狐火
「何も残せずに死ぬのって辛いよね」

「え、どうしたの、突然」

 私はヤコに目を向けた。

 いつもみたいに笑っているのかと思ったけど、ヤコの顔からは笑みが消え、どこか怯えを含んだようにも見えた。


 今日のヤコは、なんか表情が豊かだな。


 それくらいにしか捉えていなかった私は、「いや、別に私が余命わずかとかそんな悲惨な話じゃなくて」と何の気なしに訂正した。

「ただ急にそう思っただけだよ。川の音聞いてたら、昔読んだ人魚姫の話思い出しちゃってさ、なんか……泡になって消えるのって、最悪だよね」

「ああ、なんだ。そういうことか。全く、香織は思い付きだけで喋るんだから」

 ヤコはいつも通り笑ったが、何となく安堵したような声音だった気がする。


 心配してくれてたのか。優しいなあ。


 私の思考は相変わらず呑気だった。

「人魚姫って泡になったんだっけ?」

 ヤコに尋ねられ、私は「そうだよ」と頷いた。

「映画とかでは最後は王子様と結ばれておしまいだけど、原作では最後失恋したまま、魔女との契約通りに泡になって消えるの」

「救われないね」

「救い……みたいなものはあったよ。人魚姫は魔女からもらったナイフで王子様の胸を刺したら、無事に人魚に戻れたの」

 そこまで話したところで不意に、私はなんでこんな話してるんだろうと我に返った。


 呆れてるかな、と思ってヤコに目をやると、ヤコは顎に手を添えて何かを考えていた。

 しばらくして、ヤコは私の方を向き直った。

「もし香織だったら、どうする?」

「私だったら、って?」

「『自分のためなら好きな人を殺せるか』ってことだよ」

 私は言葉に詰まった。


 今までだったら、「刺す」と即答していた。

 初めて『人魚姫』を読んだ時も、王子を刺せない姫のことが不思議でならなかったから。


 でも、もしも相手がヤコだったら?

 ヤコを殺せって言われたら、できるかな。無理かもしれない。


 黙り込んだ私を見たヤコは、

「なってみなきゃ分かんないよね」と言い、丘を下り始めた。


「今日はもう帰ろうか」

「ちょっと、置いて行かないでよ」

 その場の重めな雰囲気を払拭するように、私は大げさなくらい声を上げて笑った。


 思えば、一番帰りが遅くなったのはこの日だったかもしれない。
< 17 / 35 >

この作品をシェア

pagetop