幼なじみ

錯乱

錯乱

龍太郎の頭の中は、まるで混乱の渦に巻き込まれたようだった。すべてが急速に崩れ、整理できない思考がぐるぐると回る。自分が今、どこにいるのか、何をしているのかさえ、はっきりとわからない。錯乱した気持ちをどうにかしようと、無意識のうちに会社を飛び出していた。バス停にたどり着くと、運よくバスがすぐにやってきた。慌てて飛び乗り、座席中央に腰を下ろす。しばらく無心で窓の外を見つめていると、ふと前方に座っている女性の姿が目に入った。その顔が、まるで浩美に似ているように感じた。だが、龍太郎の意識はぼんやりとしていて、目の錯覚かもしれないと思いながらもそのまま気に留めずにいた。まるで酒に酔ったような感覚が体を包み込み、何もかもが遠く感じられる。心の中の混乱を収めようと必死だった。バスを降りると、急いでアパートへ戻り、無意識のうちに鍵をかけた。誰かが近づいている気配がしたが、無理にその場から動こうとはしなかった。静かな部屋の中で、心の動揺を静めようと必死に自分を押さえつける。しばらくすると、会社から大家さんに電話がかかり、扉を叩く音が響いた。だが、龍太郎は動けなかった。じっとしているしかなかった。無理にでも動こうとすることが、余計に自分を追い詰めるように感じられた。心が震え、何もかもが手の届かない場所に感じた。その時、思い出したのは去年亡くなったおばあちゃんのことだった。彼女の手紙を、テーブルの上に立てかけると、無意識にお茶を一杯汲んでその横に置いた。それが唯一の心の支えのような気がした。龍太郎は布団にくるまりながら、必死に寝ようとしたが、心は乱れたまま、なかなか眠ることができなかった。頭の中で渦巻く不安と疑念が、彼の心をさらに苦しめていた。龍太郎は、ふと音楽でも聴こうと、無意識にステレオのスイッチを入れた。音楽が流れ始めるも、彼の心はそれに反応することなく、ただぼんやりとしたまま時が過ぎていった。寝室に横たわりながらも、なかなか寝付けなかった。心の中は静まることなく、どこか遠くで騒がしい思考が続いていた。そのうち、深い眠りに引き込まれた。しかし、目を覚ますと、深夜の一時だった。ステレオからは依然として音楽が流れ、ラジオの深夜番組がかすかに耳に入ってきた。
その時、ふとラジオのDJが不自然な言葉を発した。「あの世から、なーんてね」その瞬間、龍太郎の頭に強い動揺が走った。何も考えずに、スーツを着たまま作業着を重ね、不自然な格好で部屋を飛び出していった。まるで自分でも何をしているのか分からないように、無心で動き続けた。どこへ向かうのか、目的もなくただ足を運ぶ。気の赴くままに、山手線に乗り込み、気がつけば宇都宮方面へと向かっていた。財布を覗いてみたが、中身は一銭もなかった。昨日から何も食べていないのに、空腹の感覚は不思議と感じなかった。ただただ、無の状態でいる自分が不気味で、何もかもが遠い世界のことのように思えた。気がつけば、京浜東北線に乗り換えていた。降りる駅も、まったく記憶にない場所だった。切符も持っていないことに気づき、焦ることなくホームの端に向かって歩き出した。金網を駆け上がり、住宅街へと足を踏み入れる。財布の中身は空っぽで、どこに向かうのかさえもわからない。龍太郎は、自分が異常をきたしていることを感じる余裕もなかった。頭の中が混乱し、心の中の叫びに耳を貸すことなく、ただ無心で歩き続けるだけだった。自分が何をしているのか、なぜこんな場所にいるのかも分からない。何かに導かれるように歩き続ける彼の足音だけが、静かな夜に響いていた。まるで何者かに操られるように足を進めた。すると交番にたどり着く。龍太郎は、お金を落としたが、千円貸してくれませんかと警察官に尋ねた。ちゃんと、明日にでも返すんだよと、一筆書かされて千円札を受け取った。その金で、アパートに帰ろうと、ふたたび電車に乗り込む。それから、意識のないなかで妄想がはじまった。とにかく、早く部屋に戻りたい。上野駅に着いたのは、夜の八時を過ぎている。駅のロビーに居た大きな絵を眺めていた。どこかに浩美ちゃんがいる早く帰らなければ。龍太郎の妄想は止まらない。ふたたび、山の手線に乗り込む事にした。電車に飛び乗った。目黒駅に近づいた時に龍太郎の頭が爆発した。電車のドアが開くと同時に、反対ホームに飛び降り、電車が急ブレーキをかけた。電車は運よく、龍太郎の手前20メートルの地点で急停車した。鉄道警官が駆けつけ、「そんなに、死にたいかと交番に連れていかれた。しかし、龍太郎の妄想は、さらに強くなっていった。これが、2度目の衝動による。自殺未遂だった。
「ガチャン」と音が響いた。その瞬間、龍太郎は駅の交番に連れられていく途中、大型トラックめがけて飛び込んだ。勢いよく体を投げ出すように、全てを断ち切るかのように。救急車が駆けつけ、病院へ運ばれる途中、意識不明の重体となっていた。その知らせを受け、明日帰省する予定だった博は急遽、会社の人たちとともに駆けつけた。田舎の両親にも連絡が行き、すぐにでも向かうと言っていた。しかし、浩美には、入社してすぐということもあり、両親への連絡はなかった。龍太郎の行動が理解できず、集まった人々は不安と戸惑いの中で警察官に尋ねた。「いったい、どうしたんですか?」
警察官はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「ちょっとお待ちください。現在、調査中です。」そして、事情説明が始まった。「昨日は入社初日でした。会社には遅刻せずに出勤されたそうです。ロッカーで着替えている最中に、突然、会社を飛び出したと言います。その後の行動については、本人の口から聞かなければわかりませんが、わかっているのは、午後9時に目黒駅で電車に飛び込もうとし、駅前の交番に連れて行かれる途中で、トラックに向かって飛び込んだということです。」警察官は、最終的にこう言った。「自殺以外に考えられない状況です。」
その言葉を聞いた瞬間、部屋にいる全員の心に重くのしかかるものがあった。彼がどれほど追い詰められていたのか、どれだけ苦しんでいたのかを感じ取ることができた。しかし、誰もその苦しみに気づけなかった。その後、龍太郎は意識不明のまま病院で治療を受けることになったが、全員がその先に何が待っているのか、ただただ無力感を感じていた。博の口から、しばらく黙っていた後、ぽつりとこぼれた。「最近、疲れているようだったよ。でも、自殺するなんて考えられないなあ。」博はその言葉を口にしながらも、ふと胸の中にしまった言葉があった。彼が言おうとしたのは、最近龍太郎が言っていた「変な偶然があってね」という話だった。しかし、それを口にするのは、どうしても怖かった。何か不吉なものを感じていたからだ。三日が過ぎ、龍太郎は依然として意識不明だった。博はほぼ寝ずに付き添って看病をしていた。その間、龍太郎は意識が戻らないまま、夢の中で浩美との思い出を繰り返し見ていた。二人で過ごした日々が、心の中に温かく浮かんでは消えた。しかし、その夢の中で、突然、大型トラックが自分に向かって突進してくるシーンが現れた。「うっ…」龍太郎は、苦しそうにうなり声を上げた。その声を聞き、看護婦が慌てて駆け寄った。「今、意識が戻ったんですか?」龍太郎は目を開け、周囲の景色に驚きながら口を開いた。「どうしたんだ、俺…こんなになって。」
「トラックに飛び込んだんだよ。」博が静かに答えたが、龍太郎の記憶は混乱していて、どうしてそのようなことをしたのか、どうしてこんな状況に陥ったのか全く思い出せなかった。命に別状はなかったが、精神的な傷は深いものが残っていた。博は龍太郎に詳しく状況を説明していたが、彼の中ではまだ何かが腑に落ちない感覚があった。その夜、龍太郎の父が博を呼び寄せ、静かな声で言った。「誰にも話してはいないけど、最近、龍太郎が言ってたんだよ。『変な偶然があってね』って。」
「そうか、で、どんな偶然だったんだ?」博が尋ねると、父は少し間を置いてから続けた。「『やたらと変な偶然が多い』って。今回の事故にも何か関係があるような気がしてさ…。心配だ。」
博はその言葉を深く受け止め、肩を落とした。「俺もそうなんだ。このままほっといて秋田に帰るわけにはいかないよな。」
龍太郎は、会社を飛び出した理由が少しずつ思い出されてきた。ぼんやりと外を眺めながら、その記憶の断片を整理しようとしたが、頭の中は曖昧で、何もかもがうまくつながらなかった。彼の父は、龍太郎が生まれた時からずっと知っている人だが、こんなに沈黙を守る息子を見たことはなかった。龍太郎が口を閉ざすのは、父にとって初めてのことだった。そんな中、博が病室にやって来た。
「会社を飛び出してから、誰とも接してないみたいなんだ。」博が父に伝えると、父は深く考え込み、つぶやいた。「なぜ、龍太郎がこんなことをしたのか…自殺なんて、考えられない。」博は首を横に振りながら、「そんなの、絶対にありえないよ」と言った。その言葉が、二人の間に重くのしかかる。龍太郎の母親は、龍太郎の状態について、もう大丈夫だと心配をやめさせようとした。「とうげは越えたから、あとは私がなんとかする。」と博に言って、息子を見守った。
龍太郎は入院してから一週間が経ったが、依然として口数は少なく、表情も硬かった。「もう心配しないでいいよ。」龍太郎がようやく発したその言葉に、博は何かしらの安心感を覚えた。しかし、博は帰る決意をしていた。翌日、龍太郎を見送るために病室に向かうと、龍太郎はただ一言、「もう、大丈夫だから」と言い、彼を見送った。その言葉には、どこか強さと覚悟が感じられた。龍太郎の足はまだ自由に動かないが、車椅子で病院内を動けるようになっていた。一週間が過ぎ、ずっと看病していた母親と共に、外の空気を吸いたいという気持ちが芽生えた。「外に出たいな。」龍太郎はそう言って、母親とともに外出の許可を求めた。先生から許可を得て、母親と一緒に病院を出ることができた。庭に行きたかったが、庭までは少し下り坂を超えなければならなかった。その時、ふとした瞬間、母親が手を離した。突然、龍太郎の目にゴミが入り、車椅子が勢いよく坂を下っていった。それに気づいた母親は、すぐに「危ない!」と叫んだ。車椅子は制御を失い、そのまま急激にスピードを増した。正面から車が走ってきた。衝突の瞬間、「ガチャン」と凄い音が鳴り響いた。幸い、龍太郎は車椅子から落ち、身体は無事だったが、車椅子がトラックに激しく衝突した。二度も死にかけた龍太郎は、リハビリを続けて3ヶ月が経ち、ようやく退院が見えてきた。だが、あの異常とも言える行動が、どうしても頭から離れなかった。自分が一体何をしていたのか、なぜそんな選択をしたのか、それについての答えが見つからないまま、彼は新たなスタートを切る決意を固めた。両親は北九州市を離れ、親父の実家がある熊本市に新しい家を建てる予定だ。龍太郎もその中で新たな一歩を踏み出すことを決めた。一方、浩美はもう半年も龍太郎から連絡がないことを寂しく感じていた。あれだけの思い出を共有したにもかかわらず、初恋が実らなかったのではないかと思い、会社の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。龍太郎は東京に行ってしまった、そして浩美を置いて遠くに行ったことを、彼女は無意識のうちに心の中で受け入れようとしていた。龍太郎もまた、浩美のことを考えながら部屋の窓から外を見つめていた。彼の心には、再出発の決意が芽生えていたが、同時に過去に縛られた思いも消え去らなかった。求人雑誌をパラパラとめくっているうちに、ふと目に留まったページがあった。それは医薬品の問屋の営業見習いの募集だった。迷うことなく、彼は神田区にあるその会社に電話をかけ、面接をお願いした。やがて、龍太郎は23歳になろうとしていた。若さとともに、まだまだ何度でもやり直せるという希望を感じていた。季節は移り変わり、紅葉が美しい秋ももうすぐ終わりを迎え、寒い冬がやって来ようとしていた。しかし、龍太郎にはこの先の人生を歩むための力が、少しずつ湧いてきているようだった。龍太郎は気分転換を兼ねて、会社がある銀座から少し離れた目黒区に引っ越すことに決めた。住み慣れた場所に戻ることで、気持ちをリセットしたかった。そんな矢先、博から電話があり、週末に会うことになった。しばらくぶりの再会に、龍太郎は少し緊張しながらも楽しみにしていた。場所は博が決めた上野駅近くのすき焼き屋。久々の対面に、二人はまずビールで乾杯した。乾杯の後、龍太郎は博に、あのトラックに飛び込んだ経緯を話した。自分でも何が起こったのか、今でもはっきりとした理由がわからなかった。ただ、あの時の自分の感覚は異常だったということだけは、鮮明に覚えていた。博は黙って聞いた後、「頭に何か変化があったんだな」と言った。そしてしばらく仕事を控えた方がいいのではないかと意見した。龍太郎もその意見には同意した。無理をしてまたあんな出来事を繰り返すのは、あまりにも危険だと感じたからだ。頭の切り替えが早い龍太郎は、その場で会社に電話をかけ、入社を取りやめることを決めた。自分の頭の中にあった異常な感覚は、今でも忘れられない。次第に、その理由を探るため、本屋に立ち寄ると、「パラノイアの妄想」という本が目に飛び込んできた。その本には、覚醒剤のことが書かれており、龍太郎はそこで初めて、覚醒剤が引き起こす後遺症に触れることとなった。自分の体に虫が住み着いて、肉をむしり取るという内容に衝撃を受けたが、龍太郎は薬物を使っていたわけではない。それでも、頭の異常はやはり精神的な問題だろうと感じ、精神科に行くべきなのかと悩み始めた。精神病院なんて考えたこともなかったが、今の自分の状態を理解するためには、それが最善の道かもしれないと思うようになった。高校時代、自転車で通学していた時に毎朝通り過ぎる病院があった。その病院には鉄格子の窓があり、龍太郎はいつもその光景を無意識に見ていた。まさか自分が精神病院に足を運ぶことになるとは、当時は想像もしていなかった。しかし、今、龍太郎は精神病院に行こうと決心していた。まだ心の中には迷いがあったが、何かしらの手助けを求める必要を感じていた。しかし、もしもそのまま入院となったら、ゾッとするような身震いが走った。電話帳を開き、病院を調べると、意外にもたくさんの施設が見つかり、驚くばかりだった。ふと、浩美の顔が浮かんできた。もし自分が精神病になったとしたら、浩美はどう思うだろうか。そんなことを考えながら、龍太郎は大森精神病院の前に立っていた。玄関を前にしばらく躊躇していたが、やがて勇気を振り絞り、窓口に向かった。
「どうしましたか?」と看護師が尋ねる。龍太郎は少し緊張しながら、「ちょっと先生に相談が」と答えた。しばらくして、30代くらいの医師が現れ、龍太郎はこれまでの経緯を話した。医師は「それじゃ、お薬を出しておきますから、またお薬が切れたら来てください」と簡単に言った。そのあまりにも簡素な診察に、龍太郎はあ然としてしまった。まるで形式的に処方される薬のように感じ、精神患者が薬づけにされてしまうという話を雑誌で読んだことがよぎった。その後、龍太郎は病院に通うことなく、薬も服用しないままで過ごしていた。心のどこかで、自分の問題が薬で解決できるわけではないという思いがあったのかもしれない。あの簡単な診察が、かえって彼の不安を深める結果となった。龍太郎は、3ヶ月ほど貯金を使い果たし、のんびりとした生活を送っていた。別に大きな変化があったわけではなく、日々は淡々と過ぎていった。花見も終わり、あっという間に暑い夏が迫ってきた。そろそろ仕事をしなければ、貯金が底をついてしまう。そんな焦りの中で、龍太郎は数ヶ月前に採用された医薬品の問屋に再び連絡を取った。以前、交通事故に遭い、療養のために仕事を断ったことを説明すると、あっさりと再採用が決まった。精神的な出来事や事故の後遺症はすっかり忘れていた。身体も順調に回復しており、元気そのものだった。少し前の自分を振り返ると、あの時感じていた不安や混乱が、まるで遠い出来事のように思えた。一方、浩美のことがふと頭に浮かんだ。事故後、彼女の顔を思い出すことは少なくなったが、ある夜、無性に彼女に会いたくなり、夢の中で彼女の姿を見た。東京の喧騒の中で、何かが欠けているような気がして、田舎に帰ることを考え始めた。あまり良い思い出のない東京で過ごすより、静かな場所で新たにスタートを切る方がいいのかもしれない、と感じた。再出発の決意はまだ固まっていなかったが、心の中で変化を求める気持ちは確実に芽生えていた。自分のこれからの人生をどう歩むか、今がその分岐点なのだろう。
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