あなたを笑顔にするために、今日も朝陽は輝きつづける

守っとこっか

 わたしの名前は椿朝陽。


 幼い頃、公園で迷子になっているわたしを助けてくれた保育士さんに憧れ、わたしは、その人のように困っている誰かの力になれる。


 そんな人になりたいと、保育士を目指した。


 そして、保育科のある福祉大学を卒業後、名古屋市内で運営している、こでまり保育園に就職し働いている。


 五歳児クラスの担任をしているが、右も左もわからないわたしは、いつも失敗し悩んでばかり。


 そして今日も、ある保護者の方から、このような言葉をぶつけられた。


 「あなたのような人が保育士でいてほしくない。やめたほうがいいんじゃない?」


 幼い頃から保育士になりたいと夢見ていたわたしにとって、保護者の方から発せられた恐ろしく冷たく鋭いその言葉は、わたしの心を一直線に突き刺してえぐった。


 頭をがつんと殴られたような衝撃が走って、思考は一瞬で真っ白になる。


 そして、わたしはただ言葉を失ってうつむく。
 

 ことの発端はこうだ。


 わたしに冷たい言葉をぶつけたのは黄彩百合という人で、わたしが担当するクラスの保護者でシングルマザー、仕事は大企業で働くキャリアウーマンの方だ。


 百合さんは普段から、あれやこれやと保育園に対し苦情を言ってくることが多く、保育士たちに対しても当たりが強くて高圧的な態度を取ってしまうクレーマー気質なところがあり、周りの人たちからの評判はあまり良くなかった。


 その百合さんと、百合さんの子どもの蓮君が、保育園から帰るとき玄関の靴箱の前で揉めているところに、勤務上がりのわたしがばったりと遭遇した。


 「いやだ!まだ保育園から帰りたくない!」と、お迎えが来たというのに靴箱の前で、手に自分で作ったブロックのロボットを持って、地団駄を踏んで叫ぶように怒っている蓮君。


 そのとなりで、「わがまま言わないの。もう行くよ!早くその手に持ってる玩具を片付けて来なさい!」


 そう言って、鋭い目つきで蓮君を叱りつけるスーツ姿の百合さん。


 次に、わたしの存在に気づいて、百合さんの視線がぎろりとこっちに向けられる。


 そのとき、なにか話さないと変だと思い、わたしは必死に話題を探した。


 そして、ちょうど見つけたのが、目の前で地団駄踏んで怒っている蓮君が、普段わたしたち保育士の前では大人しいけど、百合さんの前では、いつもこのようにわがままになるということだった。


 「蓮君、ママの前だとわがままなんですね」


 なんの悪気もなく、子どもがわがままを言って、自分を出すことは良いことなので良かれと思って言った、その一言がまちがいだった。


 もとから怒って眉間にしわを寄せていた百合さんは、さらに鬼の形相になってこう言った。


 「はぁ?なにそれ!?この子のわがままに私が関係あるの?それって私が親としてしっかりしてないってことを言いたいの?」


 すぐさま、わたしはその誤解を解こうとする。


 「ちがうんです。子どもが親にわがまま言って甘えを出すことは、良いことで…」


 わたしは大学で習った、子どもが親に甘えを出すことで愛着関係が育ち将来的に自立に向かうということを、説明したかったが遮られる。


 「そんなの私には関係ないっ!なんでそういう余計なこと言うの?あなたのような人が保育士でいてほしくない。やめたほうがいいんじゃない?子どももいない!若いあなたなんかに子育てのなにがわかるの?大変だって知ってる?子どもも産んだこともないくせに!」


 その冷たく鋭利な言葉の連打に対抗する術もなく、頭が真っ白になったわたしは言葉を失う。


 なんとか、「はい。申し訳ありませんでした」と、頭を下げて謝ってから逃げ出すように玄関を飛び出た。


 なので、そのあと蓮君と百合さんが、どうその場を収めて保育園から帰ることができたかはわからない。


 わたしはまっすぐ家に帰る気持ちにはとてもなれなくて、桜舞公園のブランコに座って、さっきあったことをひとりで振り返る。


 すると目から涙がぽろぽろとこぼれた。子どもの頃から、わたしは泣き虫でいやなことがあるとすぐ泣いてしまう。


 わたしはあのとき、あんな心ないことを平気で言う、高圧的な百合さんが怖かった。


 自分の人生のすべてを否定された気がした。


 じゃあ結局自分はあのとき、どうすれば良かったのかがわからない。もう、なにが正しいのかもわからない。


 自分では保育士の仕事をいつも必死にがんばってるつもりなのに、ふいにぶつけられた冷たい言葉に絶望だけが残る。


 そして、わたしの心の奥底から黒い感情がふつふつと湧いて出てきた。


 『クレーマー』や『モンスターペアレント』という言葉が思い浮かぶ。


 なんで同じ人間なのに。百合さんだって社会人だったらわかるはず。仕事というものは職種はちがえど、どの仕事だってみんな必死にがんばってる。


 それなのに保育士に、よくわたしのことを知りもしないのに、なんでそんなひどい心ない言葉を平気で口から出してぶつけることができるの?


 大人のくせに。人を傷つける自分勝手な百合さんという人間がまったく理解できない。


 そして、わたしはこうも思った。


 人間なんだから、合わない人がいても当たり前だよね。


 わたしはああいう腫れ物のような人が正直苦手だし。


 これからは自分が傷つかなくても良い距離で、笑顔の偽りの仮面を貼り付けながら、適当に百合さんと付き合っていこう。よし、そうしよう。


 この先、彼女からいやなことを言われても、クレーマーの戯言だと思っておけばいい。


 わたしは自我を保つため、その場はそう思って自分を正当化した。


 しかし、次の日。


 わたしは、そんな自分が許せなくて深く反省することとなる。


 今日は仕事が休みなので、昼過ぎに近所のカフェで、ある人と待ち合わせをした。


 わたしがカフェの前で待っていると、その人はやって来た。


 ミルクラテ色のパーマがかかったボブヘア、芸能人のように整った顔にはぱっちり二重瞼と綺麗で大きい瞳、薄いピンクの潤んだ唇、三十代半ばとは思えない白くて美しい肌、大人でおしゃれな女性という感じのきれいめなブラウンのワンピースに、雪のように淡くて白い薄手のカーディガンを羽織っている、ため息が出るほど美人なこの女性は川口理依奈さんだ。


 「やっほー、朝陽ちゃん。ごめんねー、もしかして待った?」と、理依奈さんは無邪気に手を振って微笑んだ。


 理依奈さんは、こんなにも美人だというのに恋に奥手で、もう長いこと彼氏がいない。本人も、それをちょっぴり気にしている。


 でも、そのぶん仕事熱心で保育士としての実力はピカイチ。


 理依奈さんと初めて出会ったのは、高校の頃、職場体験で行ったかえでのは保育園。


 そこで理依奈さんが働いていて、知り合って仲良くなることができたのだ。ちなみに理依奈さんは、今もかえでのは保育園で働いている。


 理依奈さんには、おしゃれな服のコーデやメイクなどを教えてもらったし、一緒に恋バナもする仲で、歳の離れたお姉ちゃん的な存在なのだ。


 それだけでなく。わたしは保育でも困ったことがあると理依奈さんに相談をする。


 彼女はわたしにとって保育士としても師匠で、わたしの今の保育観というものは、ほぼ理依奈さんに育ててもらったようなものだ。


 「ぜんぜん、待ってないです。今来たばっかりですよ」と、わたしは答える。


 そして理依奈さんと一緒に店内に入り、椅子に座るとふたりともストレートティーを注文した。


 さっそく理依奈さんに、昨日あったショックな出来事をわたしは相談する。


 子どもたちの保育や大量の事務作業で、目が回るような思いをしながら、がんばってやってるつもりだったのに、百合さんからあんなひどい言われ方をして、扱いも同じ人間ではなく奴隷にされているように思えるし。


 百合さんが言った通り、余計なことを言って、こんなふうにネガティブにばかり考えてしまうわたしは、きっと保育士が向いていないのだろう。もう、やめたい。そう思った。


 現に保育士は離職率が高く。こういう扱いを受ける人間関係や、多忙でブラックな働き方が原因なのだろうと今ならよくわかる。


 ここ最近わたしは、疲れれば疲れるほど、いやなことばかりをぐるぐると考えてしまい。昨晩は百合さんの発言が引き金でほとんど眠れず、食欲もなく、今の自分には軽い鬱症状が出ていると自覚がある。


 「それは朝陽ちゃん、大変だったねぇ。新人でいきなりそれはきついわぁ」


 そう言いながら苦笑いをして、理依奈さんはガラスのコップに入ったストレートティーを一口飲む。


 そのあと、腕を組んでうーんとなにかを考え込む彼女の目は、いつの間にか保育士の目になっていた。


 わたしは知っている。


 保育士は笑顔のポーカフェイスをしていても、その目はいつも子どもや親たちの言葉、仕草、体調、家庭状況、もともとの性格、いろんなことからヒントを得て、ベストな保育をするための分析をしているのだ。


 保育が上手と言われるような人は、とくにこの分析力が卓越している。


 それは長年の経験値から磨かれる人もいるし、最初から持っている人もいると理依奈さんは言っていた。


 保育士として、もっとも必要な力は『分析力』と『人を許してあげれる力』


 それはセンスではなく、その保育士の心がけひとつで、どれだけでも磨かれると理依奈さんはわたしに以前教えてくれた。


 今も分析をつづける理依奈さんの目には、いったいなにが見えているのだろうか。未熟なわたしには想像もつかない。


 そんなことを考えていると、理依奈さんの口がぱっと開く。


 「なんで、そのママさんは…、そんな行動をとってしまうのだろうね?」


 ちなみに理依奈さんが、百合さんのことをママさんと呼ぶのは、わたしが個人名を出さず守秘義務を守って相談をしているからだ。


 理依奈さんの言ったことに対し、え?そんなのわたしのほうが聞きたい。


 そう思っているのが顔に出てしまったのか、理依奈さんはわたしの心を見透かしたように、まっすぐわたしの目を見つめて言葉をつづける。


 「わたしたちの仕事は心理学とも精通してる。大学でちょっと習ったでしょ。普通は良く思われたほうが得だから、人からきらわれるような行動はしないよね。でも、なんでだろう。その、ママさんの行動はちょっと普通じゃないよね。わたしには、そのママさんは心に余裕がないふうに見えるよ。そんなとき、わたしたち保育士はどうすればいいんだった?もう職場体験のときの実習生の椿朝陽ちゃんじゃないでしょ。あなたはもう…」


 「はい。保育士の椿朝陽です」


 そう呟くと同時に、わたしの目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


 この涙はいやなことを言われて悲しいからじゃない。浅はかでどこまでも未熟な自分が悔しかったのだ。


 わたしは百合さんという厄介者を自分から遠ざけてしまおうと考えていた。


 忘れてしまいがちなのだが、保育士の仕事で、保護対象となるのは子どもだけではない。その親も対象なのだ。


 まさに保護者支援という言葉通りだ。


 そんな大切なことも忘れて自分だけが攻撃され傷ついた気になって、百合さんの精神状態の分析を怠ってなにをやってるんだわたしは。


 百合さんが困っているのならば、その心に寄り添って支えなければならない。それが保育士の仕事はずだ。


 「ありがとうございます。なんか大切なことに気づけました」


 涙を自分の指で拭きながら、わたしがそう言うと、「わたしも朝陽ちゃんと同じようなこと考えて、新人の頃たくさん悩んで泣いちゃった」と、理依奈さんが柔らかい表情になって、えへへっと微笑んで共感してくれた。


 はぁ、やっぱり、わたしがすべてを語らずとも、理依奈さんには見透かされていたんだな。


 保育士としての善意ではなく、自分の中に生まれてしまった百合さんへの黒い感情を。


 「朝陽ちゃんの中にいろんな感情が生まれるのは、それは人間だから当たり前。全部完璧じゃなくてもいい。でも自分が保育士であろうとするスタンスが大切なんだと思う。でも無理はしないようにね。どうしてもえらいときは仕事を休めばいい。そのうえで、がんばれ朝陽ちゃん!みんなを笑顔にするために!それがあなたの役目だからね!」


 理依奈さんのその言葉に背中を押され、わたしはまた泣きながら何度もうなずく。


 「理依奈さんはなんで、保育士の仕事をそんなにがんばれるんですか?」


 前から知りたかったことなので、嗚咽が混ざった恥ずかしい声になってしまったけど、この機会に訊いてみた。


 すると、「えー、そんなにがんばってないよ。そういうふうに振る舞ったほうがわたしが気持ちいいし。給料もらってるぶんは保育士やってるだけだよ。やっすい給料だけどねー。わたし聖人でも、なんでもないから」と、理依奈さんはいたずらな笑みを浮かべて答えてくれた。


 そんなことを言いながらも、目の前に困っている子どもや親がいれば、その卓越した分析力とあたたかい心で、必ず力になってくれる。


 それが、わたしの知っている理依奈さんだ。


 やっぱり、わたしにとって、この人が保育士の鏡だな。改めて、そう思った。


 そのあとカフェを出て、理依奈さんと別れ、家まで帰る道を歩きながら、燃えるような真っ赤な夕焼けにあたたかく包まれる空と街を眺め、わたしは決意をする。


 この先、保育士をやっていて、心ない言葉を誰かからぶつけられて傷ついたり。


 どうすればいいかわからなくて悩んだり、投げ出してやめてしまいたいと思ったり。


 きっと、そんなことを、また思ってしまう弱いわたしだけど。


 わたしの根っこにあるもの。


 それは、いつでも幼い頃に公園で迷子になったわたしを助けてくれた、あの保育士さんのように、あたたかい心で困っている誰かの力になりたい。


 それなんだ。それだけは絶対になにがあっても曲げない。わたしは、わたしの信念のままに突き進む。


 もう泣いてばかりいた、ただの椿朝陽じゃない。


 わたしは保育士の椿朝陽なんだ。そう自分を奮い立たせ握り拳を作った。


 子どもである蓮君だけでなく、親である百合さんも支えなくてはならない。


 でも、どうやって?


 百合さんは、こっちから話しかけてもいつも高圧的だし、挨拶したって目も合わさず無視をされるときだってある。


 ここから先は理依奈さんでも、わからない。


 だって蓮君と百合さんがいる保育現場を任されているのは、このわたしなのだから。


 わたしが自分の力でどうにかするしかない。


 師匠である理依奈さんが、以前教えてくれたことを思い出す。


 子どもや親がわからないときは、とにかく相手を分析をする。まずは、そこからだ。


 それから、わたしの努力の日々が始まった。


 百合さんには無視をされても、いつでもこちらから気持ちよく挨拶をした。めんどくさいと思われてしまってはいけないので、無理には絡まない。


 すると百合さんは、本当にイライラしているときは目も合わせてくれないけど、そうじゃないときは会釈を返してくれるようになった。


 わたしは徐々に、百合さんがイライラしているときと、そうじゃないときの区別がつくようになった。


 仕事で疲れているのか、週の初めと終わりは話しかけてもだめで、平日の真ん中のお迎えのときなら、一言二言と会話を返してくれることがわかった。


 そして、わたしは大丈夫な日を見計らって、「今日は蓮君と一緒にこんなブロックのロボット作ったんです」と保育園のスマホで撮影した写真を見せたり、「今日は蓮君が下茶池公園に行きたいって言ってくれたから、みんなで公園の行き先の話し合いが盛り上がって」と、日々の保育であったことを百合さんに会話で伝えていった。


 百合さんが連絡ノートに、【ロッカーの名前シールが、いろんな子のが取れかかっていて気になります】と書いてきたら、すぐに全部新しいのに取り替えた。


 子どもを保育している時間以外でも、膨大な事務仕事がある保育士は、こういう小さいことをけっこうそのままにしてしまうものなのだ。


 現にロッカーの名前シールが取れてしまっても、なんの問題もなく保育できる。


 しかし、気になっているという気持ちを教えてくれた。


 百合さんの、その心を大切にしたかったから、わたしは膨大にある事務仕事は全部後回しにして、いちばんに名前シールを作って貼り替えた。


 そんな日々を繰り返し、がんばりつづけていた、ある日。


 お昼寝の時間に布団で転がる蓮君の背中を、となりに座っているわたしがさすっていると、蓮君があることをぽつりと言った。


 「昨日の夜、ママが泣いてた」


 「そっか。蓮君とケンカしちゃったの?」


 心配になってわたしがそう訊くと、蓮君は首を横に振って「ママがおばあちゃんに電話しながら泣いてたの」と呟く。


 それから蓮君は、電話の内容を途切れ途切れだけど、ぽつぽつと話して教えてくれた。


 「仕事はできるけど、子育ては苦手でうまくできない」「ほかのおうちと比べちゃう」「片親だからって言われたくない」「全部不安でしかたがない」「きっと、みんなに自分はきらわれてる」


 分析するには、もう十分すぎる情報だった。いつも高圧的な態度だった百合さんの内面は、子育てで不安を抱えても、そのことで周りの人に相談もできず、たったひとり孤独の中、困っているシングルマザーだったのだ。


 蓮君はわたしの目を見てこう言った。


 「ねえ、朝陽先生もママのこときらい?」


 不思議なもので子どもというのは、普段なにもわかっていないように見えても、こういうとき周りの大人の感情を敏感に読み取る力を持っている。


 嘘はつけない。そう思った。


 わたしは蓮君のおでこを撫でながら柔らかい声で、蓮君の不安をうかがわせる視線に、大丈夫だよとしっかり抱きしめるように目を合わせてこう答える。


 「そんなこと思わないよ。だって、ものすごくがんばってるママだもの。応援したいって思ってる。朝陽先生はいつでも蓮君とママの味方だからね」


 すると表情がぱっと明るくなって、「ありがとう。ぼく、たくさんママとケンカしちゃうけど、ママのことだいすきなんだ」、そう言って安堵の表情を浮かべながら蓮君は昼寝をしていった。


 きっと蓮君も、ママの涙を見て、おばあちゃんとの会話を聞いて、ものすごく不安だったにちがいない。


 こういった子どもや親の、なかなか表に出てくることのない、言葉にできないような、思い、不安、つらさ、苦しみ。


 それに気づいて、寄り添って、今にも壊れてしまいそうな心をそっと支えることがきるのは、きっと保育士であるわたしにしかできない役目なのだ。


 不器用でなんの取り柄もないし、すぐネガティブに考えてしまったり、大人になっても泣き虫なわたし。


 そんなわたしなんかが、漫画のヒーローのようにかっこよく助けられないことなんて知ってる。


 こうやってがんばったところで、誰かが見ていて、褒めてもらえて、そのがんばりが報われるわけじゃないことだって知ってる。


 給料だって安いままだし、変わらない多忙な毎日がつづいていくことだって知ってる。


 それでも、わたしは目の前に困っている子どもと親がいるのなら。


 必ず、力になりたい。なんとか手を差し伸べたい。


 それが、わたしの信念なのだから。


 それから一ヶ月がたった、ある日。


 わたしがいつものように勤務が終わったあと、職員室で着替えてから玄関に向かうと。


 玄関の靴箱の前で、なかなか気持ちが切り替わらず、手には自分で作ったブロックのロボットを持って、「いやだ!まだ保育園から帰りたくない!!」と地団駄を踏んで叫んで怒る蓮君がいた。


 そのとなりでは、「蓮っ!言うことを聞きなさい!もう帰るの!早く玩具を片付けて!!」と声を荒げて怒る百合さん。


 わたしがいちばん最初にショックなことを言われた、あの日とまったく同じシチュエーションだ。


 その場にちょうどやって来たわたしを、百合さんの鋭い視線がぎろりと捉える。


 前までは、その視線が怖くてしかたなかったけど、不思議と今はぜんぜん怖くない。


 それはきっと、わたし自身が百合さんのことを、よくわけのわからない迷惑なクレーマーではなく、たったひとりで子育てをしていて、悩みや弱さをうまく周りの人に出すこともできず、それでも必死にがんばっている、そういうお母さんなのだと理解しているからなのだと思う。


 もっと不思議なことにわたしは、その場で蓮君と百合さんに対し、どんな言葉がけをすればいいのかが手に取るようにわかった。


 これがちゃんと子どもと親を分析した保育士が、その先につかむことのできる感覚なんだ。


 もしかしたらスポーツ選手がゾーンに入る感覚と似ているのかもしれない。


 感覚が研ぎ澄まされて、なんとなくわかるのだ。目の前の子どもが、親が、持っている願いや不安やいろんなことが。


 そして、それに対し自分がどう動けばいいかもわかる。だから願いは叶えてあげたくなる。不安はちょっとでも軽くしてあげたくなる。期待や信頼には応えてあげたくなる。


 わたしは蓮君に近づくと目線を合わせ、しゃがんでから口を開く。


 「あらら、蓮君。まだ保育園帰りたくないの?どうして?」


 すると蓮君は「ブロックのロボット片付けたくない」と、ぼそっと呟いた。


 「そうだよねぇ、せっかく自分でがんばって作ったかっこいいロボットだもんね。このロボット、ママに見せてあげたかったんだよね。このロボット使って明日も友達と遊びたいんだよね」


 ここは蓮君が今まで「いやだ!保育園帰りたくない!」という言葉でしか表現できなかった内に秘めた思いを、百合さんに知ってもらうために、あえてわたしが言葉にすることで蓮君の代弁をする。


 すると、はっと目の色が変わった百合さんが、「蓮。そのロボットかっこいいね。私にロボットをもっと見せたかったの?」とすぐに訊いた。


 「そうだよ。ママにもっと見てほしかった。みてみて。ロボットの体の真ん中に宝を隠す穴があるんだ」と、蓮君は満面の笑みになって嬉しそうに、百合さんにロボットの説明を始める。


 わたしは頃合いを見計らって蓮君に声をかけた。


 「そんな大事なロボット、とても今日は片付けられないね。朝陽先生いいこと思いついちゃった。そのロボットは玄関の靴箱の上で守っとこっか。それでまた明日、保育園来たら使うといいよ」


 「うん。そうする」と蓮君は答えたが、「でも、そんなことしたら、次に使う子の迷惑になっちゃう。片付けさせます、結構です」と百合さんが困った顔になる。


 そんな百合さんを、わたしはまっすぐ見て柔らかい口調でこう言った。


 「どうか守らせてください」


 そして、心の中でつづけて呟く。蓮君の心を、そして、百合さんの心も、どうかわたしに守らせてください。


 すると、なにかが伝わったのか、百合さんの硬い表情が砕けて少し柔らかい笑みがほころんだ。


 「なんで、そんなにうちの子に優しくしてくれるんですか?あなた、私のこと良くは思ってないでしょ。きらいな親の子どもを目の敵にするとかないんですか?」


 百合さんが、吹っ切れたようにそう言った。


 「きらいも、目の敵も、そんなことあるわけないじゃないですか。だって、わたしは保育士ですよ。蓮君と百合さんを笑顔にするのが仕事なんです。これからも子育てのお力添えさせてくださいね」


 わたしがそう答えると、百合さんが少し安堵して嬉しそうな顔をしたように見えた。


 「さぁ、そのロボット守っとこっか」と言って、わたしが蓮君から受け取ったブロックのロボットを玄関の靴箱の上に置くと、「守っとこっかって。なんだか素敵な言葉ですね」と、百合さんが目を細めて静かに呟く。


 百合さんは言葉をつづけた。


 「この子が、あなたに守られていること。この子が、あなたに寄せる信頼。朝陽先生という人が、どういう人なのかわかると、なんだか私も安心しました。いつも、ありがとうございます、朝陽先生」


 そう言って頭を下げた百合さんに、わたしも「こちらこそ、いつもありがとうございます」と頭を下げて返す。


 いつもひとりで子育てをがんばってる百合さんに、新米保育士のわたしのことが不安だったけど、それでも保育園に蓮君を連れて来てくれた百合さんに、今は少しわたしを信頼してくれている百合さんに、わたしは感謝をした。


 今日は保育園の玄関から手を繋いで帰って行く、百合さんと蓮君のふたりの背中を見送ってから、わたしも保育園をあとにした。


 次の日から、百合さんからの保育園へのクレームは、ぱたりと来なくなった。


 子育てに不安を抱えながら仕事をしていると、疲弊し心がボロボロになってしまうけれど、わたしの子育てはひとりぼっちじゃない。


 支えてくれる、信頼できる味方が自分にはいるんだ。百合さんが心のどこかでそう思っていてくれたら嬉しいな。


 子どもだけじゃない。親だって本当は不安でしかたがないのだ。


 百合さんは、その表現が不器用で保育士に対して高圧的な態度を取ってしまっていた。


 わたしがやっている、この保育士という仕事は。


 子どもや親の、声にはならない、思い、不安、つらさ、苦しみ、いろんなことに気づいてあげて、気持ちに寄り添ってあげて、そっと肩を支えてあげる。


 そんな仕事です。


 がんばったからと言って、認められ、褒められ、報われるわけじゃない。


 給料が上がるわけでもなければ、仕事がらくになるわけでもない。


 それでもわたしは。


 世の中の保育士たちは。


 あたたかい心の炎を、その胸に熱く燃やしつづけ、今日もがんばっています。


 あなたを笑顔にするために。



 ※あなたを笑顔にするために、今日も朝陽は輝きつづける(完)
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