二周目の世界で、前世の護衛騎士から怖いくらいに溺愛されています。

第8話 妖精令嬢と護衛騎士

 ヒースクリフの馬車が着いたと告げられたとき、すっかり準備の済んだヴィクトリアは、屋敷から飛び出して輝くばかりの笑顔で出迎えた。

「今日はありがとうございます! お声がけ頂きまして、本当に嬉しいです! 楽しい一日にしましょうね!」

 馬車から下りてきたヒースクリフの目の前まで、勢いよく走り込む。
 手前で止まるつもりだったのに、何もないところでつまずいて、ヴィクトリアは前のめりになってしまった。

(こ、こんなところで転ぶなんて……!)

 ぞくっとしたのも、ほんの一瞬のこと。
 ぽす、と軽い音がして、ヴィクトリアひとりの重みになどびくともしない腕に、全身を受け止められた。
 ラルフの記憶によれば、護衛たるヒースクリフは、誰彼構わず自分の位置を知らせるような香水をまとうことはなかった。だが、胸元に顔を埋めてしまえば、どこか懐かしい匂いがして、うっとりと安心するようなぬくもりに包まれる。

「お嬢様、大丈夫ですか。足を捻ってはいませんか?」

 優しく声をかけられて、思い出に浸りかけていたヴィクトリアはハッと我に返った。
 ヒースクリフの胸に伏せていた顔をぱっと上げて、二、三歩後退しつつその腕から逃れる。

(また、守ってもらってしまいました。この方は、もう私の護衛騎士ではないというのに)

 甘いような苦いような思いに、ほんの少しだけ目元を潤ませて、身長差のあるヒースクリフを見上げた。
 視線の先で。

 アイスブルーの目を見開いたヒースクリフは、凍りついたように動きを止めていた。その目は、ヴィクトリアに釘付けとなっていた。

 このときのヴィクトリアは、ブリジットと選んだドレスを身に着けていた。
 首からデコルテまで、乳白色のなめらかな肌がのぞく淡いブルーのドレスは、弾むように豊かな胸と細く華奢な腰が、それとなく強調されるデザインである。
 銀の髪は編み込みながら結い上げ、妖精にたとえられる顔にはうっすらと化粧を施しており、それらすべてが顔立ちの可憐さを引き立てていた。

 ヴィクトリアの背後で、ブリジットが「会心の出来です」という笑みを浮かべている。ヴィクトリア本人にはさほどの自覚がないが、空恐ろしいまでに完成度の高い、まさに妖精そのものの出で立ちであった。

「…………」

 無言のまま、ヒースクリフは手で額をおさえた。
 その反応の意味がわからず、ヴィクトリアは小首を傾げる。

「どうしました? 目に虫でも入りましたか?」
「いえ……。星が落ちてきて、直撃したようなものです。目を開いているのが辛い」

 何を言っているのか、説明されてもヴィクトリアにはよくわからない。
 本当に目が痛いのでなければ、もしかして口説き文句のつもりかもしれないと、うっすら察する。

(前世では、こんなヒースクリフを見たことがありません。ラルフが知らないだけで、女性に対してはこんな感じだったのでしょうか?)

 一日の大半を一緒に過ごしていたとはいえ、会わない日も当然あった。ラルフが知らない面があっても不思議ではないのだが、何やら胸がもやっとした。
 堅物だと思っていたのに、女性にはしっかりお世辞を言うとは。
 ただ、上手くはない。
 伝わらない程度に下手で、その不器用さは気の毒なほどである。
 言い慣れている様子もないので、無理をしているだけかもしれない。

「そんなに気を遣わなくても、大丈夫ですよ。女性を褒める練習をしているというのなら、お付き合いはいたしますが」

 言っているうちに、ヴィクトリアはそうに違いないと確信した。

(ヒースクリフが本当に女性慣れしているなら、もっと上手いことを言うはずですよね! これはエドガー殿下から「女性と会ったら、まずは褒めるんだよ」と言い聞かせられてきただけのことかもしれません。つまり、練習。わかりました。今日の私は、ヒースクリフの練習台です!)

 せっかくの練習とあらば、ここはひとつ、徹底的に甘い言葉を習得してほしいものである。現世のヴィクトリアも、たいした経験はないどころか男女の関係に関しては完全に素人であるが、前世ではヒースクリフの上官のような立場だったという自負もある。
 きっちり指導したいところだ。

「私が思うに、もう少しわかりやすい表現を使って頂いたほうが良いかと。相手に、あなたの真心が伝わる言葉です」

「わかりやすい表現というのは、たとえば?」

 生真面目に話し始めたヴィクトリアに対して、ヒースクリフは同じかそれ以上に真摯なまなざしで尋ねてきた。

(そうです、何事にも真剣なのがヒースクリフの長所だと私は思います。いい加減に流さないで、相手ときちんと向き合う誠実なところが。この世界でも、あなたは変わらないのですね)

 彼の好ましい点をまたひとつ思い出して、ヴィクトリアはにこにこと笑いながら答えた。

「ストレートに甘い言葉が良いと思います。あなたから見て、相手の良いと思った点を、素直に伝えるんです。ですが、あまり容姿に言及しすぎても失礼になることもあるので『今日はとても素敵ですね』とか」

「それだと『いつもは違うという意味ですか?』と不快感を与えませんか?」

 細かい確認をされて、ヴィクトリアはますますにこにことしてしまった。

(この感じです! ヒースクリフと話しているって気がします。嬉しい)

 彼とまた会えて良かったと思ったそのままの気持ちが、素直に表情に出てしまう。いま自分は、本当に幸せです、と。
 自然と、声も弾む。

「『いつにもまして』を付けると良いかもしれません。私の場合は、どうでしょう。ヒースクリフさんとはまだ出会ったばかりなので『会えて良かった』と言われたら嬉しいです」

 ヒースクリフは、目を細め、控えめながらもひどく甘い笑みを浮かべて答えた。

「それはもう、昨日言いました。今日も言って良いなら、言います。あなたに会えて良かった。ずっと会いたいひとに巡り会えたように思います。胸の高鳴りが止まりません」

 僕もだよヒースクリフ……! と、感極まったヴィクトリアは思わず抱きつきそうになったが、そんな場合ではないと必死に自分を押さえ込んだ。

 この世界では、彼とはそんなに気安い間柄ではない。周りの目もある。迂闊なことをして、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
 あまり親しげな態度を取らないよう、気を引き締めねば。
 そう自分に言い聞かせるヴィクトリアを、ヒースクリフは真剣なまなざしで見つめていた。
 もう一度しっかりと目が合ったタイミングで、優しい声で尋ねてくる。

「いまのは、『甘い言葉』でしょうか。普段あまり、女性と話すこともないので、自分ではわかりません。もっと素直な気持ちも言って良いですか?」

「はい。たとえばどんな?」

 きらきらと目を輝かせたヴィクトリアをまぶしそうに見つめて、ヒースクリフは口を開く。

「とても可愛らしいです。今日一日、あなたと過ごせることが幸せです。ずっとあなたを見つめてしまうと思います。あなた以上に、俺の心をかき乱すひとはいません」

 まるで、世界には他の人間は誰もいなくて、二人きりになってしまったようなことを言う。
 実際には、ヴィクトリアの後ろにはメイドが控えていて、家令や伯爵夫妻もヴィクトリアに一拍遅れたものの顔を見せており、煌めく美貌の青年が妖精のような乙女に向けてつむぐ言葉を、しっかりと聞いていた。そして、胸焼けを起こしていた。

(ヒースクリフ渾身の、甘い言葉。素敵……、これならどんな令嬢でも腰砕けになってしまうと思います……!)

 少しの忠告で、がらりと言葉の密度や空気の甘ったるさが変わったことに、ヴィクトリアは「さすが、ヒースクリフは何を任せても筋が良い」とラルフの感覚で感心し、またもや目を潤ませてしまっていた。涙もろくて困りますと思いつつ、しかし言うべきことは言う。

「とても良かったと思いますわ。完璧です。練習だとわかっていても、胸を鷲掴みにされました」

 心臓を直接掴まれたかのようです、という意味合いでヴィクトリアはそう言ったのだが、言葉につられたように、ヒースクリフはヴィクトリアの胸元へと目を向けた。そして、ほのかにのぞいた谷間に気づくと、そっと視線を外して横を向いた。頬がほんのりと染まっている。その意味を、ヴィクトリアは自分なりに解釈した。

(あら? 練習なのに、自分で言っていて恥ずかしくなってしまったのでしょうか。いけませんね)

 そんなことでは、いざ本番がきても照れて言葉が出なくなってしまいますよ? と思ったヴィクトリアは、少し厳しめに指導することにする。

「これは、第一段階ですよ。今日はこれから、いろんな場面で男女の会話が発生するはずです。まだまだ気を抜けません。練習ですから失敗しても大丈夫です。あなたは、私相手に、めいっぱい体当たりで特訓なさるのが良いと思います。恥ずかしがってはいけませんよ」

 普段女性と話すことがない、と打ち明けてきたくらいだ。だとすれば、デートの経験もないかもしれない。
 練習相手としてのヴィクトリアは、責任を果たさねばと強く決意していた。
 気合いを入れ直して「行きましょう!」と声をかける。
 そのヴィクトリアの顔を見つめて、ヒースクリフは淡く微笑みを浮かべた。

 まるで他のものなど目に入らないとばかりに、ただ愛しいものを見るまなざしで。

 ヴィクトリアだけをその煌めくアイスブルーの瞳に映して、低く澄んだ声で「はい」と答える。

「わからないことばかりの若輩者ですので、ヴィクトリア嬢のご協力に感謝しております。無骨者なりに、本日は精一杯『練習』に取り組みます。どうぞよろしくお願いします」

 そして、背後で胸を押さえて悶えている伯爵夫妻に向かい「おはようございます」と青空よりも爽やかに挨拶を始めた。
 今日一日、大切なお嬢様を任せて頂いてありがとうございます。自分の命にかけて、お嬢様の安全を守り抜き、無事に送り届けます、と。

 それは、ラルフの護衛についていたときのヒースクリフの姿そのもので、ヴィクトリアは懐かしさのあまりに、もう何度目かの「会えて良かった」を噛み締めたのだった。

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