幼なじみ
忍び寄る影
幼なじみ 本文
第一章 忍び寄る影
「ここはどこだ」
木村龍太郎は、薄暗い部屋を見回した。板張りの床に囲まれたわずか3畳ほどの空間。その中央には、ぽつんと便器がひとつ置かれている。隣には出入り口らしき場所があるが、直径20センチほどの鉄の棒が3本立ち並び、その先には廊下が続いているようだ。壁には小窓がひとつ。窓越しに見える外の景色は暗く、どうやら深夜らしい。
「どこなんだ、ここは……」
龍太郎は呟いた。23年の人生で、こんな場所に来た記憶はない。「まさか……」嫌な予感が胸を過る。ここは名古屋の大森精神病院の隔離室だったのだ。目の前には、ドアらしき隙間のある鉄扉がある。「誰かいるのか!」声を張り上げて叫ぶが、外からの反応はない。焦燥感が募り、ドアを叩き、蹴り上げるが、それでも静寂が続く。力任せに喚き散らし、体中の筋肉が疲弊するまで暴れた龍太郎は、やがて糸が切れたように床に倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちた。眠りの中、夢が龍太郎を過去へと誘う。断片的な記憶が、走馬灯のように浮かび上がった――。昭和58年5月、東京・銀座。医薬品問屋が軒を連ねる一角で、営業見習いとして働き始めた龍太郎は、「角田商店」での新しい生活に奮闘していた。仕事は主に商品知識を覚えることが中心だったが、慣れない環境に戸惑いながらも、少しずつ経験を積んでいた。時代は週休二日制などまだ浸透していない頃。今日は土曜日、銀座にある自社ビルの宿直当番の日だ。従業員たちは交代で宿直し、夜間のビル管理を担っていた。「はい、これ」と龍太郎は同僚の神田康子にパンの差し入れを手渡した。
数日前の5月4日。康子の19回目の誕生日が近づいていた。「はい、これ」龍太郎は会社の就業時間間際、康子がいる事務所を訪れ、プレゼントを渡した。「何これ?」康子が不思議そうに尋ねる。「誕生日プレゼント」と照れ隠しに笑う龍太郎。「ありがとう」と康子が微笑むその瞬間、龍太郎の胸の中に小さなガッツポーズが生まれた。それから間もなく、総務課の30代の女性が龍太郎を呼び止めた。「木村さん、ちょっといい?」康子からもらったパンを食べながら向かった先には、また別の出来事が待ち受けていた――。
「事務所にネズミが出てしょうがないのよ」
突然の言葉に、木村龍太郎は驚いた。東京のど真ん中にネズミが出るなんて話があるわけないと思ったが、何も言い返さなかった。「寝てるときは気をつけてね」と言われ、「はい」とだけ答えた。特に気にする様子もなく、そのまま受け流すことにした。午後8時、ビルの戸締まりを確認し、寝床に入る。疲れていたのか、すぐに眠りについた。しかし、「ボーン」という深夜0時の鐘の音で突然目が覚めた。その瞬間、寝床の横にあるタンスの上から「ゴソゴソ」という不気味な音が聞こえてきた。ネズミにしては妙に大きい音だ。嫌な予感が胸をよぎる。「まさか……」脳裏に「幽霊」という言葉が浮かんだ。しかし、恐怖心が募る間もなく、急激な眠気に襲われ、再び深い眠りに落ちた。翌朝、薄暗い空が白んできた頃、龍太郎は目を覚ました。時計を見ると、まだ早朝だった。出勤してくる社員たちに話を聞いてほしくて、落ち着かない時間を過ごした。「早く誰か来ないかな……」待ち遠しさで胸が高鳴る。午前7時半、一番に姿を現したのは倉吉さん。60歳のベテラン社員だ。彼の姿が見えた瞬間、龍太郎は思わず声をかけた。「倉吉さん!」と呼びかけながら、言葉が止まらなかった。「この会社、幽霊が出ますよ!」突然の発言に、倉吉は目を見開き、喉を詰まらせたように咳き込んだ。幽霊なんて言葉を聞くとは思ってもいなかったのだろう。午前8時になると、他の社員たちも次々に出勤してきた。稲垣部長が龍太郎に声をかけようとした瞬間、龍太郎は部長の表情が微妙に変わったことに気付いた。龍太郎は言葉を飲み込んだが、心の中は混乱しきっていた。「どうしたんだ、木村君」と部長が尋ねても、龍太郎は答えない。
その沈黙の間、頭の中では不安と恐怖が渦巻いていた。まるで目に見えない何かが、自分の心を支配しているようだった。恐怖は言葉にならず、ただ思考だけが加速していった――。被害妄想だった。だが、龍太郎にはその事実を自覚する余裕すらなかった。その日は頭の中が異様にざわつき、会社を早退した。目黒の静かな住宅街にある自宅に戻ると、薄暗い部屋で一人、思考の渦に飲み込まれていった。
「俺を誰かが見張っている……」そう確信した瞬間、制御の効かない衝動に突き動かされ、ステレオの音量を最大限に上げた。部屋中に響き渡る音楽が、内側の不安をかき消してくれるような気がした。だが、それも長くは続かない。ほどなくして、1階に住む大家さんが怒りを込めたノック音で龍太郎を現実に引き戻した。ノックと同時に音楽の音量を急いで下げ、窓の外を覗く。だが、見えるのは静かな街並みだけ。それでも、「誰かに見られている」という妄想は龍太郎の心を縛り続け、彼の恐怖心をますます煽っていった。薄暗くなる夕方、彼は衝動的に外へ飛び出した。目黒の路地を歩くうちに、幻聴が聞こえ始める。神田康子の声だった。
「次は右よ」
「うん、わかった」
「次は、交差点を左に」
康子の声が繰り返し指示を出し、それに従うように龍太郎は目黒から品川へとさまよい続けた。足は重くなり、体力も尽き果てていたが、声の指示が止むことはなかった。明け方、ついに力尽き、龍太郎は街中の一軒家の前に腰を下ろす。ポストに入っていた新聞を引き出し、読むふりをして時間をやり過ごした。30分ほど経った頃、不審に思った住民が警察を呼び、警官が近づいてきた。
「どうしたんだね?」と警官は穏やかに声をかけたが、龍太郎の頭は妄想に完全に支配されていた。目の前の教会が突然目に入ると、とっさに「ここの住民です!」と叫んだ。しかし、警官が腕を掴もうとした瞬間、龍太郎は激しく抵抗した。その抵抗も虚しく、警官は手錠を取り出し、龍太郎の両手を拘束した。無言のまま、龍太郎は警察署へと連行されていった。放心した瞳に、ただ曙の光が映っていた――どこにも安らぎを見つけられないままに。警察署に到着した龍太郎は、無感情に顔写真と指紋を取られ、「もう悪いことはできない」と自嘲気味に思った。心の中では、何もかもが無意味に感じられ、ただ静かに過ぎる時間の中で、すぐにでも何かが変わることを願っていた。しばらくして、稲垣部長が身元引き取りに来て、ようやく解放された。アパートまで送られたが、周囲の誰もが彼の異常な心の動きを察することはなかった。部屋に戻ると、疲れが出たのか、すぐに眠りに落ちた。だが、眠りは浅く、心が不安定で落ち着かない。目を閉じても、閉じても、頭の中は静まることなく、違和感に満ちていた。結局、眠りが不十分なまま目を覚まし、再び外に出てしまう。目黒の駅で山手線に乗り、上野駅で乗り換えて大宮駅へ向かった。大宮駅に着くと、ただボーッとした表情で壁画を眺めていた。幻聴が再び耳に届き、何も考えずにその声に導かれるように歩き出す。幻聴の内容は次第に強烈になり、無意識のうちに上野駅方面へと向かっていた。頭の中では、何もかもが現実でないような感覚に包まれ、心はどこか遠くへ逃げていた。上野駅に着くと、また山手線に乗り換え、目黒へと向かう。途中、品川駅が近づくと、幻聴はさらにエスカレートし、聞こえてきたのは「おまえは不死身だ、スーパーマンだ」という言葉だった。その瞬間、龍太郎の心は完全に理性を失っていた。彼の中では、現実と非現実が交錯し、どちらが真実なのか分からなくなっていた。電車が品川駅のホームに到着すると、龍太郎は何も考えず、ただ先頭車両へと駆け出した。ドアが開くと同時に、また大きな幻聴が響いた。「おまえは電車に跳ねられても無事だ」と。その言葉を信じるように、無意識のうちに彼はホームから線路へと飛び込んだ。胸の中で響くのはただ一つの言葉だけだった。「もう終わりにしたい」――それが龍太郎の最後の願いだった。
「キーン」と鋭い音が響き、電車が急ブレーキをかけた。龍太郎の目の前、ほんの1メートルのところで車両は止まった。心臓が激しく打ち、全身が震えた。彼はその場で立ちすくむことなく、すぐさまホームへ駆け上がった。だが、その一歩が彼の運命を決定づけた。鉄道警官が瞬時に彼を取り押さえ、事務所へと連行される。「そんなに死にたいか?」警察官の怒鳴り声が、龍太郎の心に突き刺さる。彼は一瞬言葉を失い、やがて震える声で呟いた。「なに言ってるんだ。死にたいわけないだろ。」その言葉は自分に言い聞かせるようで、心の中でさえ、現実と幻想が交錯していた。
数時間後、稲垣部長が身柄を引き取りにやってきた。龍太郎はその目に映る憂いを感じながらも、部長の指示で1週間ほど自宅療養をすることとなった。部長の顔を見るたびに、心の中で自分がどれほど迷惑をかけているのか、申し訳なさが込み上げてきた。アパートに戻ると、何もかもが重たく感じられ、すぐに眠りに落ちた。身体の疲れはもちろん、心の中で張り詰めていたものがようやく解け、眠り続けることができた。しかし、心の中の混乱は簡単に収まるわけではなかった。夢の中に現れるのは、あの日の幼なじみ、浩美の顔だった。浩美の存在が、心のどこかで一筋の光のように感じられた。しかし、それも束の間の安らぎだった。脳裏に浮かぶその笑顔も、次第に歪んで見えた。病はその優しさをも切り裂くように、再び龍太郎を襲ってきた。希望を持とうとしても、それは薄れ、また不安と恐怖が心を締め付けていく。彼の内面はすでに病魔に蝕まれていた。
「龍ちゃん、初恋って誰、わたし?」浩美がそう言ったとき、龍太郎は一瞬、言葉を飲み込んだ。その問いに答えたくて、でもどこか照れくさい気持ちが込み上げてきた。「そうかもしれないな…家は近くだけど、浩美を意識したのは中学生の時かな」と龍太郎は静かに言った。彼の心には、あの頃の思い出が鮮明に蘇る。浩美とは、中学一年の時に同じクラスになった。彼女はいつも明るく、学級委員としてみんなを引っ張っていく存在だった。
「かっちゃんって、中学の時はおとなしくて、無口で、よくあの背の高いヤツと悪ガキにいじめられてたね。」浩美の言葉が、龍太郎の心に痛く響いた。あの頃、彼はただ黙って耐えることしかできなかった。中学校の3年間、浩美と同じクラスだったが、同時に、あの背の高いヤツともずっと一緒だった。運動会のフォークダンスの時、浩美が近づいてくると、龍太郎は胸がドキドキして、うまく息ができなかった。
「浩美がバレー部だったから、俺もバレー部に入部したんだぜ。」龍太郎が言うと、浩美は驚いた顔をした。「うそ?」とその言葉に信じられないような表情を見せた。実は最初、龍太郎は柔道部に入ろうと思っていた。だが、結局一日で辞めた。もし柔道部に入っていたら、あの時いじめを受けなかったかもしれないと、今では考えることがある。
「でも、浩美はレギュラーだったし、俺は2年間バレー部にいたけど、2年生の時は部活に名前だけ置いてたんだ。」龍太郎は少しだけ苦笑した。あの頃、彼の中には浩美に近づきたかった気持ちがあったけれど、勇気がなかった。その後も、バレーの練習の中で、サーブを下からしか打てなかった自分を思い出すと、恥ずかしさが込み上げてくる。「龍ちゃんは今でもサーブは下からじゃないと打てないのよね。」浩美の言葉は、まるでその頃の自分を揶揄するかのようだったが、どこか懐かしく感じた。
「私、かっちゃんのこと、好きだったのよ。」浩美の言葉が、龍太郎の胸に突き刺さるように響いた。信じられなかった。あの頃、自分は浩美が遠い存在すぎて、手が届かないと思っていたから。思わず、疑うように言ってしまった。「いじめられてた俺をか、嘘だよ。」けれど、浩美は真剣な表情で答えた。「本当よ。」その言葉が、龍太郎の心の中で徐々に広がっていった。彼は、今でもその時の気持ちが信じられないようだった。
「俺は浩美は手の届かない感じだったな。」龍太郎は静かに話し続けた。「でも、中学2年の時に浩美と同じ高校に行きたくて、勉強したんだぜ。」その時の自分を思い返すと、必死だったことが思い出される。だが、英語だけはどうにもならなかった。中学から高校まで、英語がいつも壁になった。「どうにか高校受験、国語と社会でなんとか切り抜けた。」その苦しい日々を懐かしんでみると、ただただ必死に過ごしていた自分が浮かんでくる。
「龍ちゃんって掃除時間によくいじめられてても、ケロッとしてた。」浩美の言葉が、龍太郎の心に温かく染み込んだ。「私、そこが好きだったのかな。この人はこれから、どんな試練にも耐えていける人だと思ったよ。」その言葉に、龍太郎は自分が当時、必死に耐えていたことが意味を持っていたのだと気づいた。彼の心は、ほんの少しだけ軽くなったように感じた。
「一度、バレンタインデーの時に、悪がきに、私にお願いしろと言われたのに、かっちゃん、好きじゃないと言ったでしょ。」浩美は、少し笑いながらも、その時のことを覚えていると言った。龍太郎は思い返す。「あまり、あんなのは意識してなかったな。自分から催促するもんじゃなか。」でも、その頃から、心の中で何かが芽生えていたのだろう。「しかし、昔から初恋は結ばれないしな。」龍太郎は、しばらく沈黙した。中学時代はお互いに親しくもなかったが、高校に入学してから、龍太郎は勇気を出して浩美に手紙を書いた。その手紙には、照れくさい思いが込められていた。「親愛なる浩美様、中学3年のクラスメートの住所録を紛失してしまいました。学級委員でもあった浩美様、教えてもらえないでしょうか。」龍太郎は、あの頃の自分が少しでも浩美に届いていたらいいなと思っていた。その時、浩美が龍太郎の家まで走ってきた。あの瞬間、彼は心の中で何かが弾けるような気がした。浩美が自分のところに来てくれたことが、まるで運命のように思えた。それから、高校の3年間、彼女と共に過ごすことになる。時間が経つにつれて、その思いは深まるばかりだった。アパートで休養をして一週間が過ぎようとしていた。体は少しずつ回復している感じがしたが、心の中で何かが引っかかっていた。そんなある日、龍太郎宛に警察から一通の手紙が届く。内容は、明後日大学病院で精神病の疑いがあるため、検査を受けるようにとのことだった。精神病? 龍太郎は思わず息を呑んだ。自分にそんなことがあるなんて、まさか信じられなかった。心の中では、あの出来事が頭を巡っていた。しかし、今は何も感じないし、体調も悪くない。ただ、あの時の自分が理解できないのだ。もし本当に精神病だとしたら、運転免許が剥奪されるという現実が恐ろしい。大学病院での検査は心理テストと、いくつかの質問に答えるだけのものだった。結果が出るまで一週間。龍太郎はその期間、会社を休むことにした。そして5日後、結果が届いた。異常はなく、免許の取り消しにはならないらしい。ホッとした気持ちと同時に、どこか物足りないような気もした。検査が終わり、次の日、龍太郎は会社に出勤した。しかし、思っていた以上に不安な気持ちが押し寄せてきた。社長から呼び出され、「君は営業には向いてないから首だ」と告げられた。予想外だったが、意外にも龍太郎は一言で納得してしまった。
事務所に戻ると、周囲の視線が痛かったが、それでも落ち着いて「また改めて伺います」と伝え、その日は帰宅することにした。心の中で何かが決まったような気がした。仕事を失ったが、どこかスッキリとした気持ちもあった。そして、龍太郎は再び自分の人生を切り開こうと、就職活動に励み始めた。神田康子。龍太郎が東京に出てきて初めて恋をした相手だ。半年前、同じ中途入社でやって来た康子と同期となった。当初はあまり気にもしていなかったが、ある日、彼女に対して止めようのない気持ちが芽生え始めた。会社で飲み会がある度に、康子は龍太郎に「君、君」と何かと文句を言ってきて、最初はうるさい女性だなと思っていた。しかし、その言葉が次第に気になり、彼女のことが頭から離れなくなっていった。冬のスポーツと言えばスキー。ある日、同僚の今田君が、東京大学を目指しているアルバイトの学生と一緒にスキーツアーに行くことになり、そのツアーに康子も参加することになった。バスの中では、行きも帰りも交代で今田君と隣同士になったが、康子はうとうとと居眠りをしながら龍太郎に寄りかかってきた。その瞬間、龍太郎は何とも言えない最高の気分を味わった。スキーから帰宅した翌日、龍太郎はどうしようもなく彼女を好きになっていたことを実感する。だが、そんな気持ちを抱える一方で、龍太郎は彼女との未来を想像することができなかった。永遠にお別れが来ることを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。気持ちが抑えきれず、龍太郎はヤケ酒をあおりながら渋谷の街で朝まで呑み続けた。酔い潰れながらも、彼の心はどこか空虚で、康子との関係に悩む自分を責め続けていた。その後、龍太郎は郊外の東村山市135番地にある会社を探し始めた。求人案内に載っていたその会社は、彼が新たなスタートを切るための場所になるかもしれないと感じた。恋愛の悩みから逃げるように、彼は次の一歩を踏み出そうとしていた。電子関係の会社での面接を終え、龍太郎はアパートへと帰った。ポストを見ると、銀行からの手紙が一通届いていた。中にはカードが入っており、カード番号は「000135番」と記されていた。手に取ると、心の中に微かな違和感が走る。数字が妙に気になり、どこか不思議な感覚に襲われた。その時、浩美のことが頭に浮かんだ。彼女は福祉関係の大学で勉強していて、大手商社に内定したと聞いていた。龍太郎は電話をかけようかとも思ったが、その手を止めた。もう、電話をかけることはないと心の中で強く決めた。浩美の顔が布団の中で浮かぶが、今の自分には彼女ではなく、東京を選んだのだと自分に言い聞かせた。過去の自分との決別を感じながら、深く息をつく。
「採否決定まで一週間か、それまで暇だなあ」龍太郎は、時間を持て余し、暇つぶしにパチンコ店へ足を運ぶことにした。そこでふと、最近よく目にする「135番」という数字が頭に浮かんだ。どうしても気になり、その番号の席に座ることに決めた。気のせいだと思いながらも、その数字に引き寄せられるようにして座った。結局、一万円を使い切って帰ることになり、その結果に何となく虚しさが広がる。翌日、友人の博が秋田に帰るというので、待ち合わせて一杯やることにした。仕事のこと、過去のこと、そしてこれからのこと。そんな話を交わしながら、龍太郎は今、自分がどこに向かっているのか、少しずつ思いを整理し始めていた。タクシーを呼び止めたとき、ふとナンバーを確認すると「1350」と書かれている。瞬間的に、何か妙な気配を感じた。思わず「おや?」と心の中で呟き、その日は特に不思議な感覚を抱きながら、いい気分で部屋へと帰った。翌朝、やや二日酔いで目を覚ますと、背広のポケットに昨日のスナックの名刺が入っていることに気づいた。名刺に目をやると、「浩美」と書かれているのを見て、再び驚いた。こんな偶然もあるものかと感じる一方で、それ以上深く追及することはしなかった。心の中で、どこかでまた浩美と繋がった気がして、不思議な感覚に包まれた。
「今日は月末だし、アパートの大家さんに家賃を払いに行くか」と思い、家を出ることにした。いつもなら仕事が忙しくて夜中に支払いを済ませるのだが、今日はどういうわけか、奥さんがいないらしく、ばあちゃんが出てきた。ドアをノックして「トントン」と音が響く。すると、ばあちゃんは何も言わずに家の中から声をかけ、龍太郎に向かって「浩美」と呼びかけた。ドキッとした瞬間、背筋に寒さが走った。まさか、浩美という名前をここで聞くとは思っていなかったからだ。偶然といえば偶然だが、最近、妙な偶然が続いている気がして、ふと不安な気持ちが頭をよぎった。心の中で「俺、なんかおかしいのかな」とつぶやいた。
何かがおかしいのだろうか。気づかぬうちに、運命が何かを伝えようとしているのだろうか。結果が届くのは時間の問題だと思いながら、今日、東京での最後の思い出を作るために博と野球場へ観戦に行くことを決めた。チケットを買いに窓口へと向かい、手にしたチケットを見ながら、「何番の席になさいますか?」と聞かれる。
「内野席の、135番で」と答えた自分の声が、どこか遠くに響くように感じた。龍太郎はふと口をついて出ていた。「最近、変な偶然が続いてるんだよな」と、気づけば自分の言葉に驚いた。彼は博に顔を見せると、博は心配そうに言った。「大丈夫か、顔が真っ青だよ」と。その言葉に、龍太郎は少し力なく答えた。「最近、疲れているのかなあ」博は龍太郎を心配してか、肩を軽く叩いて言った。「首や転職やらで疲れてるんだよ」その言葉に、龍太郎は少し安心したような気がした。「そうかなあ」と、彼は納得した。しばらく沈黙が続き、龍太郎はそのまま考え込んでいた。何かが絡み合っている気がするけれど、どうしてもはっきりとは理解できなかった。その時、部屋のドアが開き、「木村さん、速達だよ」と声がかかった。龍太郎は「はい」と返事をし、速達を手に取った。封を開けると、それは会社からの手紙だった。目を通すと、そこには採用の文字が躍っていた。龍太郎はしばしその言葉に目を見張った。「採用か…」と、呟いた。入社は月曜日から、あと五日後だ。その間に、龍太郎は引越しを決め、東村山市にある住所に向かうことにした。引越しの準備をしながら、龍太郎は手紙に書かれた住所を何度も確認した。「東村山市135番地」と、その数字が頭に浮かぶ。あの番号、どこかで何度も目にしていたような気がする。驚くべきことに、人事担当者の名前は「正一」と書かれていた。その瞬間、何かが胸を締め付けるような感覚に襲われたが、すぐにそれを振り払った。気晴らしに音楽でも聴こうかと、龍太郎はレンタル屋に足を運んだ。しかし、店員から「会員証の有効期限が切れています。再度手続きをお願いしますので、住所と名前を書いてください」と告げられ、思わず「おやっ」と声を漏らした。それもまた、何かの前兆のように感じたが、気のせいだと思うことにした。龍太郎は、手帳に住所の番地を「135番地」、名前を「浩美」と書いていた。書き終わった瞬間、彼は思わずハッとした。「すいません、間違えました」と、慌てて書き直した。ふと、心の中に不安が広がる。疲れているのだろうか。それとも、悪魔でも憑依されているかのように、何かが自分を支配しているような気がしてならなかった。今日は、いよいよ初出勤の日だ。昨晩はうまく眠れず、多少の疲れを感じていたが、それでもなんとか起き上がり、早めに準備を整えて会社へと向かった。電車に揺られながら、龍太郎は自分の中で無理に気持ちを落ち着けようとした。「大丈夫だ、今日は新しいスタートだ」と、心の中で何度も呟いた。普段なら気にしない小さなことが、今は妙に気になった。会社に着くと、社員たちが忙しそうに行き交っていた。「おはようございます」と、挨拶をしながら自分の席に向かう。周りの目線が気になったが、できるだけ普通を装うようにしていた。その時、上司から声がかかる。「じゃ、木村さん、ロッカー135番を使って」
「えっ?」龍太郎は一瞬、言葉が出なかった。135番、またその番号だ。気づけば、その数字が再び自分に絡みついていた。心臓がわずかに跳ねるのを感じる。何かの偶然だろうか、それとも運命のようなものだろうか。混乱する心を隠すように、「はい」と答え、ロッカーへ向かった。だが、内心ではその番号に不安が募る。どこかで見たことがあるような気がする、いや、何度も目にしてきた数字だ。それが単なる偶然に過ぎないのか、それとも何か意味があるのか、考えれば考えるほどわからなくなってきた。龍太郎はロッカーの鍵を手に取りながら、再び心の中で自分に言い聞かせた。「大丈夫だ、ただの偶然だ」
第一章 忍び寄る影
「ここはどこだ」
木村龍太郎は、薄暗い部屋を見回した。板張りの床に囲まれたわずか3畳ほどの空間。その中央には、ぽつんと便器がひとつ置かれている。隣には出入り口らしき場所があるが、直径20センチほどの鉄の棒が3本立ち並び、その先には廊下が続いているようだ。壁には小窓がひとつ。窓越しに見える外の景色は暗く、どうやら深夜らしい。
「どこなんだ、ここは……」
龍太郎は呟いた。23年の人生で、こんな場所に来た記憶はない。「まさか……」嫌な予感が胸を過る。ここは名古屋の大森精神病院の隔離室だったのだ。目の前には、ドアらしき隙間のある鉄扉がある。「誰かいるのか!」声を張り上げて叫ぶが、外からの反応はない。焦燥感が募り、ドアを叩き、蹴り上げるが、それでも静寂が続く。力任せに喚き散らし、体中の筋肉が疲弊するまで暴れた龍太郎は、やがて糸が切れたように床に倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちた。眠りの中、夢が龍太郎を過去へと誘う。断片的な記憶が、走馬灯のように浮かび上がった――。昭和58年5月、東京・銀座。医薬品問屋が軒を連ねる一角で、営業見習いとして働き始めた龍太郎は、「角田商店」での新しい生活に奮闘していた。仕事は主に商品知識を覚えることが中心だったが、慣れない環境に戸惑いながらも、少しずつ経験を積んでいた。時代は週休二日制などまだ浸透していない頃。今日は土曜日、銀座にある自社ビルの宿直当番の日だ。従業員たちは交代で宿直し、夜間のビル管理を担っていた。「はい、これ」と龍太郎は同僚の神田康子にパンの差し入れを手渡した。
数日前の5月4日。康子の19回目の誕生日が近づいていた。「はい、これ」龍太郎は会社の就業時間間際、康子がいる事務所を訪れ、プレゼントを渡した。「何これ?」康子が不思議そうに尋ねる。「誕生日プレゼント」と照れ隠しに笑う龍太郎。「ありがとう」と康子が微笑むその瞬間、龍太郎の胸の中に小さなガッツポーズが生まれた。それから間もなく、総務課の30代の女性が龍太郎を呼び止めた。「木村さん、ちょっといい?」康子からもらったパンを食べながら向かった先には、また別の出来事が待ち受けていた――。
「事務所にネズミが出てしょうがないのよ」
突然の言葉に、木村龍太郎は驚いた。東京のど真ん中にネズミが出るなんて話があるわけないと思ったが、何も言い返さなかった。「寝てるときは気をつけてね」と言われ、「はい」とだけ答えた。特に気にする様子もなく、そのまま受け流すことにした。午後8時、ビルの戸締まりを確認し、寝床に入る。疲れていたのか、すぐに眠りについた。しかし、「ボーン」という深夜0時の鐘の音で突然目が覚めた。その瞬間、寝床の横にあるタンスの上から「ゴソゴソ」という不気味な音が聞こえてきた。ネズミにしては妙に大きい音だ。嫌な予感が胸をよぎる。「まさか……」脳裏に「幽霊」という言葉が浮かんだ。しかし、恐怖心が募る間もなく、急激な眠気に襲われ、再び深い眠りに落ちた。翌朝、薄暗い空が白んできた頃、龍太郎は目を覚ました。時計を見ると、まだ早朝だった。出勤してくる社員たちに話を聞いてほしくて、落ち着かない時間を過ごした。「早く誰か来ないかな……」待ち遠しさで胸が高鳴る。午前7時半、一番に姿を現したのは倉吉さん。60歳のベテラン社員だ。彼の姿が見えた瞬間、龍太郎は思わず声をかけた。「倉吉さん!」と呼びかけながら、言葉が止まらなかった。「この会社、幽霊が出ますよ!」突然の発言に、倉吉は目を見開き、喉を詰まらせたように咳き込んだ。幽霊なんて言葉を聞くとは思ってもいなかったのだろう。午前8時になると、他の社員たちも次々に出勤してきた。稲垣部長が龍太郎に声をかけようとした瞬間、龍太郎は部長の表情が微妙に変わったことに気付いた。龍太郎は言葉を飲み込んだが、心の中は混乱しきっていた。「どうしたんだ、木村君」と部長が尋ねても、龍太郎は答えない。
その沈黙の間、頭の中では不安と恐怖が渦巻いていた。まるで目に見えない何かが、自分の心を支配しているようだった。恐怖は言葉にならず、ただ思考だけが加速していった――。被害妄想だった。だが、龍太郎にはその事実を自覚する余裕すらなかった。その日は頭の中が異様にざわつき、会社を早退した。目黒の静かな住宅街にある自宅に戻ると、薄暗い部屋で一人、思考の渦に飲み込まれていった。
「俺を誰かが見張っている……」そう確信した瞬間、制御の効かない衝動に突き動かされ、ステレオの音量を最大限に上げた。部屋中に響き渡る音楽が、内側の不安をかき消してくれるような気がした。だが、それも長くは続かない。ほどなくして、1階に住む大家さんが怒りを込めたノック音で龍太郎を現実に引き戻した。ノックと同時に音楽の音量を急いで下げ、窓の外を覗く。だが、見えるのは静かな街並みだけ。それでも、「誰かに見られている」という妄想は龍太郎の心を縛り続け、彼の恐怖心をますます煽っていった。薄暗くなる夕方、彼は衝動的に外へ飛び出した。目黒の路地を歩くうちに、幻聴が聞こえ始める。神田康子の声だった。
「次は右よ」
「うん、わかった」
「次は、交差点を左に」
康子の声が繰り返し指示を出し、それに従うように龍太郎は目黒から品川へとさまよい続けた。足は重くなり、体力も尽き果てていたが、声の指示が止むことはなかった。明け方、ついに力尽き、龍太郎は街中の一軒家の前に腰を下ろす。ポストに入っていた新聞を引き出し、読むふりをして時間をやり過ごした。30分ほど経った頃、不審に思った住民が警察を呼び、警官が近づいてきた。
「どうしたんだね?」と警官は穏やかに声をかけたが、龍太郎の頭は妄想に完全に支配されていた。目の前の教会が突然目に入ると、とっさに「ここの住民です!」と叫んだ。しかし、警官が腕を掴もうとした瞬間、龍太郎は激しく抵抗した。その抵抗も虚しく、警官は手錠を取り出し、龍太郎の両手を拘束した。無言のまま、龍太郎は警察署へと連行されていった。放心した瞳に、ただ曙の光が映っていた――どこにも安らぎを見つけられないままに。警察署に到着した龍太郎は、無感情に顔写真と指紋を取られ、「もう悪いことはできない」と自嘲気味に思った。心の中では、何もかもが無意味に感じられ、ただ静かに過ぎる時間の中で、すぐにでも何かが変わることを願っていた。しばらくして、稲垣部長が身元引き取りに来て、ようやく解放された。アパートまで送られたが、周囲の誰もが彼の異常な心の動きを察することはなかった。部屋に戻ると、疲れが出たのか、すぐに眠りに落ちた。だが、眠りは浅く、心が不安定で落ち着かない。目を閉じても、閉じても、頭の中は静まることなく、違和感に満ちていた。結局、眠りが不十分なまま目を覚まし、再び外に出てしまう。目黒の駅で山手線に乗り、上野駅で乗り換えて大宮駅へ向かった。大宮駅に着くと、ただボーッとした表情で壁画を眺めていた。幻聴が再び耳に届き、何も考えずにその声に導かれるように歩き出す。幻聴の内容は次第に強烈になり、無意識のうちに上野駅方面へと向かっていた。頭の中では、何もかもが現実でないような感覚に包まれ、心はどこか遠くへ逃げていた。上野駅に着くと、また山手線に乗り換え、目黒へと向かう。途中、品川駅が近づくと、幻聴はさらにエスカレートし、聞こえてきたのは「おまえは不死身だ、スーパーマンだ」という言葉だった。その瞬間、龍太郎の心は完全に理性を失っていた。彼の中では、現実と非現実が交錯し、どちらが真実なのか分からなくなっていた。電車が品川駅のホームに到着すると、龍太郎は何も考えず、ただ先頭車両へと駆け出した。ドアが開くと同時に、また大きな幻聴が響いた。「おまえは電車に跳ねられても無事だ」と。その言葉を信じるように、無意識のうちに彼はホームから線路へと飛び込んだ。胸の中で響くのはただ一つの言葉だけだった。「もう終わりにしたい」――それが龍太郎の最後の願いだった。
「キーン」と鋭い音が響き、電車が急ブレーキをかけた。龍太郎の目の前、ほんの1メートルのところで車両は止まった。心臓が激しく打ち、全身が震えた。彼はその場で立ちすくむことなく、すぐさまホームへ駆け上がった。だが、その一歩が彼の運命を決定づけた。鉄道警官が瞬時に彼を取り押さえ、事務所へと連行される。「そんなに死にたいか?」警察官の怒鳴り声が、龍太郎の心に突き刺さる。彼は一瞬言葉を失い、やがて震える声で呟いた。「なに言ってるんだ。死にたいわけないだろ。」その言葉は自分に言い聞かせるようで、心の中でさえ、現実と幻想が交錯していた。
数時間後、稲垣部長が身柄を引き取りにやってきた。龍太郎はその目に映る憂いを感じながらも、部長の指示で1週間ほど自宅療養をすることとなった。部長の顔を見るたびに、心の中で自分がどれほど迷惑をかけているのか、申し訳なさが込み上げてきた。アパートに戻ると、何もかもが重たく感じられ、すぐに眠りに落ちた。身体の疲れはもちろん、心の中で張り詰めていたものがようやく解け、眠り続けることができた。しかし、心の中の混乱は簡単に収まるわけではなかった。夢の中に現れるのは、あの日の幼なじみ、浩美の顔だった。浩美の存在が、心のどこかで一筋の光のように感じられた。しかし、それも束の間の安らぎだった。脳裏に浮かぶその笑顔も、次第に歪んで見えた。病はその優しさをも切り裂くように、再び龍太郎を襲ってきた。希望を持とうとしても、それは薄れ、また不安と恐怖が心を締め付けていく。彼の内面はすでに病魔に蝕まれていた。
「龍ちゃん、初恋って誰、わたし?」浩美がそう言ったとき、龍太郎は一瞬、言葉を飲み込んだ。その問いに答えたくて、でもどこか照れくさい気持ちが込み上げてきた。「そうかもしれないな…家は近くだけど、浩美を意識したのは中学生の時かな」と龍太郎は静かに言った。彼の心には、あの頃の思い出が鮮明に蘇る。浩美とは、中学一年の時に同じクラスになった。彼女はいつも明るく、学級委員としてみんなを引っ張っていく存在だった。
「かっちゃんって、中学の時はおとなしくて、無口で、よくあの背の高いヤツと悪ガキにいじめられてたね。」浩美の言葉が、龍太郎の心に痛く響いた。あの頃、彼はただ黙って耐えることしかできなかった。中学校の3年間、浩美と同じクラスだったが、同時に、あの背の高いヤツともずっと一緒だった。運動会のフォークダンスの時、浩美が近づいてくると、龍太郎は胸がドキドキして、うまく息ができなかった。
「浩美がバレー部だったから、俺もバレー部に入部したんだぜ。」龍太郎が言うと、浩美は驚いた顔をした。「うそ?」とその言葉に信じられないような表情を見せた。実は最初、龍太郎は柔道部に入ろうと思っていた。だが、結局一日で辞めた。もし柔道部に入っていたら、あの時いじめを受けなかったかもしれないと、今では考えることがある。
「でも、浩美はレギュラーだったし、俺は2年間バレー部にいたけど、2年生の時は部活に名前だけ置いてたんだ。」龍太郎は少しだけ苦笑した。あの頃、彼の中には浩美に近づきたかった気持ちがあったけれど、勇気がなかった。その後も、バレーの練習の中で、サーブを下からしか打てなかった自分を思い出すと、恥ずかしさが込み上げてくる。「龍ちゃんは今でもサーブは下からじゃないと打てないのよね。」浩美の言葉は、まるでその頃の自分を揶揄するかのようだったが、どこか懐かしく感じた。
「私、かっちゃんのこと、好きだったのよ。」浩美の言葉が、龍太郎の胸に突き刺さるように響いた。信じられなかった。あの頃、自分は浩美が遠い存在すぎて、手が届かないと思っていたから。思わず、疑うように言ってしまった。「いじめられてた俺をか、嘘だよ。」けれど、浩美は真剣な表情で答えた。「本当よ。」その言葉が、龍太郎の心の中で徐々に広がっていった。彼は、今でもその時の気持ちが信じられないようだった。
「俺は浩美は手の届かない感じだったな。」龍太郎は静かに話し続けた。「でも、中学2年の時に浩美と同じ高校に行きたくて、勉強したんだぜ。」その時の自分を思い返すと、必死だったことが思い出される。だが、英語だけはどうにもならなかった。中学から高校まで、英語がいつも壁になった。「どうにか高校受験、国語と社会でなんとか切り抜けた。」その苦しい日々を懐かしんでみると、ただただ必死に過ごしていた自分が浮かんでくる。
「龍ちゃんって掃除時間によくいじめられてても、ケロッとしてた。」浩美の言葉が、龍太郎の心に温かく染み込んだ。「私、そこが好きだったのかな。この人はこれから、どんな試練にも耐えていける人だと思ったよ。」その言葉に、龍太郎は自分が当時、必死に耐えていたことが意味を持っていたのだと気づいた。彼の心は、ほんの少しだけ軽くなったように感じた。
「一度、バレンタインデーの時に、悪がきに、私にお願いしろと言われたのに、かっちゃん、好きじゃないと言ったでしょ。」浩美は、少し笑いながらも、その時のことを覚えていると言った。龍太郎は思い返す。「あまり、あんなのは意識してなかったな。自分から催促するもんじゃなか。」でも、その頃から、心の中で何かが芽生えていたのだろう。「しかし、昔から初恋は結ばれないしな。」龍太郎は、しばらく沈黙した。中学時代はお互いに親しくもなかったが、高校に入学してから、龍太郎は勇気を出して浩美に手紙を書いた。その手紙には、照れくさい思いが込められていた。「親愛なる浩美様、中学3年のクラスメートの住所録を紛失してしまいました。学級委員でもあった浩美様、教えてもらえないでしょうか。」龍太郎は、あの頃の自分が少しでも浩美に届いていたらいいなと思っていた。その時、浩美が龍太郎の家まで走ってきた。あの瞬間、彼は心の中で何かが弾けるような気がした。浩美が自分のところに来てくれたことが、まるで運命のように思えた。それから、高校の3年間、彼女と共に過ごすことになる。時間が経つにつれて、その思いは深まるばかりだった。アパートで休養をして一週間が過ぎようとしていた。体は少しずつ回復している感じがしたが、心の中で何かが引っかかっていた。そんなある日、龍太郎宛に警察から一通の手紙が届く。内容は、明後日大学病院で精神病の疑いがあるため、検査を受けるようにとのことだった。精神病? 龍太郎は思わず息を呑んだ。自分にそんなことがあるなんて、まさか信じられなかった。心の中では、あの出来事が頭を巡っていた。しかし、今は何も感じないし、体調も悪くない。ただ、あの時の自分が理解できないのだ。もし本当に精神病だとしたら、運転免許が剥奪されるという現実が恐ろしい。大学病院での検査は心理テストと、いくつかの質問に答えるだけのものだった。結果が出るまで一週間。龍太郎はその期間、会社を休むことにした。そして5日後、結果が届いた。異常はなく、免許の取り消しにはならないらしい。ホッとした気持ちと同時に、どこか物足りないような気もした。検査が終わり、次の日、龍太郎は会社に出勤した。しかし、思っていた以上に不安な気持ちが押し寄せてきた。社長から呼び出され、「君は営業には向いてないから首だ」と告げられた。予想外だったが、意外にも龍太郎は一言で納得してしまった。
事務所に戻ると、周囲の視線が痛かったが、それでも落ち着いて「また改めて伺います」と伝え、その日は帰宅することにした。心の中で何かが決まったような気がした。仕事を失ったが、どこかスッキリとした気持ちもあった。そして、龍太郎は再び自分の人生を切り開こうと、就職活動に励み始めた。神田康子。龍太郎が東京に出てきて初めて恋をした相手だ。半年前、同じ中途入社でやって来た康子と同期となった。当初はあまり気にもしていなかったが、ある日、彼女に対して止めようのない気持ちが芽生え始めた。会社で飲み会がある度に、康子は龍太郎に「君、君」と何かと文句を言ってきて、最初はうるさい女性だなと思っていた。しかし、その言葉が次第に気になり、彼女のことが頭から離れなくなっていった。冬のスポーツと言えばスキー。ある日、同僚の今田君が、東京大学を目指しているアルバイトの学生と一緒にスキーツアーに行くことになり、そのツアーに康子も参加することになった。バスの中では、行きも帰りも交代で今田君と隣同士になったが、康子はうとうとと居眠りをしながら龍太郎に寄りかかってきた。その瞬間、龍太郎は何とも言えない最高の気分を味わった。スキーから帰宅した翌日、龍太郎はどうしようもなく彼女を好きになっていたことを実感する。だが、そんな気持ちを抱える一方で、龍太郎は彼女との未来を想像することができなかった。永遠にお別れが来ることを、どこかで感じ取っていたのかもしれない。気持ちが抑えきれず、龍太郎はヤケ酒をあおりながら渋谷の街で朝まで呑み続けた。酔い潰れながらも、彼の心はどこか空虚で、康子との関係に悩む自分を責め続けていた。その後、龍太郎は郊外の東村山市135番地にある会社を探し始めた。求人案内に載っていたその会社は、彼が新たなスタートを切るための場所になるかもしれないと感じた。恋愛の悩みから逃げるように、彼は次の一歩を踏み出そうとしていた。電子関係の会社での面接を終え、龍太郎はアパートへと帰った。ポストを見ると、銀行からの手紙が一通届いていた。中にはカードが入っており、カード番号は「000135番」と記されていた。手に取ると、心の中に微かな違和感が走る。数字が妙に気になり、どこか不思議な感覚に襲われた。その時、浩美のことが頭に浮かんだ。彼女は福祉関係の大学で勉強していて、大手商社に内定したと聞いていた。龍太郎は電話をかけようかとも思ったが、その手を止めた。もう、電話をかけることはないと心の中で強く決めた。浩美の顔が布団の中で浮かぶが、今の自分には彼女ではなく、東京を選んだのだと自分に言い聞かせた。過去の自分との決別を感じながら、深く息をつく。
「採否決定まで一週間か、それまで暇だなあ」龍太郎は、時間を持て余し、暇つぶしにパチンコ店へ足を運ぶことにした。そこでふと、最近よく目にする「135番」という数字が頭に浮かんだ。どうしても気になり、その番号の席に座ることに決めた。気のせいだと思いながらも、その数字に引き寄せられるようにして座った。結局、一万円を使い切って帰ることになり、その結果に何となく虚しさが広がる。翌日、友人の博が秋田に帰るというので、待ち合わせて一杯やることにした。仕事のこと、過去のこと、そしてこれからのこと。そんな話を交わしながら、龍太郎は今、自分がどこに向かっているのか、少しずつ思いを整理し始めていた。タクシーを呼び止めたとき、ふとナンバーを確認すると「1350」と書かれている。瞬間的に、何か妙な気配を感じた。思わず「おや?」と心の中で呟き、その日は特に不思議な感覚を抱きながら、いい気分で部屋へと帰った。翌朝、やや二日酔いで目を覚ますと、背広のポケットに昨日のスナックの名刺が入っていることに気づいた。名刺に目をやると、「浩美」と書かれているのを見て、再び驚いた。こんな偶然もあるものかと感じる一方で、それ以上深く追及することはしなかった。心の中で、どこかでまた浩美と繋がった気がして、不思議な感覚に包まれた。
「今日は月末だし、アパートの大家さんに家賃を払いに行くか」と思い、家を出ることにした。いつもなら仕事が忙しくて夜中に支払いを済ませるのだが、今日はどういうわけか、奥さんがいないらしく、ばあちゃんが出てきた。ドアをノックして「トントン」と音が響く。すると、ばあちゃんは何も言わずに家の中から声をかけ、龍太郎に向かって「浩美」と呼びかけた。ドキッとした瞬間、背筋に寒さが走った。まさか、浩美という名前をここで聞くとは思っていなかったからだ。偶然といえば偶然だが、最近、妙な偶然が続いている気がして、ふと不安な気持ちが頭をよぎった。心の中で「俺、なんかおかしいのかな」とつぶやいた。
何かがおかしいのだろうか。気づかぬうちに、運命が何かを伝えようとしているのだろうか。結果が届くのは時間の問題だと思いながら、今日、東京での最後の思い出を作るために博と野球場へ観戦に行くことを決めた。チケットを買いに窓口へと向かい、手にしたチケットを見ながら、「何番の席になさいますか?」と聞かれる。
「内野席の、135番で」と答えた自分の声が、どこか遠くに響くように感じた。龍太郎はふと口をついて出ていた。「最近、変な偶然が続いてるんだよな」と、気づけば自分の言葉に驚いた。彼は博に顔を見せると、博は心配そうに言った。「大丈夫か、顔が真っ青だよ」と。その言葉に、龍太郎は少し力なく答えた。「最近、疲れているのかなあ」博は龍太郎を心配してか、肩を軽く叩いて言った。「首や転職やらで疲れてるんだよ」その言葉に、龍太郎は少し安心したような気がした。「そうかなあ」と、彼は納得した。しばらく沈黙が続き、龍太郎はそのまま考え込んでいた。何かが絡み合っている気がするけれど、どうしてもはっきりとは理解できなかった。その時、部屋のドアが開き、「木村さん、速達だよ」と声がかかった。龍太郎は「はい」と返事をし、速達を手に取った。封を開けると、それは会社からの手紙だった。目を通すと、そこには採用の文字が躍っていた。龍太郎はしばしその言葉に目を見張った。「採用か…」と、呟いた。入社は月曜日から、あと五日後だ。その間に、龍太郎は引越しを決め、東村山市にある住所に向かうことにした。引越しの準備をしながら、龍太郎は手紙に書かれた住所を何度も確認した。「東村山市135番地」と、その数字が頭に浮かぶ。あの番号、どこかで何度も目にしていたような気がする。驚くべきことに、人事担当者の名前は「正一」と書かれていた。その瞬間、何かが胸を締め付けるような感覚に襲われたが、すぐにそれを振り払った。気晴らしに音楽でも聴こうかと、龍太郎はレンタル屋に足を運んだ。しかし、店員から「会員証の有効期限が切れています。再度手続きをお願いしますので、住所と名前を書いてください」と告げられ、思わず「おやっ」と声を漏らした。それもまた、何かの前兆のように感じたが、気のせいだと思うことにした。龍太郎は、手帳に住所の番地を「135番地」、名前を「浩美」と書いていた。書き終わった瞬間、彼は思わずハッとした。「すいません、間違えました」と、慌てて書き直した。ふと、心の中に不安が広がる。疲れているのだろうか。それとも、悪魔でも憑依されているかのように、何かが自分を支配しているような気がしてならなかった。今日は、いよいよ初出勤の日だ。昨晩はうまく眠れず、多少の疲れを感じていたが、それでもなんとか起き上がり、早めに準備を整えて会社へと向かった。電車に揺られながら、龍太郎は自分の中で無理に気持ちを落ち着けようとした。「大丈夫だ、今日は新しいスタートだ」と、心の中で何度も呟いた。普段なら気にしない小さなことが、今は妙に気になった。会社に着くと、社員たちが忙しそうに行き交っていた。「おはようございます」と、挨拶をしながら自分の席に向かう。周りの目線が気になったが、できるだけ普通を装うようにしていた。その時、上司から声がかかる。「じゃ、木村さん、ロッカー135番を使って」
「えっ?」龍太郎は一瞬、言葉が出なかった。135番、またその番号だ。気づけば、その数字が再び自分に絡みついていた。心臓がわずかに跳ねるのを感じる。何かの偶然だろうか、それとも運命のようなものだろうか。混乱する心を隠すように、「はい」と答え、ロッカーへ向かった。だが、内心ではその番号に不安が募る。どこかで見たことがあるような気がする、いや、何度も目にしてきた数字だ。それが単なる偶然に過ぎないのか、それとも何か意味があるのか、考えれば考えるほどわからなくなってきた。龍太郎はロッカーの鍵を手に取りながら、再び心の中で自分に言い聞かせた。「大丈夫だ、ただの偶然だ」
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