狐火
「もう会えないんだよ、香織」

 ヤコは何度も同じ言葉を繰り返しながら、少しずつ距離を詰めてくる。

 一瞬得体の知れない恐怖を覚えたが、すぐに考え直した。


 もしかして、私の言うことを信じてないのかな。


 勝手に後ずさろうとする足を止めた。

「大丈夫、戻ってくるから」

 そうはっきりと告げると、ヤコは陰鬱な薄ら笑いを止めた。

 代わりに、怪訝そうな視線を私に注いでくる。

「また会いたいって、心から思ってる」

 私の反応が予想外だったせいか、ヤコは視線を泳がせる。

 その隙を突いて、私は勢いよくヤコの手を掴んだ。


 これは言おうか言うまいか、ずっと迷っていた言葉だ。

 でも、言わないと後悔するだろう。

 私は口を開いた。

「だから、また来年も一緒にいてくれる?」


 勢いに任せて言った後、急な羞恥に襲われた。

 まるで告白みたいじゃないか。


 ちらっとヤコを盗み見ると、彼の表情はがらりと変わっていた。

 不穏な表情は消え去ったが、ヤコは信じられないものを見ているかのように目を見開いている。

「あ……いや、ごめん、気持ち悪いよね。でも、その……これが本心っていうか、特にそういう意味はないっていうか……」

 冗長な話の間に我に返ったのか、ヤコはハッとしたような表情で私の手を振り払った。

 今度は私が驚く番だった。

 こんな態度、今まで取られたことなかったのに。

 やっぱり気持ち悪かったか。


 後悔していると、ヤコの大きな瞳と目が合った。

 ヤコの瞳は、微かに震えているように見える。

 私の視線を受け止めたまま、ヤコの顔にゆっくりと自嘲的な笑みが広がっていった。

 張り詰めた糸が緩むみたいに。


 ヤコは諦めたように、ぽつりと呟いた。

「僕には無理だ……」

「え?」

 突然ヤコは顔を上げ、私の肩を抱き寄せる。

「本当にごめん、香織!」

 何が起きているのか理解できなかった。

 ヤコは固まっている私からそっと手を離すと、ズボンのポケットから何かを取り出し橋の下に投げ捨てた。

 そして素早く欄干を乗り越え、手すりの向こう側に立つ。

 振り返ったヤコと、目が合った。

「な……何を……」

 私は震えた声で尋ねたが、ヤコは答えない。その代わり、いつものように金色の大きな瞳を細める。

 ヤコの色白な顔が、とびきり優しい微笑をつくった。

 名残惜しそうにも見えるその淡い笑顔も、私は今まで見たことがなかった。


 ヤコの腕が、音もなく手すりから離れた。

 ヤコの体が落ちていく。真下を流れる川の中へ。

 盛大な水音が真下から聞こえたが、それもすぐに止み、再び辺りはセロファンのような静寂に包まれた。


……数秒後、ようやく私の耳に川の音が届き始めた。
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