパニック障害や、自律神経失調症など、精神的な病気になってしまい、心と体がボロボロでした。
心の病気になり苦しんだとき、私は思いました。あぁ、おばあちゃんもこんなに苦しい思いをしていたのかなぁ、と。
それならもっと寄り添ってあげることができたのではないか。逃げないでそばにいてあげることくらいすれば良かったのではないか。
私は両親を困らせるほど泣き続け、叫びました。自分が分からなくなるほど、本当に狂っていたのです。
中学二年生、九月。
おばあちゃんは息を引き取った。
私は、不思議と悲しくはありませんでした。
だって植物人間状態のときも会話ができないし、動けないし、生きていないのと同じだと思っていたから。
お葬式の日の朝、父がこう言った。
「まなみん、ハンカチは持った?」
「うん?」
普段ハンカチなんて気にしない父が、何故そんなことを聞くのだろうと思っていました。
お葬式が開始され、桶に入ったおばあちゃんの顔を見ると、安らかに眠っていました。先日選んだ花を一本添えて、おばあちゃんは火葬されました。
そのとき……母が涙を流して密かに泣いていたのです。大人の泣いている姿なんて初めて見たから……私は愕然としました。
大人でも泣くんだ、と驚きました。
無事お葬式が終わり、帰りの車でも母は泣いていました。
あぁそうか、今朝父が言っていたのは、泣いたらハンカチが必要だからということだったんだ、と気がつきました。
でも、私はその日、泣けませんでした。やっぱりおばあちゃんが亡くなってしまった心の痛みは、消えなくて。
悲しくて、辛くて、寂しくて、会いたくて。でも涙は出なかった。
ーーそんな自分が嫌い。大嫌い。あんなに私に尽くしてくれたおばあちゃんがこの世にいないのに、何で涙が出ないの……?
私は本当に最低な人間だ……っ!!
どうしてあんなに優しかったおばあちゃんはいないのに、こんなに最低な私は生きているのだろう?
私は自分の体を何度も何度も傷つけました。叩くこと、殴ることなど……軽い自傷行為を繰り返しました。
それでも悲しいことや痛いことに慣れてしまっていたのか、私はおばあちゃんへ涙を流すことができませんでした。
日が経つに連れて、徐々におばあちゃんがいないという実感が湧くようになってしまいました。
私は夜になるとおばあちゃんのことを思い出し、一人で静かに泣くようになりました。
おばあちゃんが亡くなってから一ヶ月ほど経ったある日、お母さんがこう言った。
「まなみん、おばあちゃんが元気なときこう言ってたの。まなみんと塗り絵したことが楽しかった、って」
私はそのとき、ぶわっと涙が溢れてきました。
ーーおばあちゃん……っ!!
おばあちゃんはちゃんと、私のことを愛してくれていたんだね。覚えててくれていたんだね。
それを知って、心から安心できたのです。
もうおばあちゃんが亡くなってから、三ヶ月。言えなかったことがたくさんある。
おばあちゃん、ごめんね。あまりお見舞いに行けなくて、本当にごめんなさい。
そして小さい頃、私のために一緒に遊んでくれたり、熱中症のときに助けてくれてありがとう。
ごめんねとありがとうを言えなくて、今でもずっと後悔しています。
でもおばあちゃんのことは……ずっと忘れないし、今でも一番大好きです。
空を見上げると、やっぱりまだ胸の痛みは消えないし、後悔は未だに心に残り続けています。今でも心身共に回復できていません。
おばあちゃんの居場所が無くなってしまったことに、私はすごくさみしい。もしあのときこうしていれば……と、何度も思いました。
でも、私の心の中では生き続けていること、そして見守ってくれていることを信じています。
最近、家にいるとき、ふっと何かが通ったような感覚が時々あるのです。
もちろん霊感はないし、ただの通り風かもしれない。
だけど……何処か、あたたかくなります。何だか懐かしい気分になるような、そんな感じがして。
両親は私が一人娘だから、好きなものを買ってくれたり、一緒にご飯を食べたり、遊びに出かけたりしてくれました。
だけど、両親がたまに喧嘩をするときがあり、それがとても苦しい。私のことで話をしているんじゃないか……と不安になりながらひとり部屋に籠もることもあります。
でも、母方のおばあちゃんに会えばそんな心の痛みも無くなりました。
おばあちゃんは『パーキンソン病』という足の持病があり、一緒に何処かへ出かけた思い出も多くありません。
それでも私は、おばあちゃんといるだけで胸があたたかくなりました。
おばあちゃん家は自宅から数十分ほどで着くところに住んでいて、車ですぐに行ける距離でした。
いつも「まなみんちゃん、いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれて、お菓子を出してくれて一緒に頬張ったり、塗り絵で遊んだりしました。
足が悪いため、おばあちゃんは毎日数分、庭でウォーキングしていました。
痛そうにしながらも「リハビリだから頑張るね」と言って汗水垂らして歩いていました。
私は幼かったから、辛いのにどうして歩くのだろう、と思っていました。でも今なら分かる。おばあちゃんは歩くことが好きだったんだ、と。
真夏の時期におばあちゃんに会いに行ったとき、私は熱中症で体調が悪くなってしまいました……。
そのときおばあちゃんは冷たい枕を用意して寝かせてくれて、そばにいてくれたのが記憶に残っています。
お母さんが迎えに来て私はすぐに帰ったのだけれど、ありがとうと言えなかったことを後悔していました。
私が中学一年生になる、春休み。お母さんからこう告げられた。
「まなみん、おばあちゃん、心の病気になっちゃったんだ」
心の、病気。私は何が何だか分かりませんでした。
ーーでもおばあちゃんはおばあちゃんだ。絶対に変わらない、あの優しくて大好きなおばあちゃん。
お母さんと一緒に、おばあちゃん家へ行きました。私は……絶望しました。
「ごめんね、迷惑掛けて、本当にごめんなさい、ごめんなさい……」
「あぁ、ありがとうございます……」
おばあちゃんは、お母さんにまで敬語で話していたのです。
ありがとうございます、ごめんなさいしか言いませんでした。私は……ただただ、立ち尽くしていることしかできませんでした。
「お母さん、まなみんが来てくれたよ」
母にそう言われて、私は震えました。
おばあちゃんには最近会えてなかったから、もし……孫の私のことを忘れてしまっていたら。
そう考えるとすごく怖かったです。
「まなみんちゃん、来てくれてありがとうございます……」
少し切なそうに笑って、おばあちゃんはそう言いました。
おばあちゃんは歩けないことのストレスや家庭での不満があったそうで、心の病気になってしまったそう。
ーーあぁ、私にも敬語で他人みたい。それはもう、おばあちゃんが大好きな私にとって辛いとしか思えませんでした。
中学校に入学してから忙しくなり、私はおばあちゃんに会いに行く回数が減っていきました。
でもそれで良かったと思っていたのです。会いに行っても悲しくなるだけだし、普通の会話もできないし、何より行くのが……面倒くさい。
初めてでした。おばあちゃんに会いたくないと思ったのは。
私が中学一年生、九月のとき。
「まなみん、落ち着いて聞いてね」
ーー母が焦るなんて珍しいけれど、何かあったんだろうか?
私は不思議としか思っていませんでした。この後の信じられない言葉が、私を襲います。
「おばあちゃんが倒れて、ドクターヘリで運ばれたの」
頭の中が真っ白になり、一晩何も考えられずにいました。
数日後、おばあちゃんは一命を取り留めたとのことでホッとしていました。
だけど、植物人間状態になったと聞きました。眠り続けたままで、入院が必要だと言うこと。
でも私はそこまで深く考えていませんでした。
「お母さん、おばあちゃんは無事なんだよね?」
「うん」
「おばあちゃん、いつかは目覚ますんでしょ?」
「うーん……難しいかなぁ」
え?
いつか、目を覚ますのかと思ってました。入院しているおばあちゃんに会いに行ったら、静かに眠っていたのです。
ーーただ寝てるだけなのに何でおばあちゃんは目を覚まさないの?
そう、私は少しだけ、苛立ちを覚えていました。
「お母さん、お見舞いに来たよ。まなみんが来てくれたよ」
母は、そうやっておばあちゃんに話しかけていました。
もちろん、ずっと眠りについているのだから、返事はありません。
私は何も言葉を掛けられない自分に、腹が立ちました。
そのあともずっと、おばあちゃんは眠り続けたまま。
ねぇ、あの優しいおばあちゃんはどこ?
一緒に塗り絵で遊んでくれたおばあちゃんは?
辛いとき、一番そばにいてくれたおばあちゃんは?
消えてしまいました。私の心は空っぽでした。
私は食べ物もろくに食べられない状態になり、そして毎日夜になると泣いていました。
「おばあちゃん、おばあちゃん……!!」
ありがとう。
たったそれだけを、何故伝えることができなかったのだろうか。私は心の底から後悔していました。
結果、私も過呼吸が起こるパニック障害や、自律神経失調症など、精神的な病気になってしまい、心と体がボロボロでした。
心の病気になり苦しんだとき、私は思いました。あぁ、おばあちゃんもこんなに苦しい思いをしていたのかなぁ、と。
それならもっと寄り添ってあげることができたのではないか。逃げないでそばにいてあげることくらいすれば良かったのではないか。
私は両親を困らせるほど泣き続け、叫びました。自分が分からなくなるほど、本当に狂っていたのです。
中学二年生、九月。
おばあちゃんは息を引き取った。
私は、不思議と悲しくはありませんでした。
だって植物人間状態のときも会話ができないし、動けないし、生きていないのと同じだと思っていたから。
お葬式の日の朝、父がこう言った。
「まなみん、ハンカチは持った?」
「うん?」
普段ハンカチなんて気にしない父が、何故そんなことを聞くのだろうと思っていました。
お葬式が開始され、桶に入ったおばあちゃんの顔を見ると、安らかに眠っていました。先日選んだ花を一本添えて、おばあちゃんは火葬されました。
そのとき……母が涙を流して密かに泣いていたのです。大人の泣いている姿なんて初めて見たから……私は愕然としました。
大人でも泣くんだ、と驚きました。
無事お葬式が終わり、帰りの車でも母は泣いていました。
あぁそうか、今朝父が言っていたのは、泣いたらハンカチが必要だからということだったんだ、と気がつきました。
でも、私はその日、泣けませんでした。やっぱりおばあちゃんが亡くなってしまった心の痛みは、消えなくて。
悲しくて、辛くて、寂しくて、会いたくて。でも涙は出なかった。
ーーそんな自分が嫌い。大嫌い。あんなに私に尽くしてくれたおばあちゃんがこの世にいないのに、何で涙が出ないの……?
私は本当に最低な人間だ……っ!!
どうしてあんなに優しかったおばあちゃんはいないのに、こんなに最低な私は生きているのだろう?
私は自分の体を何度も何度も傷つけました。叩くこと、殴ることなど……軽い自傷行為を繰り返しました。
それでも悲しいことや痛いことに慣れてしまっていたのか、私はおばあちゃんへ涙を流すことができませんでした。
日が経つに連れて、徐々におばあちゃんがいないという実感が湧くようになってしまいました。
私は夜になるとおばあちゃんのことを思い出し、一人で静かに泣くようになりました。
おばあちゃんが亡くなってから一ヶ月ほど経ったある日、お母さんがこう言った。
「まなみん、おばあちゃんが元気なときこう言ってたの。まなみんと塗り絵したことが楽しかった、って」
私はそのとき、ぶわっと涙が溢れてきました。
ーーおばあちゃん……っ!!
おばあちゃんはちゃんと、私のことを愛してくれていたんだね。覚えててくれていたんだね。
それを知って、心から安心できたのです。
もうおばあちゃんが亡くなってから、三ヶ月。言えなかったことがたくさんある。
おばあちゃん、ごめんね。あまりお見舞いに行けなくて、本当にごめんなさい。
そして小さい頃、私のために一緒に遊んでくれたり、熱中症のときに助けてくれてありがとう。
ごめんねとありがとうを言えなくて、今でもずっと後悔しています。
でもおばあちゃんのことは……ずっと忘れないし、今でも一番大好きです。
空を見上げると、やっぱりまだ胸の痛みは消えないし、後悔は未だに心に残り続けています。今でも心身共に回復できていません。
おばあちゃんの居場所が無くなってしまったことに、私はすごくさみしい。もしあのときこうしていれば……と、何度も思いました。
でも、私の心の中では生き続けていること、そして見守ってくれていることを信じています。
最近、家にいるとき、ふっと何かが通ったような感覚が時々あるのです。
もちろん霊感はないし、ただの通り風かもしれない。
だけど……何処か、あたたかくなります。何だか懐かしい気分になるような、そんな感じがして。